鼓動

休暇とは何かと、実体験を通して考えてみると、通常業務の一週間に比べて睡眠時間を長く取れる事かなと感じた次第。4時に起きなくても良いし、これは面倒だから明日に伸ばそうと思うことが出来、ストレスが軽減して睡眠を獲得できるのだろう。その昔は連休となればせわしく鉄道の時刻表などを調べ、リュックをチェックして過酷な質量を詰め込んでほくそえみ、肉体と精神の限界に挑戦していた。まぁ、そんなことをやりきってきたから、今は読書程度でも満足できるのだろう。

蚤の心臓と象の心臓は一生に行われる鼓動の回数は等しいなんて、本当かウソか確認したことは無いのだが、それを考えると、小生などはとうの昔に限界を突破しているわけで、だからこそ、おとなしくしていても精神が安定しているのかもしれない。ちょっと前?までは、じっとしているなど有り得ず、書類仕事の後はその反動で、必ずどこかに冒険にでかけていたものだ。最近は近所を歩き回るだけで満足してしまう。

定年退職というのは良く出来た制度だなと思うのだ。革命し続けねば自らの居場所が無くなる民主主義社会において、自らに革命を課し瞬間瞬間を猛烈に強烈に生き抜くことが出来るのは、まぁ、普通の人間であれば50歳位までであろう。稀に突き抜けてあの世でも閻魔様を困らせて、現世に戻ってくる程に快活な方もいらっしゃるが、まぁ、大略そんなものであろう。しかし、身の回りにおいて、定年後にも変わらずに活動していらっしゃる方を多くお見掛けする。

要するに、本来であれば限界を突破させて鼓動を稼がねばならなかったのに、じっと停止させていたからこその定常運転であって、それって本来であれば、現役時代に事業所に対して富をもたらすことが出来ていたのではないか?とてもでは無いが、過労困憊の日々を過ごす身にとっては定常運転など有り得ない。というか、そんなつまらない生き方は出来ない。ピンピンコロリが宜しい。その筈である。

茶摘み

少し長めのお休みを頂いて、読めていなかった書物をむさぼったり、久しぶりに近所の里山?を歩き回ったりと、少しは人らしい活動が出来たかなと感じる。ロングバケーションは無い国だが、そうであるならば、ショートが2か月に一度くらいあればよいのにと思ったりする。祝日がもう少しあってもよさそうだが、講義が出来ないなどの苦情が来そうだが、それはWebツールで解決すればよろしい。

五月連休が終わると、夏休みを目掛けることになるわけだが、長期の天気予報を拝見するに、猛暑が長く続くよう。世界の豪雨や暴風雨のニュースを見ているのだが、それが当たり前のように発生している様に、これが本当に人類活動の結果だとすると、それだけのエネルギーを無駄に垂れ流していたのだなと、エネルギー保存則を思い出して、人類の凄さを感じるのだ。こんなことが出来るのだなと呆れかえる。

どんどんと増え続ける人口だから、それを養うためには更にエネルギーの投入が必要になるわけなのだけれど、信じられない省エネ技術などが飛び出してきたり、自然共生経済という概念の導入ももたらされたりして、体力だけではなく、知恵の活用も見られるところは少しは安心したりもする。呆れたり安心したりと忙しいが、休日中に恒例の茶摘みをやって、気温の上昇を感じた。

例年に比べて明らかに芽の伸び方が違った。葉っぱが大きく、茎も伸びて、嵩は多いのだが、新茶のなよなよ感がなく、しっかりがっしり(それ程でもない)という感じで、農家さんなどは現場を見ながら収穫をなさっているのだろうけれど、八十八夜みたいな伝説を面白がっている程度の民からすると、定点観測的な収穫となって、例年との違いに驚かされるのだ。人類の文化と経済活動。その有り様を考えないと、文化を全部捨てないといけないような状況に陥るのではないか。そう感じた茶摘みである。

地方創成考

「人口が増えて経済が活性化してくれることを望んでいます」と限界突破集落のお役人は仰るのだが、それはそうでしょうよ。今の日本でそれを「今」実現できるのは東京都の限られた地域でしょうし、未来永劫と言われると、地球上どこにもそんなところはありませんと答えるしか無かろう。夢物語を語られても時間泥棒でしかないので、ご遠慮願いたいのだが、その切なる願いは伝わってくる。

