生活環境に蔓延する、汚らしい銅線を消したいなぁというのがお題なのだが、戯言らしく発散しているのは好ましい。世界中の地面をほじくり返して、地球にまんべんなくばらまいて、生命の肺を壊している現状はなんとしたことか。PM2.5や花粉に対処するべくビジネスが展開しているわけだが、お金の為だけであって、人々の幸せを考えているわけではない。エネルギーは人類破壊の為だけに使われているわけだ。
久しぶりにかっかしているわけなのだが、学問が機械の奴隷になり、人が金の奴隷になっている。家具は家を縛り、家は人を縛る、そして金こそが人を死に追いやるわけで、これから逃れた種族だけが次の世界に生きているんでしょうな。MBAなどは金の奴隷製造工場であり、社会の笑顔を創り出せないことを知りながら、鞭を持つ者の側に立ちたい一心で、数千万の学費を払いMBAを持っているよと威張りまくる輩の汚い事。そして醜い事。
電気の大量消費の汚らしい現場を見た時から始まった戯言なのだが、不満が収まる気配はない。かっかするばかりである。今、学会が流行らない。お金にならないから、企業が「学会がつまらない」と宣伝しまくって、無意味な集団として、大学とともに無くそうと頑張っている。しかしだ、地球を美しく保ち、笑顔を作る活動が学会であって、それを否定するならば、人類はやはり恐竜2世であって絶滅を確約された者だ。それは明日かもしれない。
生命が持つ感情で失ってはいけないと思っているものが愛情である。それは電気で生まれるものでは無い。いやらしい輩は脳の神経の電気信号のやり取りだと上げ足を取るのだろうが、そんな狂人を相手にする暇はない。アスファルトの下にある電線は取り敢えず見えないが、空を遮蔽する電線や光ファイバーは見ることが出来る。それを見上げて、毎日の活動が笑顔の源泉になっているのか?それを刮目するべきだ。笑顔は想像されるものでは無い、創造されるべきものだ。笑顔になるだろうでは死の谷に落ちるのだ。笑顔を創造することを思考すること。そして実現すること。人類が存続する唯一の道だ。電線を張り巡らしている場合ではない。そう思う。
GDPを想うべき
脱線しすぎて話の出だしを忘れてしまったが、車窓に見える電線の醜さの話だ。小生的には、鉄道は人を移動させるにおいて、最も正しい電気の使い方だと思っているのだ。突然、土地が飛ぶのだが、四国に電車で渡って、香川方面に移動し始めた瞬間に、真っ黒い煙を吐きながらディーゼル車両が走り出すと、食料生産地には相応しく無い実態である。人の笑顔の為に電気を造り、運び、そして使っているのか?
加工機が所狭しと並び、切削油が蒸発し、人類は防護眼鏡とマスクで身を守る中で活動するのだ。電気が人間の寿命を切削するのだ。人間の活動エネルギーを遥かに超えるエネルギーを、たった一つの事業所で創り出すのだ。それが365日続いているのだ。ディーゼル車両に乗ってみると、実は案外、安心したりする。ディーゼルで発生する電気エネルギーは、発電機を背負い、人を背負い、重い車両を動かすためのギリギリの仕事をしているのだ。「電車」が軽快なのは、それだけ、エネルギーを食っているという事なのだ。
毎日毎日、超満員の電車を動かし、人々を運び、その人々がGDPを叩き出す。電気が行っている仕事は、正にGDP製造なのだ。電子レンジによる調理の簡便さで、朝の時短を実現するのも、ロボットと人が協調して仕事をするのも、GDP向上という社会的意義があればこそ許される事実なのだ。単に便利だから電気を使うなどと、地球を破壊するためだけの活動は許されるものでは無い。
東京と大阪を新幹線が繋いだのだが、その時に使った費用は、GDPの10%だ。それが許されたのは新幹線がそれ以上のGDP獲得を実現したからだ。朝の混雑時には地下鉄よりも短い時間間隔で到着、出発を繰り返す。この活動こそが国の原動力であり、電気が存在する理由である。理由であるのだが、昨今の国家の赤字の垂れ流しの為に電気が大量輸送されている現状は、これは納得できないのだ。出来ないのだが、行われている。それを海外に押し付けてでかい面をする日本である。嗚呼、屈辱である。
生活とは?
