勇気?

勇気は恐れを感じないことではない。恐怖を前にして、それよりもはるかに強く高潔な意志でそれを克服する能力であると、多くの哲学者が語っていらっしゃる。とてもそんな高い境地に到達しうるものではないが、既に先週の出来事だが、イノベーションに挑むには勇気がキーワードになり得るというお話をどっかでさせて頂いた。イノベーションはルールチェンジだ。ガソリン車は駆逐されることは解っていたが、そこに勤めていらっしゃる多くの方々のお仕事が破壊されることと、地球環境という未来の基軸で大切なことと天秤に欠ける時、強く高潔な意志はどちらを選ぶべきだったのか。ここに勇気が求められる。

勇気とは知識ではなく決断であり、見解ではなく行為であるのだから、これは生きるという極めて困難な事象を前に進めるエネルギーそのものと捉えても良い。地震が発生するということは知識と為っている。まぁ、大略の機構も解っている。しかし、今逃げるのか?となると、防災グッズを買いに走るくらいが関の山だ。一方、青信号で横断歩道を渡って良いということは知識と経験で知ってはいても、斜め後方からふっとばされることに対して勇気を持って歩を進める馬鹿が何処に居ようか?知識があり、経験から来る決断において勇気を抱く必要が無いのだが、無法者が存在するという現状において、勇気を振り絞って360度の周囲を見渡す必要があったか?

知らない、解らない、そんなことなど山ほどある。研究の世界においては当然のことで、過去の巨人の肩の上によじ登れるだけよじ登って、そこから辺りを見渡して、更に高いところに行こうというわけだから、こけて当然、百も承知、しかし、誰も挑んでいないから挑戦しなければならないし、そこには勇気が必要だ。いばらの道に分け入るにはそれなりの理由があるはずだ。その向こうに何かがあると決断し、痛みがあると解っているのに進むという行為に及ぶ。利己的な満足を求める程度ではない、普遍の真理を第三者の為に得ようとする信念が勇気となって表出する。

と、ここまでそれこそ勇気を持って書き綴ってきたものの、また今週もえらいこっちゃの日程表に押し潰されている。明日を迎え入れる勇気を抱けと言われても、ご遠慮いたしますと丁重にお断りをしたいものだ。これからはお断りをする勇気を発現させて頂く。「嫌だ」と決断をする。正に行為であるわけだが、それは逃げているのではない、何時までもオールドタイマーを現代で動かし続けてはいけないと悟ったからだ。悪しき見本は十分に示した。もういいでしょう。

変化しようよ

諸外国では当たり前のように街中で実証実験が成されている自動運転公共交通。専用軌道での走行は我が国でもやってはいますが、特に都市部となると全くの皆無。交通渋滞で酷いことに為っている場所だからこそ、自動運転でJRの駅から街中をそぞろ歩きならぬ、まぁ、カタツムリ的なバスがぐるぐると回っていて、人々が街に出て楽しく過ごしている。そんな空間になってくれないかなと思う。人や車でごった返す中での自動運転テストだからこそ価値があって、専用軌道で自動走行したって偉くも何とも無い。夢もない。

両手をハンドルから話して高速道路を走るコマーシャルなんかを見ても、やっぱり、ふぅんとなる。自動運転で長距離を移動するなら電車に乗るよ。そのほうがよっぽど呑気だ。地方の駅でレンタカーを借りたほうがお気らくだしね。観光地などにはそれこそ自動運転周遊バスなんてのがもってこいだ。電気駆動なら尚良い、というか、それが当たり前だろう。観光地で排気ガスを撒き散らすなんてもってのほかだ。ハイブリッド車なんて所詮はガソリン自動車だしね、環境に悪いことは間違いない。

携帯電話は持っているけどマイナンバーカードはセキュリティが云々だからもたないとかね。なんだかわけがわからない国民なわけで、自動云々みたいなものに、事故が発生したらどうすんだとか、もしもなんとかかんとかで、結局、なぁんにもやんない。やらない先進国だよね、やらない事に掛けては世界一。何もしないから失敗もしない、挑戦もさせない。そこんとこ思い切って変えましょうよ。

