ラニーニャ現象

この季節になると聞こえてくるのがラニーニャとエルニーニョ。ペルー沖の海面水温が低いか高いかで、我が国の冬の積雪が決まるという、地球規模のイベントである。南極海流も関係があるとか無いとか、未だに明確に解明されていない地球の海流と気象との関係に大盛り上がりであるのだが、だんだん、薄着が厳しくなってきた朝である。灼熱より厳寒が辛くなってきたお年頃でもある。

今のところ寒気が日本列島を南に縦断することが無く、ラニーニャによる大雪の影響を、名古屋では観測できていない。しかし、昨日、晴れの予報であったにも関わらず、日中に突如として雨が降ってきたことを思うと、いよいよ関ヶ原を越えて日本海の湿った空気が名古屋に届いてきたかなと感じる。名古屋の冬の天気は侮りがたい。侮っては無いが、予報が晴れだからと折りたたみ傘を宿舎に置いてきたらこの天気だと、苦笑いの昨日であったが、今日はどうであろうか。

ペルー沖で低温だと、海水が下降し、その勢いで日本の南方の海底からてこの原理で周囲より暖かい海流が持ち上げられ、水蒸気が大量発生し、雨になったり雪になったりという、なんとも大規模で呑気な現象。呑気と言えば、ラニーニャだという判定には4カ月も掛るというから、もう、梅が散る頃の判定というから呑気だ。そのくらいのスピード感が良いではないか。地球規模の間隔で毎日を過ごすと、地獄の方がましなんて考えは湧いてこないだろう。

愛してやまない秋田県は既に豪雪に見舞われ、薪ストーブが大活躍のご様子。名古屋では台風も地震も無い今年であったが、豪雪はどうであろうか。小生が名古屋にやってきた頃、名古屋豪雨や豪雪に見舞われ、厳しい自然環境だなと感じたことを覚えている。しかし、近年は殆ど何も被害が無い。それはそれで素晴らしいことで、このまま豪雪も無く、桜の花見を迎えたい。そんな図々しいことを思っているのだが、果たして今年の冬は雪見酒といけるのか、はたまた大乾燥でインフルエンザ猛威の冬となるのか、天の采配次第と考えていれば、まぁ、何も文句は無いと呑気に構えたい、いよいよ切羽詰まった日程の私であります。

こつこつと大掃除

今年は10月の終わり頃から週末の度に大掃除というか、「局所的綺麗化」を実践してきている。根深いカビもしつこくカビ取り剤と洗剤で洗浄を繰り返していると、消えていってくれる。まぁ、目視で黒い状態が無くなるだけかもしれないが、見た目良ければすべてよしという安直感覚でやっている。何もお掃除本舗というわけではないから、自分が満足すればそれで良いのである。

洗剤など使うと気持ちの悪い脱衣所やキッチンの床などは高圧蒸気洗浄機で念入りに手入れをする。脱衣所などは足の裏の皮脂がフローリングに移っているわけだが、それが浮き上がってきて愉快である。100度を超える蒸気にそんなに効果があるのかと疑ってしまうが、考えてみれば、地球の奥深くから鉱物資源を海底や地上にもたらしてくれるのは、地中の熱水であり、その熱水に様々な鉱物が溶けて海に溶け込んでいることを思えば、温度を上げて汚れを落とすというのは当たり前の所作である。

掃除機サイズの機械を使っていて感じたのだが、これのハンディタイプが出たらバカ売れするんだろうなぁということ。特許で縛られているのかもしれないが、圧力釜のくるくる回る圧力弁を抜いた時の凄まじい蒸気を一点に集中させたらどんな汚れでも溶け出しそうだ。汚れが浮き上がったら直ぐに拭き取らないといけないのだが、それはそんなに大変なことでは無く、やってみれば簡単なことだ。

靴磨きが趣味の小生であるから、玄関には靴クリームによる黒い汚れが若干あったが、それも一気に流し落として、綺麗さっぱりな玄関となって心地よい。こんなことをとても暮れの1日では不可能だから、一ヶ月以上も掛けてコツコツと続けてきたら、あらかた、大掃除が終わってしまった。これから3週間も今年が残っているわけだから汚さないようにと苦笑いしている。尤も、神仏に関わるところは大晦日にちょっかいだすと家訓で決まっているから、伝統を変えてまで妙なことはしない。高圧蒸気洗浄機、馬鹿にならないなぁと、ハンディ蒸気洗浄機を企業と作ってみたいなと思っている私であります。

