春ですかね?

昨日は朝の空気ががらっと変わったかなと思ったら、春告げ鳥のメジロさんが椿の蜜を吸いにやってきた。急に春を感じた次第。湾岸低気圧が通り過ぎて、洋上の暖気が入ってきたということなのだろうけれど、理由はどうあれ、暖かくなったことは有りがたい。桜を気にはしているのだが、流石に変化が見られない。通勤経路の桜は日当たりが悪い事もあるのだろう。そろそろ卒業式であるから、開花してくるに違いない。

いよいよ大きな人事の流れが掲示板に上がって来て、そんな時期になったのだなと、さようならと、お帰りなさいの名前を拝見し、随分と長くお世話になっているなと実感する。時代はどんどんと変化していき、工学が果たすべき役割がどんどんと広がっている。AIの進化を追い越す勢いで研究を深めていかないと、気が付けば要らない研究ということになってしまいかねない。

その為には、やはり未来を予測して今を顧みるということしかないのだと思っている。産業戦略人としては20年以上も前からバックキャスティングと言っているが、それは内閣府で語られるような生易しい考え方では無い。未来を予測して今を見るのではない。未来を予測して未来を語るのだ。ペインは未来にある。現状と比較する愚かな思考では無いのだ。

年度の終わりが迫ってくると、今年はこれが出来て、これが出来なかったと総括するわけだが、捨てても捨てても無くならない部屋の物品を眺めるにつけ、本当にこれだけのことをやってきたのかと呆れてしまう。一年で出来る事は総括出来るが、春と春の間に何を成すかということで、渡来してくれたメジロさんに次の春にも会えるかなと、頑張らねばと思うばかりである。

アクセル

オンロードの周回では、どこでどんなアクセル&ブレーキングを行えば、車体がどんな方向に進んでいくかは予測が出来る。しかし、オフロードでは時々刻々と路面が変化し、瞬間瞬間の判断を怠ると、直ちに悲惨な結末が待つ。その過酷な環境下でもステアリングを握る者に課せられた精神状態がある。アクセルを抜かないことだ。アクセルは全開のまま、ステアリングとブレーキだけで操舵する。成程と実感する。

研究者においても同様である。自らの研究への情熱はエンジン全開でなければならない。悲惨な結末に至らないようにするには、常に全方位に気を配り予測し、心技体が自然と共鳴させていくことだ。山カンでは無い。天が、空気が、こちらに進めと教えてくれる。その空間との呼吸というか間合いというか、その感覚が世界初の出来事をもたらしてくれる。いくら研究費が潤沢にあったとて、今を基準に明日を語るようでは天は見放してしまう。

アスファルトの上だけを走っていても決して身に着かない感覚である。自動車に限らず、歩くという行為についてもそうだ。両端絶壁のナイフリッジを歩いたことが無い者には、転ぶ前にどうすれば良いのかの判断力は無いから、いざという時にこけることになる。今、自分はどのような危険な状況に陥っているのかを、自らの魂が判断出来なければ、未来への光明などありようもなく、必然、アクセルは踏めず、その場に留まるだけである。

急速に進展する社会の中において、昨日の経験が明日に活きることはない。予測する未来の経験を糧にして今を全力で走り抜けることだ。アクセルを抜くなどと考えてはならない。瞬間に猛烈に魂を燃やし尽くしてこそ、未来が経験となって今の困難を当たり前の如くに打ち破る。砂漠の中でアクセルを抜かないというその一言。重く、そして人間の可能性を感じさせて頂いた。感謝である。

非国産

半導体もアディティブテクノロジー(3Dプリンタが代表事例)も要素技術は我が国にあったものの、それをアウトカムズに転じていく部分の多くが海外頼み。新聞に依れば「どこどこと協業する」とか、単にお金でその場をしのいでいる姿が見える。航空機やロケットなど、数が出ないものはやらないという、まぁ、明確な考え方なのだけれど、そんなことを何時までやっているのでしょうね。厳しい環境で鍛えられた技術は、いずれ所謂量産品と呼ばれるところにも活用されていく。ロボットやAIと接続される機器であるから、人の思考を形にしてくれるパートナーとしてうってつけだ。

