そもそも論

ビジョンオリエンテッドのビジネス創成は難しい。例えば「2030年に上市するとして」という条件を付けたとして、明確なのは例えば日本の人口動態からくる人口分布程度のことだ。我が国はAIやICTの社会実装が世界で最も遅れているアナログ国家だから、DXの海外との格差は著しく、ビジネスにおいて、そもそも海外は我が国商材を買ってくれているのかという恐れを抱いている。飲料水を含めた食糧の確保もおぼつかない状況に陥っているのではないかと考える。

その中で、何をどうしていくのかという、極めて冷めた分析と、そうでありながら、突っ走っていくアジア諸国の皆様に縋りついていく発想の先取りが必要で、本社が言って来ている「大学は産学連携を進化させなければならない」というお題に対して、何をどうしようかなど、それこそ、今の国立大学のお作法をぶち壊すしか無いのだが、アクセルとブレーキを思いっきり踏ませる本社と、ブレーキだけを踏んでいたい大学との方向性の擦り合わせを考えているだけで、2030年など過ぎてしまう。

個社の課題持ち込み解決型ということを、その昔に産業戦略という場で実践させて頂いたが、秘密保持に関する点において、クリアに出来ていたかと言えば決してそうではない。チャレンジしようとする事業のベクトルを開示することは、ある意味、自社優位性の低下に繋がるわけだから、国内企業同士で足の引っ張り合いをしている国においては、リアルなオープンイノベーションなど遥か彼方だ。学外組織との連携と言うことになってこようが、その辺りの現場規則作りに関して、お上が尽力してくれる筈も無く、マンパワー依存ということになる。

そもそも論というか、根本的なところとして、この国のお会社殿は、本気で生き延びようとしているのか、はてなマークが頭をよぎることが多くなってきた。総論を語っていても直ぐに各論に陥って、視野を極端に狭めようとする。日頃のお仕事の癖でそうなってしまうのでしょうけれど、社員の皆様のキャリアパスとかね。働き手が夢を持てなくなっていると肌で感じる。何時、バトンを放そうか、そんなところだ。

次の改革は

先日、AIが研究マネージメントを行い、そのマネージメントに則ってAIが仮想実験を行い、その仮想実験データで論文をAIが書いて、その論文をAIが査読したら「こんな実験と考察を追加したらOK」ということが報告されたとお話をさせて頂いた。未だにAIが仕事を奪うとか暢気なことを言っているわけだが、自動運転もドローンの飛行実験も、職業を奪われる等の理由で待ったが掛けられるこの国なんだけど、基本的に、AIをどう実践的に活用して一人の人が関与できるアウトカムズを大きくするには、それなりの教育が必要であることは論を待たない。

最近、この教育の仕組みの導入に関して有志の方のご協力を頂いて「どんなもんですかね?」とに対して率直なご意見を頂けた。ベンチャー企業は勉強する暇など無い。中小企業には高度過ぎるし、人材を学ばせる余裕はない。自らは挑戦してみたいがという、真実の叫びに似たお声を頂けたことはとても有難かった。感謝するのみである。生成AIのアルゴリズムを新たに構築する研究も成されているのだろうが、現状、ものづくりの現場等でどうやってそれを使うのかという、お金儲けの枠組みの中での生成AIがどんな役割を果たすことが出来るのかと言う実践的な学びが求められるものだろう。

修士課程となると2年間なんだけど、この手の分野って2年も掛けて学ぶものなのだろうかと、ちょこっとそれはどうなのと思ってしまう。修士号が必要なのか、コース教育の修了証が必要なのか、それが企業においてサラリーに影響するもので無ければどうでも良かったりするのではないか?そもそも、この国では、博士を取っても同じ年齢の高校卒業後に就職した方と給料は変わらないというか低い現状だから、修士号に拘るコースにする必要は無いのではとも思ってしまうのだが、本社がそれを求めるから仕方が無い。

現場の職人が自らのカンコツを人質に、企業から給料を簒奪し続ける状態を崩壊させるには、事業承継のAI+ロボット化は必須なわけで、そのあたりのDXは徹底するべきだ。その為にはAIの高度活用を可能とする者、そして、その者が学び続けることが出来る仕組みが必要だ。卒業したらおしまいという学びのスタイルではこの国は崩壊する。どんな分野においても学び続け自らを更新し続けることが必要で、その組織の有り様を組み込んだ教育組織への改革が第一歩である。それを成す。

今を

京浜工業地帯沿いの高速道路を走ってみれば、正に臨海であり、雑多で逃げ場のない、そして隙間もない領域であることが解る。平日に大地震が発生したならば、その混乱ぶりは想像も出来ない。10年とは経過していないのだが、久し振りに用事を作って訪れてみた。大きく景色が変わったわけではないが、密度はより高くなったと感じる。災害など無いに越したことは無いのだが、それなりに巨大な災害は、この国に住んでいれば必ず遭遇するはずである。