手帳

手帳はパーソナルアシスタント。私だけのアシスタント。それは秘書の方をはじめ、特殊な職種を除けばそうだろうと思っている。単に思っているだけだから、私は違うという人は勝手に叫んでいてください。小生は兎に角そうだ。12月に入る前から地下鉄などの釣り広告に次の年の手帳の宣伝が目に付くようになる。

小生が紙の手帳から離れ始めたのは1993年だから、もう24年も前の話だ。HP100LXの登場で、PCと携帯電脳とをリンクさせ、紙離れを目指したのがきっかけだ。アシスタントは一人でなければ情報が分散して不便この上ない。今で言えばiPhoneに日程を入れて、それを紙に写してなんてことをしているようなもので、二度手間で、情報の欠落の恐怖にいつも怯える。もっとも、今も、紙の手帳が気になるのは、電子媒体への不安である。消えるのではないか?実際に、職場のシステムが変更されたり、電脳側のOSのバージョンが大きく変わるなどした時、あったはずの予定が見えなくなるということを今でも経験する。まぁ、紙の手帳に書いていても、仕事に熱中していて次の会議を忘れちゃったなんてことは、よくある(?)ことですからね。

学生の頃、小生のボスが能率手帳をご愛用なさっていた。小さな紙片を手帳から取り出して、無言で手渡される時の恐怖は凄まじかった。突然、夜中の3時に現れて、5時までで良いからワシの宿舎のポストにデータ入れとけと言われる時の恐怖。それでも必死にこなして自転車を30分ほど漕いで宿舎にお伺いすると、待ってましたとばかりお出ましになり、「朝飯くいいこ」と、その後も内容吟味で、延々とお説教が始まる。気が付くと完全に話題はふっとんで、じゃ、自転車のとこまで送るから、でさようならである。時々拝見する手帳の中身は、表紙の黒よりも深く漆黒だった。

今もって、そこまで予定や思考がアポブックを埋めることは無い。いや、埋められるほどの力は無い。持ち歩くものを最小化することに躍起になり始めた24年前。電脳だけをパートナーにしようとあがく生活を描いた「電脳のある風景」という唯一の電子出版物の原稿もどっかに行ってしまった。独りに帰属するはずの日程が、オープンになって隙間を埋めてこられる昨今、オープンにならない紙の手帳などなんの役にも立たない。いや、小生の場合は立っていない。趣味で併用していたこともあった紙の手帳も、懐古の対象でしかない。ただ、憧れはある。買った直後の何もない日程。それが永遠に続けばと幻想を抱ける瞬間。既に来年の5月くらいまで埋まり始めているアポブックを見て苦笑する私であります。

紅葉

新聞ネタで世相を斬るみたいな出だしで始まった戯言ですが、昨日はつっこみたいけどなんだかやばそうだというニュースが満載。NEDOの助成金詐欺なんてのはドキッとするニュースなんですが、お金が絡むと人間はなんだかどっかおかしくなってしまうのかなぁと、性善説が基本方針の小生としてはどどっと疲労が蓄積されてくる出来事でありました。経営者の立場になると様々出てくるなと、お金にはよりクリーンさを持ちづ付けないとと改めて身を引き締めます。まぁ、やることと言えば、常に透明であるってことだけなんですけどね。

少し前に出ていたニュースというかこうなったら嬉しいなと思ったのが常に毎年10連休がやってくるというニュース。日本に象牙が密輸されるのは政府が象牙製品を国内販売禁止にしていないからで、禁止であれば闇市以外には出回らないわけで、リスクを冒してまで象を殺戮する集団は減るのではなかろうか?同様に(どこが?)休息したくても出来ない役回りってあるわけで、そんな人々にとって「休めとカレンダーが言っている」状態は有難くもある。ただ、10連休くらいで喜ぶ国民って世界から見ると哀れに映るんだろうなと思っているのも事実。休暇をどんどん消費して頂ければと思います。身体を壊してまで働いてはいけません。

