退陣の時は

上に立つ者が下の者に向かって丸投げは宜しくない。丸投げされた者に到達するべきゴールが与えられない場合はなおさらだ。ゴール無き戦いは無限軌道を走り続けるモルモットに似ている。いずれ疲れ果て、朽ち果てる。そうなると上の者は、別の者を投入して、同じことを繰り返す。ヒエラルキー絶対社会ではそれが当たり前のように繰り返される。いつしか組織もマヒして、それが当たり前と疑うことをしない。

お偉いさんは自らの点数を下げる下の者を許さない。上の者に対してでさえ、デマ、嘘でなんとか蹴落とそうとする。何と醜いことか。そんなことをすればするほど、自らのいやらしさが伝播していくことが解らない。「あの人はこのように最低である」とまことしやかに伝達して頂く方がいらっしゃるが、そんなことは気にしないのだ。そもそも貴方が足を引っ張って陰口を言う前から、呆れて知らんぷりを始めているのだ。告げ口は知らんぷり対象者を増やすだけだ。

組織の中に巨大な年齢差があるのは宜しくない。それを感じる前に、退陣するのが最も良いのだが、うかつにもそれを失した場合には、速やかに準備を行い、そして消え去るのが宜しい。それが丸投げが発生しない組織づくりの所要兼かもしれない。何を何故バトンに託すのか、託された側はたまったものでは無いのだが、それは小生とて同じこと。スパッと見事に消えるのが宜しい。準備が出来たら即座に消える。必須である。

他人の思考を分解し観測できなくなったら、人間を辞めるのが良い。ただ投げるだけとか、AIに頼ってみようとか、それは大いなる訓練ではあるが、AIを超える発想力の若者が存在することを認められない醜い者は、既にAIによって駆逐されている職能人であることを理解せねばならぬ。自らは何ゆえに存在しているのか。哲学の最初の一コマであろう。一歩引いて瞬間先の自らを眺めてみると良い。今と全く変わっていないのであれば、君はもう引退だ。よく頑張った。おめでとう。

再分配

電機磁気学や四力学など、工学のエッセンスであり、テラヘルツ送受信が可能になった今においても、それらがでんぐり返るというお話を聞いたことが無い。量子力学においても、数学的な進化に伴って、概念を定量的に扱えるようになり計算機への応用が実現してくるなどの、人間が活用できる範囲が広がってはいるが、これもでんぐり返ることは無い。工学を活用するという点において、工学の道具と言う側面をどのような場面で活用するのか、その応用範囲の広がりを考えることになる。

解明できていない生体内の現象においても、工学と言う道具は役に立ち続けると思うのだが、生体における微小な電子のやり取りやクーロン力による信号のやり取りをその場で観測するという夢において、電場だけではなく、磁場という、言ってみれば切っても切れない関係性を上手に使おうよとなっていくのかなとふわっと考えたりする。どうやって何をどうするのかを描けているわけではないが、何か面白いことは無いかなと思ったりする。

するとセンシングという、工科系の人間にとっては至極当たり前のツールの原理原則を、信号解析の基礎とその活用方法と共に医学系の人間が扱えるようになったとすると、その学生さんは将来においてなんらかの夢を持つかもしれない。大学って人間の育成機関であるから、誰に夢を描かせるかという点において、経営者は知恵を絞らねばならない。「いいもの」になって金をよこせと本社に陳情しても、それは甘いのではないか。今をしっかりと見つめて、他大学の役割部分は割譲、廃止という方向性も考えねばならぬ。

研究成果を社会還元するという絵柄は綺麗だが、社会還元が今ある商材の微妙な改善であってはしょうがない。自らの他者と差別化するという精神を養うアントレプレナーシップだが、差別化を喚起する研究成果がどれだけあるのか。それをきちっとロジカルに語れないのでは「その分野を排除しては?」と本社に言われても仕方が無い。分野間の連携無く、縦割り思考のままの頭では、新時代の旗手を育てることはできまい。無くなった分を他大学が獲得していくということになろう。厳しく自らを見つめるとそうなってくる。そう感じている。