少子高齢化は避けようもなくというか、とっくにそうなっているんだけど、老害よろしく若者の芽を見たら踏み潰し、絶対に伸ばさない。そんな努力はもうやめて、20年後を考えてやたらめったら変えていきましょうよ。自動運転だって、さっさとやっちゃいましょうよ。5Gの電波飛ばしまくって、ベンチャー企業の挑戦的な企画をどんどん取り入れて、街を元気にしましょうよ。やたらと厳しい一週間だったわけで、まだ終わったわけじゃないけど、追い詰められてくれば来るほど、面白いことを生み出してみたいなって思うわけですよ。一人新人類。そうありたい。

微分しようよ

「丸って何?」と、丸という言葉を知らない人に「こんなものの事を丸いというのだ」と、改めて辞典を調べてみると「まるとは、1まるい形、円形、また球形」なんてのが出てくる。それって意味付けになっているのか?六角形などの鉛筆を市場に出した際の知財の文言が有名で「丸では無い形状」ということなんだけど、そこにおいても「丸」とは少なくとも鋭角、鈍角、水平を有さない状態ということで、楕円も丸、球体の等映像も勿論丸ということなんだ・・だけど腑に落ちない。

丸って何と聞かれて「丸いもの」って答えたら〇獄少女さんが出てきそうで怖い。丸モノを作るのは難しいなぁと、真円・真球を作る努力が延々と続いているのだが、この「真」がくっつくと基準点が生まれ、そこからの距離とベクトルが定義できるから愉快だ。基準点の有難さである。円形の刃物を作ろうと思った時に、その治具を作るのにも加工する道具を作るのにも、凄まじく苦労するのだ。それ専用の機械があって、それが終わることなく深化を続けている状況を見ても、「丸」という形は人類が求め続けるものなのだなと妙に納得するのだ。

丸からスタートしたのだけれど、角(これも曖昧表現)とか水平を持たない形状何て行ってしまうと、ぐにゃぐにゃした角の無い歯車形状も丸か?なんてツッコミが入りそう、いや、自分が突っ込むだろう。共通言語で会話できないと、意思の疎通なんて出来るはずがない。「そんなの当たり前だろ?」と言われても「定義すら分かりません」なぁんてね、そんなことが身の回りに溢れてきている感じがする。感染者数という数字に有識者が「感染者と症状が発現している者とは違うのだ、後者は極めて少ないからオリンピックは平時の通りに出来るのだ」とのたまうが、感染者は他者にウイルスを媒介できる者という定義にするとえらく恐ろしい。

単に、丸棒として売られている棒は決して丸く無くて、それを丸くして使うんだけど、丸という言葉だけ見ても意識の具合はまるで違う。基準・水準が必要で、それにも理由が必要になる。きっちりと1対1にしか読み取れなく作り込んでいくと論文になる。まぁ、そんなかしこまった会話や文書のやり取りだけだと面白みは無いし、イメージ力も育たない。かと言って、共通認識を持てないようでは対話にならない。少なくとも基準とそこからの微分値を共通認識として持ちたい。投資が生んだのは何?投資しなかったらどうなっていて、投資したからどうなったの?報告書ってそれだけで良いんだけどな。難しい。

三度目は正直か?

緊急事態宣言がやってきましたな。ゴールが示されていないレースに参加させられている気分満載で、頑張りの空振り感は凄まじい。頑張ると言っても職場命令の、宿舎を出る前に検温せよというのを守って、制限範囲内であることを確認して出頭し、職場が用意しているフォーマットに登録して、業務に勤しむということなのだが、ラジオ体操を最後までやってハンコを押してもらう、あの謎の努力に近い気がする。職場を守るという点において必須の行動なのだが、若者溢れるエレベーターを見ながら階段を上る頑張りの空しさよ。

前回までの緊急事態宣言下の状況と異なっているのは、異なるウイルスと言っても良い新コロナ禍が相手だという事。東京都下に出された2週間の制限でどうにかなると思った国民はゼロの筈で、だからこそ連休中の人出がわんさか増えた。じっと宿舎で料理と掃除に励んだ小生などはおたんこなすの代表選手かもしれぬ。まぁ、自衛なんだけどね。後遺症が激しい新型コロナ禍に取りつかれたくないとは本心。ただ、何処から忍び込んでくるのか分からないから不安要素しか無い。

それで三度の緊急事態宣言ですよ。憲法が阻むから政治としてお願いしか出来ないということなんだけど、憲法をいじったら国民が言う事聞くのか?そもそもの根本原因に、国民の7割弱が選挙に行かない、即ち、政治と独立して生きているという現状がある。助成金とか補助金とか、結局「金を撒く」と言うと拾いに行く関係でしか政治と国民は無いわけで、そんな状況において、緊急事態宣言ってどんな意味があるというのか?まぁ、お役所の人達が大手を振って繁華街で威張り散らすくらいが意味かな?

