トリチウム雑感

繰り返しになるのは嫌だけど、トリチウム含有水の海洋投棄はやっぱり気になるのだ。「それしかない、やむを得ない」という我が国政府の常套手段であって、これをやらないと濃度が高いまま福島県に溢れだすんですよ、それでも良いのですかという脅迫であろう圧力で国民に迫る。それが為政者の務めと言う。海外に対しても問題無いと言い張る。

陽子が1個、中性子が2個で質量数3の水素、即ちトリチウムが出来る。空を見上げて「太陽は何故燃えているのだろう」と誰もが思う。太陽程度の質量では重力による収縮で密度が高まり、電子の無い水素、即ち陽子が激しく運動し、陽子同士がトンネル効果で衝突しあい、陽電子β崩壊で、陽電子とニュートリノを放出させ、陽子と中性子が合体した重水素が出来る。トリチウムより一個、中性子が足りない状態だ。それに中性子が合体してトリチウムとなる。これは不安定原子核だから半減期を持って崩壊する。

トリチウムはβ崩壊を伴って必ず高エネルギーの電子を放出し、ごく近くの原子同士の結合に傷を付ける。もしも遺伝子にトリチウムが組み込まれていたら、必ず遺伝子に傷を付ける。政府の言い分は、トリチウムは元々人体に存在するのだから、海洋投棄すれば更に薄まって大丈夫だという理屈だ。元来、50ベクレル程の放射線量分のトリチウムが人体にある。これは真実。今回、希釈目標は1リットル当たり1500ベクレルだ。

人体の60%が水だから、極論で、その水分が1リットル当たり1500ベクレルに置き換わったとすると、体重が60㎏の人は54000ベクレルを体に保持することになる。単純計算過ぎて自分でも嫌になるが、50ベクレルより多い気がする。プランクトンが吸収し、魚が濃度を上げて、それが人間に入るとすると、これはどうだろう。それでも良しとした根拠の説明は全くない。まぁ、選挙で勝ってるからね。何も言えないわな。そんな国だ。

投棄

予防接種の予約をすっぽかした人生の先輩のおかげで、貴重なワクチンが下水に投げられる。生鮮食品を指で押しまくって、お店への損害行為はもちろんの事、生産者へのリスペクトなどかけらもない。勿論、後から来る客の事など、人生で一度も考えたことが無いのだろう。3000人規模の接種という数字にも唖然とするが、こんな国では総選挙の投票率が100%に近づくことなど、生きている間に絶対にないなと確信する次第。

大阪では新規感染者数が1000を超えたとのこと。国民皆調査を掛けて撲滅しない限り、無駄なワクチンが増えるばかりであろう。変異が変異して、ワクチンが効きませんとなった時には、もうどうにも止まらない。経済活動が重要であるのは間違いない。しかし、それより命が大切。それも当たり前。

投げると言えば、12年の半減期で電子β崩壊を起こしてHeに変身していくトリチウムの海洋投棄が決まりましたな。基本的に天然由来のトリチウムは、人体にも普通の生活で取り込まれているわけだが、海洋投棄によって、海洋生物のトリチウム濃度が上がり、それが巡って人の体に入る。水の形で取り込まれるから、遺伝子にもきちんと作用する。電子的打撃だから、近距離被ばくを起こす。要するに遺伝子を壊す。

そんなものを閣議決定だと安直に言う。基本的に中性子一個分の重さしか、通常の水素と違わないから、遠心分離で分けると言っても相当に大変なことは事実だが、原理上、出来ない代物では無い。なぜやらないかと言えば、その装置は原爆製造に直結するから。一方で、地球規模での海洋汚染は認めてしまう。どうなってんだろう、この国。何でも断捨離すれば良いというものでもなかろう。若者が未来を決められない国。嘆かわしい。

しなやかに

しなやかに受け止める。受け流す人には沢山出会うが、なかなかどうして、受け止めて頂ける方もいらっしゃる。この受け止め方というのが曲者で、結局のところリジェクトなんだけど、それをはっきりと見せつつも、しなやかに慮って頂けるというか。そうざらに出会えるタイプでは無い人も居るものだと感心した。

こんな時に誰かと会ったのかと、なんだか、つい先日もぶぅたれた記憶があるのだが、どうしても対面でなければ嫌だという昭和10年代の方が議長になるとそういうことになるわけですな。頑固一徹、対面以外は話し合いは出来ないという主張なんだけど、一緒に何かを食するわけではなく、3mの距離でコーヒーを飲んだくらいだ。何が面白いのだろうか?