白黒付かない

学生時代を思い出すのは、もう、かなり無理な芸当なのだが、人間機械論だの、世界国家宗教だの、不可思議な課題で学ばせて頂いたおかげで、その道に関してはオープンエンドな対話が出来るようになっている。クローズエンドな人との会話は辛い。分野的にクローズエンドではないと許しがたい人種なのでしょうけれど、51%対49%みたいな場面でも、51%側だけが正しいと判断出来るのは、ある意味羨ましくもある。自分の哲学だけが絶対に正しいという輩も羨ましく思う。

羨ましいなんて言ってはみたが、まつりごとをつかさどっていると、そりゃぁ、一方的に「こっちだろ!」と決めつけたくなる時もありましたけどね、しかし、それはまつりごとでは無い。どうぞご自由になさって頂ければと常に思っている。今も「なんとか長」のお役を頂いているわけだが、これとて、判断の連続で、中期目標・計画の期をまたぐところまで考えてジャッジしていく必要がある。いろんな噂ベースでしかないのだけれど、国の稼ぐお金が減っている以上、楽観的方向に行くはずはない。

日本の研究論文の力強さが落ちているなんて言われるのだけれど、そりゃぁ、円安で、一本の論文を投稿するにしても決して安いものでは無いからね。運営費交付金で分配される基盤的活動資金では、部屋代や講義の準備、大型設備活用費用などで消し飛んでしまうから、特にものづくり系の研究者は何等か、外部資金を獲得しないとにっちもさっちもいかない。材料開発などは「こっちが正しい」なんてジャッジはそう簡単に出来ないから、パラメータを振ることにお金と時間を費やすわけだ。

生成AIが全てを判定してくれて、その通りにやってみたらその通りになったなんて研究者は無用なわけで、まぁ、こんなことに関してであれば「そっちが正しい」と言えるんだけどね。他人の論文のトレースだったり、学会で聞いた情報の隙間を狙ってみたりね。もう、いい加減に辞めてくれないかな?と言いたくなる。やっぱり学生時代の不思議な学問への接触は極めて大切だ。それも真剣に、必死に接触せねばならぬ。リベラルアーツとは生涯の方向性を決める。そう思う。

ダイヤモンドにて

学生時代にGeやSiとか、HgCdTeという、公害認定病半導体とか言って怒られていたりしたのだが、その当時にその内にこれになるよと言われていたのがダイヤモンドである。今では数センチメートル角の板状素材が手に入るようになり、電力制御半導体素子を作り込むことが可能になって来た。性能は図抜けていて、確かにダイヤモンドデバイスの時代は来るなと感じるのだが、まだまだ商用デバイスに至るには乗り越えるべきハードルが沢山ある。

結晶成長は勿論大変で、そう簡単に大きく出来ない。某社によれば、大きくすることは出来るが「磨くのが大変」ということで、それがコストの決定因であるらしい。SiCやGaNも磨きにくいが、炭素の塊であるダイヤモンドは、その硬さ故に磨くのが大変である。そもそも論、研磨の研究を行うには高価な基板を入手せねばならず、最初にビジネスモデルを考えてから取り掛かからねばならぬ。おいそれと始められない。

身近なダイヤモンドと言えば刃具である。なんだそれはとなるのだが、5~60万円もするミクロトームとかね、顕微鏡観察前の資料を薄く削ぐ刃物につかわれていたりするのだが、そんなものも含めて、価格は研磨代金みたいなものと思って良い。とあるご依頼で磨いてみたのだが、表面の状態が見たことが無い状態になり、傷だらけだと文句を言われた。じろじろと眺めてみるとステップバンチングである。ダイヤモンドをCMP加工してステップバンチングが生じるなんてことを始めてみたし、その正体を知らない人からすれば加工痕だと騒いでも無理は無かろう。

化学的に材料を成長させると、熱力学的に安定な状態が表出するのだが、ダイヤモンドにおいて不可思議な階段構造が出来る事は2000年頃の論文に紹介されていた。結晶の向きにも依存するのだが、間違いなく形成される。結晶成長と研磨とは逆方向プロセスだから、成長で出来るものは研磨においても出来るのだ。当たり前なのだが、見たことが無いと信じない。小生も始めてみた。自分でやって驚かされる。世界初に挑戦しているとこんな愉しさに出合う。これこそ冥利、幸せである。

