春の嵐に思う

客観であることは極めて難しい。ある人とお話をさせて頂いていて、ぽっと自分の意見を述べさせて頂くわけだが、社会的課題になると、途端に主観論のぶつかりになる。給料が上がって物価が上がったから、ゼロ金利政策を終了させれば日本経済は万々歳だとTVは政府を称賛するわけだが、某社の重役殿からは「景気なんて全く良くないですよ。従業員はどんどんと辞めていく。それでも給料を上げる算段をしないといけない」と苦渋の声がにじみ出る。

とある方は「何故、北の大国は暴君を称賛するのか?」と問うてくるのだが、「先の大戦が無かったら日本も同じだったのではないかな?結局、誰かを頭目に頂いて、指示に従って動く構造を良しとする思考を完全に破壊されて、他国に征服されて、漸く政治の取り組み方が変わっただけでしょ」と答えたわけだが、問いかけに答えたわけではない。単に主観を口に出しただけで、客観的な回答を述べたわけではない。社会的課題に正解など無いのだろうと思うわけだ。

首相がなにやら叫んでいるわけだけれど、国会議員に権力を与えて、その権力が欲しい者とその欲望を活用してやろうという民が居る限り、人間が作ったルールの隙間をかいくぐって知らぬ存ぜぬ、正しいことをしていますよということに、野党が吠えても何も出てこない。先の大戦でしおらしくなった国民性は、戦前に逆戻りだ。本当に不思議でならない。

今のところ日本の憲法では、民は人権を持っていることになっている。生存権だってあるのだが、国は安全な飲み水、食料があり、住処があって医療や教育を受けられることになっているっぽいのだけれど、水で争い、食料は他国任せ、へき地医療は衰退の一途で教育格差も広がる一方だ。税金の有り様、社会福祉の考え方を真剣に議員が議論していると感じられないことが問題だ!などと言っても、それは主観であって、客観では無い。勿論、戯言で客観に拘るつもりは全くない。春の訪れの有り様も随分と変わってきた。どう変化していこうか。主観も持てない恐ろしさである。

法事にて

法事という行事は、まぁ、酷い言い方をすると宗教団体のサブスクで、家族・親族の心の隙間に入り込み、金を出させるイベントである。お世話になったという気持ちは常に持っていて、まぁ、時間を作って墓掃除に行くなどと言うことも、しょっちゅうできるわけでは無いので、無理やり法事だと言われて参集し、皆で線香を手向けるということは良い仕組みなのかもしれない。

宗教団体と国との関係は、今、どんな状況になっているのかマスコミが黙っているので解らないが、まぁ、それはそれとして置いておく。法事を行うのは施主であって、まぁ、金銭管理人である。施主から金銭を受け取って、まぁ、ついでに弁当なども受け取って、馳走に預かるのが坊主殿ということになる。最近は住職が減っていて、法事の際に車でやってくる人となっている。

スリッパをぺたぺた音をたてながら、どんな修行を為さったのかは定かでは無い方がやってきて、扇を畳に投げ捨てるのが作法なのかは存ぜぬが、進行毎に疑問符が湧いてくる。焼香参列者が続いているのに、読経を打ち切り、時間ぴったりに終わることを最優先するのは、次の職場があるからだろうが、気持ちの良い対応とは言えまい。

はたと我に返り、こんな対応をお客様にしてはいないだろうなと、自分の胸に手を当ててみる。そもそも論、目の前の坊主殿に腹を立てているのは、前回の法事で無断欠席をやられたからで、そんなことを根に持っていてはいかんなと思った次第。坊主殿だけに胸に響く講話をせよなどとねだってはいかんなぁと思いつつ、昔の坊主殿は、なんだか立派だったなと感じたのでありました。

遥かなる高利少売

高利少売を求めたい。それはものづくり系企業へのお願いなのだが、自分自身では買うものを極力少なくしたいという想いがある。人生の終末期が近づいてくると、なんとなくだが、モノに囲まれているのが煩わしくなる。なんでこんなにモノがあふれているのだと嫌になってくる。研究室などはテーマ新設の度毎に方向性の異なる機械だったり、分析能力の高い装置だったりを揃えていかないといけなくて、まぁ、仕方なく増えていくということはあるのだが、捨てても捨てても湧いてくるそのモノたちの恐ろしさである。それでも床の面積が増えてくると頑張る気力が湧いてくる。

