言うだけ無駄か・・

お世話になった先生がご存命中に、何やら集まって、何か会でもやってみようかなと思ったのだが、「死期が迫った人の行動」というお話の中に「世話になった人のお礼の会を催したがる」というのを見て、なんだか背筋が冷たくなった。いや、それほどのことでもないのだが、人前で「両足を棺桶に突っ込んでいる」とか言っているので、言霊となって襲ってきたかなと、まぁ、どうでも良いのだが、それでも直接お会いして感謝の言葉を述べたいのだから仕方が無い。やってみたいとは思う。

気を付けて辺りを見渡してみると、同様の現象が発生しているように感じる。突然、誰かがやってこようとして、時間をよこせとかね。小生は嫌だから「会う暇はない」と「会いたくない」という言葉に偽りの色を付けて返答するのだが、問うた側の理解が足りずにそれでも時間をよこせと言ってくる。勿論、更に偽りを重ねて追い払うだけなのだが、勝手なもので、こちらからお会いしたい方もいらっしゃって、これは心からだから良くて、小生に対する時間泥棒は、その輩が銭金に変換しようとする悪行だから断って良いのだと決めつけている。真実だから迷わない。

大雨になると河川の堤防が決壊し、竜巻によって送電線が切れて停電になる。どちらも社会インフラと言う人々の安心を約束してくれるはずの工業商材なのだが、想定外と言って破壊され、人々の安心を奪い去っても不可抗力としてしらんぷり。マスコミもそれに呼応してつっこもうとはしない。まぁ、自民党の票田だしね。政治家のお犬殿が何を言うはずもなし。選挙のたびに「国民の皆様の・・」なぁんて、死期が迫った人の発言を鵜吞みにして、次世代に付けを残す老害。

まぁ、小生も間違いなく老害組なのだが、選挙においてはちょこっと行動は違う。死期が迫ってそれこそ後何回、選挙に参加できるかなど分からないが、脱税しても公認される日本の選挙制度と、それを許容する国民に辟易する。それを打ち破る人に育って頂く教育はどうあるべきか。組織はどうあるべきか。一人で何かが出来るわけでは無いのだが、何か、活動せねばならぬ。そうとは思う。

あぁ、デザイン思考

既に語られなくなったデザイン思考だが、丁度、おもちゃ的な3Dプリンタが安価で購入できるようになったり、レーザーカッターが隣国から数万円で購入できるようになって、プラ板や薄いベニヤ板を、それこそ好きなようにカッティングして組み立てたりね、そんなことが出来るようになって、ドライ&エラーを許しながら商材として完成させていくということが現実に出来る様になったタイミングで出てきた単語故に、取り敢えずやってみようという思考をデザイン思考と勘違いされたところに悲劇があったのか、それに踊った教員を含む社会が喜劇だったのか。

デザインって、ビジョンの基にミッションを定め、それを実現するシナリオを思考し、そのミッション達成に含まれる構造とその流れを設計するプロセスだったんだけどね。当然のことながら、ミッションを達成させるための、個別の要素の構造化ということも含まれる。まぁ、大型の科研費の申請の構造みたいなものなんだけど、なんだか知らないけど、ユニバーサルデザインとかね、その手の単語がごちゃまんと降り注いできて、ディシプリンがどうのこうのとか、どのような思考を成す事かと、きっちり腑に落としてくれる説明をしてくれた人は日本人にはいなかった。

結局のところ、それを語り出した者の著作を拝読して「成程ね」となったわけだが、横文字にすれば新しいと勘違いして喜んでしまう国民性はどうかと思う。先人がやってきたことを学問っぽく構造化して、フローチャートみたいに並べてみて、ほら、新しいでしょなんて言われると、とっても弱い国民性故に、あぁ、なんだか尊いものに出逢ったぞみたいになっちゃうわけだ。

大切なのはデザイン思考のマネージャーが、しっかりと思考から生まれたシナリオを理解して、それを実行して、想定した価値を実現することなんだけど、その能力を養うというのがこれまた大変である。マイクロ組織の壁は厚く、そして高く、既得権益に少しでも抵触しようものなら大反撃をくらって、理想論など消し飛ばされる。プログラムマネージメントの最大のリスクが、既得権益のヒエラルキーの破壊困難さにある以上、組織改革なんて成し得ないだろうなと、まぁ、苦笑いの毎日である。デザイン思考が出来たとしても、その思考の生産物に到達することは無いのでしょうね。特に組織改革においては。