その後に、ちょっと寄り道をして名古屋に戻ったわけだが、相模湾沿岸に立ち並ぶ家々も、巨大な津波にひとたまりも無かろうと思うわけだ。眼前に聳える富士の宝永火口が、今にも黒煙を上げるのではないかと恐怖したが、幸いにそんなこともなく、津波にも襲われず。これまた久しぶりに伊豆半島を横断してみたが、1930年に生じた大地震での断層を記録した公園などもあり、遥か南方からやってきた伊豆半島は未だに活発に本州に押し付けられているのだなと、その活力に圧倒される。

都市伝説に引っ張られるわけでは無いのだが、大地震はこの国に住んでいる限りは必ずどこかで起こりえる。そして人々は巻き込まれる宿命にある。そのような遺構を拝見するたびに、今を謙虚に迎え、そして自らを律していくことに全力を掛けようと思うのだ。自分を変える事だけは可能だからね。この瞬間の外界を変えることは出来ないけれどね。

能登地域の水害に唖然とする。今年の元日の大震災から、国を挙げて支援をさせて頂いて、今に至った。それが天の成せる技によって無為に帰す。世界を見渡しても天災は至る所で猛威を振るっている。人の所作が人に還ったのであれば仕方のないところだと諦めるしかない。ジタバタできない。だからこそ、今、この瞬間瞬間を猛烈に強烈に生きるしかない。その為に学ぶ。その為に思考する。他の為に思考する。生きるとはそういうことだ。

自らは育っているか?

自己を見つめて「今、これをやっていたい」とそれをお仕事に出来ている人は本当に幸せな人だ。お仕事とは、自らの機能を他の方に最大限に発揮したことによって、生きていける状態に自らを置くことが出来る手段と捉えてみたい。趣味ではいけない。自らの機能が高まって行かないから。その機能を高める手段が、他の方に育って頂くことに向けられたら更に幸せである。

この他の方に育って頂くということに関して、育って頂く定義が必要だ。育つことが偉くなるとかね、そんなことではない。育った者は、どんどんと他の方に幸せを振りまいて、その連鎖が留まることを知らず、無限に広がっていく時、それが育った状態と言える。研究者が自らの喜びの為に掘り下げた思考を学会や論文で発表して、他の研究者が新たな気付きを得て、気付いた者の持つ機能を重ね合わせてどんどんと新たな研究が生まれていく様は「育てた」定義に当てはまる。

それでは、その、育てる者を育てるにはどのような手法が考えられるか。育てる者は若い程宜しい。何故なら、育った老木はいかんともしがたいからである。中には極めて柔軟な方がいらっしゃって、70歳を超える経営者の方でも、初々しく「それは素晴らしい!」と大変身を遂げられる超人もいらっしゃるのだが、それは余りにも稀過ぎて事例にならない。将来こうありたいというビジョンを抱き、そこに向かって苦悩している者が宜しい。

どこぞの知事さんの言い訳や、それを応援する弁護士の方のお話をネット上で聞けるわけだが、どこまで真実かさっぱりわからないのだが、その言い訳を聞いていれば反面教師としては最強と感じる。ただ、それは教育手法として採用出来ない。過去の出来事は遡れないと胸を張る首相殿とかね、めまいがしてくる。不幸の連鎖と幸せの連鎖。小生は後者に関わっていたいし、これからもそこに体当たりし続ける。当然のお話だ。

産学官金屋

サイエンスとお付き合いをしていると、時々、それが工学という学問分野に化ける時がある。もちろん、そのサイエンスは工学分野だけではなく、農学だったり経済学だったりにも関わるかもしれないネタなのだが、誰かが何かを達成するためにその工学を用いると、パッケージ化されて他律機能を発現して技術となることがある。産学連携って何をしているかと言うと、経済活動者に技術をもって金儲けをして頂くために、工学を当てはめていく活動だ。

人工の鼻というセンサがあって、それは人がどのような香りをどのように感じているかというサイエンスを使って実現しているのだが、その面白さは鼻を実現したことではなく、新たな香りを作り出せるところにある。鼻だけでは、アロマの研究を行っている会社は人を雇えば良いのだが、香りを造って金儲けをしようとするのであれば、定量的に香りと分子を結び付けなければならず、そこにセンサが登場するわけだ。

サイエンス研究の楽しさはこのように化けることにある。ただ、サイエンスへのたどり着き方が、研究者の師匠がやっていたからその道に入ったという場合には、金儲け屋がやってこないと、そのサイエンスは論文化されて同業者の納得を得られて終焉を迎えるわけだ。一方、こんなことで人を笑顔にしたいというビジョンからサイエンスにたどり着いた人は、自らの研究人生と人の笑顔を直結させられて幸せと言ってよかろう。

