良いものは高価で良い

様々な電脳グッズが海外ではあるものの、日本では発売すらされない。まぁ、市場的に小さいからということもあるが、先進的遊び道具に触れられないのは寂しい気がする。血圧計などは旧態依然の企業を護るだけのものしか見かけないが、海外では様々なツールが登場し、医療認可を受けている。許認可制度というもにに全面的に反対するわけでは無いが、法と既得権益に満ち溢れた日本に未来はなさそうだなとは、正直に思う。

夏休みなるものを取得できることから、一日、お休みを頂いている。月曜日に出勤したのだから、まぁ、許して頂こう。それなりにお仕事をしているのでご勘弁をというところだ。こんなところは、少しは環境が良くなっていると感じる。懸命に働くだけの日本人から、英気を養う時間を持てるようになってきたということかもしれない。しれないが、毎日、悩みは尽きないけどね。悩みも既得権益になっているのかもしれない。ちっとも益では無いけどね。

久し振りに電気屋さんで掃除機コーナーを眺めた。所謂、充電器タイプが華やかですな。金額的にはダイソンを筆頭に、かなりの金額のものが並んでいる。金額が高ければ良いのかどうかは分からないが、生活スタイルに合わせたものが選べるようになってきていて素晴らしい。重厚長大なものは、ワンルームマンションには不要だ。細く、軽く、気が向いたときにさっと使えるのが良い。掃除機は日本においても良いものを選択できそうだ。

水素水製造機なんてものが15万円の価格で販売されているのを見て驚いた。妖しい宗教グッズかと思いきや、売れていることにも驚きだし、その価格にも驚かされる。良いものは高価で良い。それで良いのだ。何でもかんでも安く買えてはいけない。水素水製造機を購入しようとはさらさら思わないが、本当に良いものを長く大切に使いたい。しみじみ思う。それで良いのだ。日本の原点はそこから外してはいけない。私はそう思う。

文藝春秋にて

本当なのですか?とマスコミの報道を鵜呑みにする人は居ないとは思うのだが、なんともニュースというものは人の目を引くものである。だからニュースなのだと言われてしまうと、それはそうですねと納得するしかない。今更のニュースで文藝春秋誌の「地震で原子炉は壊れていた」という記事だ。恐らく、政治家は何も言わず、これ以上の議論は無いとは思うが。

地震で壊れてしまうのであれば、万里の長城など無用のゴミであって、無駄なお金と時間を掛けて、国民へのアピールのため政治家とグルでやったショーだったのですかと問いかけたくなる。地震動によって炉心が異常となるのであれば、最早、原発の存続はあり得ない。直ちに全原子炉は廃炉とならねばならぬ。

ただ、これは雑誌の記事であるから真実では無い。いや、考え方の選択肢にはなるだろう。これは否定しない。確かにそれはあり得ても不思議ではない。というか、天地の鳴動に人間ごときが勝てる筈はないので、揺れて壊れてしまったというのは、むしろ、説得力がある選択肢とは思う。

津波の高さがうんぬんと、いろんな学者がシミュレーションモデルでえらそげに語ってきたが、本質は別のところにありますよと、そんな記事だからおやっと思った次第である。真実はどこにあるのか。化石燃料がほぼ無いと言っても良い日本。そろそろ本気で脱原発を考えても良いのかも。そんな気がする。

あの夜

三途の川のほとりまでくると、いろいろと思い出すことがあるそうだ。毎日毎日、35℃というラインを超える気温なのだが、暑いことが想い出として蘇った。それは夜の事である。四畳の下宿に戻り、久しぶりに横になって眠ろうとした夜だ。寝ようと努力したことまで覚えている。それが暑いのだ。いや、熱いという漢字を使っても良いくらいの夜であった。

寝苦しいとか、そんなものではない。暑いのだ。兎に角、空気が重くのしかかるのだ。扇風機は熱風を送りつけてくる。干物でも作るわけでもなし、扇風機すら使えないのだ。窓を開け放っていても空気は寸分も動かない。静寂なのである。揺れるものは何もなく、全てが静止しているのだ。