書斎の机の上でも、食卓の近くでもどこでも良いんだけど、体温計を設置して(別に引き出しの中でも良いんですよ)朝か晩かに体温を測るルーチンを持つ。出来れば朝、今日一日のトリガとしての行動を体温計測にしてみてはと思う。ただ、無症状疾患者であることは分からないけどね。ここが恐ろしいのだけれども、どうも変異したウイルスは「無症状ではいられない」ような状況を作り出してくれるらしいから、体温測定ルーチンは良いと思う。癖になれば何でも続く。スマホのアプリで感染が分かるようなものを誰か作ってくれないかなと思っているのだが、誰かやってくれませんか?まだまだ発展の余地があるなぁと、工学の発展を陰で支え続けたい私であります。

価値の表明

「私達は〇に貢献した!」と仰るのであれば、あなた達が関与しなかったら□になっていて、それが△になった、その微分値が、全体を俯瞰して正の効果がこれこれになっている、だから〇に貢献したんだと言わねばならない。何かをやったからそれは正の微分値を組織にもたらすはずだという思い込み。言ってみればビジネスモデルが最初から出来ていないから、昨年やったことを今年もやって、それを過去、言われてきた事柄に照らして自己評価する。お役所では常套手段だけど、民間企業でそれはいかんわなぁ。

実際のところ、活動を評価するって難しいですよ。そもそも想定の通りのリアクションを得るには、相当の仕掛けが必要ですからね。その場で取り繕って良いのであれば何とかなるかもしれないけれど、近年、炎上屋さんも居ますからね。定量的に数値化されるものは費用対効果が明確なのですが、それとて利用者が一人しかいませんでしたってことになってはね、価値を生んでいることにはならない。

オリンピックでのあれこれをTV等で見聞きすると、まぁ、そこで公開されている情報は判断するに適切な質と量が与えられているのかにも疑問があるわけですが、アンチ他人的な物言いに悲しくなるというか寂しくなるというか。そんなに他人が幸せになるのが嫌ですか?いいじゃないですか、一緒に喜んだって。他人の評価が素晴らしかったら、それはそれで良いじゃないですか。もっと頑張ろうって思えば良いだけですよ。出来るんでしょ?

行動を確実に価値化していく。欧米人は上手だと思います。それは議論の中で解を見出していく活動、教育が物心着いた時から成されているからなんだろうなって、しみじみ思うのですよ。最初から決まっている事柄なのに「みんなで考えた結果そうなった」という落としどころの為に、会議というなの時間の無駄を積み重ねる。報告書というゴミを作る。意味の無いことは、意味があるように変えないといけない。面倒で勇気がいるけど、やらないといけない。ため息もでない。

竹枯れ

緑区という、名古屋市に最後に編入された地域で、緑がいっぱいだったから緑区という、なんとも何処の地域にありそうな命名。嫌いではないですよ、そういう単純な理由、そして緑が一杯ってなんだか幸せじゃないですか。緑区の中でも豊明とか東郷に近いところに居るわけで、ちょっと車で移動すると、直ぐに田んぼや畑が広がる。竹林などはやたらとある。荒れ放題で見るも無残だが、先日の連休あたりから感じていたのだが、竹やぶが枯れている。葉っぱが落ちたとかそんなことではなくて、明らかに枯れている。

百年に一度、花を咲かせて一気に枯れるなんてことをガキンチョの頃から聞かされて来たのだが、花が咲いた雰囲気は無い。ただ単に枯れている。最初は「あの一角だけ、誰かが除草剤を撒いたのかな?」くらいに思っていた。気を付けてみると、あっちもこっちも茶色くなって、集団で葉を落としている。密集して痩せた竹やぶにはしょっちゅう出会うわけで、もう、1年以上見ていない新幹線沿線にはそんな竹やぶがやたらとあったわけだが、沿線の竹やぶが同じ状態になっていたらかなり危なかろう。