従来、重くて高価な金型金属を彫り込む刃物においても、従来型の「相撲エンドミル」的な、ガリガリゴリゴリの単位時間により多くの金属を引きはがすというものは、活躍の場が失われていくだろう。金属の切りくずをリサイクルしていますなんて時代は過去のものとなる。日本においてはまだ当分は続いてしまうのかもしれないけどね。今ある仕事を残そうという浪花節は、この国でしか残らない。化石的企業形態として、ガラパゴス化していくのだろうか。ただし、進化ではなく、退化の方向だけどね。

Z世代の人達云々というのは好きでは無いが、小生的にはエレベーターの中くらいしか接点は無いのだが、世相的には我慢しない人達と感じられる。人のうわさでしかないけれどね。好むところには集中し、しかし、そうであっても苦行を感じると外れていく。巨人の星を求めるわけでは無い。これとてZ世代の皆様には通じないのだろうけれど。だからと言って、先程の3Dプリンタなど、上手に活用できるのかと考えてみると、恐らくそうはならない。活用というからには、使われている状態で最大のパフォーマンスを出す部品を構築せねばならず、材料物性やら材料力学やら、流体力学等々、更には精緻な図面を読めなければならないとなると、徹底的な基礎学力の構築が必要となる。苦行である。

単に、ユーザーであってもだ、マニュアルを読みこなし、装置を完璧に動かせる人にはなれるかもしれないが、それはアウトプット側の活動であって、これからは、アウトカムズが社会でどんな価値を生むのかを理解した社会経済活動が必要になる。ものづくりの装置が海外製に置き換わるということは、それが生み出すアウトカムズを更に発展させる知恵が育ちにくい状況になるということだ。基礎に投資せず、技術価値を金で買う。金の切れ目が知恵の切れ目になっていくのだろう。そんな気がする。

聴き力

PCなどで物書きをしていると、例えば、この戯言でもそうだが、これを「ざれごと」と呼ぶ人がいらっしゃるが、これは間違いで「たわごと」である。正にたわごとではあるが、読めるので勘違いと言うことは当然あるだろう。これが責付くとかなってくると、とっととやって頂戴!などと受け取れない。基本、読めないのだ。近年、PCの変換機能が賢くなりすぎて、おぼろげながら分かっている意味の単語をひらがなで入力してみると、どうしてこれがそう読めるのだという漢字変換が成されることがある。これは戯言にしても無理だろうという時は、まぁ、ひらがなに置き換えることにしている。

これが単語だけならまだ良いのだが、主張が伝わっていないのに、胸を張ってファンド提案などしてしまっていることに不安を覚える。次年度に向けた鶴舞大学の基礎的研究費申請が極めて不調な状態にある。様々な施策を打って、なんとかならないものかと工夫をしてみても、申請者の聴き力がゼロでは話にならない。聴き力と言ってはいるが、単に会話における傾聴力というだけではない。ファンド提案書には必ず「こんなことを書いて下さいね」と、丁寧に申請者向けのアシストワードが示されている。これを読んでいるとは思えないのだ。

申請書の審査などをさせて頂くことがあるわけだが、応募要項を見ていないでしょう?という申請書にしばしば出逢う。そしてそれは年を重ねるごとに多くなっている気がする。申請書の書式がワードファイルの1ページもので、記載欄を自在に広げてトータル3ページまでと書かれているのに、1ページの見本のまま提出しちゃうとかね。それなりのポジションの方であっても、そんな悲惨なことになる。読み込もうとする気持ちが無い。文字を作った人の気持ちに接しようとしない。即ち、聴き力がゼロと言うことだ。

自分の主張だけが正しいという、まぁ、羨ましい考え方である。そんな連中の得意技は「皆の意見を聞いてから決めるべきだ」とかね、ごもっともに聞こえるのだけれど、追い詰められた地方大学にそんな悠長さは無いのだ。様々な力学が働く昨今である。ぎりぎりの思考を巡らさないと、生き残ることなど不可能である。まぁ、こんなことも聴いちゃぁいないのだろうから、無駄な独り言なのだけれどね。だから戯言である。