ブリキの屋根の貧しい長屋で、焼けた天井からも容赦なく熱波は襲い掛かる。オーブンの中より熱いのではないかと、そう思った。冷蔵庫を開けて抱きかかえても空しいばかりである。眠れない、全く眠れない。と、言うか、ひたすらに溢れ続ける汗に、そんな気持ちはおこらない。暑いのだ。

将来がどうなるとか、クーラーを持てる身分になろうとか、そんなことは何も思わなかった。きっと思わなかったに違いない。貧乏学生とはそんなもんだ。パンの耳をかじって本を読んだ。そんな学生にはお似合いの夜であった。灼熱の毎日。でも、あの夜の方が暑かったと、今でも思っている。

お盆

お盆休みということで、少しは骨休みになる。精神と肉体を支えているのは骨格であり、その体の大黒柱を休めるから骨休みとでも言うのかと調べてみたが、見掛け倒しの単なる休息くらいの意味しか与えてくれない。所詮、ネットの情報とはそんなものだろう。期待しているわけでは無いから、まぁ、ほったらかす。

ご先祖様との対話期間がお盆であって、諸説あるわけだが、出雲大社にしろ伊勢神宮にしろ、大きな盆に食事を盛ってお供えしているのだから、お盆という言葉の由来はなんとなく日本人ならわかるであろう。そんな高尚なことはできず、単に、溜まった仕事を一つ一つ手当をしている期間となってしまっているところがなんとなく寂しいわけだ。

折口信夫の古代研究を読み返して、『そしる』という言葉の由来がお盆と関係することにちょこっと驚いたのでここに記す。そもそも死者の世界からやってくるモノとの会話は「ささやく」ことで他人に聞かれぬようにすることが求められる。あちらの方からの宣託も同様で、一人の人にしか聞こえない。そのような発声を『そしる』と言ったそうで、元来はささやくという意味しかなかった。

それがいつの間にか自らの過ちや人の手落ちの誹謗中傷などを『ささやく』ようになったので、いつのまにか『そしる』がその意味だけになってしまったと述べている。国文学の創始者の一人の研究成果であるから真に受けて良いと考える。こんな暢気な読書が出来るのもお盆のお陰である。魂の骨休めであってこの時くらいは自分の為に時間を使っても良かろうと勝手に思う灼熱のお盆である。

胃カメラ

丁度一週間前に胃カメラを飲んだ。胃カメラというくらいだから、カメラを飲んでいるのだなと思って、いろいろと聞かせて頂くと、実際に、飲み込んでいる部分の先端にカメラ要素が詰まっていて、拷問を与えるワイヤ部分は信号伝達だとか、先端を曲げるハーネスだとか、所謂信号伝達部なのだそうだ。成る程、それで胃カメラを飲むという言葉が使われるのだなと感心した。

例年、最も太い、厳しい胃カメラであったのだが、昨年、素晴らしい進化があったそうで、昨年よりも能力が高い機械が、去年までの鼻から挿入できる程度の太さまで絞り込まれ、今年の検査は随分と楽であった。喉の麻酔もスプレー式になり、この1年でどれだけの進化があったのだろうかと喜ばしく感じた。

胃カメラを最初に飲んだのは例の事件の時であるが、分解バラバラ寸前までになって胃カメラも無かろうとは思うのだが、まぁ、その時が最初でしたよ。その後、人間ドックで「癌かもね?」みたいなことを平然と言われ、鉗子でなんともない胃壁に穴を開けられ、吹き出す血潮を見せられてうげぇっとなったり、回頭の際にエイリアン誕生状態をやられて胃カメラを加えたまま胃液が逆流し、窒息しそうになったりと、まぁ、胃カメラはろくなことがない。

今年度の検査では過去に無いほどに綺麗ですねと、若干の酒量を減らした効果がきちんとでた。と、言うことは、昨年度程度の酒量は確保しても良いのだなと、勝手に思って愉快になった。バリウムでは再検査組になってしまい、結局、胃カメラになるので、これからも胃検診は胃カメラであろう。来年はもっと細くなっていてくれないかなと期待した、今年の人間ドックでありました。お盆休み中は不定期更新にご容赦を。

平和業界?

