脱低学力化

ちょっと前に博士課程取得者の雇用希望、及び、社員殿に博士課程を取得させる可能性の御用聞きに伺ったら、某赤いマークのお会社のみが積極的な姿勢と言うか「当たり前でしょ」という空気感だったが、他のお会社はけんもほろろの「二度と来るな」状態であったとお話をさせて頂いた。バブル崩壊を受けて、1996年に文科省が博士取得人材3倍化計画なんてのをぶちあげ、実際に博士の量感化をやっちゃったものの、企業は不況で研究所をたたみ、博士なんか要らんわとなり、現状に至る。

博士人材の御用聞きに回った時の感触なのだが、「専門を活かすところが無いんだよね。フレッシュで言う事を聞いてくれる人が欲しいから、老人の石頭は要らない」という、ちょっと意訳しているが、そんなところだ。それともう一言付け足されるのが「勉強したら退職しちゃうから、社員を再教育なんてしない」という時代錯誤のお返事を頂戴する。高学歴者も要らない、再教育もさせないで、どうやって、技術で世界と戦っていくのか。どこまで低学力化を目指すのだろう。

何を学んだか、何を生み出したか、何を成したかではなく、コミュニケーション力があれば良いなどと、リクルートの場で企業がぶちあげるものだから、理工系においても学会での会場での質の高いコミュニケーションではなく、食事の場での空気を読むコミュニケーション力ばかりを高めている学生が売れてしまう。教育の場に身を置く者としては、研究の進捗に意見というか、成長するためのコメントをしたつもりが、強要してきてパワハラ・アカハラであると訴えられることが恐怖になって、本来成し遂げたい教育・研究指導が出来ない状況に陥ってしまう。勿論、全ての事例では無いが。

レトルト食品を買って食べる知恵を持つ4年生卒か、誰と誰がテーブルを囲んで幸せな時を過ごすことを演出するためには、どのような場、サービス、食材が必要で、どんなコース料理がどのような空気感で演出の中の役を演じるのか、地頭の強さを持つ博士取得人材か。低学歴を好む日本企業の中において、中小企業殿でも企業のお金で全員に博士取得を推奨する企業も現れている。今すぐ効果が表れるわけでは無いが、強い地頭同士が議論しながら仕事を作っていく事で、激しい差が生まれるだろう。国はそんな企業をより強くするための支援をするべきで、福祉政策としてのゾンビ企業への支援は今すぐ止めるべきだ。決まっている。

計算工学

敬愛する、既に御退職された教授先生がお伺いしたお話で「工学の工の文字は神様が作った天上界と人間が住まう地上とを結ぶことを意味している」ということ。良いお話だなと妙に印象に残っている。与えられた自然現象の内で「謎?」と感じる事象に対して、人の世に活用できるように仕組みを作っていく学問が工学と言えよう。分からないけど効いているという麻酔などは医学であって工学では無い。工学は原理原則が明らかになっている学問である。

学理を基盤として技術に転換していくことは、いわば伝統芸である。文明と呼ばれる時代において様々な技術が工学によって生み出されてきた。計算機の発展、IoTの進化に伴って形になってきたAI。マテリアルインフォマティクスをベースとしたプロセスインフォマティクスは、理想の形態は何であって、それを機械的に実現するためにはどんな形状で、それはどのように組み立てられるのが最適であるのかを導き出す計算工学は、人がこうありたいと願うことを実現するという観点で、工学の解釈を変える時代の到来を感じる。

所詮は人間が行った解釈なのだから、どんどんと変えていけば宜しい。そもそも、ロボットやAIがこれ程に進化している今、人間がモノづくりを実施するというのもなんだかナンセンスだ。世界中で公開されている知的財産を用いて、AIが人に便利なものを提案してくれても良かろうと思ったりもしている。こうなってくると、自分達が24時間戦い続けて、ものづくりに取り組んできた時代が懐かしい。まぁ、そんな踏ん張りがあったから、シリコン単結晶中の欠陥がどう動くとかね、今のLSI製造に貢献したと想えば、まぁ、良いではないか。