引っ越し

引っ越しというのは面白い。捨てても捨てても部屋の惨状はどんどん悪化していく。こんなに捨てているのに、何故、見た目、ますます悲惨な状況になるのかと実に不思議である。大型の装置などは撤去すると床が現れるから顕在化出来るのだが、閉じられた狭い空間で、棚の中のものを広げてしまうと大変である。足の踏み場は無くなるし、縦方向に積んでいたものを水平展開すると、とてつもなく広がっていく。90リットルの巨大なゴミ袋の重い事。1メートル四方は有ろうかという巨大な袋になるのだが、それを出したとしても床が広く見えてくるわけでは無い。

今朝はこの箇所を重点的にと陣取り合戦である。なんでこんなものがここにあるのだという、なんというか、ずぼらさが出てきてしまうわけだ。名古屋市のごみの分別に対しても詳しくなってくる。こんなものが何故、燃えるゴミなのだ!と驚く場面は多い。生分解性プラスチックを用いて、3Dプリンタで作製した治具達であるが、目的達成に及び、いよいよ廃棄対象である。金型などもどんどこ投げ捨てるわけで、なんとか次の方へと部屋をバトンタッチしたいわけだが、30年の歴史は、そう簡単には葬り去ることが出来ない。装置など、引き取って頂ける方の出現はとても有難い。

部屋だけでてんてこ舞いで、なかなか実験装置群の撤去まで手が回らない。それらなどはかなり大型で、取り出していく出口までの経路を考えて、入り口に近い方から撤去に入るわけだが、装置の分解も必要になって来て、おいそれと手が付けられない。配電盤からの切り離しからになるのだが、電気工事士の資格はあれど、しばらくペーパードライバー状態であるから、しっかりと防具と指差し確認をせねばならぬ。まだ、まだ、その近傍迄手が回らないけれどね。昨日は簡単なガスボンベの搬出などを行ったわけだが、それとて、行く手を他の方に阻まれ、それらを動かしながらの作業になるから時間が掛かる。

追い詰められてくると、引き出しの中身などは、取り敢えず段ボールにぶちまけて、必用・不必要となっていくのだが、不必要なものの多い事と言ったら驚く。ほぼほぼ捨てて良いと決断できるものばかりではあるのだが、それはもう、実験を行わない殻であって、データ取得中においては一軍選手だったモノ達だ。感謝しながら袋詰めを行っていく。まぁ、思い切りが肝心で、とりゃぁっと縁を切っていくわけだ。きれいさっぱりで気持ち良い。遅々として進まないが、それでもキャビネットに空間が出来てくる。床に置かず、そこにものを入れながら片付けを進めると、なんだか終りが見えてくる気になっている。まだまだだ。

協調ロボット考

ひょんなことから産業用ロボットのチューニングに立ち会う事となった。具体的な商材製造に関わる時点での、自動化に向けたロボットの設定というところに立ち会えたのは貴重な経験であった。その場に立ち会わせて頂けたお陰で、いろんな事が頭を巡った。単純には、正確に同作を文句も言わずにひたすら繰り返せるという、まぁ、俗に言われるロボット考である。過去に見た協調ロボットの中でも大振りで頑丈そうであって、しみじみと頼りになりそうだなと感じた次第。専門家諸氏には笑われるだろうが、その繰り返しの確度には感心した。

次に想ったことだが、ロボットは確かに人の代わりに作業を繰り返して頂けるのだけれど、ロボットを導入する価値のある作業で無いと、高額のロボットの導入は勿論のこと、Sierさん達への高額なお支払いに見合わないなということ。その裏返しであるのだが、ロボットを導入してまでも成す価値のある提案を人間が成さねばならないということだ。そちらの方に関わらせて頂けて、にんまりではあったのだが、要するにそういうことだ。ファミレスの猫ロボットは、フロアメンバーよりは遅いが、確実に運んで頂けるわけで、それであれば人件費の削減は、経営者としては必須の思考であり、導入する価値は高い。休みが必要無いしね。

加えて言うならば、目的が明確であればある程、空間的挙動の正確さに価値が生まれるなということ。ものづくりの専用機にはかなわないのだろうが、ゆっくりで良ければ人が関わるよりずっとゴールに近い値を出してくれる。チューニングとはロボットの動作では無く、アウトカムズをロボットを通じて社会に送り届けたいという経営者の願いなのだなと実感した次第。エンジニアが、ものづくりのヒューマンファクターを減らしたいという低次元の思考では、ロボットを導入する価値は無いなと感じた。どうせ、そんな商材は、他に置き換えられて消えていくだろうから。