生きていくために何が必要だなんて大袈裟なことを考えたことがあるのだが、便利ツールで「これがあった方が良い」というものには電気を活用するものはなかった。トイレだとかナイフだとか、そんなものが出てくる程度であって、携帯電話などは要らないし、パソコンなんで『戯言(たわごとと読みます、ざれごとぢゃないよ』を書いているくらいなもんで(ちょっと嘘)、野生の人間としてはそんなものは要らないのだ。
家具は家を縛り、家は人を縛ると言いますが、電気こそ人を根こそぎしばりまくっているわけだ。歩いて生活する範囲で「生きていく」ことが出来れば、自動車も電気も要らないのだ。極論であることは重々承知である。しかし、今の時代に欲しいのは小生としては「極論」なのである。極論が無いからビジョンが描けないのである。この無責任時代において、何故、極論における討論・議論が為されないのか?さみしい限りである。
生活必須モノにおいて電気に頼り切っている生き方こそ、贅沢怠惰な動物の在り方であって、恐らくは絶滅の始まりでは無かろうか?恐竜は何故絶滅したのかという議論において、必ず出てくるのが隕石落下による気候変動、その時代に発生したシベリアの地溝変動である。確かに大陸の縁からプレートがマントルに落下して、その反動でマグマがシベリアを突き破って、地上の炭酸ガスが増えたとかなんだとか。まぁ色々言われていますけど、近年の研究結果が恐ろしい。
数万年、恐竜という覇者において、強者が他者を駆逐し、その駆逐こそ種の単色化であり、それが故にその種が死滅するという、多様性の無い社会の絶滅化というエントロピーの最小化を神が好まないという自然の摂理で絶滅したわけである。人類だって様々な類人猿から残ったものであって、恐竜の世界からすると既に絶滅している状況にあるはずなのだ。しかし生きているということは智慧によって絶滅を回避しているということだ。その回避手法が便利グッズの電力利用だとするならば、生きるための大地そのものを破壊しながら生きているということであって、智慧の片鱗すら感じられない、情けない状況である。
怠惰
エレクトロニクスに関連した研究もやっているので、その世界の発展を願う訳なのだが、正直なところ、本来、電気なんて便利なものが無い世の中が、知恵に満ちた世界になるのではと思っている。車だろうがなんだろうが、電気を使わずに駆動している機械なんてものは、自動巻きや手巻きの時計くらいなものでは無いのか?そりゃぁ、手動の水門みたいなものもあるのだろうが、屁理屈に付き合うつもりはさらさらない。上空には縦横無尽に電線が張り巡らされ、人間は自ら空を失っているとがっかりする。
ボンバルディアのプロペラ機に乗ってみると、高度を低く飛んでくれるので、山々を繋いでいく高圧電線を確認することが出来る。窓際の席でずっと下界を眺めるわけだが、これが案外と面白いのだ。山中に作られた水力発電所や海辺の巨大な火力発電所から霞の彼方まで伸びていく金属線と鉄塔は、人間の自然との決別の決意の表明の様である。
普段の生活ではエアコン、テレビ、ドライヤ、冷蔵庫、調理器具と言ったところが電気大食いの代表選手なのだが、いざ、職場に出てみればエレベーターという大食い王者がのさばりかえる。自動ドアも案外大食いである。コピー機は昔ほど大食いではなくなったが、それでもかなり食う。電気ポットなどは破壊的だ。でも、まぁ、そんなもんだ。こんなものの為なら、水力発電所だけでもなんとかなってしまうかもしれない。
便利な道具の代表選手であるパソコンや携帯電話を「造る」機械軍こそ巨大電力要求群であり、中国や韓国の巨大工場群などは、原発を構内に持った方がいいんじゃないの?と思いたくなる。実際のところ、それをやれば送電ロスは限りなく少なくなるし、排熱の利用でスーパー銭湯は勿論の事、温室で食料栽培を365日可能にするなんて余裕でできる。LED照明で人工太陽を創り出すなんてこともお手の物だ。なんでやらんのだろうと思うのだが、心の何処かで危険なのだろうと認知している人達がやらせないんでしょうね。便利だけ大事にして、危険は他人にお任せ状態。それが日本だ。悲しくなる。
久しぶりに電力を想う