人がこうありたいを叶えている内は、まだまだ工学と言って良かろう。AIがこうありたいをロボットやAIで叶え始めた時、それを人類はどうとらえるのか?所詮人間が考えたことと言っていられる今は、人の可能性を信じることが出来る幸せな時代だ。人間はSDGsの思想に反しますと、AIが地球環境保全のリーダーとして活動し始めると、実際のところ、無慈悲なまでに環境保全に向かうのかもしれない。それが神様が与えた工学が産んだ技だとするならば、それは神が望んだことか。そうかもしれない。

2040年の憂鬱

梅雨入りで覚悟していたずぶ濡れの出張であるが、あにはからんや、昨日は日中は雨にあたることがなく移動が叶った。喜ばしい限りである。一日ずれていたら恐ろしいことであった。沖縄県は梅雨明けではあるが、天気図やニュースでの情報しかないのでいけないのだが、大変な豪雨被害にあわれたと認識している。当該地域も同様の状況にいよいよ突入かと覚悟していたのだが、降るには降るようなのだが、あっという間に梅雨明けしてしまう雰囲気である。

これまた天気予報を眺めていると、台風らしきものがやってきそうではあるものの、本州直撃ということは無さそうである。いずれやってくるとは思うのだが、6月の残りの中においてはそれは無さそうである。大型の傘を買ってみたのだが、使う機会がなくちょっと拍子抜けである。いずれ使うことになるのだろうけれど、当分は傘立てのお飾りとして輝いて居ていただこう。

大学の2040年問題というのがあって、それにかなり頭を割いていた今週ではあるのだが、それなりに一般民間人の方々の耳に入り始めていると思う。1991年に2百万人を超えていた18歳人口が、80万人台まで減っていく。「大学の経営も大変だなぁ」と他山の石を決め込んでいらっしゃるのだろうが、これはそのまま、若手新入社員が、もちろん、日本人に限ってのことなのだが、減ってしまうということだ。

円の価値、即ち国の価値が下がりまくって160円世界に安定どころか、200円くらいまでいっちゃうんじゃないのと、プラザ合意まで遡るのかという雰囲気である。人が減るのは分かりきっている。国が生み出す産品の世界に対する価値を下げまくっている現状で、のんきなリーダー達は給料を上げろという。税金をゾンビ企業の延命に使いながらである。切るところは切らねばならぬ。雇用が安定なんて呑気なことはおしまいにせねばならぬ。水不足も人不足も恐ろしい。ちょっとはまじめに考えてほしいと政治家諸氏に言ってみたいが、まぁ、無駄だし、国民の選択だからね。諦めるか。

老害考

若いけれど老害。ベテランだけど若者。どちらも存在する。害毒は勿論、若いけれど老害で、ベテランの老害よりもたちが悪い。ベテランの老害は、指折り数えればご退場になるからね。それでは老害とは何かということになるのだが、過去の実績を振りかざし始めると老害と言えよう。成長して追い抜いて頂いてこそのベテランなのだが、若者的ベテランは、永遠に努力を重ねていらっしゃる。見えないところでのすさまじい努力に感動する。ベテランだけど若者である。

老害を至る所で感じるのだが、まぁ、政治家程、老害に蝕まれた世界は無かろう。目まぐるしく変化していく世界の中で、我が国だけが化石の如くに変化しない。世界競争力ランキングという面白い指標において、企業の技術革新や利益に直結するとされる「ビジネスの効率性」という値が51位なんだそうだ。そんなに高いのかと驚いたが、政府の効率性の42位といことで、「あてになんのかな?」と本来、ランク外であるはずの値がランクインしていることにランキングに疑念を抱くが、企業の技術革新指標が落ち続けていることには賛同する。

自動車業界をにぎわしている検査不正などは若いけれど老害の表出であろう。勿論、ベテランの老害の言動と行動に端を発するものだったとは思うのだが、それを正さず実行してしまうところは老害である。今を変えようとしないのも老害である。出来ない理由を作り出すのも老害だ。なんだかんだと自らを正当化しようと努力して、その実、今の作業を変えたくないだけ。これなどは正に低効率を維持しようとするもので、世界ランキングを下げる要因である。