学びの拒否は

経産省や文科省は社会人リスキリングの為に大学はなんとかしろ!と叫ぶのだが、企業側が、社員が教育にうつつを抜かして勉強することを良しとしない現状で、場を創っても人が集まらないのは間違いない。企業へのアンケートをどれだけの数を撒いて回収できたのかは分からないが、自社社員をリスキリング・リカレントの為に大学に送り込む仕組みを社内に作っているかと言う問いかけに対して、10%程度の企業のみが学ぶことを良しとしているということが解った。

となると、必死になってプログラムを構築しても、余程、社会に刺さるプログラムで無いと参画しては頂けないということ。特にAI活用関係など、本来は現場にこそ活用の場があるAIなのだが、それを活用する学びをさせる余裕が無いと中小企業諸氏にバッサリとやられたわけだ。AIでどんな価値を抽出するのかという事なのだが、大略、加工用の刃物が駄目になる前に教えて欲しいとか、人の置き換えを目指すと「学ばせる暇が合ったらその人を現場に立たせる」ということになる。

不具合発生防止ということを人にやらせるということほど無駄な行為は無い。これこそ給与の無駄払いで、AIやロボットにやらせるべき案件である。労働人口が減っていくので海外の方々にお越し頂こうということなのだが、お越しを頂いて、そんなしょぼいお仕事を任せてはいけない。日本に行ったら有り得ない程の高度な学びが出来たと、帰国の際に知恵のお土産を持って帰って頂かないと、国家間が仲良くなれない。

ノウハウなどもどんどん吐き出して、自分達は新たなモノづくりに挑戦すれば良い。その為には人のカンコツ、ノウハウをどんどこ機械に受け持ってもらって、それを活用すれば良い。ベテランはカンコツを奪われたら解雇されると技を出したがらないが、モノづくりの様式ががらりと変わればポジションなどあっと言う間に要らなくなる。浪花節で国が動いているのは何時までか?大学で学んだことの「旬」はどんどん短くなっている。人に学ばせぬ企業には明日は無い。そう思う。

値上げ

じわじわといろんなものが値上がり続けているので、またかと思うだけなのだが、10月に入って、届け出が出されている品目だけで2911品の希望小売価格が上昇するとの事。今年の4月期では2897品目だったということで、それよりも多くの品目が値上がりした勘定になる。夏前から叫ばれていたカカオ豆の収穫量が激減したことで、それを出発原料とする商材は軒並み単科が上がる。そんなにバクバクと食するものでは無いのだが、チョコレートの類が幻に成る日も遠く無いのかもしれない。

東南海地震が来る来る騒動のお陰で、市場から消えたお米なのだが、11月以降に成ると、パックご飯も落ち着いてくるというお話だ。こればっかりはその時になってみないと分からない。災害は忘れない内にやってくるというのが世界の相場になってきたので、台風の本格シーズンが明けたと言っても、まだまだ強烈にやってきそうな大嵐である。油断は禁物で、キャンプ用品などのチェックを怠らないようにしなければと思っている。

猛暑の夏の影響で、マーケットにおける野菜の価格が落ちてこないなと実感している。勿論、人件費、輸送費の高騰も関係しているのだが、世界中で猛暑と災害で、食糧の確保が相当に困難になっているのではと危惧している。肥料や飼料を含めると、食糧自給率が10%くらいしか無いこの国において、地球規模での俯瞰力が無ければ生きていけないのは当然の事。インバウンドだなどと、比較貨幣価値が高い人達に、自国民が食せない価格でサービスをして儲けていらっしゃる業界の皆様は、コロナ禍での赤字を取り戻そうということなのだろうけれど、飢えた国民の目は恐ろしいことを忘れてはならない。