どうやったら儲かるか、それを考え続ける人達がいらっしゃるわけですが、世の中の仕組みがSNS業界と新製造業を中心に回り始めると、それまで実社会で食ってきた人達ってどうなるのかなと真剣に考えるわけです。農業という基本的なところはどうなのだろうと考えると、植物的農業はしばらくは効率向上位に変革が留まるのかなと思うわけですが、漁業などは獲るものが居なくなってしまったくらいのことが起こるのかもしれない。

科学館の絶滅動物の世界を拝見したが、その多くが人間由来の絶滅であることに目を覆う。人間の征服欲が地球上の、全く罪のない生き物たちをせん滅し、種族を絶えさせる。これからも恐らく、そんな種が山ほどあって、どこまで人間が種として存続するのか分からない。永遠なんてあり得なくて、案外、短いのではと思ったりもする。

1700年代以降の絶滅種だけでも相当の数なのですね。記録に残っているだけでもかなりの数なのだから、人知れずなんて生き物が沢山いらっしゃるに違いない。戦争なんてものは人間同士の絶滅競争ですからね。決して褒められたものではない。そのはずなのだが、他人が悪いの一点張りで議論にならない現代国家社会である。

人々がそれぞれに尊敬しあって、大切にしあって生きていけるはずである。エゴがあって他を排斥し、強いものにこびへつらう。そうしないと生きていけない社会は間違っている。残念ながら平和業界が無いのがいけないのかもしれない。一方で、本当に平和になったら国家間のモノの動きが活発になり、元をただせば平和業界が存在しうるということになるのかもしれないなと、さっさとそんな世の中にならないかなぁと、ちょっとは人類にも明るい未来が欲しいなと、願ってしまう私であります。

見えない業界

自動車の場合、内燃機関業界がモーター業界に変化するという単純なことでは無い。IoTの権化として、電動スクーターなどと共に加速的に変化していくものだ。そうではあるのだが、自動車販売店が街中で増殖しているのをみていると、やっぱりこの国には自動車しか儲かる業態が無いのだなと、これはため息が出る。

確かに、自動車ほど関わる人が多く、日銭を稼げる仕組みになっているものはない。航空機など些末なものであって、自動車業界から航空機業界へと政府のお役人様は仰るが、そんな暢気なものではない。町工場という概念そのものがでんぐり返る世界市場であって、働き方改革どころか、働き方崩壊くらいの社会変革がどんどん起こっていることを見逃してはならない。

印刷業界など、つい先日までは紙とインクで絶滅危惧種ということだったが、今や、人工臓器製造まで見事にこなす神の領域サイドの業界になり始めている。それはそうだろう。人間がピペットを持って実現できるのだから、それをより高速に、正確に、そして無酸素などの環境でも無慈悲なまでに正確に動き続ける精密機械である。見事なロボットである。

印刷業という名称は、大きく、製造業という名称が与えられるべき程に、その実現可能性が秒の単位で進化している。最早誰も把握できないのではと感じている。ちょっと前までこの程度だったのに、今日はここまで進化しましたとばかりに、新しいネタが出てくる。感動する業界である。

業界改変

実社会でリアルに戦っていらっしゃる方とお話が出来た。ちょっとまえまで自動車業界と言われていた世界の方だが、兎に角儲からない業界になったと。即ち、既に「業」では無くなっているということだ。どれだけ売っても儲けが末端まで回らない。これは業界崩壊ということであって、そちらの業界ばっかりにしかチャンネルが無い方は、既にご退場と言うことだ。

某国が、売れる領域に踏み込んできて、やたらと作って価格破壊をする。儲からなくなるとそこから逃げる。残るのは安い値段設定だけで、それだけが世界に残る業態になっているとのこと。もうやめて欲しいと叫んでいらっしゃったが、その動きは様々な業界を崩壊させていくのでしょう。

とは言うものの、新しい世界も生まれるわけで、スズキ自動車殿などは、随分前からヒマラヤで電気自動車のテストをしていたりする。当然、自動化ということになるが、我が国の様にスマートシティから作ってなどと悠長なことは言わない。石ころだらけで、いつ、地形が変化しないとも限らないところで安全に走行する技術こそ、真の自動運転であり、それを実現しようと挑戦しているところに感動である。