このようなかたは大激突がお好きであって、しなやかなんて遥か彼方の出来事で、激流と濁流の激突みたいな会議になる。これはこれで小生は嫌いでは無い。枯山水的にお付き合いをさせて頂いて、拍子抜けして頂くのが楽しくて良い。きちんと主張をしながらも、動かざること山の如く。

しなやかと言えば猫が代表格だ。考えているようで考えていない。欲するままに行動し、嫌ならしなやかに逃げる。逃げた猫に罪を感じる人は居るまい。これが極意なのだろうと、そのしなやかな方も、猫にはかなわない。小生などその対極に居るのだが、目指してみたい気持ちはある。今日は猫で居よう。そんな気分だ。

旧態の退化

産業展示会などは、GoToキャンペーンの対象になっているのかどうかは知らないのだけれども、へっちゃらで過密状態で展開されていますな。何か行かないといけないような雰囲気で、出掛けてみたのですが、会場内で粗密がはっきりと分かれて、何が求められ、何が捨て去られているのかが明瞭に分離されていて『なるほど』と実感した次第。勿論、こんな時期ですから、平時に出品されるトップアスリートの方々はいらっしゃらないわけなのですが、アジアの国々の元気さとチャレンジスピリッツに感銘を受ける。そればっかりが強調される。

とは言うものの、正常進化の範囲内であって、これはびっくり仰天だというものには出会えない。と言うか、そんなものは展示会などに出てくる必要は無いのだ。売りたいから展示会に出すのであって、潜在的欲求を満たす、あるいは呼び起こすものが並んでいるわけでは無い。それでは何しに行ったのだと聞かれてしまうが、それはそれ、まぁ、いろいろありますわな。産業用PM2.5どころか、窒息しそうなマスクを付けて、恐ろしいから名刺交換もせず、頑なに手を後ろ手に組んでのしのしと歩き回る様は、異様な光景だね。

それでも従来には、中央には設置されなかったと思われる、巨大なファンなどの展示があり、空気の循環という観点においていろいろと工夫があるなと実感致しましたよ。ただ、埃を気にする精密機器の製造現場に置かれる代物では無く、市場価値が明確になっていないものづくりとその展示の在り方は、旧態依然で、中京地域のものづくりの閉塞感を示しているようで寂しい状況でしたな。イノベーションの無い展示会。もう、終わって良いのではと感じましたよ。展示会そのものを大きく転換させていかないと、後追い技術も無くなった日本になってしまうと感じましたな。

AI・IoTを活用する、旧来無かったサービスを構成するものづくりと、今、モノとしては何もないけれども、夢のサービスをイメージしている若い起業家、そして小学生達とのコラボこそ本質でしょうね。従来の改善だったり、ほんの少し綺麗になったりとかね、3Dプリンタが正常進化したとかね、もう、どうでも良いですよ。3Dの金属プリンタは、多くの職業を過去のものにしそうで、それは面白そうでしたけどね。ロボットなんかは、もう、何も驚かなくなったしね。真剣に夢に没頭する子供が元気で遊んでいる社会。それが一番正しいんじゃないかな?選挙にも行かないような大人は、とっとと退場してちょうだい。そう願う。

専門家馬鹿

日本人の苦手なところとして、領域横断型の話し合いがあろう。先日は究極の領域横断型を体験させて頂き、小脳がぐるっと周回運動をしたかなというくらいの活性化を頂いた。専門が細分化されたためであろうか、誰が一番専門に近いかという観点で、リーダーを決めてしまいがちになる。リーダーというか主発言者という方が良いかな。それで良いわけが無いんだけどね。