老害になりたくはないのだが、気が付くとそうなっているのかもしれない。新しいことを成し遂げようと思っている間は良いのかもしれないが、Z世代諸氏にとっては、それも老害なのだろうと思ってしまう。どんな行動がベテランだけど若者となるのか、時代のものさしに照らさないといけないなとも感じている。新しい老害に気づくようになってしまった。恐ろしいことである。

たびたびのZ世代考

Z世代っていろんなことが言われるのだけれど、そんな言い方をするのは老害であって、若者に付いていけない連中が、壁を作って自らを守ろうとした呼び方なのでしょうね。数はこの国では激減しているけれど、若者は常に出現していて「今年の新人は・・」なんて先輩諸氏が苦い顔をするのだ。電車の中で大声で、座席のあっちとこっちでしゃべっている若者に出会い、元気があってよろしいと思った次第なんだけどね。

小生ががきんちょの頃は、道路の舗装が始まって、銀座には路面電車が走っていた。それがトロリーバスになったなと思ったら、地下鉄が走り気が付けば路面電車が消えていた。鉄の塊みたいな自動車が、どんどんとスリムになって、テレビに色が付いて電子レンジが出来て、洗濯機に脱水機が付いてと、なんでもかんでも便利になっていった。それでもパソコンに普通に触れるようになったのは研究室の頃だけどね。そんな進化の過程を全く見ていない人達ですよ、Z世代って。

先日、隣のK先生に「給料ためて買いたいものがあるか?」と聞いたら「ありません」と即答された。そうなのだ。Z世代諸氏の時代においては、社会は断捨離の対象であって、何かを欲する世の中ではないのだ。携帯電話も適度に進化を続け、SNSの仮想空間で大概のことは出来てしまう。ただ、変わっていないのは人間ということであり、病気には勝てないところは同じである。

すると、Z世代向けビジネスはヘルスケアかというと、そうでもない。身の回りを見渡して見て欲しいのだが、健康オタクはとことん健康になって、無頓着な人はどんどんと病気になっていく。健康格差ははなはだしい。小生から見るともやしのナムルのような身体で、歩行速度はカタツムリ並みなのだが、酸素を吸って二酸化炭素を出すところは同じである。Z世代向け商売って、一体何なのだろうと、起業者を応援する身としてははなはだ怪しくなってくる。老害ということか、去るのみである。

男女平等を思考すると

お仕事と作業との違いを語りながら行き着いたのが男女平等。討議者から出てきた意見が「男子も子供を産めれば良いのだ」ということ。のけぞっては見たが、地球上の生命体において、男子の腹の中で卵を育てる生き物もあるわけで、それが全く受け入れられないということでもないのだが、生命の進化における過程で獲得してきたそれぞれの種の機能であるから、いきなり現時点でそれをひっくり返すのはどうかと思った次第。しかし、討議の中において、明確に反論できる事柄も見いだせなかったから、それでも良いのかもしれない。

近年、日本企業において漸く育児休業を獲得する者が増えつつあるということなのだが、かのアイスランドにおいてはそれはほぼ100%であって、社会全体で次世代を育てるという思考が文化として根付いている国もあるということだ。政治への参画においては、40%以上の議員を女性に担って頂くとかね。根本思想が違っている。明治時代に制定された法律が延々と生きているとかね。この国の哀れさは筆舌に値する。

お腹の中で子供を育てることはできないのだが、男子の最低限の役割は子孫の心を育てることに協力するということに違いない。それは子孫の将来を形作ることに繋がる極めて重要な役割である。これを放棄したならば子孫は片親状態で成長することと同意となる。男女平等の社会など望むべくもない。

男女を問わず、個の価値観は人の数だけある。全てが異なる価値観を持ち、それらが社会において様々なことを創造するからこそ、新たなものが生まれてくる。今よりもこうなったほうが良いだろうという思考が社会のあり様を変えてきた。時に、誤った為政者が選ばれ、その下に正当化された殺人が延々と繰り広げられ、地球人類の創意は得られず、強硬に殺人が継続される。自然界では増えすぎると減少の方向に種の意思が働くが、人類にもそれが起こっているのか?終戦から79年。考えねばならぬ。