エンジニアの方と、ああだこうだ言いながら、設定を繰り返し、形になった経験は快感であった。ロボットさんと心が通じたというか、お願い、頑張ってというか、そんなエールを送りたくなった瞬間である。それと強烈なレーザー光などものともしないタフさですよね。勿論、小生の我儘をお聴き届け頂いたのはエンジニア諸氏でいらっしゃって、ロボットさんでは無い。我儘言いたい放題で申し訳無いなと感じつつ、アウトカムズの獲得に専念できるロボットさんとの対話は愉快である。次からの基礎研究も、ヒューマンファクターを除いて思考出来る点も優れている。この期に及んでそんな機会を頂き、愉快であった。

少量多品種時代

鋳物など、量産品構築に掛かるテクノロジーは凄まじい。釣鐘のような一品ものから、自動車のエンジンという超量産品迄、そのコアテクノロジーの活用の場は恐ろしく広い。共通項は「壊れてはならない」量産品であること。金属工学は勿論の事、砂に関わるセラミクス技術、熱伝導等々、学問的なところは当然の事、鋳型から出した鋳物を再加工する機械技術の高度化も素晴らしい。鋳物という4000年の歴史がありながら、更に発展が続けられるテクノロジーも珍しい。

半導体関連株がとても好調だそうで、平均株価の底上げに寄与しているという。AI関連技術が社会進出を始めたばかりで、当面の間は半導体の活用に伴う、その進化は続くのは間違いない。Si基板は生産が追い付いているのかなと妙な事に心配になってしまう。電信柱みたいなシリコン単結晶からウエハが切り出され、無欠陥に磨かれ超平坦面が得られる。そこにも超技術が積み重なり、俗に言うところの半導体となって、様々な機器の動作に関わっていくわけだ。

鋳物やさんは何をやっているのかと、その昔、その筋の方に問うたことがあって、お応えは「鉄屋」だったのだけれど、鋳物が成していること、例えばエンジンであれば、自動車による移動によって、次の目的を達成することに集中することを叶える屋という返答が来るべきである。鉄を溶かして鋳型に入れることは、鋳物がどんな価値をユーザーに提供出来ているかという観点で思考するべきなのだが、どうも日本企業はその考えが出来ず、日産自動車に強要されると薄利多売に突っ走ってしまうわけだな。

日本では金型や鋳型を使った商材で無いと、商品として認められないような雰囲気を感じる。量産品でなければ商売とは言えない。一品ものでは利益が出ないと。しかし、それを欲する人の笑顔があるならば、それを生業にしても良いではないか。これからの半導体産業を支える加工にしても、現状で良い筈はなく、既に諸外国は日本国産の刃具よりも圧倒的な鋭利さをもって新しいものづくりに挑もうとしている。良いものは良い。だから高価であるべきだ。そう胸を張って頂きたい。

仮想空間にて

ドクターXだったか、総合診療医殿が患者から、あの手この手で情報を引き出して、最終的にジャッジを下す番組があった。人体が発症させる病気に関して、まだまだ解明されていないことが多く、医療の進化は人類の永遠の課題と感じる。その医療に携わることを志す方々に頭が下がるのだが、工学的分析もさることながら、それらの定量的なデータと、主観だらけの患者の発言をビックデータとして結びつける研究が世界で進み始めている。

その道のご専門の医師にお伺いしたのだが、問診のトレーニングというか国家試験の為の「模擬患者」がとても少なく、日本における総合診療医を育成することの障害になっているという。Apple社が出した50万円のARグラスなどは装着するどころか見たことも無く、どれだけリアルというかのめり込めるのか分からないが、その空間の中において、模擬患者を創成して、医師との対話によって自己学習させていくのだという。知らないからいい加減な内容になっているに違いないが、そんなものだ。

最初は標準語でスタートするのだそうだが、地域色豊かな我が国であるから、AI模擬患者においても方言を熟知しなければならない。すると、単なる工学者だけでは太刀打ちできず、文化人類学や民俗学の先生方にも将来は関わっていく事に成ろう。自然と領域横断型の研究になってくるわけだ。人を観るわけだから、当然の事とは思うが、それらの方々が一堂に会したら面白そうだ。橋渡し屋としてはこれ程の喜びは無い。