専門家なんてものは過去の愚物ですよ。過去に囚われる最もおかしな人種。イノベーションがどうのこうのと言っているくせに、自分の価値観が最も高いと思っている。何と醜い人種であろうか。脱専門家というキーワードを健全で明るい未来という枠にはめてみると、なんだかワクワクしてくるではないか。日本が科学技術立国で無くなったのは、専門家という呪縛に囚われたからだ。

専門家は新しい概念を嫌う。自らを否定されたのかと瞬間湯沸かし器(死語)の如くにヒステリックに、自らの過去を盾に新規提案者を亡き者としようとする。そんな社会であることが解っている若者は、積極果敢に挫折を恐れず起業を目指す。応援致しますよ、なんぼでも。徒党を組んでベンチャー支援なぁんてのも猛烈に思考停止だな。数があれば何かが起こると思っている。正に専門家馬鹿だ。

何かの専門家であるならば、全く異なる文化の、スーパー専門家の議論を覗いてみるが良い。チンプンカンプンとしか言えないならば、もう貴方は専門家では無い。自らの専門分野も猛烈に強烈に発展し続けているのだ。そのほんの一部に携わっているに過ぎない。その謙虚さと他者への尊敬こそ、専門家としての尊厳である。自分の行動様式が専門家になってしまっているのであれば、直ちに自らを飛び出して客観視するのが良い。週末はそんな日にしてみるのも宜しい。

求む挫折者

1回目の緊急事態宣言から1年だそうで、まぁ、1年経ってみてどうなっているかは全国民が共有している通り。1年経ってウイルスの変異が進み、生命進化の歴史は繰り返し、ワクチンが出てくればそれに対抗出来るように変身するし、街の中に感染する場である人が減れば、自らを増やすための変身もする。オリンピック云々もあり、経済が命より大事という経済界の後押しが、ちっともコロナ禍が収まらない国だと、世界の外からは見えていることでしょう。

そんななか、本社ごと地方の山奥に引っ越してしまったお企業があられる。世界を相手にお仕事をされているのであれば、何県なんてどうでも良くて、Japanとだけしか意味がないことに気がついたご様子。当初は恥ずかしがっていらっしゃったらしいのですが、テレワークでも海外とのやり取りには全く影響が無く、業務がしっかり回るとなったとき、恥ずかしいと思ってしまったことを「恥ずかしい」と笑ってしまったとのこと。この流れは止まることはないでしょうね。そうあるべきですよ。

そもそも恥ずかしいと思うほど、人は貴方を見ていませんよ。躓いた様子をぷっと笑うかもしれないけれど、1秒後には忘れていますって。そんなもんですよ。それが海外とのやり取りということになれば、笑われるのではないかなんて思っている暇も無いでしょう。この国の精神構造なのかもしれないけれど、独自の活動は攻撃されて、横並びが強制される。違うこと、大いに結構。むしろ、同じ結果を出す人が2人居ることを何故推奨するのだろう?全く理解できませんな。

大いに新しい思考をすれば宜しい。とは言うものの、物心着いた三つ子の頃から横並びを強制されてきた人生において、突然リーダーから「変なことをしろ!」と言われてもなかなかねぇ。変人だの外れ者だのと散々言われてきたわけですけれど、単に新しいことに挑戦してこけても立ち上がってきただけであって、まぁ、酷いイジメにあいましたけど、こうして生きているわけですな。短い人生ですよ。機能と同じ事、止めませんか。挑戦、そして挫折。日本人に必要な行動指標はそれだけでしょう。そう思う。

過去がお好きですか?