工学という技術化されて社会の課題を解決したり、課題を造ったりする分野においては、様々な適応分野があることを自ら閉ざしてはならない。それと経済活動に工学を使おうという企業は、思ったより金が掛かるから辞めたとかね、簡単に投げ出さないで頂きたい。研究者はそんな下世話な輩のために時間を無駄にしたくないのだ。研究者に無駄な時間を使わせないことも産学連携に関わる人間の務めである。

テクノロジー

ちょっと前だったなと思い出してみると、もうかれこれ10年以上が経過している。記憶の時間軸の曖昧さに苦笑いだ。スマホにAIドライバICが搭載されてきているわけだが、処理システムが高速化すると、それに必要なメモリーICが進化する。するとドライバが進化して、その輪廻が延々と続くわけだ。人が欲するのはムーアの法則的トランジスタ数の増加では無く、思った時に直ぐに返事をしてくれる相棒であるから、トータル回路的に高速が求められるのは当然である。

その時は「重ねる」というプロセスが、今は成長させるになってきて、どっちが得なのか、まぁ、高速に成長させることが出来るならそっちの方がコストは下がりそうだなと、取り敢えず専門家なので思ったりするのだが、それにしてもいよいよ1千層の時代に入ったのかと、LSIテクノロジーに呆れかえる。呆れてどうすんだということなのだが、人間もやるもんだなと思うわけだ。シミュレーション技術を徹底的に活用しているのだろう。

記憶の高速さという点においては人間を遥かに凌駕しているのだろう。そして、記憶する、そしてそれを読みだす、組み合わせて新しい思考を生み出すというAIアルゴリズムを実現させるアーキテクチャって、それもAIで実現しているのか、それとも人間がやっているのか。LSI開発ってその昔は信じられないようなアナログだったのだけれど、それもどんどこデジタル化されてきた。デジタル化の信頼を高めたのは人間なのだが、あるところからデジタルがデジタルを面倒みる様になってきて来ている。

ゲームと言う、いわば、お試しの場があるテクノロジーは、厳しい人間のチェックを受ける場があって、深化させやすい。自動車がF1というカテゴリで革新的技術を当たり前化してきたように、デジタルネイティブをチェック機能に組み込むことは極めて正しい。ギフテットをどんどん伸ばして、政治なんかも彼らに任せて、国を革新させて頂きたいものだ。どっかの総裁選などの報道を見ていると、余りにも化石的議論に吐き気がする。残念な国である。

AI力

既に3,4年が経過しただろうか。藤井名人が登場して「天賦の才を持った人が、その才にふさわしい道を歩み始めた時、本当に凄いことになるのだな」と人の可能性に感動したものだ。AI研究者それを語ったら「最近、全く興味が無かった将棋番組を観る様になりました。それはAIが予測した結果と異なる指し手で勝つというところに感動したから」というものであった。専門家の見立てはユニークであると、そっちの方に感激した。

小生が物質工学分野で「研究計画を立案し、商材として世に出ているところからバックキャスティングして、ものづくりの指針を生み出すプロセスインフォマティクスの研究者を雇用するべき」と人事提案してから11年が経過した。どの学長の何年目に提案したかと言うことを記憶しているので間違いない。昨日、AIが研究プロセスを思考し、その思考の元、仮想的に研究し、その成果をまとめた論文を投稿した結果をAI査読したら5ポイント(速攻でパブリッシュ)手前の4ポイントであったと報じられた。

とうとう来たなと、なんだか妙に納得し安心した。例えば電池の研究などは膨大な量のデータが蓄積されており、日の目を見ずに眠っている。それらがAIによって統合され、現状で目標の6割までの性能の商用電池が8割の性能に1年で到達したらどうであろう。その間の研究者の、恐らくは隠され消えていくノウハウなどが活かされて温暖化が減速するかもしれない。研究者へのリスペクトが必要なのだが、その点も誰が頑張った成果かと言うことも併せて活用されると有難いのだが。

先端技術はどんどんと先端であるべきで、それをどのように活用するとどんな幸せに繋がるのかもAIのアシストを期待したいものだ。さぼろうということではない。AIが示す手法を実現するための道具作りをAIがやるとしても、その道具の原器をAIが作れるのか?今は人が作ることになる。どうやって作ったら良いのかのアシストをAIがするにしても、この数年は人間の思考が必要になると思う。人が必要とされる間に散ることが幸せなのかどうなのか。悩むところだ。

幸せ?