AIがサポートして頂けるのであれば、携帯端末で常に自分で自分を診ることが出来そうである。ちょこっと筋肉痛を、ストレッチの手法を教えてくれたりして。栄養管理もやってくれて、ピンピンコロリ一直線で、医療費ゼロの国になったら素晴らしいではないか。健康であることが一番である。そこに工学が携われるなら素晴らしい。半導体もそんなことに使われたら嬉しかろう。そう思うのだ。

何でも「質」が大切だと思っている。質が低下してくれば終わったほうが良いという代表例がNHKのブラタモリという番組であろう。小生的には継続して拝見することをしないTV番組において、継続的に拝見し続けた稀有な番組であった。どうも昨年くらいから、つまらないなと感じていたら、いよいよ終焉と言うことらしい。博学な方から博学を引き出してこそのNHKと思っていたが、それも無くなっていよいよTV離れが出来て有難い。

もうちょっと愛想が良いと有難いなと感じるのが窓口での対応なのだが、結果までのスピードだけを考えると、ぶっきらぼうでも正確無比にゴールまで一直線に活動して頂けるのが良い。市役所などでクレーマー諸氏を見かけるが、自らの定性的な依頼を反省することなく、定量的な結果を求める愚に辟易する。質問力が無い者には聞き力も無いわけだから始末に悪い。

博士号取得などにおいても質が重視されるべきである。インパクトファクターが無く、ハゲタカジャーナルであっても数があれば博士号を獲得できるような惨劇は無くなるべきだ。まっとうな論文を作成した者は、それが自らのこれからの人生の励みになる事であって、低次元の博士論文にずるさを感じる必要は無い。これからの生き様を自ら納得するのがよろしい。それだけで良いのだ。

気象庁の二週間天気予報を拝見したら、どうも最低気温が5度以下が今週もずっと続くのだそうだ。深夜の気温低下は睡眠の質を下げてくる。寝ぼけ頭の言い訳をするわけだが、春眠暁を覚えずとも言ってられず、暁の頃には職場に到達している状況が続く。丁寧に一つずつお仕事をしていかないと、この年度末の雪崩の如くのご依頼をこなしていけない。気合である。

ラーメン

小生的にはラーメンの食べ歩きの趣味は全く無いので「そんなもんか」と思っているだけなのだが、街のラーメン屋さんが、ゼロゼロ融資の返済および小麦等食材の高騰で利益率が下がってしまい、人件費確保などが不可能になり倒産していっているのだという。TV番組的には結果を報道するだけなので無責任発言で終わるのだが、ニュースいわく「ラーメンに高額を支払うことは出来ないから、利益率を上げられない」という。

別の報道では1000円を超すラーメンメニューでも行列が出来るとも言っている。先のニュース番組においてはラーメンは庶民の食べ物で、ワンコインが目指すところだ。だから千円などとんでもないという結論で、値上げは以ての外という事であったのだが、一方で、政府は給与を上げて価格転嫁が可能で、サステナブルなビジネスが出来る日本を目指すなんて言っているわけだ。後者の意見ももっともな気がするのだが、仮説がある。全ての人の給料が上がるという仮説だ。

AIの登場によって、多くの仕事がAIやロボットに奪われると言われているのだが、恐らくはそう簡単には難しいだろうと考える。差が出てくるのはAI使いの匠と、そうでない人達の仕事の質であろう。仕事の質に応じて賃金が設定される正しい社会になっていくとすると、千円のラーメンを食べられる人とそうで無い人が出てくるわけだ。その昔、一億総貧乏という言葉が使われて、ガキながらに「そうなんだ」と記憶している。

必死に努力して学んで、それを活かすことが出来る社会になって、世界に価値を提供出来て、それが給与となって跳ね返ってくるべきであって、金が金を生んで、バブルの様に実体の無い金遊び癖が抜けない政治家や経済界トップの思想が一掃されないと、本当に頑張る気になる日本にならないのではないか?経済活動が地球を滅ぼす状態にあるような愚かな星ではいかんだろう。