広田先生

何も考えてはいないのだが、廣田先生(広田先生でも可)がこう言いましたよねと語りかけて、頷いた方がゼロであって、それで良いのだ。まぁ、そうでしょう。それで良いです。戯言ですもの。これが面白いのだ。小生も生きている、いや、そうでは無いかもしれないのだが、生きていたとして、次に繋がる、何かを思っているのかもしれないと、情けないことに思っている。広田先生って一体何者と仰るのであれば、もうちょっとだけでも良いから、文学と戯れては如何か?

これは愉快なのだ。今を認めて欲しいと、未来の有り様に過去の連続を期待していない、いや、フォアキャスティングの未来は止めてくださいと散々言っているのに、昨日までの実績がこれだけあるから雇用するべきだと叫んでいたくのだが、全く響かない。いや、だから、未来は貴方によってどれだけ世界が変わるのかを、一言仰って頂けませんか?それを価値化出来ないお企業がどんどん無くなっている。それはそうでしょう。で、だからなんだ。

昨日、とある会話のやり取りで、土日が無い、当たり前だとリズムに乗って表現したのだが、それは当然のことである。何故か?無限に働けと言う意味ではない。気づきは常にある。それを放棄されるのであれば、残念ながら、明日のポジションは無い。こんな事を明示すると、厳しいとか、きついとか散々仰られるわけだが、ほんの瞬間において、新しい思考すら止めて良いというのであれば、もう、日本は無い。間違いなく無い。土日に何が出来ますか?追い立てられる思考からはずれて、新しい事を瞬間、イメージできませんか?その瞬間すら嫌なんですか?

何か、勘違いをしていらっしゃいませんか?こんなことをやってきたから、私は能力があるのだと。過去の経験が生む価値観に自らを縛るのですか。ほう、その価値観は誰を幸せにしますか?100万年前の方ですか、そうですか、そうですよね。それが今の日本であり、中京圏である。貴方の価値観は素晴らしい。タイムマシンに乗れるのならば。それだけである。

旧態依然

雷が鳴って3日経っても梅雨が明けないのが今年の傾向。ただ、梅雨末期にどうしようも無いくらいに土砂降りになって、日本中を混乱に落とし入れるというのは、やっぱり梅雨らしいなと感じるわけです。何処に居ても災害に巻き込まれない可能性は無く、タワーマンションすら雨に負ける今日この頃であるわけで、誰にも平等の自然らしさを憎むわけにはいかず、人間が勝手に作った街の、自然への弱さを何とかしようと考えるしか無いわけです。

日本人はどんな自然災害も克服して、そして復旧するわけですよ。もしも、戻さなかったどうなるのかと言いたいわけだ。コロナ禍で在宅勤務状態となっているオフィスを、もう直ぐ戻しますとTVの中の偉そうな方が語っていらっしゃるのを聞いて、耳を疑いましたね。何ですかその考え方は?何故、戻すのですか?定常状態が変化しているのに、何故、復「旧」なのであって、革「新」では無いのでしょう。

そりゃぁ、明日から主食を小麦粉にしろと言われたら米に戻すと大騒ぎをするとは思いますが、活動状況が本の少し国際標準に近づいたというのに、旧態依然に戻してしまう日本の悲しさ。いや、全ての企業が戻るわけではないでしょうけれど、そんなところがあるのだなと、なんだか情けなくなったわけですよ。会議にしても、オンラインですらまどろっこしくて、じっくり考えて答えを出して、議長に裁定を仰ぐというオフラインで、バラバラに返事をする会議があっても良いわけです。一気に決を取らないといけないのか?