成る程なと感じたことがあって、旧態依然族の方々は、ありもしない既得権益を振りかざして、新しい考え方を根絶やしにする。そんな状況の中に飛び込んでいくはずは無かろう。TVの向こうの政治の世界も御同様で、旧態依然族が旧態依然族を応援して、若者というか、新たな思考の参入障壁となっていく。鉄道があり道路があれば拠点が生まれ、人はその利便性を求めてそこに集まる。過疎化地域には旧態依然の思考だけが残る。日本の有り様である。

旧態依然を打ち破ろうとするムラ人の中には、新規を創るなどせず新規を盗もうとする輩が居る。盗むならきちんと盗んで勝手に使えば良いのだが、「理解できない」と小馬鹿にして、中途半端に盗んで技術転用が出来ず、なにやってんだと圧力団体に化けていく。無為無策、無反応、無感動、そして簒奪が中小企業における技術の獲得手法であるらしい。旧態依然族によって構成されている中小企業は危機的状況にある。

地域発展のカギは、その地域が何故生まれたのかから考え、今に至る文化の変容を知り尽くすところからである。そこに人が何故減ってしまったのかを解く方程式がある。30年かけて人口が減ったのなら、30年以上かけて増やす必要がある。明日突然、定住者が増えて税収がどかっと上がるなど有り得ない。有り得ないことを求めてしまうのは人の弱さだが、今こそ、その弱さを思いやりに換えて、強さに昇華せねばならぬ。それが出来なければ消滅すればよろしい。それだけの事だ。

連休の谷間にて

今年の連休週は前半と後半に明確に別れているが故に、働ける3日間に集中してやるべきことをやるにはもってこいの気がする。しかしながら、どうせなら一週間、まるっとお休みで、読書だの音楽だのを楽しみたい気もしている。やらねばならないことがやたらとあるので、暢気にお休みをというわけにもいかず、地味にお仕事をすることになる。まぁ、それも一興である。

年度の切り替えの後は何かと公のお仕事が飛び込んできてしまう。それが4月くらいにどどどっとあって、5月の頭には終わって下さいねという恐ろしい圧力の為に、結局、連休などは常勤職が無いのだから24時間働けという国の方針に従うことになってしまう。何年も続く行事となってしまっている。

円安のお話をしたばかりなのだが、1ドル160円台突入には驚かされたが、どこまで日本がお安く買いたたかれるのだろうと、妙に納得してしまったりする。全く挑戦せず、利益が上がる方法を教えてくれみたいな共同研究の申し出があったりするのだから、円とドルを交換してくれるだけでもマシかななんて思ってしまう。汗をかかなくなった日本人には何の価値も無かろう。

地下鉄で巨大な旅行鞄を持った方々に出合うのだが、日本とは異なる文化に触れて、怠惰に成り切った現状を打破しようとか想ってくれると嬉しい処だ。文化を伴わない経済はゴミだ。歯のくいしばりと血のにじみを伴わない日々は、文化を失った民の堕落の経済を生み続けている。努力あるのみ。その筈なのだが。段々とくたびれてきた。

踏ん張りどころ

ちょっとだけ驚いたのだが、あの島根国においてT氏の基盤の影響力が及ばなくなったことである。15年ほどになろうか、その地に何度か呼ばれ訪れたのだが、T国と言っても良い程の空気感に窒息した。異様とも言えるその民度を構築されたT氏の力の強さは、新潟におけるT氏(同じT氏だが異なる人物である)の有り様とは異なり、ドメスティックな国家建築であったことと、その関係者がTVなどで活躍している現状を考えると、3万票差に驚かされた。

素直な感想である。本当に驚いた。SNS的なニュースだから信用しているわけではないが「マネーへの汚さから投票を放棄しようと思ったが、投票は国民の義務だから、J党候補者に投票した」という現地の方の意見は「そうだろうな」と納得するものであった。何があっても、どんな不正があろうとも、そんな人ばっかりのお土地柄と思っていたのだ。今回の3件の国政選挙において、唯一の明確なJ党候補者であったことも驚きの結果であった。

しかしながら、対立候補におかれては、純粋に野党候補者ということでは無く、出自を辿ればJ党であられるわけで、見せかけの野党候補でいらっしゃって、首相殿に置かれては、まぁ、足元は揺るがないと思っていらっしゃるのかもしれない。投票者に置かれても、まぁ、今回の金銭問題など希薄な程の政治的恩恵を受けていらっしゃる地域であるから、見せかけのポーズとしてうってつけの候補者の登場に安心したことであろう。