満員のぎゅうぎゅうに圧縮された電車内で辟易しながら都内を移動するわけだが、ふと、線路と生活空間との境界線を眺めると、そこには無限とも思える量の電線が走る。がきんちょの頃に山手線は水力で動いているという話を聞き、そんなことがあるのかいなと調べてみたところ、新潟信濃川で発電をして、えっちらこと東京まで電気を運んで山手線を動かしたとのこと。川と聞いたので、ゆっくり流れる河川でどうやって巨大な発電機を回すのだろうと、その頃は真剣に思ってしまったのがだ、実際のところは貯水池を作ってそこから落とすという、所謂、立派な水力発電所ということだ。
不正取水事件などもありはあったが、発電量は大きく、JR東日本管轄内の新幹線などにもその一部を送電している。日本海側から首都圏まで電気を送るという、考えてみれば抵抗のある金属線で電力を運ぶのだから、その時点で相当の無駄がある。電気炬燵や電気ストーブなどのコードが熱を持っていると感じた人も居るとは思うが、空中配線とて同様である。電気は運ぶだけでエネルギーの損失を生むのだ。運べば運ぶほど無駄が出来る。
水力発電はクリーンなエネルギーで、水源がしっかりしているのであればどんどんやれば良いとは思うが、山を切り開き人が住んでいた渓谷を水没させてまで過去の計画のダムを意地で造る政治はどうなのだろうと感じるところがある。一方で、電気を使うところがある限りは、やはりクリーンで再生可能なエネルギー源ということであれば、正に電池である水力発電はもっと見直されるべきだ。
水にちょっかいを出すと直ぐにおっかない方々がやってきて「俺の水をどうしてくれるんだ」となってしまうわけだが、河川の水量を変化させないのであれば、天が与えてくれた無償のエネルギー源の使い方としてはとても優れていると思う訳だ。以前から言ってはいるが、愛知用水などは知多半島にひたすら水を送っているだけであって、あれだけの資源を使わずにほったらかすという発想はどこから来るのだろうか。脱石油の意味合いは単に温暖化だけではない。プラスチックだって元は石油だし、それらが地球をどれだけ汚しているか。便利の為の電気だが、ちょこっとその在り方を考えてみたい。
乃木大将
何と、お仕事の場は、ここまでの旅で終わりではないのだ。JR原宿駅を出て、ちょっと素敵な原宿駅をしげしげと眺める。竹の子族なる軍団がTVを賑わせたころ、小生は既にガマの油を売っていたわけだが(虚言)、まぁ、そんな賑わいがあったのだろうなと感じながら地下鉄千代田線に乗り換える。その前に表参道の想い出を一つ。今のiOSの前進にNewton OSというのがあって、それが搭載された端末を扱うお店が新宿にあった。それが無くなりしばらくすると、妖しいグッズを販売する店に生まれ変わり表参道にA社として復活した。そこを眺めに行った記憶が20年くらい前にある。その程度の記憶のみであるが、取り敢えずある。
JR原宿から地下鉄へは、屋根を繋げたら?というくらいの距離である。潜っていくと千代田線に遭遇する。原宿駅から表参道の下を潜り、直ぐに表参道駅に着く。地下鉄であるから車窓もなにもあったものではない。暗闇と眩しさの繰り返しだ。表参道を過ぎ、線路が地上の道路に沿って無理やり曲がっていることを感じさせる車輪の軋みが無くなるころに目的地の乃木坂に着く。
乃木大将と「言葉で出会った」のは母が念仏の如くに唱えていた「乃木大将とは会見の処はいずこスイシエイ」という文言であり、次は漱石先生の「こころ」の一節である。母から刷り込まれた像と漱石先生から伝わる像とはかなり違ったものがあり、今も残るお屋敷を訪ねた記憶がある。その記憶をトレースして見学をさせて頂いた。母からの刷り込みとも漱石先生からの訴えとも異なる実感を得る。色即是空というものだ。自らの心の描きようである。物事は須らくそのようなものであろう。東京のど真ん中に保存された遺構が末永く伝えらるよう切に願のだが、見かける観光客は外国の方々ばかりである。国の行く末を見るようである。
お仕事の場はそこから5,6分のところである。六本木ヒルズに見下ろされるその地で、日本中の大学の改革が語られるわけだが、綺麗に飾り付けられたその向こうには一体、どんな現場があったのだろうかと、末端の人間の一人として不安になった。一週間前の旅のお話なのだが、なんと今週も同様に東京に居る。旅日記はしばらくは良かろう。しかし、旅は思考を加速させてくれる。その効能は絶大である。見分を広げるには書物と旅の両方が必要だ。これからも旅をしなければならぬ。そう思う。
ビール工場はいずこへ?