もう良いのではないかと思うのです。がらっと変わってしまっても。それこそ狭い日本であれやこれや叩きあって競いあって我先へと行こうとするのですが、独自路線で生き抜くというベクトルがあっても良いでしょう。勿論、我儘勝手を許せということでは無いですよ。政治的に異なる主張を持つ人種を抹殺しまくって、今更、国立博物館を作ったりしてね。世界に先んじるオリジナルに挑戦しない日本は、まぁ、廣田先生曰くの「滅びるね」だと感じている。それでもあがいて新しいことをしようとはしますけどね。どうなりますやら。

遥かなる新商品

家電製品の広告を見るのが好きである。広告と言っても新商品のプレ発表なのだが、こんなかゆいところに手が届くようになりましたというのが妙に面白いのだ。これも出来てあれも出来てという商品が減ってきたのはここ数年であろうか。むしろ、何かをやらせたら今までにない最高のものだという触れ込みが愉快である。小さくなって簡単になって、デザインも可愛いとうのは当然なのだが、調理時間を減らせますとか、朝の時間を節約できますとか、まぁ、そういった類のものが愉快だ。数ヶ月もするとそれを上回るものが出てきて、これまた愉快だ。

ここ3ヶ月くらいでは、「ストック出来る冷蔵庫」が主戦場で、各社、スター商品を並べているのだが、キッチンフレンドリーな小生とすれば、そんなもの学生の頃からコンセプトとしてはあったぞと、まぁ、省エネにはなっているのだろうが、初めて出てきましたみたいな広告を見ると、王道の商品展開って広告業界では厳しい分野なのかなと想ってしまう。本当に良いモノであっても、時流に合わないと売れないのだなと、改めて学びがあるのだ。それが実に面白い。どんなに良くても売れないのだ。それが世の中だ。

性懲りも無く出てくる挽きたて、淹れたてのコーヒーメーカーなど、ストッカーが着いている時点で駄目だろうと思いながら、コクだのなんだのの謳い文句が面白くて、ついつい隅々まで眺めてしまうのだ。ニトリに行けばどどんと新生活を始められてしまうわけだが、結局の所、スーパーシェフというわけではないのだから、家の中に中途半端に賢い道具を並べるよりも、新鮮な野菜などを売っている店が近くにあるほうがよっぽど都合が良いことに、多くの人が気がついているはずだ。働き方改革の基本は健康的な生活の筈だが、街と人のあり方から見直せば、家電はがらっと変わるだろうにと思う。

スマート家電が出てきて久しいが、それとて、一日中、家に居て仕事をする人間の行動様式がインプットされているわけではない。こんな事になっていたら便利なのにと思うのだが、旧式人間故に、歩き回って解決してしまう。この、歩き回って解決するということを肩代わりしてくれるだけなら、そんなものは要らない。思いもよらない便利さを提供してくれるのであれば使ってみるのも面白いかなと思うのだが、生きている間にそんなものに出会えるのかどうか。そんなことを考えながら、やっぱり数カ月後の新商品展開に興味を持ってしまうのでありました。

アナログからデジタルへ

昨日16時発表のコロナウイルス感染者数において、東京都は224人であったと報道があった。厚生労働大臣は「医療体制はひっ迫していない」と宣言されたが、医療体制が無限にあったら、罹患者を無限に増やすおつもりなのだろうか。都知事と内閣との意思の不一致は、まぁ、ご当人たちは同じことを言っているとしているのだが、とても同じとは思えないのだ。愛知県においては感染拡大中という状況では無いが、公共交通機関は繋がっているわけだし、気持ちが悪いのは事実である。

中京圏を通り越して、関東圏、関西圏で目立って増えてきていて、中京圏の数字がそれらと全く異なるのを見て、ファッションの流行を見るようで面白いなと思っている次第である。ファッショントレンドは、東京、大阪、福岡を見て決めているのであって、愛知は入っていないのだ。最初期ののぞみ号は名古屋駅に停車しなかったのだが、それって案外、正しかったのではないのかと、今回のコロナ禍状況を見ても思うのだ。今回はそれが安全方向に振れていて有難いわけだが。

緊急事態宣言を出せる経済状況では無いのは明らかだが、そうであっても、科学的にウイルスの毒性がこの程度だからだとか、定量的に語経済再生大臣は語るべきであって、30代がメインだから重篤にならないからと、どこぞの大統領の様なコメントを繰り返すのは如何であろうか。布マスクのウイルス停止能力は全くないという学術的データは全く紹介されないわけで、マスコミの政府寄りで全てをブラックボックスに閉じ込める風潮は変わらないなと感じる。