どんなに頑張ってもタイムマシンには乗れないわけですな。過去を変えようと願っても、未来を見たいと思ってもそれは叶わない。だから良いわけで、その時々の決断をどんな気持ちで成せるかだけが可能性としてある。その可能性があるのに、過去を振り返ったり未来を恐怖したり。人間とはかくも贅沢で我儘な生き物であることか。唯一、共通の時間軸であるから、こればっかりは言い訳はできない。その時の決断の責任は貴方にある。

自分の地位が何だとか、無視されたとか、なぁんか叫ぶ方が多いわけですよ。虫の目線と鳥の目線って例えられるわけですけど、両方を持っていないといけないわけですが、虫の目線視力が極めて強くて、折角持っている鳥の視力を有効活用していない。勿体ないではないですか。そう勿体ない。鳥の目線に立てば、過去を反省し、未来を予見することが出来る。出来ると言っても自分が見下ろしている世界だけなんだけどね。いきなり頭上から雷が来るかもしれない。それが現実である。

自分が活動している世界が全てか?そんなことはあり得ない。どんなに頑張って「俯瞰しています」と元気よく答えても、それ以上のことってありますからね。適当なところで、自分にとっては満点だと思うしかない。それ以上の価値の定規を当てられたら、あぁ、10点だったんだなって、それではそっちの定規でもう一度やってみるかって、元気出すしか無い筈なんです。でも挫折レス世界の住人は、自分の定規だけが真正と信じてしまう。

どんなに未来を想っても、その未来の人からすれば、それは現実であって、その瞬間にはもう過去なのだ。今の人が恐れる未来における価値なんて、その瞬間を考えれば反省の一要素というだけである。だから先へ先へと進まねばならないのだ。先へ進む唯一の方法は自分の時間軸を放棄することだ。世界で最も先に進んでいる時間軸を取り入れ続けることだ。今が良い?そんな方とは二度と逢うことは無い。逢いたくも無い。常にゼロから数字を生む。美しい思考だ。

断捨離考

もう4年前になりますか、仕事場の書類や学術関係の雑誌や書物を電子化し、場所を空けて元素素材の格納エリアにしたのです。それまで20年来行ってきた研究が、まぁ、これでひと段落だろうという気持ちの切り替えもあって、一気にやりましたな。良くもまぁ、これだけの紙を取っておいたものだと、呆れましたよ。電子化したことで、読みやすくなりましたな。電子媒体は検索さえ出来れば良いので、それはUnixおたく時代に身についていたので苦にならず、その後で困ったことは無い。まぁ、どっかいっちゃったなぁというのはありますけど、何とかなっている。

研究人生、残り10年だなと新たに物を揃え始めたら、もう、その時の隙間が無くなってきた。これは再び空けねばならぬ。一度、絞り込んでいるわけだから、これがかなりの難行苦行。まぁ、でも、大したことは無いんだけどね。電子工作で30年も前の部品を引っ張り出して、動くものを作ってしまうと「やっぱりなかなか捨てられないなぁ」と断捨離の困難さと真っ向勝負となる。断捨離の記事などを読むと「取っておいても使わない」とありますが、実際に使って有益なものが出来るわけだ。本当に必要なものを取っておいたということだ。

電気の世界で案外、市場でもそんなことがあって、30年に一度、定期交換するというようなものが実際にあるんですよ。しかも一度に3個だけ。保守部品なんてどこも定常的に作っている筈もなく、べらぼうな値段で海外に製造を委託するしかない。断捨離、即ちジャストインタイムは、それを最終製品に持ち込んでいる企業の利益の為に存在しているだけであって、働く部品を作る側からすると、命を捨てるか注文主と縁を切るかの瀬戸際に立たされるわけで、大抵、命を捨てる側に立たされるのが日本の現状である。

限られた容積の中に無限の道具を放り込んでいくことは出来ないわけで、必要なものの選択・選別が成されていくわけだ。ちょっとの思い切りなんだよね。お仕事にしてもそうで、限られた能力しか無いのに背伸びをして、組織全体に迷惑を掛けるとかね。事業計画が無いのに予算申請しちゃうとかね。本当に捨てなければいけないことは見栄だったり、無意識の過去の踏襲だったりとかね、沢山ある。捨てなければならないものは凝り固まった意識であって、創り出したいのは変える勇気。そんなもんだ。