遥かなるゼロベース思考

研究テーマにもペルソナを設定するべきだと考えている。小柴先生がノーベル賞を受賞された時、マスコミが「この研究は何の役に立つのですか?」と、それこそ無知蒙昧をさらけ出した質問を受け、先生は「何の役に立つということは考えていない。ただ、人類が存在している宇宙の起源を知る手掛かりになると信じている」と仰った。地球人類全体がペルソナであり、ノーベル賞にふさわしいビジョン設定と言うか、研究テーマ設定の大方針と言うか、見事である。

残念ながら、なかなかそこまで大きなテーマで一歩踏み出せないのだが、「これは面白い」と感じる背景には、なんらかの要因があって良いのだと思う。最近、振り回された申請書の中に「ゼロイチ」という単語があった。要は「何もない真っ白な環境から新たな何かを生み出す」という広大無辺な思考アプローチを実現可能にする能力を伝授するということなんだけど、この時代において、そんなもんが何処に落ちているのかと、大風呂敷愛好家の小生であっても、おこがましくて使えない。

当該分野の文献を探ってみると、今ある状況から本当にこう有りたい状況を考えることをゼロベース思考と言っていることが解り、はぁ、こんなことだったのねと力んだ自分が馬鹿々々しくなった。決してゼロベースではなく、純粋なフォアキャスティング思考である。未来をイメージすることからでは無く、現状認識、即ち、似非コンサルティング業者が使う「ペイン」という言葉からの出発で、何がゼロベースだと、本気で悩んだ自分の愚に失笑である。

まぁ、それであったとしても、こう有りたい姿を描くことはとても大切なことである。我が国の政治家の有り様を見れば「先ずこれを正せ」とか、「これは大きな罰である」とかね、何をこうしたらそうなるでしょうという、何のエビデンスもないところで声を張り上げるよりは、冷静に「これが有りたい姿である。その姿と今とはこれだけ違う」ということを示すのだから。勿論、それが何故成されなければならないのかと言う、ビジョンと目的が付随しなければならないのだけどね。申請書の基本の「キ」なんだけど、出来ていない人、出来ないアシスト人材ばかりでうんざりだ。

無茶と無理

何にどのように全身全霊を注ぎ込めるかで一秒の長さが変わるなと、この年齢になってようやくわかってきた。必死になるとか頑張るとか、当たり前なんだけど、どうも自ら努力したと、自らに説得し、そして納得できるのかというのは、内省から湧き出てくるものにマッチしないと、どれだけ時間を掛けても、その意識に到達しないと、今更なのだが得心出来た。理解から納得に至り得心する。そういうことなのだなと、馬鹿々々しいくらいに腑に落ちた。

小生が在する場所は、徳川の時代になって新田開発による納税記録が明確に残っているから、明確に歴史を紐解くことが出来て面白い。三つの池があって、その内の、最も標高が高い位置の池は環状道路の建設によって埋め立てられてしまっているのだが、雨の翌日にその脇を通ると、水が思いっきり染み出てきているので、その名残が明確に分かる。江戸時代の地図にもしっかりと描かれており、明治初期の陸軍測量地図とも合致して「ここは大地震で液状化するのだろうな」と判りやすい。

その新田開発と同時に行われたのが神社の創建で、毎年、初詣でをさせて頂く場所となっている。氏神さんだから、まぁ、最もふさわしかろうということなんだけどね。電子だ原子だなどと普段は騒いでいるくせに、神殿を前にすると手を合わせるのだから人とは面白い。人だったのか?という疑いはこの際置いておくとして、とある年齢を超えた頃から自然と湧き上がってくる気持ちがあるなと感じていた。それが内省から湧き出てきたものということなのだろう。

無茶は良いが無理はいかん。無茶と無理って何と言うか、同じベクトル上にあって、しかし、その絶対値が違っていて、無茶を通り越すと無理がやってくるのかと漠然と思っていた。無茶はその人間の本質であって、他の人間には理解されない領域の出来事で、無理は他の人間に理解されてしまうレベルで自らを暴発させていただけのことと、漸く理解できるようになってきた。無茶を続けていく。これこそが正しい生き方と得心した。ダイヤモンド表面にステップバンチングをCMPで表出させることが出来たのも無茶故だろう。自然は面白い。人も面白い。