五反田で旅が終わるのではなく、実は続きがあるのだ。五反田から山手線外回りに乗り換えて原宿を目指す。実は品川から神田を除く山手線の駅は、近年殆ど使わない。そもそも人口密度最大の山手線には乗りたくないのだ。大嫌いだ。あんまり言うと怒られるのでこのへんで止めておくが、兎に角、人口密集状態は嫌いなのである。たまたま土曜日の早朝であったことから、何と、普通にがら空きで着座して車窓を眺めた。着座して車窓を眺めらるくらいに人が乗っていなかったのだ。こんな東京もあるのだなと、トワイライトゾーンにでも陥ったのかと思った。
五反田を出ると殺風景なビル群の向こうに一瞬、目蒲線が見える。小生が見る車窓は山手線の内側ではない。崖が見える外側である。そこに旅情がある。ビール工場が無くなった内側には用は無いのだ。目黒駅は正に崖の上で、その昔は富士山が見えたそうだが、今はビルの壁しか見えない。もっとも、富士山を見るためには開削された丘の上に出ないといけないので、降車しないといけない。行人坂からは今も富士が見える。まぁ、富士山などは筑波の平野からだって見えるわけだから、東京からなら猶更だろう。
埼京線という図々しい名称の車線が出来てしまった為に、目黒と恵比寿の車窓が随分と変わった。最早、地方在住者には魔窟としか見えない景色である。風情もへったくれもない。貨物の引き込み線があったビール工場はガーデンプレイスタワーなどとコンクリートの墓標に代わり、人の営みなど何処にも感じない。当時、歌にもなったアメリカ橋だって、どれがどれだか分からない。恵比寿駅周辺の変貌ぶりには呆れかえる。余りにも醜い。
恵比寿から渋谷の区間は案外好みである。昔からごちゃごちゃしていたので変わりようがないということかもしれないが、小生の目にはそんなに変わっていないと映る。あくまでも外側の話だ。内側は見ないことにする。随分と長い事工事をしている渋谷を抜けると、朽ち果てた様に見える代々木体育館の屋根を見ながら、どんな最終形態になるのか想像もつかない原宿駅に着く。皇室駅舎は勿論の事、神宮への降車場も激しく工事をしていて一体どうなるのやらと思いながら降車する。
段丘崖を抜けて
御嶽山駅くらいまでが恐らくは下町と言って良い領域なのだと思う。ここを過ぎて行くとぐぐっと右に曲がっていくのだが、その昔は「東調布」と呼ばれた場所であって、言ってみれば僻地ということですな。ただ、国分寺崖線の上の方だったんだろうなと思うのは鵜木大塚古墳という6世紀の古墳があるくらいだから、多摩川が氾濫してもここには水がこなかったという証であって、山の手なんだろうなと感じる。ちょっとリッチなイメージのある雪谷に着く。正式名称は雪が谷大塚駅だ。
例によって今昔マップのお世話になると、多摩川河口の河岸段丘の上であるのは間違い無さそうだ。民家は益々密集し世田谷区桜新町を水源とする呑川を越えたと思うと石川台駅に着く。この辺りは山の手を開削して走っているので、景色はアマゾン感である。薄暗い開渠を進み洗足駅に着く。言わずと知れた日蓮さんが足を洗ったということから謂れている地名である。その昔、足を洗った場所というくらいだから直径数メートルのくぼ地かなくらいに思って行ったら大海の如し(かなり大袈裟)で驚いた記憶がある。実は平安時代には千束という地名であって、伝説で洗足となったらしい。
この辺りからはマンション群が目立ち始め、景色も山手線の車窓とあまり変わらなくなってくる。環状七号線の手前で長原を過ぎると車窓は一気にコンクリートジャングル化して旗の台に着く。大井町線とクロスしていて乗降客はかなり激しい。この辺りはその昔(今も)荏原と呼ばれていた領域になり、戦後に伯父の住居があったことからかすかな記憶がある。記憶が残っていることを覚えている程度なのだが、ビルなどは一切なかったと記憶している。50年も前だから当たり前か。
荏原中延を過ぎ高校の同級生が住む戸越銀座辺りになると、もう、カオス状態の街並みである。パリとは大違いの「なんでも有り」の街並みにはあきれ返る。これが日本なのだなと実感する。平均速度はどんどん落ちて来て大崎広小路を過ぎると環状六号線を超えて、五反田にソフトランディングとなる。蒲田から26分の旅であるが「土地勘がある」と素敵な旅路である。蒲田に立ち寄ることがあれば(誰にも無いな・・)一度で良いので経験して頂きたい旅程である。
御嶽山駅まで