恐ろしがってはいけない。しかし、恐怖が去ったら元に戻るのだという思考はいかん。世界から圧倒的に遅れているデジタル化のウルトラ加速は当然だし、環境対応で自動車の在り方も変わったのだから、部品も、その素材や加工精度もまるで変っていく。その内に図面がやってくるだろうなどというのは大間違い。大学も御同様。事業性評価という定規で測られる状況にある。圧倒的魅力をもった講義コンテンツで、離島や海外の学生に卒業証書を出せる仕組みだって必要かもしれない。背伸びをし過ぎてはいけないが、将来性への融資が成されているか、厳しく評価される。リアルが名古屋飛ばしをするのであれば、ネット社会では名古屋だということであっても良いのではないか。そう思う。

地球って

地球が活動しているなと、大雨、地震、噴火などのニュースを見ると、不謹慎では有りますが、なんだか、有り難い気がするのです。自然のやることだから、人間なんぞがどうのこうの叫んでもどうしようもないわけですな。この妙な安心感を何故抱くかと言えば、小生の親父がハワイの噴火のニュースをみて、その内に地球は冷えて冷たくなると独り言を言ったことが耳に残っているからなんですよ。小さい頃の親の一言がどれだけ人生に影響を与えるかという事例だと思うのです。

いろんな理由で地球内部のコア周辺に揺らぎが出来て、一説によれば巨大な隕石の衝突がトリガーなんて言われていますが、マグマが大量に吹き出して陸地を作ったみたいな話があります。捕獲岩という溶岩が冷えて出来る花崗岩に、噴火の際に地中からカンラン岩などを引き連れて地上に出てきて見出されると「捕獲岩だ」となるわけですよ。それが甲武信岳の山梨側で沢山見られるわけですが、2千数百メートルの高山でそんなものを見つけると、造山運動って凄いなぁと思うわけです。地球は生きているなって。

でも、冷えた岩石なもんだから、地球が冷えてしまうという恐怖の暗示が湧き上がってきて、妙に恐ろしくなってしまうのです。しかし、溶岩の噴出は今もじゃんじゃか続いているし、巨大地震だって終わらない。ということは、マントルの対流がちゃんと続いているということだ。そして、液体金属?であるコアの回転で磁場が発生しているところをみると、やっぱり地球の真ん中は熱いのだなって有り難く思うのです。

地殻表面から、太陽によって暖められたことに起因する電磁波が宇宙に向かって放出されているわけで、それを炭酸ガスなどが吸収して、再放出を地球と宇宙に向けて成すわけで、地殻に向かって放出される成分が温暖化に寄与するわけですな。どえらいエネルギーを与えてくれる太陽には無限の感謝をするわけですが、その結果、人類の活動にとって甚大な被害を及ぼす環境を作り出してしまっている。地球は生きているわけで、その生き物に狼藉を働けばしっぺ返しが必ず来る。やっぱり地球は生きているなと、なんとも弱い人間の有様を見て、なんとかせねばと思う今日この頃です。

明日は?

国民から30%以上の賛同を得ている政権のやることに、意義など、生ごみが臭いと、その生ごみに集うカラスに文句を言うようなものだ。何も言いません。だって、全ての方々が正しいと仰るのだから。疲れ果てて駅のコンビニで、何かを買おうかなと思って立ち寄ってみたら、「驚いたぜ、選挙に行く奴が居るんだな」と、都知事選挙を傍観される方の、なんとも自由な発想に出会った。

成る程、そうか、何があっても世の中は変わらないという意識を通り越して、選挙という「ホリデー」を満喫する国民と政治家との関係になっていたのかと、何ということか、国政が国の方向性を決めるのだなどと、熱く、ベクトルを考えてはいけないのだ。まるで大バカである。耳を傾け、真剣に天下の行く末を想った国民は、ただの「ばか」であったのだ。

愉快である。馬鹿という漢字を分解して、馬と鹿の意味を語って下さったのは、茨城県の双葉からやってこられたS先生であった。おかげで、人の住まうところに文化があるのだと、人間としての本質は教えて頂き、そして、それを継承出来ていることは間違いない。手取り足取りなどという器用な方では無かった。熱い人でも無かった。でも、覚えているのだ。