いい子はいません

「政権は渡してはならない!」なぁんて老害が叫ぶわけで、世界的国度が急落し続けているこの国を維持しようとする考え方がどこからやってくるのかさっぱり分からない。この国の地方首長においては、まぁ、一度、こっちで試してみようかなということかもしれないけれど、中央政府を牛耳る軍団とは異なる組織を御旗と仰ぐ集団に移行しているわけだから、中央そのものもそのまんまが良いということは無い。選択肢があって良いわけだ。

選択肢が無いことは悲惨なことで、こんなことで良いのかなと思っても、それでは対案は何かと一般ピープルには世界から見た国政と言う観点で考える暇など無いわけで、日頃、そればっかり考えている筈の、あくまでも筈なのだが、輩の案というものを見てみたくなるわけだ。すると一般ピープルとしてはお互いの異なる主張から自らの意見を纏められたりね。そんなことで、ことなるものが入ってくることは間違ってはいない。まぁ、科学技術においては「二番手」は駄目だけどね。これは絶対に譲れない。

小生は自らを老害と知っているから、ちょっと離れて眺めているわけだが、妖しい輩が取り込もうとしてくるのがおぞましい。誠に不快なことで、与党にくっついたり、分が悪くなると離れてみたりと言う政党の如くである。こういう輩が一番嫌らしい。是々非々で良いと言えば良いのだけどね。まぁ、与党が国民の圧倒的支持を受けて政権を担っているわけだから、何があっても変わらないのがこの国なんだけどね。飲料水にフッ化物が入っていると駄目だよという基準を厳格に持つ欧米に対して、企業から献金が流れているこの国では国民の命よりも政治献金が大切だから規制せず国民は見殺しである。まぁ、それも国民の総意だから仕方が無いか。

対策に金がかかるから大変だという。健康を害して皆保険で国民から搾り取った金を撒くのは正義で、国土汚染による国民の健康を害することにも積極的になる。それで金を還元しているのだから投票せよという。うまい仕組みだ。これ程見事なサブスクビジネスはあるまい。先日、ちょこっと傷んだほうれん草を購入してしまったのだが、考えてみれば「痛む」という正常な状態なので、ゆでれば大丈夫だろうということで一件落着である。なりふり構わない奴らとは距離を置く。それが正しい選択だ。

望む21世紀旗手!

どんどんと親会社の締め付けが厳しくなっているのだが、それは自然の流れだと感じる。博士人材輩出は喫緊の課題なのだが、鶏・玉子の関係はずっと続いていて、博士学位を取得したらどうなるの?という中高生の疑問にまっとうに答えられない日本の現実を変えないとどうしようもない。研究者本人は幸せで仕方が無いのだが、外部から見ると、地獄の業火に焼かれながらもだえているようにしか見えない仕事の状態とか、取得しても企業におけるサラリー面等々、4年生で卒業してもなんら変わらないどころか、無駄に歳を食っているから安月給になったりとかね。

ソーシャルインパクトなんて表現を親会社はしてきているのだが、横文字にすれば良いと思っているところがむなしくなるわけだ。人口減少、少子化によるGDP的国力低下のために大学はもっと気合いを入れろということなのだろう。工学という、いわゆる七徳ナイフみたいな業界は、いつでもどこにでもニーズはあるさと思っていて、滅びることは無いと安心しきっているのだが、そんなことはなかろう。海外のスタートアップの尖り方、巨大投資家が夢の実現に協力してそれを達成している様を見ると、現状の工学教育に未来は無いなと感じてしまう。

そとから経営を拝見するに至り、もっと慌てて動き回らないといけないのではと感じるのだが、現場の研究者の皆様の中には素晴らしいご研究と教育を実践していらっしゃっているが故に、政治的決断の難しさ理解できるのだ。しかしながら、そこで決断を下し行動に出ないとあっと言うまに三週遅れみたいな状況に陥るのだ。老人は去るのみで口出しはしないが、どうなるのかなとは思う。対外部ワンストップ窓口できゃぴきゃぴと輝く1年生と対峙すると、もう、出る幕無いなと感じるわけだ。

当該地域におけるものづくりの有り様は明らかに変わってきている。刃物の消費量が落ちていることからそれは明白である。材料が変わるだけではなく、作られたモノが活かされるサービスが変化してきているということだ。工学教育の現場がそれに追いつこうとしないようでは、お先真っ暗っということだ。21世紀はまもなく四半世紀だ。21世紀の旗手よ、立ち上がれ!