名古屋市のごみ分別の粒度の細かさは有名なのだが、仕分けするのが面倒になってくる程である。これはなんだ、あれはなんだとなってくると、仕分けの速度が一気に低下してくる。ドメスティックなルールもあって、合わせ技で捨てることになる。こんなことになるのなら、最初から入手しなければ良いのにとなるわけだが、まぁ、そうも言っていられない。PCなどは便利なツールで、その形状だけで終わってしまうのだが、今度はデータをどうするのだ問題に直面する。最初から限られた大きさなら良かったのだが、無限の壺に投げ込み続けたら、いきなり親組織が紙皿を配って、その上に載せられる分だけねと言わるとパニックになる。これも必死に小さくし続けている。

最初の高利少売に戻るのだが、七徳ナイフのような万能選手ではなく、1品1機能で、それが極めて高機能で、一度使ったら一生それを使い続ける気になって、しかも一生ものになって欲しいのだ。そうであれば身の回りのものがどんどんと少なくなっていくのではないか。しかし、それを作る側からすると、一度売ったらもうその人には売れないわけで、修理のサブスクなどを考えるわけなのだけれど、その修理すら要らないようなモノが欲しいのだ。爪切りなどは無いと困るが、気が付くと沢山持っていたりする。これなどは関市のT社さんのプレスを使ったものが良いのだが、これは秀逸である。

複数の企業さんの合作と言うことなのだが、床面積を広くとることになってしまうので大手メーカーは絶対にやらない配置を取ったことで、見事な逸品を作り出している。当然のことながら、市場価格は上がってしまうのだが、それを使うと他社の爪切りは使いたくなくなる。こんなものに囲まれたいと思うのだが、まぁ、モノを増やしても仕方が無いからネットで眺めているだけにとどめている。それにしても断捨離は難しい。本などは最たるものである。諦めずに捨て続ける日々である。

脱カンコツ

カンコツではない国になったらどれだけ強くなれるのかを常に思う。小生自体がカンコツの塊であるのだが、結果は世界共通の分析装置によって評価して、その値と解釈を論文誌で評価して頂いているので、まぁ、後付けで理由が出てくるものづくりではあるものの、「なんでそれが良いの?」という問いかけには答えられるものが多い。多いということは全部が全部という事では無いので、まだまだ楽しみが残っているという事だ。

愛知県には知の拠点という立派なエビデンス拠点があって、誰でも使えるシンクロトロン光センターとして活況を呈している。勿論、それだけではなく、ホームページを見れば、様々な企業様からの要求に応えられる装置ラインアップが頼もしい。何より、その道のプロがオペレーションして頂け、データ解釈まで伴走して頂けるのだから使わない手はない。企業様からの活用が50%を超えるという。これは全国的に稀な事例だと思う。

如何に、ご当地が世界を相手にものを売っているかということの表れだ。カンコツ信用商売など、世界には通用しない。通用しないから、カンコツだけだと直ぐにリコール、一千億円規模のペナルティーなんてことになるのだ。人の命を支えるものづくりなのだから、それは当然である。経験と勘の蓄積が自社の要素技術だなんて言っている時代ではもう無い。となると、採用する人にもそれなりの能力を求めるのは当然で、学生を鍛えない大学はご退場ということになるのも当然だ。

知の拠点は素晴らしい仕組みなのだが、政治的配慮から断層の上に立っていたり、そして何よりも僻地の拠点であることが活用意欲を削いでしまう。僻地故に振動が少なく、分析にはもってこいなんだけど、T中研の辺りは常に混雑するしね。それはさておき、中小企業だから高度分析技術の活用は困難などと言っている場合では無い。脱カンコツ、脱ノウハウである。そんな時代だ。

春ですかね?