どんどん下がる円の価値の最中の国政選挙であり、その選挙結果は円安を加速させるんだろうなと思っていたら、案の定であり、海外に対する我が国のプレゼンスの低さを露呈している。この機に海外旅行に行ける富裕層の多さに驚き、また、国内の商材に手が出せない国民に代わってお金を投じて頂ける海外からの旅行者に感謝するべきなのかもしれないが、ものづくりの提案などを拝見して、その提案書のチープさに愕然としながら、諦めず、教育という場で両足を踏ん張らねばと、歯を食いしばり血を滲ませることに命を懸ける私であります。

PR考

KGIと関係がありそうだなと思うのがPR。なんだそりゃと思うかもしれないけれど、PRって自己宣伝では無いからね。アピールと勘違いしてんじゃないのと、自律機能と他律機能の区別がつかないというか、意識出来ていないというか、そんな人はほったらかすわけだけれど、まぁ、大学ってPR出来ていないなというのも置いておいて、ちょこっと他律機能からPRを語ってみたいと思ったわけだ。連休前だしね。

連休だから何だという事も無いんだけれど、4月30日から5月2日までを年休を獲得して頂くと、それなりに大きく休めるなという気がする。気がするのだが、お上からお仕事が飛び込んできた場合はその限りでは無く、野望はついえるわけだ。お上から飛び込んでくるというお仕事はそれなりに大きくて、ここにPRを呈するのチャンスがあるわけだ。

Public Relationsだから社会は当方にこんな期待をして下さいとか、こんな他律機能を活用して頂きたいとかを展開していくわけで、それなりの聴き手が油揚げ持ってやってきたら、こちらからは鍋とコンロを引っ提げて一網打尽ではない、美味しく調理して差し上げることがPRを呈することになるのだ。自分達はこんなことが出来ますよなんていうガキの使いでは無いのだ。

社会がこの次元を保っているのは我々の他律機能のお陰であると、「貴方無しでは我々は存在しえない!」と思い込んで頂くためのPRであって、自らの他律機能と社会との関係性を腑に落として頂く行為がPRである。他社より廉価短納期で信頼に応えるなんてどうでも良いのだ。それは自虐である。折角の連休なのだから熟慮してみるのが良い。

戦略考

とあるところでのお話なんだけど、戦略立案部局における合否判定というか、よく頑張りましたと褒められるかどうかの指標が、その戦略が採択されたかどうかであると。戦略を創る担当者からすると、それが正しいKPIみたいに感じてしまっているらしい。企業でも、ミッションを意識してそれを達成する為に起業して、そのミッションの上に共有するビジョンを策定し、そのビジョンを達成する為に戦略を立てるところまではいく。で、どうなの?

どうなの?というのは、戦略を分解して、定量化して、それを達成する為の戦術を立てて進めていきましたとなった時に、戦術の結果「こうなりました」と結果が出たら、それは戦略が求めたものなのかどうなのか、どうやって判定するのというところまで考えられてない。戦略を立てた人間達は、大抵老人で、どうせ居なくなってしまうからと、戦略にKGIを盛り込まないからだ。

マイルストンも感性というか、定性的で、KPIまで定性的。そんな戦術しか立てられない人が戦略を立てるなんてそもそも無理なのだ。KGIなんて聞いたこと無いとかね。そんな人に何故に時間を奪われなければならないのか。戦略を通して何を実現したいのか、その実現した様はどのように明らかになるのかまでをセットで提言が成されない。我が国の悪癖である。

戦略は目指すところがある筈で、自組織のミッションだからこそ立案するのだから、自組織がどうなったら戦略を立案した結果だと言えるのか、微分値を定量的にKGIに盛り込むべきなのだ。微分値を表現出来ないリーダーは要らない。そんな人間は戦略などと語ってはならない。だからこの国には政治が無い。そう感じている。

オタクを救う機器

こんなものがあったら有難いと、探してみるとあったりする。御同輩がいらしゃると言うことだ。HDMI端子を持つ機器同士を接続すると、映像と音声が小さい端子を通して送信される。デジタル信号をそのまま受けて、最終的に内臓アナログスピーカーからTVモニタであれば音声信号を出力してくれる。音の良しあしは置いておくとして、ちゃんと音として聞こえるから面白い。デジタルオーディオが当たり前になるわけだ。

その当たり前だと困ってしまう、古典オーディオオタクが居るわけで、WE555WとAltec604Bから何が何でも音を取り出したいわけだ。となると、HDMIの音声信号を横取りして、アナログプリアンプに放り込み、パワーアンプから出力する必要が出てくる。ブルーレイディスクの音を、TVモニターから取り出しても面白くもなんともなく、画面が大きくなっても喜びは全く小さいままである。