もう一つ、まぁ、山の民の迷信だから信じているわけではないのだが、竹やぶが枯れ出すと大きな災害がやってくるってやつ。これは小生にとっては根拠レスの伝承なわけなんだけど、暫く発生していない南海地震なんかがいよいよやってくる前触れかなぁなどと他人事のように思ってしまうのだが、そうであっては困ってしまう。言霊ってあるから、滅多なことは言えないのだが、基本、常緑の竹やぶが、あっちもこっちも茶色くなっているのは不気味である。

何がなんでも生え続ける凄まじい生命力と思っている竹と笹なんだけど、花を咲かせずに枯れていく姿は、なんか地球人類の終焉を見るようで心地よくない。手入れが成されている竹やぶを拝見すると、しっかりと青々としているので、手入れが悪すぎての自滅かなとも思うのだが、過去、これほど多くの箇所で、同時に枯れている姿を見たことがないのだ。単に経験不足ということか?油断をしているとこうなりますよって自然からのメッセージかも知れない。自然に学び、気を引き締める。今週はそうしよう。そう思った。

遥かなる次の祝日

どうなんだろうなぁと思っていたのですが、緊急事態宣言に基づいて電車の夜の運行終了時刻を早めるとか、減便するとかなんだけど、単に1車両当たりの乗客数が増えて密度上昇に貢献するだけなんでは無いかなぁと。で、具体的にそうだったらしいのですよ。親方から減便しろと命令されたらやらないわけにはいかないし、電車が減るから会社に来なくて良いよという企業は、今の日本では少なかろう。電車での感染は発生しないのだという専門家がTVで威張っていたが、自衛が一番、自転車通勤を頼ってしまう。

頼ってしまうのだが、この梅雨もどきの空模様である。五月晴れなど何処かに行ってしまった雰囲気だ。自転車乗車時だってマスクをするわけで、酸欠で脳細胞が死滅するという恐ろしいお話もあるわけだが、排気ガスや黄砂から身を護るには丁度良いのかもしれない。びくびくするなと、これも専門家の大声なのだが、得体の知れない病に襲われるわけで、怯えない方がどうかしている。無理と無茶は違うのだ。無理をさせてはいけない。

五月連休が終わってしまうと、これまた無理強いでオリンピック開催式の前日まで祝日が無い。7月22日まで無くなって、加えて10月のスポーツの日が7月23日に移動になる。オリンピックだから祝日で休めと言われても、いずれコロナ禍が収束しているはずもなく、ワクチン接種で国民全員が集団免疫状態となっているとも到底思えず、どっかで休ませて頂きたいと願うばかりだ。

心の生産性を上げるには、休養が一番なのだと本気で思っている。そのくせ、自分自身ではちっとも休まないのは周知の事実なのだが、そんな奴に付き合う必要は全く無いのだ。ニューノーマルと呼ばれる時代がやってきたわけで、自分自身のノーマルを再定義すると良い。電車が減ったから出社出来ませんと言ったって良いのだ。心の疲労は厳禁である。仕方が無いからオリンピック予定日が過ぎるまで、週末を大切にしていこう。海外では当たり前なのだがこの国ではそれすら許されていない。変な国である。

連休は如何でしたか?

沖縄方面は既に梅雨入りとのこと。随分と早いと感じたのだが、実際には平年に比べて5日程度早いだけ。一週間程度であれば、地球の気候変動のばらつきの範囲だなと、地球温暖化云々と結び付けるのは無理がありそうだ。梅雨の期間は平年で42日間だそうだから6月中旬までの梅雨空だ。東海地方は6月初旬頃の梅雨入りなのだそうだが、ついこの間、桜が咲いていたと思ったら、もう梅雨入りのお話になる。季節感がおかしくなる。