地味が一番

プロセスインフォマティクスに対する憧れがあって、散々、古典的ものづくりを続けてきたので、折角、ここまでAIが深化して、その原理原則をイメージされたかたがノーベル賞を獲得されたりしたのだから、そろそろ計算機が「こうやったほうが良いよ」くらいのことを言って欲しいのだ。サボりたいという訳では無いのだが、ゴールに速やかに到達できるのであれば、報告のない研究分野においてだからこそ、AIに頑張って頂いて、人の代わりに天の声の如く導いて欲しいなぁと、そろそろ両足を棺桶に入れるので、楽をしてみたいものだとおもうわけだ。

AIを活用するマテリアルインフォマティクスの研究発表を聞いていて、実に面白いなと感じたのが、現場でものづくりを続けてきた方が、AIが提案した「もの凄く良いモノ」に関して「色眼鏡で見てしまって、信じられないから試さない」と、学習初期に痛い目にあったからちょっと推薦データをはじいてしまったとの現場ならではの声を聞いた。これは実にユニークである。確かに信じられないほどの予測をされたら時間の掛かるものづくりを避けたいという気持ちはわからないでは無い。

足下のお仕事なんだけど、地味に材料を粉末化させてみようみたいなことにおいて、経験値的にこうやったら良いのではと思ったことが、調査してみると「おや、こんな報告があるのね」みたいな出てきて、それも経験で導かれたことだったりするのだけれど、AIがどこまで学習しているのかということは極めて大切だなと感じた次第。まぁ、AIに聞かなくてもAIが教えてくれそうなことを一撃で見つけていたということで、生きていて良いのだなということなんだけど、地味に真面目に、そして丁寧にお仕事をしてきて良かったなと思った次第。

研究は極めて地味ですよ。地味だからこそ、思い込んでしまうと気づきが無くなってしまう。この道40年という方と話をさせて頂いて「なるほど、あなたの指摘で腑に落ちました。なんとなくそうではないかと思っていたのですが確証を得ました」と言われ、妙に嬉しくなった。図々しいお話だが、AIが10通りの手法を提案するよりも、自らが生み出した1つの方法がゴールに導いてくれている。その程度のことしかやってないということでもあるんだけどね。パラメータが無いからレフリーに文句を言われるけれど、小生的には解っちゃうんだから仕方ないじゃんと言うしか無い。政治と違って、研究は愉快である。素晴らしい。

聴き力

対話において、特に話し手の時には「Why?」には「Because」がなければならないと感じる。特に上から目線の諸氏に申し上げたい。単に「これをしゃべろ」と命令されても、こちらは聴き手に思った以上の答えをしようとするわけなので、何故それを聞きたいのかを加えて頂かないと、返答に窮する。そんなの自分で調べたらと付き離すだけである。答える義務は無いしね。お偉い立場だから「聞いてやってんだよ!」くらいの気持ちなんでしょうけどね、こちらもいろいろと仕事がある身なので、その時間を奪われるのは極めて嫌だ。

自らの他律機能を発揮させるためには「聴き力」は猛烈に重要である。それは話してと共鳴させて頂いて、お互いが高いレベルにおいて対話を行う力、機能である。何故、それを聞いたのかを問わねば、聴き力など発揮しようがない。相手の効き力を高める伝達力があって、初めて聴き力は効力を発揮する。いや、言ってしまえば、こちらの聴き力を喚起させない話し手は相手にしないのが良い。

学会などでは最初の30秒で結論を語らない者の話は聞かないほうが良いと言われるが、一対一の対話においても、何故なのかを口から出さない者には耳を閉ざすのが正式な対応である。自分達が欲しい情報だけを、知っていそうなやからから奪い取って、さも、自分達の活動の成果だと言いふらしたいのだろうが、自ら汗を流さず、知恵も使わず、そして人脈も無いみたいな輩に限って「教えろ」とだけ上意下達。おぞましい限りである。

巧言令色鮮し仁。いや、巧みでも無いから、この言葉は当てはまらないかもしれないが、もう相当にこちらに疲労が蓄積してきているから、言われる前にご退陣ということとなろう。ナーバスブレークダウンはお好みでは無い。よってまぁ、もうちょっとのお付き合いかもしれませんが、お次はよろしくお願いいたします。