昨日は朝の空気ががらっと変わったかなと思ったら、春告げ鳥のメジロさんが椿の蜜を吸いにやってきた。急に春を感じた次第。湾岸低気圧が通り過ぎて、洋上の暖気が入ってきたということなのだろうけれど、理由はどうあれ、暖かくなったことは有りがたい。桜を気にはしているのだが、流石に変化が見られない。通勤経路の桜は日当たりが悪い事もあるのだろう。そろそろ卒業式であるから、開花してくるに違いない。

いよいよ大きな人事の流れが掲示板に上がって来て、そんな時期になったのだなと、さようならと、お帰りなさいの名前を拝見し、随分と長くお世話になっているなと実感する。時代はどんどんと変化していき、工学が果たすべき役割がどんどんと広がっている。AIの進化を追い越す勢いで研究を深めていかないと、気が付けば要らない研究ということになってしまいかねない。

その為には、やはり未来を予測して今を顧みるということしかないのだと思っている。産業戦略人としては20年以上も前からバックキャスティングと言っているが、それは内閣府で語られるような生易しい考え方では無い。未来を予測して今を見るのではない。未来を予測して未来を語るのだ。ペインは未来にある。現状と比較する愚かな思考では無いのだ。

年度の終わりが迫ってくると、今年はこれが出来て、これが出来なかったと総括するわけだが、捨てても捨てても無くならない部屋の物品を眺めるにつけ、本当にこれだけのことをやってきたのかと呆れてしまう。一年で出来る事は総括出来るが、春と春の間に何を成すかということで、渡来してくれたメジロさんに次の春にも会えるかなと、頑張らねばと思うばかりである。

アクセル

オンロードの周回では、どこでどんなアクセル&ブレーキングを行えば、車体がどんな方向に進んでいくかは予測が出来る。しかし、オフロードでは時々刻々と路面が変化し、瞬間瞬間の判断を怠ると、直ちに悲惨な結末が待つ。その過酷な環境下でもステアリングを握る者に課せられた精神状態がある。アクセルを抜かないことだ。アクセルは全開のまま、ステアリングとブレーキだけで操舵する。成程と実感する。

研究者においても同様である。自らの研究への情熱はエンジン全開でなければならない。悲惨な結末に至らないようにするには、常に全方位に気を配り予測し、心技体が自然と共鳴させていくことだ。山カンでは無い。天が、空気が、こちらに進めと教えてくれる。その空間との呼吸というか間合いというか、その感覚が世界初の出来事をもたらしてくれる。いくら研究費が潤沢にあったとて、今を基準に明日を語るようでは天は見放してしまう。

アスファルトの上だけを走っていても決して身に着かない感覚である。自動車に限らず、歩くという行為についてもそうだ。両端絶壁のナイフリッジを歩いたことが無い者には、転ぶ前にどうすれば良いのかの判断力は無いから、いざという時にこけることになる。今、自分はどのような危険な状況に陥っているのかを、自らの魂が判断出来なければ、未来への光明などありようもなく、必然、アクセルは踏めず、その場に留まるだけである。

急速に進展する社会の中において、昨日の経験が明日に活きることはない。予測する未来の経験を糧にして今を全力で走り抜けることだ。アクセルを抜くなどと考えてはならない。瞬間に猛烈に魂を燃やし尽くしてこそ、未来が経験となって今の困難を当たり前の如くに打ち破る。砂漠の中でアクセルを抜かないというその一言。重く、そして人間の可能性を感じさせて頂いた。感謝である。

非国産

半導体もアディティブテクノロジー(3Dプリンタが代表事例)も要素技術は我が国にあったものの、それをアウトカムズに転じていく部分の多くが海外頼み。新聞に依れば「どこどこと協業する」とか、単にお金でその場をしのいでいる姿が見える。航空機やロケットなど、数が出ないものはやらないという、まぁ、明確な考え方なのだけれど、そんなことを何時までやっているのでしょうね。厳しい環境で鍛えられた技術は、いずれ所謂量産品と呼ばれるところにも活用されていく。ロボットやAIと接続される機器であるから、人の思考を形にしてくれるパートナーとしてうってつけだ。

従来、重くて高価な金型金属を彫り込む刃物においても、従来型の「相撲エンドミル」的な、ガリガリゴリゴリの単位時間により多くの金属を引きはがすというものは、活躍の場が失われていくだろう。金属の切りくずをリサイクルしていますなんて時代は過去のものとなる。日本においてはまだ当分は続いてしまうのかもしれないけどね。今ある仕事を残そうという浪花節は、この国でしか残らない。化石的企業形態として、ガラパゴス化していくのだろうか。ただし、進化ではなく、退化の方向だけどね。