昨年も同様のコロナ禍だったわけだが「雨と一緒にウイルスが流されると良いのに」などと、正に戯言だったわけで、自然に生きるウイルスが自然に流されるはずは無かろうと、苦笑いをした記憶がある。ニュースでは緊急事態宣言条項を憲法に入れようなどと騒ぎ出す始末。今の法で対処できているのであれば、大本をいじる必要は無かろうと思うのだが、何がなんでも憲法改正に取り組みたいのでしょうね。余りにも単純でこちらも苦笑いだ。

五月連休というものは本当にあっという間に終わってしまう。日頃やらないようなことを一所懸命にやってしまうから、飛ぶように時間が過ぎてしまうのだなと漸く気づいた。ゴロゴロと寝転がっていたら、これは案外、長い休日なのかも知れないが、貧乏性がそうさせず、神風ペーパーならぬ神風時間を作り出す。あれもやった、これもやったと納得するのだが、結局の所、くたびれただけであって、心身のお休みなんて全く無く、疲労がやたらと溜まっている。まぁ、昔の日本人らしいと言えばそうなんでしょうね。

予想の通りと言うか想定通りと言うか、連休中にコロナ禍が大幅に減少するなんてことは無く、7日にも延長を決定するとかしないとか。これ以上、飲食店に負担を強いることが出来ないという、政府のダッチロール状態が余りにも激しい。これも国民性なのかもしれない。国民の代表が朝令暮改をするわけだから、国民性の表れということなんでしょう。進化発展と朝令暮改。何だか同じ様なことなのかも知れないが、厳しいことに挑戦する前者と、堕落していく後者とでは偉い違いだ。今日、明日を乗り切れば土日がやってくる。進化発展に取り組む二日間にしよう。「らしく」ありたい。そう思う。

テレワーク考

在宅勤務をあえてしてみた。興奮して眠れなかったわけではないが、基本的に四時二〇分には起きているので、休日でアラームが鳴らなくとも三時過ぎには起きる。こんな生活が、学生時代から続いているのだから笑えてしまう。眠れる時もあるのだ。それは出張で、講演がある時。時刻が決まっているから、精神的に落ち着くのでしょうね。その時刻に備えて体調を最高に持っていけば良いのだ。アポなど関係のない毎日からすれば楽ちんだ。物理的に楽ちんだから精神も安らぐのだろう。コロナ禍でそれも無くなり厳しい毎日だが、まぁ、仕方がない。それはどうでも良い。

在宅勤務の面白さなのだが、ビデオ映像に普段、お会いしている方々が写って、なんかぎこちないのだ。こちらもきっとそうだとは思うのだが、こちらは4Kカメラ映像でデータを送り届けるから、受ける側のPCの速度などによってはぎこちない動きになっているかもしれない。そんなことは知っちゃいない。自分自身であることをお届けするだけだ。会話をしてみると伝わっているようだ。このセットを持ち歩けば良いということが解ったわけで、普通のツールであるわけだから、全ての人がテレワークで良いということだ。

ものづくりはそうはいかないという人は、正に化石である。真逆である。デジタルデータで評価出来ないものづくりをしているのなら。だから貴方のお会社の製品は買って頂けなくなったのだとお伝えしたい。DXとはそういうことで、単に数値がデータ化されることではない。価値が数値によって評価されるわけで、競争要因が明確になって、差別化をしやすくなるということだ。「それはこまる」?ほう、もう、ご退場されるのがよろしい。理解されて困るのなら、自らも価値が解っていなかったってだけですね。ノウハウ、ベテラン?地球と月の位置関係で生じる以上の機械誤差を、人的要因で生み出しているお企業は、ご退場して下さい。

五月連休期間って、こんなに雨が降ったっけ?と、過去の情報を見て何になるのかと言われてしまうが、見てみると、結構、晴れ間が多いのですな。今年はしっかりと雨が降る。梅雨の前倒しか?まぁ、在宅勤務であれば、傘をさす面倒は無くなるわけだ。これはかなりの変革である。靴も濡れない、ズボンも濡れない。衣料品族は大損である。雨で何が売れるのか?考えてしまうが、既に、多くの方が考えていらっしゃるだろう。そんなこんなを考えていると、あっという間に一日が過ぎてしまう。印鑑削減のお陰で在宅勤務が可能に成る。出勤時よりも細かい会議を実行できる(させられる?)。これは良い。間違いなく良い。下に戻す?有り得ない。うん、その通り!