退陣の時は

上に立つ者が下の者に向かって丸投げは宜しくない。丸投げされた者に到達するべきゴールが与えられない場合はなおさらだ。ゴール無き戦いは無限軌道を走り続けるモルモットに似ている。いずれ疲れ果て、朽ち果てる。そうなると上の者は、別の者を投入して、同じことを繰り返す。ヒエラルキー絶対社会ではそれが当たり前のように繰り返される。いつしか組織もマヒして、それが当たり前と疑うことをしない。

お偉いさんは自らの点数を下げる下の者を許さない。上の者に対してでさえ、デマ、嘘でなんとか蹴落とそうとする。何と醜いことか。そんなことをすればするほど、自らのいやらしさが伝播していくことが解らない。「あの人はこのように最低である」とまことしやかに伝達して頂く方がいらっしゃるが、そんなことは気にしないのだ。そもそも貴方が足を引っ張って陰口を言う前から、呆れて知らんぷりを始めているのだ。告げ口は知らんぷり対象者を増やすだけだ。

組織の中に巨大な年齢差があるのは宜しくない。それを感じる前に、退陣するのが最も良いのだが、うかつにもそれを失した場合には、速やかに準備を行い、そして消え去るのが宜しい。それが丸投げが発生しない組織づくりの所要兼かもしれない。何を何故バトンに託すのか、託された側はたまったものでは無いのだが、それは小生とて同じこと。スパッと見事に消えるのが宜しい。準備が出来たら即座に消える。必須である。

他人の思考を分解し観測できなくなったら、人間を辞めるのが良い。ただ投げるだけとか、AIに頼ってみようとか、それは大いなる訓練ではあるが、AIを超える発想力の若者が存在することを認められない醜い者は、既にAIによって駆逐されている職能人であることを理解せねばならぬ。自らは何ゆえに存在しているのか。哲学の最初の一コマであろう。一歩引いて瞬間先の自らを眺めてみると良い。今と全く変わっていないのであれば、君はもう引退だ。よく頑張った。おめでとう。

再分配

電機磁気学や四力学など、工学のエッセンスであり、テラヘルツ送受信が可能になった今においても、それらがでんぐり返るというお話を聞いたことが無い。量子力学においても、数学的な進化に伴って、概念を定量的に扱えるようになり計算機への応用が実現してくるなどの、人間が活用できる範囲が広がってはいるが、これもでんぐり返ることは無い。工学を活用するという点において、工学の道具と言う側面をどのような場面で活用するのか、その応用範囲の広がりを考えることになる。

解明できていない生体内の現象においても、工学と言う道具は役に立ち続けると思うのだが、生体における微小な電子のやり取りやクーロン力による信号のやり取りをその場で観測するという夢において、電場だけではなく、磁場という、言ってみれば切っても切れない関係性を上手に使おうよとなっていくのかなとふわっと考えたりする。どうやって何をどうするのかを描けているわけではないが、何か面白いことは無いかなと思ったりする。

するとセンシングという、工科系の人間にとっては至極当たり前のツールの原理原則を、信号解析の基礎とその活用方法と共に医学系の人間が扱えるようになったとすると、その学生さんは将来においてなんらかの夢を持つかもしれない。大学って人間の育成機関であるから、誰に夢を描かせるかという点において、経営者は知恵を絞らねばならない。「いいもの」になって金をよこせと本社に陳情しても、それは甘いのではないか。今をしっかりと見つめて、他大学の役割部分は割譲、廃止という方向性も考えねばならぬ。

研究成果を社会還元するという絵柄は綺麗だが、社会還元が今ある商材の微妙な改善であってはしょうがない。自らの他者と差別化するという精神を養うアントレプレナーシップだが、差別化を喚起する研究成果がどれだけあるのか。それをきちっとロジカルに語れないのでは「その分野を排除しては?」と本社に言われても仕方が無い。分野間の連携無く、縦割り思考のままの頭では、新時代の旗手を育てることはできまい。無くなった分を他大学が獲得していくということになろう。厳しく自らを見つめるとそうなってくる。そう感じている。