皆が認める。そんな人は、小生は、所詮、駄目な状況にある方だと思う。駄目で、大バカで、でも、ちょっと立ち止まって考えてみて下さい。自分の意志と異なると認識出来るって、自らの意思が定量的であるし、そして、批判の対象者も具体的であるのだ。全く駄目だという為政者こそ、政治を貫くのが良い。本気で思う。それだけだ。

データ

グラフを見るとじわじわと減っている様に見える。これがグラフという、データの可視化マジックなのだと思う。政府は東京都の「県をまたぐ移動は控えるべき」という意思表示に対して不快感を示し、観戦が広がっているという印象を与えると不快感を表明しているが、具体的数字に対して「大したことはない」ということを平気で言う政府に、何故、マスコミも国民も従うのだろう?

定量的な評価結果を見て、我々は「怖い」か「怖くない」かを決めるわけだ。確かに、昨日も述べたわけだが、一千万人に対して100人だから、まぁ、大したことは無いというのはそうかもしれない。梅雨の末期の豪雨災害よりは大したことは無いのかも知れない。しかしだ、定量的(検査数が少ないという状況において十分では無いが)数値を評価するのは国民、一人一人であって、大臣が云々と解釈論を述べる必要は無い。多いものは多いのだ。

諸外国を見れば一目瞭然。経済に走り、死者が増加する。その有様はデータが示しているわけだ。国内のPCR検査が如何に少ないかも皆知っている。その状況下において、都知事の発言は観戦が広がっている印象を与えると言うのはどうなのだろう。10日前より明らかに広がっているではないか。

定量的データが出てこないから不安になる。デジタルトランスフォーメーションなどと言葉が先行するわけだが、デジタルデータの作り方がいい加減、そして、その解釈もいい加減。論文であれば捏造というレッテルをはられるわけだが、それを威風堂々と展開するのが我が国家である。数字の解釈は、もしもその数字が正しいとすれば、受ける側が考えることであって、「こう考えろ」と脅迫されて解釈するものでは無い。愉快な国である。

災害は忘れる間もなくやってくる

コロナ禍騒動以来、外出がめっきり減った。自主的に減らしていることも勿論だが、冷静に考えてみて、過去数十年に余りにも色んな所に出掛けてきたものだから、何処にも行かなくても良いやとなっている自分が居る。特に苦痛でも無いし、むしろ、ちまちまと調子が悪くなったオーディオ装置にちょっかいを出したり、書籍棚を整理したりと、取っておいたことに着手し始めたという感じがする。東京では連日100人を超える新規感染者数が報道されているが、1千万人が活動した中での100人を多いと見るか少ないと見るか。

東京近傍の知事殿達が、東京との行き来に懸念を抱いていると発表しているが、東京だけのせいにして良いのか?同数程度の人が暮らしていて、お互いが行き来することで経済活動を成立させていたはずだ。PCR検査なる情報収集密度を上げてみればまっとうな評価ができそうだが、どうもこの国にはそんなつもりは無いらしい。暮らしたら負けという国にならなければ良いがと醒めつつある。醒めると言っても何から醒めるのだろうと、白けた自分に苦笑いしながら、街の地域清掃での道路脇の草取りなどをしながら、雑草と呼ばれる植物たちの繁茂の力に感動するのだ。

付加体と地学用語で言われるが、大陸移動の結果、海底のサンゴやプランクトンの死骸、多くのミネラルを含んだ大地からなる日本の太平洋側は、植物にとって極めて発生しやすい土壌であって、その有効活用が食料を得るための一助となる筈なのだが、巨大なプラントで埋め尽くして海外から食料を買えば良いという流れになっているが、コロナ禍やバッタ禍によって、それも何時まで続くやらである。選挙をすれば30%にも満たない投票率で自らの行く末に責任を持つ意志すら無い。この国、大丈夫か?