だらだらと進むと言うと、新型車両に怒られてしまうが、何しろぐにゃぐにゃと曲がりながら、家々を縫って地上を進む線路だから仕方がない。今昔マップによれば(こればっかり)1927年~1939年の間には既に五反田まで線路が伸びている。それだけ住宅が広がっていたということだろう。明治の御代の東京の発展がこんなところにも見受けられるわけだ。池上電気鉄道と、最初から電気と名前に着いているところが、電気を街に、そして家庭に引いていくというエネルギー大量輸送と消費時代が始まっていることがわかる。
多摩川との間には目蒲線も走っていて、池上の隣の千鳥町駅の近くには目蒲線下丸子駅もあり、この時代の街の発展が窺われる。この下丸子には蓮光院という、新田家にまつわるお寺があるのだが、そこに武家屋敷門が移築され、大名屋敷の雰囲気を醸し出している。5万石程度の武家屋敷門は案外残っておらず、貴重な遺構と眺めに行った記憶がある。乗降客は多く、驚かされる。千鳥町には徳川家康が、国分寺崖線以南の、今の大田区に田畑を作るために作らせた六郷用水跡地がある。再現された用水路があり、緩やかな流れが土地の平坦さを表しているなと、江戸の人口爆発を支えるには、やはり、地元で食料生産が必須であると考えた為政者の正しさを物語る。人が減るなら海の外からと短絡するリーダーとはえらい違いだ。
珍しい直線区間を過ぎると久が原駅に着く。久が原とは延々と森林が続く「木の原」の意味だそうで、江戸時代から久ケ原と呼ばれていたそうだ。久が原には申し訳ないのだが、何の思い出も無い。車窓を真剣に眺めてみたのだが、ただただ民家の間を縫っていくばかりである。こんな書き方をすると民家の森に鉄道を通した様に思われるかもしれないが、真逆である。民家が線路に迫ってきただけなのだ。久が原を出ると東海道新幹線を跨ぐ御嶽山駅に着く。
御嶽山と言えば研究室的には木曽福島駅という事になってしまうのだが、東京で御嶽山と言えばこの地になる。御嶽山の駅の南には御嶽山信仰拠点である御嶽神社がある。この地から御嶽山が見えたとは思えないので、調べてみると、江戸時代に御岳山信仰が流行り、その流れで寄進された社殿がどんどんと成長したものらしい。その拠点として駅名にもなっているようだ。人の想いが地名になり、そして駅名になって残っていくというのは素晴らしい。この駅は新幹線から見るとガードになっているのだが、新幹線でぐぐぐっとコーナーを曲がり、多摩川を超え目蒲線を超え、次のガードがこの場所なので、毎週のように眺めている。新幹線の線路を上から見る楽しさを味わった、これも旅情である。
池上線から
下町か山の手か、どっちだと言われれば、そこは間違いなく下町である。国分寺崖線を多摩川が作り上げたその土砂を堆積させて出来たような土地であって、一般的には下町とも呼んでくれないようなところではあるが、明治以降の下町と言うことで良いのではないか。ひょんなことからと言う訳ではないのだが、お江戸にお仕事に出た際に、とある下町横断鉄道に乗ってみたお話をしてみようと思う。
今昔マップのお世話になって、蒲田駅周辺の明治の時代と現状とを比較してみると、東海道本線は通っているものの、池上線は影も形もない。1917年~1924年の範囲を見てみると、蒲田から池上まで引かれていて、そのタイミングで池上の競馬場が失われている。この頃には蒲田の周辺は市街地化しているようだ。下町横断鉄道とは池上線のことだ。調べてみると蒲田から池上本門寺への参詣輸送の為1922年に開業されている。なんと10月6日開業ということだそうだ。知らなんだ・・
蒲田という街には、JRを筆頭に京浜急行の蒲田駅もある。東急線が目蒲線と池上線なのだが、今は呼び方が変わっている雰囲気だが、小生にとっては「あまがえる」時代の池上線で馴染んでいるので、それを踏襲する。西口に回って3両編成、ワンマンの池上線に乗ってみる。ちなみに、JR蒲田駅からちょっと行くと京浜東北線の電車区があって、鉄ちゃん的には憧れの地である。砂の器という映画があったが、この地での殺人事件が映画の出だしとなっている。島根県の亀嵩がやたらと記憶に残った想い出がある。
新型車両の池上線が軽快に蒲田駅から滑り出すのだが、スピードは決して速くはない。蒲田から品川経由で五反田に行くのに16分、池上線で26分だ。まぁ、10分早起きすれば良いだけだから問題はない。あっという間に蓮沼駅に着く。扇状地故のハスの群生する沼地だったそうで、それで蓮沼駅だそうだ。家々の谷間を進み創業駅の池上駅に着く。池上と言えば本門寺だが、小生的には力道山のお墓があるくらいのところで、日蓮さんが入寂されたところというのは、まぁ、そういうところなんだなというくらいだ。その日もかなりの方がそれなりのいで立ちで降りていかれたから、今日も信心篤い方には聖地駅なのであろう。ちっとも話が進まないが、今週はこんな感じで、目的地までをだらだらと語ってみたい。