白黒付かない

学生時代を思い出すのは、もう、かなり無理な芸当なのだが、人間機械論だの、世界国家宗教だの、不可思議な課題で学ばせて頂いたおかげで、その道に関してはオープンエンドな対話が出来るようになっている。クローズエンドな人との会話は辛い。分野的にクローズエンドではないと許しがたい人種なのでしょうけれど、51%対49%みたいな場面でも、51%側だけが正しいと判断出来るのは、ある意味羨ましくもある。自分の哲学だけが絶対に正しいという輩も羨ましく思う。

羨ましいなんて言ってはみたが、まつりごとをつかさどっていると、そりゃぁ、一方的に「こっちだろ!」と決めつけたくなる時もありましたけどね、しかし、それはまつりごとでは無い。どうぞご自由になさって頂ければと常に思っている。今も「なんとか長」のお役を頂いているわけだが、これとて、判断の連続で、中期目標・計画の期をまたぐところまで考えてジャッジしていく必要がある。いろんな噂ベースでしかないのだけれど、国の稼ぐお金が減っている以上、楽観的方向に行くはずはない。

日本の研究論文の力強さが落ちているなんて言われるのだけれど、そりゃぁ、円安で、一本の論文を投稿するにしても決して安いものでは無いからね。運営費交付金で分配される基盤的活動資金では、部屋代や講義の準備、大型設備活用費用などで消し飛んでしまうから、特にものづくり系の研究者は何等か、外部資金を獲得しないとにっちもさっちもいかない。材料開発などは「こっちが正しい」なんてジャッジはそう簡単に出来ないから、パラメータを振ることにお金と時間を費やすわけだ。

生成AIが全てを判定してくれて、その通りにやってみたらその通りになったなんて研究者は無用なわけで、まぁ、こんなことに関してであれば「そっちが正しい」と言えるんだけどね。他人の論文のトレースだったり、学会で聞いた情報の隙間を狙ってみたりね。もう、いい加減に辞めてくれないかな?と言いたくなる。やっぱり学生時代の不思議な学問への接触は極めて大切だ。それも真剣に、必死に接触せねばならぬ。リベラルアーツとは生涯の方向性を決める。そう思う。

ダイヤモンドにて

学生時代にGeやSiとか、HgCdTeという、公害認定病半導体とか言って怒られていたりしたのだが、その当時にその内にこれになるよと言われていたのがダイヤモンドである。今では数センチメートル角の板状素材が手に入るようになり、電力制御半導体素子を作り込むことが可能になって来た。性能は図抜けていて、確かにダイヤモンドデバイスの時代は来るなと感じるのだが、まだまだ商用デバイスに至るには乗り越えるべきハードルが沢山ある。

結晶成長は勿論大変で、そう簡単に大きく出来ない。某社によれば、大きくすることは出来るが「磨くのが大変」ということで、それがコストの決定因であるらしい。SiCやGaNも磨きにくいが、炭素の塊であるダイヤモンドは、その硬さ故に磨くのが大変である。そもそも論、研磨の研究を行うには高価な基板を入手せねばならず、最初にビジネスモデルを考えてから取り掛かからねばならぬ。おいそれと始められない。

身近なダイヤモンドと言えば刃具である。なんだそれはとなるのだが、5~60万円もするミクロトームとかね、顕微鏡観察前の資料を薄く削ぐ刃物につかわれていたりするのだが、そんなものも含めて、価格は研磨代金みたいなものと思って良い。とあるご依頼で磨いてみたのだが、表面の状態が見たことが無い状態になり、傷だらけだと文句を言われた。じろじろと眺めてみるとステップバンチングである。ダイヤモンドをCMP加工してステップバンチングが生じるなんてことを始めてみたし、その正体を知らない人からすれば加工痕だと騒いでも無理は無かろう。

化学的に材料を成長させると、熱力学的に安定な状態が表出するのだが、ダイヤモンドにおいて不可思議な階段構造が出来る事は2000年頃の論文に紹介されていた。結晶の向きにも依存するのだが、間違いなく形成される。結晶成長と研磨とは逆方向プロセスだから、成長で出来るものは研磨においても出来るのだ。当たり前なのだが、見たことが無いと信じない。小生も始めてみた。自分でやって驚かされる。世界初に挑戦しているとこんな愉しさに出合う。これこそ冥利、幸せである。