先日、マーケットで「曲がりもの」としてパッケージされている胡瓜を購入した。3割程低価格に設定されているのだが、農家諸氏にしてみれば、重さが変わるわけでは無く、輸送労力や箱詰めの大変さを考えると、安売りする必要など何も無いと感じるのだ。成長までにどれだけの水分を確保されたのか、この夏の雨不足を思うと申し訳なくなってくる。値上げの分、サラリーが上がるわけでは無いから、何かを削らねばならぬ。この国では命を削らないといけないのかもしれない。そんな気がする。

差別化せよ

大学で学び、卒業し、企業を通じて社会貢献を行う。その社会貢献の程度が、社会の求める要求に達していないと判断したら、当然のことながらその時点で最良の機能を与えてくれるであろう大学を認識し、再度入学して学び直すことになる筈だ。忙しいからとか、人手が足りないという言い訳の下、学びを放棄した状態で企業経営を続けていれば、当然のこととして、売り上げ激減、倒産まっしぐらである。美味しいエサに、猫まっしぐらなどと喜んでいる場合ではない。

この手のお話を身内としていると「そもそも、現状の経営者の殆どが、大学で『自らは何を社会に対して機能を発揮できるようになったのか』が意識できないから、大学は遊び場だと思ってしまって、大学の学びに不信感を抱いているから」というところに帰結する。小生はガマの油売り大学で徹底的に鍛えられたからそんな意識は微塵も無いのだが、そんなお話が出てくるということは、そんな経験をしていらっしゃるのですねと、少々寂しい気持ちになるのだ。

失われた30年とか40年とか、なんだか被害者みたいな表現をするのだが、それって、自らが学びを放棄しただけでしょと言いたいのだ。何故なら世界は、決して失われていないからだ。相対的に国力が下がったということは、下がっていない国が沢山あるということだ。そのような学びを自らに課し、歯を食いしばり血を滲ませなかった者が何を言うか!と怒鳴りつけたくなるが、無駄だからやらない。

かれこれ25年ほど前に米国の大学に訪れた際に、壁に貼られたポスターに「アントレプレナーシップ!」(当然英語であるが)と書かれているのを拝見して「なんじゃこりゃ?」となったわけだが、単なる起業家精神という事では無く、自らを他者から差別化せよ!というエールだと、その大学の先生からお伺いして、それなら自分はアントレプレナーシップを有していると言ったら「お前はネオジャパネスクだ」と、その通りだと言われ、安心して帰国した。未だにアントレプレナーシップは日本人に醸成されない。大学遊園地を経験した経営者は絶滅するのは何時だろう?それまで国は保てるのか?恐ろしい。

平針にて

最初に免許証を獲得してから、何度更新したなどとは忘れてしまったが、そのたびに頂戴する教本は時代を反映していて面白い。別に優良度ラーバーになりたいというわけではないのだが、法律と言うものは「こう変わったからね」と勝手にやられても、知らなかった側が悪いということになっている。知らないよりは知っているほうがずっと便利である。

自動走行に関する文言や、電動キックボード等の交通方法などは、ちゃんと考えられているというところに感心した。当たり前なのだろうけれど、令和5年中に施行ということになっていて、街にレンタルキックボードが溢れかえってきた理由がわかって愉快だ。ちゃんと法が出来れば金儲けができるということだ。利益が上がっているから増え続けているのだろうけれど、町中に電池が溢れているというのは恐ろしい気もする。

気になるのが令和4年4月に交付されて、3年以内に施行される運転免許証とマイナンバーカードが一体化出来るらしいということ。失くしたらどうするというネガティブな意見などはほったらかすのが良く、持ち物などはどんどこ減らすのがDX的にもプラスチックを削減する方向性においても正しいに決まっているわけで、とっととやって欲しいなと願うばかり。

愛知県民だとかなりの方が利用される平針運転免許関連施設は、新しくなったのは近所だから当然知っていたわけだが、活用したのは今回が初めて。予約制になっていて、日曜日の枠を確保するのはとっても大変だったのだが、幸いにして朝一の枠を確保できた。どれだけ時間がかかるのか、8時半受付開始の合図で席を立って並び始めて、研修室に入るまでに16分で済んでしまった。驚くべきDXであり、どこの職場でも出来るだろうとサービス向上に感激した。見習うべきである。