ただ、勤務地に出ていく必要が無くなったとしても、昨今の電子メール爆弾は精神破壊にも繋がる恐ろしい仕掛けだと思うのです。内々で速やかに進めるなんてことには必要なツールなのかもしれませんが、それでも電話なら10秒で済みそうな内容を延々と書き連ね、百科事典級の(今では死語か?)添付ファイルまで添えられて押し付けられるのは脅迫以外にはない。講義に出ている間に未読が120とかになっていると無意識に「全て既読」ボタンを押している小生がそこに居る。

世相ネタに振り回されず、季節感などは最も良いネタだと思っている。今朝は日頃曲がらない角を無理やり曲がってみたわけだが、黄色と真紅のコントラストが朝日に映え、なんとも美しいではないか。人の庭木に喜びを頂いて、そのお宅に感謝だなとほっと一息。組織からの期待で疲労感がマヒして、突然、心停止してお亡くなりになる事例が多発しているらしいが、そうならないように、皆さん、積極的にお休みくださいねと、起きて半畳寝て一畳天下取っても二合半だよと、馬車馬の人達に思う私であります。

岡山と広島

岡山と広島に行った。地名にこだわると岡山県と広島県に行ったと認識する。自由に考えることが出来るなら「岡山君」と広島県(広島市でも駅でも良いが)に行ったという選択肢も浮かんでくる。単語の重みを考えてこの文脈はそういうことだろうと判定するのがAIだから、AIは全社の岡山県と広島県に行ったと判定し、返答を返してくる。中学生程度の文章読解力ということなのだそうだが、日本のAIは今のところその程度だそうだ。

一方で考えさせられるのは文章読解力のデータベースを形作るにあたり、中・高校生の文章読解力を調査したそうなのだが、これがAIと同等であって、決して褒められたものでは無いということ。最近、新聞で読んだことだが、自ら考えさせる問いが与えられると脳がパニック状態に陥るらしい。与えられたゲーム、教師が採点しやすいように作られた問題ばかりで過ごしていれば当然の事だろう。目の前の選択肢はどのように分類されるか。それはまさにAIが得意とする分野であり、既に不要な人間として判定される。

いかなる選択肢にも出会わずに死んでいくとしたら、それは幸福と判定されるのかもしれない。自らの納得の範囲で生きていく。ところが人間同士は不安や対立によって成長が促進されるのではと思っている。過度なストレスはよろしくないがそれを恐ろしがっていては、知恵は生まれてこない。ずるがしこさではない、他の同一生命体が笑顔になることを親身に考える知恵。

40億年遡れば、全ての人類は10μmにも満たないバクテリア程度の炭素の集まりだった人類である。インフルエンザとかなんとか言っても仕方がない。偶然に生まれた自らのコピーを生み出す能力が40億年掛けて変態してきたのが人類だ。中学生程度という言い方も微妙だが、人工知能という、人間の細胞分裂から生まれたものではない機械に劣るとしたら、既に人間は新しい増殖の手法を手に入れたということだろう。便利を人は捨てない。人工知能と呼ばれる機械は加速的に発展する。岡山と広島に行った。岡山君が思考に浮かばないとするならば、それは黄色い信号かもしれないと、哲学せねばと深刻になる私であります。

80億人

イノシシが京都南禅寺あたりで突撃しまくっているらしい。里山に人の暮らしが沿っているということで、決して悪いことではない。人がイノシシが暮らす領域を荒らしているだけで、イノシシにしてみれば、人間という無毛のサルが我々の住処を荒らしたから、奴らの領域に行って食糧を得ようと考えただけだろう。猟友会なる殺戮部隊に銃口を向けられ捕殺されたそうな。

間もなく80億に到達しようという人類は、魚類の中にはそれを越える種があるのかもしれないが、地上においては恐らく5本の指に入るほどの数だろう。とある方に聞いたのだが、人より養鶏として飼われている鶏は、なんとその倍の160億羽以上生息しているらしい。数が減るどころか増え続けているということだから、地球は人間と鶏の星と呼べよう。なんとも奇妙な星である。

恐竜が滅びた理由は様々だが、隕石が落下しなくても失われたと言われ始めている。数億年、進化し続け、その進化のプロセスが極めて鈍化していたらしい。700万年の末の80億人だが、少なくともこの4千年は背の高さとか骨格などは変化していることが判ってはいるものの、脳の体積が劇的に変化したとか身体的な変化は終わっているように思える。すると恐竜と同様の末路をたどるのか?