Z世代の人達云々というのは好きでは無いが、小生的にはエレベーターの中くらいしか接点は無いのだが、世相的には我慢しない人達と感じられる。人のうわさでしかないけれどね。好むところには集中し、しかし、そうであっても苦行を感じると外れていく。巨人の星を求めるわけでは無い。これとてZ世代の皆様には通じないのだろうけれど。だからと言って、先程の3Dプリンタなど、上手に活用できるのかと考えてみると、恐らくそうはならない。活用というからには、使われている状態で最大のパフォーマンスを出す部品を構築せねばならず、材料物性やら材料力学やら、流体力学等々、更には精緻な図面を読めなければならないとなると、徹底的な基礎学力の構築が必要となる。苦行である。

単に、ユーザーであってもだ、マニュアルを読みこなし、装置を完璧に動かせる人にはなれるかもしれないが、それはアウトプット側の活動であって、これからは、アウトカムズが社会でどんな価値を生むのかを理解した社会経済活動が必要になる。ものづくりの装置が海外製に置き換わるということは、それが生み出すアウトカムズを更に発展させる知恵が育ちにくい状況になるということだ。基礎に投資せず、技術価値を金で買う。金の切れ目が知恵の切れ目になっていくのだろう。そんな気がする。

聴き力

PCなどで物書きをしていると、例えば、この戯言でもそうだが、これを「ざれごと」と呼ぶ人がいらっしゃるが、これは間違いで「たわごと」である。正にたわごとではあるが、読めるので勘違いと言うことは当然あるだろう。これが責付くとかなってくると、とっととやって頂戴!などと受け取れない。基本、読めないのだ。近年、PCの変換機能が賢くなりすぎて、おぼろげながら分かっている意味の単語をひらがなで入力してみると、どうしてこれがそう読めるのだという漢字変換が成されることがある。これは戯言にしても無理だろうという時は、まぁ、ひらがなに置き換えることにしている。

これが単語だけならまだ良いのだが、主張が伝わっていないのに、胸を張ってファンド提案などしてしまっていることに不安を覚える。次年度に向けた鶴舞大学の基礎的研究費申請が極めて不調な状態にある。様々な施策を打って、なんとかならないものかと工夫をしてみても、申請者の聴き力がゼロでは話にならない。聴き力と言ってはいるが、単に会話における傾聴力というだけではない。ファンド提案書には必ず「こんなことを書いて下さいね」と、丁寧に申請者向けのアシストワードが示されている。これを読んでいるとは思えないのだ。

申請書の審査などをさせて頂くことがあるわけだが、応募要項を見ていないでしょう?という申請書にしばしば出逢う。そしてそれは年を重ねるごとに多くなっている気がする。申請書の書式がワードファイルの1ページもので、記載欄を自在に広げてトータル3ページまでと書かれているのに、1ページの見本のまま提出しちゃうとかね。それなりのポジションの方であっても、そんな悲惨なことになる。読み込もうとする気持ちが無い。文字を作った人の気持ちに接しようとしない。即ち、聴き力がゼロと言うことだ。

自分の主張だけが正しいという、まぁ、羨ましい考え方である。そんな連中の得意技は「皆の意見を聞いてから決めるべきだ」とかね、ごもっともに聞こえるのだけれど、追い詰められた地方大学にそんな悠長さは無いのだ。様々な力学が働く昨今である。ぎりぎりの思考を巡らさないと、生き残ることなど不可能である。まぁ、こんなことも聴いちゃぁいないのだろうから、無駄な独り言なのだけれどね。だから戯言である。

引っ越し

引っ越しというのは面白い。捨てても捨てても部屋の惨状はどんどん悪化していく。こんなに捨てているのに、何故、見た目、ますます悲惨な状況になるのかと実に不思議である。大型の装置などは撤去すると床が現れるから顕在化出来るのだが、閉じられた狭い空間で、棚の中のものを広げてしまうと大変である。足の踏み場は無くなるし、縦方向に積んでいたものを水平展開すると、とてつもなく広がっていく。90リットルの巨大なゴミ袋の重い事。1メートル四方は有ろうかという巨大な袋になるのだが、それを出したとしても床が広く見えてくるわけでは無い。