学び直すためには

企業人材のリスキリング・リカレントということに大学が関わっていくことは当然のことである。大学は教員が研究者として研究に猛烈に打ち込み、その意味と成果を社会に還元するわけだが、その手法の一つとしてリスキリング・リカレントがあるわけだ。あるわけなのだけれど、社会の進化速度に制度が追い付いていけていないと感じている。産学連携と言うと、共同研究で企業の利益向上のために研究を部品として使うイメージだが、これからはリスキリング・リカレントということに関しても大学を活用するべきだ。

特別なこととは考えない。企業内で基礎的研究を行う体力が無くなったのであれば、その分は、大学に対価を支払って教育を受けていけばよろしい。大学教員などは、博士を取得した後においても延々と学び続けているわけで、妙に物知りになる。学び伝えることを商売にしているわけだから当然の事なのだが、企業に入ってものづくりに携わっている方々が、学ばずに経験とそこから出てくるカンコツだけで世界と勝負しようというのはなんだろう。

妙にカンコツがもてはやされる分野だったりすると、コンサル業なんてものになったりしてね。技術が深化していっている時にはカンコツコンサルは働く場があるかもしれないが、転換が生じたときには明日どころか、今日がなくなるわけだ。今をじっくりと見直して、改善・改良という得意技に走るわけだが、これとて、見直すやり方を学んでいないといけない。そのやり方とてAIの登場で見直されなければならないだろう。

企業人が学び直しのためにはアルムナイサブスクリプション制度などがよろしかろうと思っている。AIを活用する製造現場のDXなどは、それこそ四半期に一度、学びを更新しなければ世界に置いてきぼりどころか、化石化工場となり果てる。半導体の学びなども基礎は確かに必要なのだが、ナノ領域で生じる量子効果も踏まえた教えが出来なければ、その組織そのものの廃止か入替が必要だ。学びの提供側にこの国の未来は掛かっている。間違いない。

そもそも論

ビジョンオリエンテッドのビジネス創成は難しい。例えば「2030年に上市するとして」という条件を付けたとして、明確なのは例えば日本の人口動態からくる人口分布程度のことだ。我が国はAIやICTの社会実装が世界で最も遅れているアナログ国家だから、DXの海外との格差は著しく、ビジネスにおいて、そもそも海外は我が国商材を買ってくれているのかという恐れを抱いている。飲料水を含めた食糧の確保もおぼつかない状況に陥っているのではないかと考える。

その中で、何をどうしていくのかという、極めて冷めた分析と、そうでありながら、突っ走っていくアジア諸国の皆様に縋りついていく発想の先取りが必要で、本社が言って来ている「大学は産学連携を進化させなければならない」というお題に対して、何をどうしようかなど、それこそ、今の国立大学のお作法をぶち壊すしか無いのだが、アクセルとブレーキを思いっきり踏ませる本社と、ブレーキだけを踏んでいたい大学との方向性の擦り合わせを考えているだけで、2030年など過ぎてしまう。

個社の課題持ち込み解決型ということを、その昔に産業戦略という場で実践させて頂いたが、秘密保持に関する点において、クリアに出来ていたかと言えば決してそうではない。チャレンジしようとする事業のベクトルを開示することは、ある意味、自社優位性の低下に繋がるわけだから、国内企業同士で足の引っ張り合いをしている国においては、リアルなオープンイノベーションなど遥か彼方だ。学外組織との連携と言うことになってこようが、その辺りの現場規則作りに関して、お上が尽力してくれる筈も無く、マンパワー依存ということになる。

そもそも論というか、根本的なところとして、この国のお会社殿は、本気で生き延びようとしているのか、はてなマークが頭をよぎることが多くなってきた。総論を語っていても直ぐに各論に陥って、視野を極端に狭めようとする。日頃のお仕事の癖でそうなってしまうのでしょうけれど、社員の皆様のキャリアパスとかね。働き手が夢を持てなくなっていると肌で感じる。何時、バトンを放そうか、そんなところだ。