暗い話はなんぼでもでてくる。一方で、明るい未来のお話は殆ど無い。癒しのためのロボットが都会では必要になるとTVで叫ぶ研究者がいらっしゃったが、そんなものがないと生きていけない種なら無くなったほうがよいのではないか?月が地球に近い。明け方、見事な月を愛でながら、寝転ぶウサギに笑われているような、そんな気分になった私であります。

忘れるべきこと

今宵から寒気が東海方面にも、関ヶ原を通って入ってくるらしい。実際のところ、今朝、駅からの道すがら、顔が痛く感じた。いよいよ本格的な寒さの到来かなと、毎年繰り返されえる地球の営みには頭が下がる。最近、屈強な方が心不全で倒れるということを耳にして、明日は我が身と身構える。身構えても体の中の事はさっぱり分からないから、来る日のために覚悟を決めることくらいしかやり様がない。年齢の積み重ねによる気の持ちようの広さと身体の衰えはバランスしないといけないのだが、どうやら後者ばっかりが進むのである。

新聞によればインフルエンザの流行が始まったらしい。今のところ、職場においてはそのお話は入ってこないが、ひとたび流行となれば一気に職場閉鎖ともなってしまいそうな建屋である。インフルエンザのような人類を倒すためだけに存在するウイルスは、弱みに付け込んで元気百倍、増殖しまくるという破壊力だ。どんなに元気でも抵抗出来ないものは仕方が無いが、体調不良の際には一気にもっていかれる。そうはならないように、少なくとも精神的に追い詰められるような仕事はトップに任せておいて、ほんわかと気持ちに余裕をもって頑張って頂きたい。

地下鉄の車内でもゲホゲホと菌をまき散らし、御同輩の増産を目論むウイルス軍の門下生が多く見受けられた。今朝、あっちでもこっちでもマスクはしていらっしゃるのだが、無意識の殺意にさらされて、一駅手前で降車して、健康の散歩よろしく、街を散策した。冷え込み始めた空気が、まだ薄暗い街を覆い、なかなかに良い風景に出会って、人間万事塞翁が馬と、妙に納得する。歩を速めれば身体は温かくなり、地下鉄の二駅の短いことを実感する。

歩いていると例年の如くの毎日が忘年会状態を呆れかえるのだが、何を忘れるべきかを思い出せない程に多くの出来事に遭遇してきた今年、まだまだ様々起こりそうだ。一つ言えることは、十年一日に重ねてくると、何か形になってくるものだということ。コツコツと続けているとどんなに厳しい寒さとて見事に咲く花がある如く、人は何か事を成す。事が成ったらコツコツとやってきたということだ。自分を褒めることなく、また新しい道に進むのが良い。成ったと思うと油断する。油断は堕落に繋がる。忘れるべきは成したこと。それは人が勝手に評価している。そんなもんだ。

師走

師走である。額面上の師走であって、近年、立ち止まった記憶が無いので年中師走の勢いだ。働き方改革だなんだと世間は騒ぐが、ドミノ倒しよりも激しい勢いで仕事が増えるというのも、ある意味、毎日が働き方改革と言っても過言では無かろう。それでもまぁ、師走がやってきた。

暦の上のお話で、1日24時間と決まっているのだから、誰にも止めようがない時の流であるから、ほっといても師走は来る。尤も、時間をほっとかないなんて芸当は出来ないのだから、何があっても師走という境界はやってくる。先人の多くが仰っているが、年齢を重ねるごとに師走が早くやってくる。早くやってくるというくらいだから、何処かにリセット点があるはずで、それは恐らく正月だ。師走が来たら正月が来る。終わる月よりも来る月でそわそわするのも師走の定めだろう。なんだか邪険にされている月名である。

師走に何か思い出があるかと言えば、存外、何も無い。師走だからこんなに大変なんてことはなく、年がら年中苦行三昧だから、大仰に師走であるなんて始まったが、特に何もないのである。何もないからこそ戯言であって、これがだいご味というものだろう。それでも無理に思い出して、何か思い出すことがあるかと言われれば、博士課程の学生の頃にしんどいながらも頑張ったなぁくらいかな?小生の人生などそんなものである。

北海道では最高気温が氷点下と言っているが、なんだか名古屋地方はそれ程の冷え込みも無く、流石に仕事も食糧も自給自足できる稀有なエリアと感じ入る。そりゃぁ三英傑もでるわいなと、恵まれた土地柄である。穏やかな正月を迎えられると良いなと、既に師走は終わった気分でいるのだが、これから5月末までの継続師走状態を想うと正月くらいあってくれないとやってらんねぇやと、べらんめい口調にもなってくる。そんな師走の初日である。