見栄

地方自治体がコロナ禍で資金が無いと白旗を挙げ始めた。昨年、世界規模のロックダウンが行われている最中、海外からの渡航を認め、オリンピック開催を前提に後手後手の行政の行き着くところがここだったかと、いや、もっと酷いことに成るのだろう。どれだけの状況に陥るのか解らないが、言えることは、決断の大切さだ。私利私欲、見栄等々、自分大切な政治を行うと、結局は組織そのものを崩壊させるのだなと納得する次第。当たり前なんだけどね。

お願いだからお店を閉めてと言うだけで本当に良かったのか。お金を出せばということを言いたいのではない。これからも、もっと凄まじいウイルスなどが人類を苦しめるだろう。その時、命が大切なのか、見栄が大切なのか?そんな政治に文句を言いたければ、国民全員が選挙に行かねばならない。国民が、自分達の代表の活動をきっちりと見ていますよと意思表示をすることが大事だ。官僚が自殺しても知らんぷりの議員を国会に送り込んでおいて、選挙民は知らんぷりだ。

時短営業云々言うが、朝夕の満員電車はどうしてくれるのだ。窓が開いている?とんでもない。マスクレスの利己主義者だって沢山居るのだ。確率的に大丈夫なのだろうなとは思うのだが、変異型は感染力が強いという噂を完全に無視するわけにもいかず。無症状が症状という妙な状況だが、もうオリンピックなどは諦めて、徹底してロックダウンを掛けたらどうだ。2ヶ月沈黙してはどうだ。そう想っていたら、デトロイト-名古屋便が再開して人の往来が始まるという。

何やってんだからわけがわからない。経済界の声がそれだけ強いということだ。お金よりも人の命が先にあるのではないか?納得のしようなど無い。社会って人間が作っているのではないのか。肺炎でバタバタと亡くなっていく状況を是とするのか?企業の株を日銀が買いまくって、経済は安定だなんてことを平然と続けるのか?国の事業が民間企業を助けるということを柱にして良いのか?情けない限りである。

既に4月になりましたね

年度が切り替わったから何だということは無いのですが、行く人、来る人、想いは様々御座いますな。今年も歓送迎会無しの、逆に言えば一人一人とお話をさせて頂いて、感謝の気持ちをお伝えすることが出来たことは、むしろ良かったのではないかと感じている。お酒の席でワイワイするだけが大切なことでは無い。一対一でじっくりとお話をさせて頂く。体感を伴う対話は、ここぞの時には必要かもしれない。

奥歯に何かがはさまった物言いだが、Webで良いのでは無いのかと、ここ最近、言い続けているからで、たまたま、すれ違いでご挨拶を申し上げたら、立ち止まって長話になり、「あぁ、そうだったのですね」なんて話が出来たからである。これをWeb経由で出来るようにならないといけないんだなって感じた次第。

人間なので独りで生きられるわけではない。三人寄ればなんとやらということもある。しかし、一向に収まらない感染症流行の最中、敢えて集まってなんとやらではなく、Web越しでやんちゃなお話から世界平和まで、やんやか話が出来ないといけない頃合いだなぁと、既に、そうなっている世の中をしり目に、追随しようかなとは思うのですけどね。だぁれも相手になってくれないので、試す機会すらない。

万延防止令が出ると聖火リレーはそのエリアは中止になるそうで、ストリートビューみたいな映像をその区間はAIに走行させてしまえば良いのにと思ったりする。お願いだけの万延防止、どれだけの効果があるのか。今からでも日本中ロックダウンを掛けて、2カ月、誰も外に出るなみたいなことでクリーンな大地に出来ないものか?その間、何から何までWeb経験を日本人は体験しては如何か?1次産業の問題はどうするとかね。きっと解決できる。それが日本人だと信じたい。そんな思いの新年度である。