HDMIの仕様を拝見して、これならオペアンプでなんとかなるのではと思い、いやまて、一人のオタクが欲するのだ。キングジムさんであれば、役員の1名が欲しいと言っただけでポメラを作って売っちゃったんだから、世の中の古典オーディオオタクの数を考えれば、きっと信号取り出し器は販売されているはずだと調べてみたらあるわあるわ。

置いてきぼりをくったオタクを救う機器を早速入手して試してみると、予想以上の効果を得て満面の笑みである。オーディオオタクがどこまで踏ん張れるかだが、海外観光客は、日本に残ったアナログLPレコードを買いあさって海外に持ち出してしまっているという。まぁ、板のほうは間に合ってはいるが、これから出てくるデジタルの板を楽しめるのは愉快である。隙間商材ということだが、技術経営とはこんなビジネスモデルを作り出すことでもある。当たり前は駆逐される。そんな時代である。

バタバタ過ぎる

4月になったなと思ったら、バタバタ状態になる程に予定が入り込み、あっという間に20日を過ぎてしまった。少しは余裕があるなと思っていたら、なんだかどうしようもないくらいの事態に陥っている。頑張ってしまって鬱になったり、こんなはずではなかったと退職してしまったりということがあるとTVなどで見聞きするわけだが、分かる気がするとなってしまっていることが恐ろしい。

じっくり時間が欲しいわけですよ。新しい思考に打ち込むというか、本来、そんな時間が無ければならないのに、常に追い立てられ引き立てられ、誰かの前にさらされ続けていると、これはこれで精神的に厳しいと感じてしまうわけだ。結局、土日無く何か、仕事関係のことに時間を費やしているのだが、どこか、スパっと空白の一日を作るべきだと思っている。

企業の社長さん達って、本当に凄いと思いますよ。図太いというか、気のいいおじさんではやっていられないのでしょう。選ばれし民なんだろうなと、尊敬というか感動というか、凄い方々だなと思います。まぁ、そんなものには向いていないということなんだけど、一人で考え事をしているのがお似合いだなと思うわけですよ。

連休の谷間にもなんだか引っ張り出されることになり、なんだかなぁという状況にある。休めない民族は滅びるに決まっているのだ。新規に挑戦するとか、じっくりと長考して自分を見つめなおすとか、そんなことが出来ない環境は、人の働く場では無いと感じるのだ。どこかでぷっつんと切れてみたい。そんな思いを抱いている。

医工学連携

自治体がシンクロしないと、税金の無駄遣いになる事例として、名古屋市と愛知県の展示場を挙げることができる。両方合わせれば結構良いものが出来るだろうと思うのに、意地の張り合いで中途半端なモノが出来る。街中に吹上ホールがあるのだが、これは中途半端というよりは、場所の利便性と言う図抜けた優位性があるので、これは良いのだ。ビッグサイトと並ぶくらいかそれ以上のものを作らないと世界から人を呼べない。

先週はセントレアエリアにある国際展示場に出掛けて、医療機器展を拝見してきた。商工会議所主催の展示会で、中部地域の医療に係るものづくりというか、仕組みと言うかそんな展示が成されるということで、医工学を一つの柱とする鶴舞大学として連携の在り方を拝見しに行ったわけだ。医療分野は「許認可」という高いハードルがあって、そうやすやすと参入できない分野で、いわゆる参入障壁を作って新規参加者を撃退する仕組みを作っている。大学としてもおいそれとは近寄れない仕組みだ。

仕組みが無いなら作ってやろうということになるわけで、すると学ばないといけないということになる。学ぶ場があるならば出かければ良いということで出かけたわけだ。医療機器に関係する展示会で常に感じることは売り上げ規模が極めて小さいということ。利益と言ったら良いだろうか、それが出ないけどやってますみたいな。それは絶対におかしいのですよ。良品なのだからそれなりの利益が無ければならないが、最終顧客が患者と言うことで、べらぼうな商品価格設定が出来ない世界。

一品一品は素晴らしい仕上げで匠の技を感じるのだが、量産による利益からは遠いところにある。それを解決しなければ医学と工学の連携はできたとしても、医工産学官金連携にはならないのだ。そこに活路がある。そこに飛び込んでいくべき隠された扉がある。こじあけようではないかと握りこぶしを作った、そんな出口であった。