過酷な環境こそ工業を発展させるものであり、いつの間にか安楽椅子にしか座れなくなっている日本業界は、既に崩壊しているということなのかもしれない。繰り返し何度でも言うが、挑戦する事を許さない社会は腐敗するしかないのだ。挑戦者を讃えることが重要であって、負け惜しみで馬鹿呼ばわりするこの国の未来は真っ暗だ。その真逆に行きたい。それだけのことだ。

仮想空間の業界

通信機器業界とか携帯電話、所謂スマートフォン業界だが、社会に影響を及ぼす大きさを考えればSNS業界と言うべきだ。フェイクニュースで政治的力を発揮し、国の行く末を変える力も持つ。単なる端末では無い。仮想空間と実社会のインタフェースの地位を確立し、更に経済圏まで持とうとしている。

そもそも現実社会においても貨幣など仮想のモノなのだから、例えばビットコインなどの仮想通貨だって同様に価値を持つ。国境なく、貨幣のやり取りが仮想空間で主力になっていくと、造幣局がどんだけ紙幣を印刷しましたと威張っても、税金を支払えとでかい顔をしても何の役にも立たない。その地球的新国家においては仮想だがリアルな方向性が生み出されて、それがルールになっていくのでしょうね。

これこそ新業態であって、SNS業界と言うことになるのでしょう。まぁ、近年では仮想空間の中でAIがその発言を取り締まるなんてことが始まっていて、今のところ仮想空間だけでターミネーターの世界が始まったなと感じるわけです。仮想空間の中の警察業界なんてのが出てきて、そこに賄賂だなんだなんてことになってくると、一体どうなることやら。

愉快犯は必ず現れて、理想主義者を踏みにじるわけですな。善意の塊でいるとあっという間に悪者にされるのだが、それは実社会でも御同様だから、これまた、まぁ、そんなことだなと諦めるしかないのでしょうね。人間が住む仮想空間だと思っていたら、既にリアルな仮想現実社会が稼働している。これまたため息が出ますな。

教育業界

「売れっ子」予備校講師の給与を見るまでもなく、教育業界はとっくに『業界』となっている。何かを生み出して収益を上げていく仕組みを業態というならば、お金をどうやって儲けるかという点を、子供の将来の保険とすり替えて実行している姿勢に、ある意味、日本の生きる道を見るようだ。

パターン認識で行われてきた大学受験を突破するために、パブロフの犬状態に子供を仕上げていく様は見事である。思考はあり得ず、反応や適応性が評価指標となっているわけだから、その訓練にお金を掛けて、思想や哲学的学究思考をそぎ落とす、言ってみれば大学入学時にピークを迎え、その後の対応能力など不要だと思う親御さんにとっては、IT機器を活用して、黙々と画面に向かっていてくれる方が手が掛からず、塾等を託児所とする選択肢は間違っていなかろう。

昨日、学会の理科教室というイベントに参加したわけだが、まさに託児所然とする様子に眩暈がした。鋏を持った瞬間に、こんなの一番嫌いだと叫び、床に転がる、ゲームじゃないの?と噛みついてくるその様に、日本の現状と近未来の惨劇を見る様であった。勿論、そうでない子も居るが、当然のことながら、一人の悪態に引っ張られる様に、申し訳ないという気持ちが起こりながら、面倒を見ないといけない状況に疑問を抱く。7倍の倍率で当選した子達だぞ・・・

学会員が拠出して頂いている会費から活動経費が出ているわけで、税金投入の慈善事業では無いのだ。将来の理科好き人間を一人でも増やす確率を上げる活動である。このあたりが難しい。誰でも参加して良いと言い続けるのか、事前試験をやるコストも掛けられず、親の気持ちもわからなくは無い。無いのだが、託児所と考える親も居るのは事実であり、親の都合と気持ちは違うぞと言っては見たいが、言った途端にとんでもないことが起こるのは明白だ。教育業界の現状の一端に参加し、得も言われぬ不安を抱いた。