学ぶ意欲を与えられる場

同一分野の卒業研究の発表会においてすら、専門用語を高密度で展開されると「何の為に何をやりたいのだろう?」と首をかしげてしまう。それでも、話の流れは、間違った理解かもしれないがなんとか追いかけることが出来る。ところが、完全なる異分野となるとそうはいかない。10分の講演の中で、知っている単語が2~3個/分程度になってくるとさぁ大変。新たなシナプスの結合が発生せず、カロリーがすべて知恵熱に変換されて、恐ろしいほどにぐったりする。面白いのだけどね。

大きなくくりにおける「私の研究を知って頂戴、そしてこの部分を協業しましょう」という会だったんだけど、いやぁ、どうやって橋渡しをさせて頂こうか、めまいがしちゃいます。嬉しいんだけどね。学ぶことが新たにできたことは有難いとしか言いようがない。新たな自律機能を構築する必要が出てきたわけで、こんなに愉しいことはない。日々学べばよいだけだからね。ゼロから生み出すことしか無くなった現状において、学べばよいというのは遊んでいるにも等しい。

3人寄れば学会というお話を大学生の頃に聴いた。ベテランの先生からだったが、「学問は常に黎明期であり、終わりはない。意見に反論しあう者が3人集まれば学会になる」ということだった。反論が大切で、持論をぶつけ合うだけではだめで、何故なら自分はこう思うから貴殿の主張を受け入れられない」と正しく討論することを教わった。代案の無い反対は許されない。代案を正しく評価しないことも許されない。

首相殿の話を聞いていると、討論の基本が出来ていないと感じる。私利私欲なんだか支離滅裂なんだかわからないが、「だから何?」とTVのチャンネルを換えてしまう。換えた先のニュースも低俗極まりなく、ワールドニュースにチャンネルを換えることが多くなってきた。いよいよ梅雨に入りそうである。灼熱の昨日、今日であるが、しばらくは傘と仲良し。俯いて歩いていても気づかれない。良い期間だ。

オープンイノベーション?

なんのためのオープンイノベーションなのかということだが、従前、リクルート活動の意味合いが強かったのは否めない。法人化の後の共同研究は、共同研究という名の下の奨学寄附金と引き換えに学生を獲得するという雰囲気があった。当時、インターンシップなどが多様化していたわけではなく、企業も大学も手探り状態の中、国立大学の法人化の活用方法に気が付いた一部の企業の知恵の勝利といえよう。現場に入って指導具合を見て釣り上げる。外れのない見事な仕組みだ。

自社の強みを知り、ビジョン達成のためのコア技術の発展を目指したオープンイノベーションの姿は美しい。ビジョンが無ければ発展させるべき技術は分からず、自社のコア技術とのマッチングも見いだせない。自社の強みと思っていたものが、実は単にM&Aで買っただけで自社で発展させることが不可能な技術だったりとかね。そんなものは自社のコア技術に成り得ない。M&Aは所詮は砂上の楼閣である。

検査技術を開発したいというたわごとが舞い込んだのだが、出荷前検査の人達が担うのか、機械処理が終了した直後に、その場で観察するのかすら議論せずに投げかけてくる。KGIを設定せずにマイルストンを決めたいという。なんと情けない日本のものづくりの現状であることか。要素技術やコア技術などの話のずっと手前である。オープンイノベーションの意味を取り違えているのではないか。受託開発を請け負えというのなら、それなりの資金との交換が前提である。

技術は知恵から生まれる。知恵は歯の食いしばりと血のにじみから生まれる。それをただでよこせという。これが日本だ。海外ともお付き合いをさせて頂いているが、技術を生み出した人を尊敬し、支払う対価の交渉から入る。ゴールを定めマイルストンをいくつもさだめ、マイルストンごとに価格が提示される。正しいありようだ。横で見ていて羨ましく感じる一方で、朝鮮戦争時の大企業の中小企業からの簒奪が今も続いているのかとさみしくなる。日本とはそういう国だ。政治が堕落するのも無理は無かろう。