場を感じること

物理学で重要な概念に「場」がある。人類が常に平等に感じている場として重力場がある。その場においた質量mに作用する重力Fをmで割った値に等しい能力を有するところと定義される。要は何があろうがなかろうが存在する物理量である。同様に電子などの電荷に作用する力が働くならば、そこには電場が存在するという。電子顕微鏡というと面倒だが、ちょっと前まで存在していたブラウン管は、後ろ側から電子を電場で加速などして画像を表示していた。

土俵というものも場であろう。神様の前で日本一の力比べをする。負ければ命を失う。そんな場に立つ頂点の方であれば、一般民間人には及ばない品格が求められて然るべきだ。例え何があっても越えてはいけない一線を越えると、ごめんなさいでは済まなくなる。そんな場に立とうと思うこと自体が偉大だと思う。思うが、越えてはいけない一線を越えたのだから、その場から降りねばならぬ。その存在が無くなっても場は残る。いや、残して頂きたい。日本にとって土俵とは品格とは何かを国民に示してくれる場だからだ。

物理の世界ばっかりで恐縮ではあるのだが、電場のことを電界と呼ぶ人もいる。場も界も別の場所とは何かが違うのだと定義づける領域なんだけど、物理屋は電場で電気屋は電界と習わしになっている気がする。どっちも英語だとfieldなんだけど。土俵が相撲界のfieldなら政界ってどうなんでしょうね。その国の代表であるのだから国会なんてちっぽけなものではなくて、やはり日本全土、いや、今の時代、地球とその周辺くらいのものだと思う。政界は相当の横暴をやってのけても辞めたりしないから、国民が発する力が弱いのか、政界の人々の質量が巨大なのかどっちかだろう。

教育界などと呼ばれる世界もある。モンスターペアレントに蹂躙され、けっちょんけちょんの世界だが、社会を支える重要な役割を担う場であるはずだ。人として仁義礼智信の全てを格調高く身に付けた方がその場を形作る教壇と呼ばれるところに立つわけだが、小生などはまるでその資格が無い。無いと解っているので少なくとも修行に臨む心構えは持とうと思っている。その場を感じられなくなったら引退しなければならない。社会の出来事を見ていてそう感じる。

知の深化

気が付けば街路は黄色く染まり、見上げれば春を待つ新芽の時期になっていますね。寒かったり暑かったりで間もなく12月を迎える今日、皆さま、いかがお過ごしでしょうか。別に誰に話しかけているわけではないのだが、いかがお過ごしと言われても自分なりに過ごしていますとしか、小生自身も言えません。この、自分にしかできないということを思いっきり深化させるべきではないかというお話。

知の深化と探索。両方が必要で、社会に笑顔をと言ったって、自分自身で手も足も出ない領域で頑張ろうというのはほぼ不能だろう。中にはウルトラ器用な方がいらっしゃって、自分のメジャー以外でも片っ端からベテラン並みかそれ以上にこなしちゃう姿をお見掛けすることはありますが、まぁ、一般的にはそれは不可。だからこそ、まず、自らは何者かという深化が必要。

深化と言えば研究者の得意技と思われますが、大学というところは研究だけをすることを求められているわけでは無いので、自らのアイデアの深化という点において、雑音が極めて多い厳しい環境と感じます。バブルの前に知の探索との分業を企業と完全に成していた時代においては象牙の塔に籠ることができた時代。知の深化にはもってこいの環境であったことでしょう。「雪が降っているから、こんな寒い日には講義なんかやってられるか!」と教授が教室から出てっちゃったなんてことが普通にあった。

外界から遮断して知を深化させる時間のなんと短いことかと嘆くよりも、そうであればそれはひとまず置いておいて、探索に広げてみよう。これを可視化するツールがバリューブリッジであって、名工大はそれを生み出した環境という点においては、深化も探索も可能な環境なのかもしれない。これからの10年、20年、ミサイルが普通に飛んでくる時代であるから、何が起こるか分からないが、きっと人は知を深化させるために生命として存在しているのではと思う。その人達のお手伝いをさせて頂ければと、心底思う落ち葉の季節であります。