今朝はこの箇所を重点的にと陣取り合戦である。なんでこんなものがここにあるのだという、なんというか、ずぼらさが出てきてしまうわけだ。名古屋市のごみの分別に対しても詳しくなってくる。こんなものが何故、燃えるゴミなのだ!と驚く場面は多い。生分解性プラスチックを用いて、3Dプリンタで作製した治具達であるが、目的達成に及び、いよいよ廃棄対象である。金型などもどんどこ投げ捨てるわけで、なんとか次の方へと部屋をバトンタッチしたいわけだが、30年の歴史は、そう簡単には葬り去ることが出来ない。装置など、引き取って頂ける方の出現はとても有難い。

部屋だけでてんてこ舞いで、なかなか実験装置群の撤去まで手が回らない。それらなどはかなり大型で、取り出していく出口までの経路を考えて、入り口に近い方から撤去に入るわけだが、装置の分解も必要になって来て、おいそれと手が付けられない。配電盤からの切り離しからになるのだが、電気工事士の資格はあれど、しばらくペーパードライバー状態であるから、しっかりと防具と指差し確認をせねばならぬ。まだ、まだ、その近傍迄手が回らないけれどね。昨日は簡単なガスボンベの搬出などを行ったわけだが、それとて、行く手を他の方に阻まれ、それらを動かしながらの作業になるから時間が掛かる。

追い詰められてくると、引き出しの中身などは、取り敢えず段ボールにぶちまけて、必用・不必要となっていくのだが、不必要なものの多い事と言ったら驚く。ほぼほぼ捨てて良いと決断できるものばかりではあるのだが、それはもう、実験を行わない殻であって、データ取得中においては一軍選手だったモノ達だ。感謝しながら袋詰めを行っていく。まぁ、思い切りが肝心で、とりゃぁっと縁を切っていくわけだ。きれいさっぱりで気持ち良い。遅々として進まないが、それでもキャビネットに空間が出来てくる。床に置かず、そこにものを入れながら片付けを進めると、なんだか終りが見えてくる気になっている。まだまだだ。

協調ロボット考

ひょんなことから産業用ロボットのチューニングに立ち会う事となった。具体的な商材製造に関わる時点での、自動化に向けたロボットの設定というところに立ち会えたのは貴重な経験であった。その場に立ち会わせて頂けたお陰で、いろんな事が頭を巡った。単純には、正確に同作を文句も言わずにひたすら繰り返せるという、まぁ、俗に言われるロボット考である。過去に見た協調ロボットの中でも大振りで頑丈そうであって、しみじみと頼りになりそうだなと感じた次第。専門家諸氏には笑われるだろうが、その繰り返しの確度には感心した。

次に想ったことだが、ロボットは確かに人の代わりに作業を繰り返して頂けるのだけれど、ロボットを導入する価値のある作業で無いと、高額のロボットの導入は勿論のこと、Sierさん達への高額なお支払いに見合わないなということ。その裏返しであるのだが、ロボットを導入してまでも成す価値のある提案を人間が成さねばならないということだ。そちらの方に関わらせて頂けて、にんまりではあったのだが、要するにそういうことだ。ファミレスの猫ロボットは、フロアメンバーよりは遅いが、確実に運んで頂けるわけで、それであれば人件費の削減は、経営者としては必須の思考であり、導入する価値は高い。休みが必要無いしね。

加えて言うならば、目的が明確であればある程、空間的挙動の正確さに価値が生まれるなということ。ものづくりの専用機にはかなわないのだろうが、ゆっくりで良ければ人が関わるよりずっとゴールに近い値を出してくれる。チューニングとはロボットの動作では無く、アウトカムズをロボットを通じて社会に送り届けたいという経営者の願いなのだなと実感した次第。エンジニアが、ものづくりのヒューマンファクターを減らしたいという低次元の思考では、ロボットを導入する価値は無いなと感じた。どうせ、そんな商材は、他に置き換えられて消えていくだろうから。

エンジニアの方と、ああだこうだ言いながら、設定を繰り返し、形になった経験は快感であった。ロボットさんと心が通じたというか、お願い、頑張ってというか、そんなエールを送りたくなった瞬間である。それと強烈なレーザー光などものともしないタフさですよね。勿論、小生の我儘をお聴き届け頂いたのはエンジニア諸氏でいらっしゃって、ロボットさんでは無い。我儘言いたい放題で申し訳無いなと感じつつ、アウトカムズの獲得に専念できるロボットさんとの対話は愉快である。次からの基礎研究も、ヒューマンファクターを除いて思考出来る点も優れている。この期に及んでそんな機会を頂き、愉快であった。