川が反乱すれば、過去に民主党政権がダム建設を停止したからだと、既に次の選挙を見据えた足の引張が(引っ張り合いでは無い、一方的な扇動である)情報操作としてもたらされるわけだが、地球温暖化が人為的なものだとするならば、これは誰が悪いとか言うべきことではなくて、一人一人が自分の生活様式を換えていくしか無いのだ。過剰な便利を得ようとした結果が、豪雨を発生させて居るだけであって、100年単位で暮らしを考えることを、為政者が放棄した結果である。その為政者を選ぶのは一人一人である。改めて自分に言い聞かせる熊本の災害である。

根本を見ない国

きちんと数字で出てくるものだなというものが、再びのコロナ禍で御座いますな。経済優先の世界情勢であり、科学的定量性のある対処が出来ないこのウイルスに対して、とても勝てそうにないなと感じるところです。東京において100人越えの新規感染が認められたわけですが、この昨日の7月2日というのが定量的に「なるほど」と思った次第でして、完全解除状態となった6月19日から数えて2週間目。2週間で発症しますよという定量数値がきちんと出ている。

夜の店というキーワードが飛んでいますが、本当にそれだけか?スケープゴートと作りたいだけでは無いのか?PCR検査数は東京近郷以外では増えることは無く、地元では100件、隣県では10件程度の検査数で「罹患者ゼロ」と発表して胸を張る。これで良いのか?専門家会議メンバーを突然一掃し、新規に立ち上げて、言いなり機関を作り上げる政府流。まぁ、いつも言うことだけど、国民が選んだ政府だからね。承認しないといけない。

7月に入って、いよいよキャンパス内で来客が本格化し、対面対話が増えてきているが、コロナ禍で余剰人員が大量に出ている、新規仕事を見出したいなどのご相談を頂き始めた。厚生省によれば解雇、雇い止めがコロナ禍を理由とした数が3万件を超えたという。限界まで頑張っても、会社そのものが無くなってしまう状況になっているわけで、これも全ての人に平等にやってくる恐ろしさである。新聞紙面を見れば経済状況の悪化は留まるところが見えないわけで、「今の仕事」にしがみついている限りは明日は無かろう。

東京のみに仕事が集まり、東京のみが住民が増え続ける。地方には空き家が溢れ、放棄耕作地も無限に増大を続ける。隣国が買い叩き、日本の土地や水って他国に占拠させて良いのかと思っていても、なんの法的取り締まりは無く、居住者密度が高いわけだからコロナ禍の抑制が困難になっているのは当たり前。小手先では無く、人の暮らし方、働き方まで突っ込んだ議論は全く出てこない。テクノロジーの活用がイメージされない中、結局、感染者爆発に向かっていくのかなぁと、漠然とした恐ろしさを感じている私であります。

何故?

ゆっくりと瞼を閉じて、そして深く深呼吸してみましょう。背伸びをするなど、とても良いですね。で、呼吸が整ったら、人間とは何かを自問自答してみましょう。南アルブスを貫く穴ボコをほりたいわけだ。それに対して、地下水が枯れると叫びたい人も居る。百年、千年のお話である。工学が立ち入ってはいけない、地球の運動にちょっかいを出すお話なのだが、そもそも論として、そんなに急いで何処に行くのかという問題がおざなりである。

あれだけ叫んだオリンピックでさえ、市場の声は30%は、もはや中止の声を上げる。選手の皆様にとっては、人生を掛けたその一瞬であり、無くなるなど言語道断ということなのだが、小生が生きている間にも、主張の違いで出席できなかった大会が2回ある。その悔しさ、国民も分かち合った。今回は、そんな主義では無い、自然の猛威に全ての金メダルを攫われたというだけだ。そんな時もある。

この、「そんな時もあるのだ」と、多くの民が思考として到達できないのは何故か。自らを尊敬しすぎているということなんでしょうね。自分だけが偉い。共感できる全ての事柄は正しくて、それに反するものは、何が合っても抹殺するという風潮が、小生は嫌だ。私はこう想うという概念を、一見、理路整然と叩くわけだが、演繹的に話を見える化すると、帰納的にもむちゃくちゃな、要するに、自分に意見する者は大嫌いというだけなのだ。

まぁ、それでも良いでしょう。その方にとっては幸せなのだから。でも幸せって何でしょうね?主張が通ること?まるで違う。仕掛けが笑顔になること?そうでもない。今の小生に全く理解できない、真新しい事柄が採用されること。それが宜しい。でかい面をして、過去にしがみついて、現世を否定する思想は捨てれば宜しい。そうなのだが、小生は異端児である。なるほどね。