白紙の紙に自分が楽しいことを描いてみてよと言われたら、何でも良いから描けるでしょう。今、存在していないビジネスを描けと言われると、それはかなり難しい。では、誰かを定めて、その人を楽しく驚かせる、即ち喜ばせる「新しい事」を描いてみようというのはどうだろう。ぱっとした思い付きで良いのだ。それがその人にとっては初めてであれば良いのだ。世界中を検索して、AIに尋ねてみようということなどいらない。

威張るという圧力から説明をされる人がいる。新しい事を教えろと。こちらの知恵をタダ取りしようという行為であり、更に、脅迫迄加わってくる。厭らしいにも程がある。お互いが気持ちよくという概念が無いのでしょうね。じっと嵐が過ぎるのを待つ。いや、待たない。老害は宜しく無いのだ。若者に任せれば良いのだ。その任せ方が問題なのだ。

常に高圧的、そして回顧的。嫌、懐古かもしれない。小生も含めて老害者の知らない世界が若者には間違いなく有るわけで、その気付きを出して頂くことこそ先人の務めである。当たり前の、既知のことかもしれないが、その若者が「何故」それを語ったのかは老害者の視点とは異なっている筈だ。となると、老害の知恵がひょっとすると若者視点の場においても活きるかもしれない。活かして頂けるのかもしれない。

高圧的な方って「幸せ」では無いのでしょうね。幸せって何と言われてもスパッと明確に答えられないのだが、うらやむことなく、自分の意思を明確に持て、明日、成すべき事を自ら白紙の上に描き出せる状態とでも言おうか。新しい事をやろうというのであれば、気が付いた古い事は捨ててしまって、脳を真っ白にするのが宜しい。すると次に思ったことが新しくなる。知っていると競争になるが、知らないと共創が出来る。それは幸せである。

時々の食糧事情

時々話題に出す食糧自給率なんだけど、1980年代には50%を超えていたのに、今現在、30%台だ。肥料や飼料まで含めて考えると10%台だろうという研究者もいらっしゃる。絶対値が少ない事はよろしくないが、急激に減少していることはもっとよろしくない。海外から売って頂いているわけなんだけど、円安でどんどこ食料品は値上がりしていくしね。日本の価値というか、日本人の価値と言うか、海外に対してプレゼンスを示していかないと、食糧売ってあげないよと言われかねない。

最も重要な教育に関しても、少子化で学校合併だの、教育費削減だのと突っ走って来て、ここにきて、教師の給料が安すぎるからだと、給与をかさ上げしようなんて動きが出てきた。本当にお金だけの問題か?残業するなと言われて発生することは、家庭に仕事を持ち帰るという行動だ。悲惨な状況である。小生などはフェードアウトモードに入っているから出勤時刻を6時から6時半に遅延させているが、それでもアップアップである。

企画を考えていくとお仕事は無限に広がっていくわけで、それが公の為になっているのであればそれはそれでお仕事であり、減らすつもりはさらさらない。恐らく、全ての教育機関で同じことが発生しているだろう。先日、産学連携実務者の全国会議があったのだが、良い事例と思っても、地域に応じて通用する・しないが存在するから、学びが実務に反映されるとは限らない。知見を得ても仕事が減るわけでは無いのだ。

労働人口が減るということは農業従事者も当然減る。株式会社化が進んではいるが、農地に関して強烈な政治のネタになっているこの国では、思うようには進まない。気が付くと農地が工場やアパートに化けているのが現状である。更に気候変動が追い打ちをかける。いつまで学び続けることが可能なのか解らないが、まだまだ筆をおけそうにない。ただ、何時まで食べていけるんでしょうね?そっちも心配になってきた。

地図のない世界に生きる

船頭が多くなったらどうなるのかというお話があるが、リアルな船で船頭が沢山居るという経験は無い。無いから船は山に登らないから安心だ。丘の上での会議のお話。ここでのお話は船頭だと思っていたら会議の議長だったという落としどころ。しかも議長だと思ったらそうではなかったということで、誰もどこに居るのか分からない体験をした。

兎に角いろいろ震源地から湧いてくるのだ。屁と火事は元から騒ぎ出すの例えのとおりかもしれない。しかし、今回はちょっと違って、震源地が複数個存在するのだ。そして気が付いたら自らも震源地の役割の担当者になっていた。いや、気が付かないところでなっていたとするのが正しい。

誰もゴールを知らないどころか、何故、その場に居合わせているのかも知らない。だから船頭は沢山居てもどこにも行きようが無いという状況は凄まじい。震源地すらどこだか分からない。恐らくこの辺りであろうというレベル感で、皆が疑心暗鬼になって会議を進めている。いや、進めていることが分かった。

何となくだが、こんなことを議論するべきなのだろうなということしか分からない。だから分かったことにはなっていは居ないのだが、誰もゴールを知らない、次の一手も分からないということを共有することの愉快さを知った。時にはこんな経験も良かろう?とあるところで経験した、貴重な出来事であった。解決手法は各自が思っていることを共有すること。共創のきっかけはそんなところにあるのだね。