宇宙

1985年に国際科学技術博覧会というものが筑波で開催された。その場に住んでいたので、何度、会場に足を運んだが覚えていないが、時間があれば出掛けて行った気がする。サテライト会場があって、つくばエキスポセンターというのだが、現在、つくばエクスプレス線の終着駅から直ぐの、つくばエキスポセンターという形で今も残っている。世界最大級のプラネタリウムや指先で何トンもの石を動かせる展示のほかに、原寸大のH2型ロケットの展示物があった。それは今もある。随分と時が経ったものだ。

筑波研究学園都市の都市伝説として、学園都市を南北に貫く東大通は、有事の際には滑走路になって、展示物のH2型ロケットは、核弾頭を搭載してあるとかないとか。まぁ、今と違ってつくばエクスプレスなんてものは無かったし、隔離された僻地に生まれるよた話なのだが、なんだか今でも愉快に感じられてしまう。青春真っただ中の瞬間がそこにあったわけだ。12年もその地に居たのだから、まぁ、やんちゃな思い出と共に、H2型ロケットの大きさは心に残って消えることは無い。

先日、H3型が、ほぼ、からっぽのカーゴの状態で、昨年とは異なり、成層圏を超えて宇宙の藻屑と成り果てた。その間、お家芸のムーンサルトを決めるとかね、限りなく削られた予算の中で、凄まじい努力だと拍手はするのだが、これが日本における最先端技術の有り様なのだなと思うと、かなり寂しく感じられた。GDP云々だとか、論文出版効率が悪すぎるから、大学を再編させるだとか、科学技術の新規創出にはブレーキを掛けながら、パーティーで脱税するとか、宗教団体の助けを受けるとかの親方ばかりで、良くぞ成層圏まで行きついたと、そこに感心する。

スペースXの事例を出すまでもなく、既に宇宙空間を行ったり来たりする時代になって何年も経過したのに、この国では宇宙ゴミを量産する方向で「成功した」と喜ぶ体たらくである。巨大なロケットを創り上げるのに、合金の板から削り出し、それを接合させ、刃物をはじめ様々なものを消耗して、挙句の果てに宇宙の藻屑とするやり方の何処にSDGsがあるのか。挑戦をしているのかどうかは知らないが、得意だった物真似すら出来なくなってしまったのか。宇宙は遠くなりにけりである。

暖かい事

日当たりの良い場所では梅は既に満開近く。月末に再び寒くなるらしいが、三寒四温で春というか、夏に向かってしまいそうな気配である。冬になっても太平洋の海水温が下がらないから、高気圧が日本の太平洋側を通過していくと、時計回りに暖気が入り、一気に暖かくなる、いや、暑くなる。等圧線の状況を見ても、縦じまから横じまになってきていて、冬の西高東低型とは全く違った様相を呈している。月末の寒気がどのように入ってくるのか分からないが、このまま桜の開花、まっしぐらであろう。

カーボンニュートラル云々の会議が地域にあって、これはSDGsの絡みで、当該地域はCO2を盛んに排出する地域だから、産学官金民連合で、カーボンニュートラルを目指す活動をしないとおしおきだと中央政府から言われたのだろうなと、そんな仕掛けなんだけど、そんな調子だから盛り上がっているわけでは無い。地球温暖化というじわじわとそれに慣らされて豪雨災害も40℃を越える熱波も、こんなものだったっけ?となっている中で、目指すカーボンニュートラルはどんな効果を未来に発生させるのか、期待値すら提案されないのだから盛り上がりようが無い。

こんな年配者はほったらかして、喫緊の課題は小中学生が経済活動と地球温暖化との因果関係と相関関係を徹底的に学びつくし、そうであるならば、今から挑戦しようと思って頂くことだ。現状の企業のリーダーに何を言っても、自社の経済活動にブレーキを掛けるような行動を起こすはずはないのだ。株主とてそうだろう。更に考えるべきはカーボンネガティブであって、ニュートラルではないから、思考が路頭に迷う程度では無かろうか。

眠れないほどの寒さを体験した後の暖かさに向かって「気温よ、低下せよ」とは決して言えない。卒業式の頃に桜が満開でも、それはそれで美しいなと思ってしまう。カーボンネガティブに向かうにはかなりのハードルの高さだし、間違いなく「挑戦」的案件である。経済的損失確率が高い目的地だから、挑まぬ企業は多かろう。何よりもこの国の政府に至ってはそれどころでは無さそうだ。腹を立てて頭から湯気をだして温暖化をアシストしないように、冷ややかに見つめてやろう。そんな気分だ。

この国

自論だが、エネルギーと食糧の自給率が100%となって始めて国家である。加えて、いきなり難癖付けて国境を無視して暴力的に他国を蹂躙するというのが世界の共通認識となってしまった今、国防に関しても同様と考え始めている。どんぱちよりもインテリジェントな国防が宜しいが、この国はそれも危ういので、明日への希望などどこにも無いなと感じてしまう。

棺桶に両足を突っ込んでいる状態であるから、そろそろ自分の為に時間を使おうと、Google Mapなどを眺めてみるのだが、ローカルな鉄道があったはずだと、40年も昔の記憶を辿ってみると、確実に消滅している。先日も、それ程遠くないところをドライブしてみたのだが、軌道は既に軌道跡となり果て、知っていればその昔は軌道であったのだなと解るくらいの状態となっていた。地域の脚がこうやって奪われていくのだろう。

人は動いて出会ってなんぼであるとは思う。ローカル鉄道の消滅のお話を聞かない年が無い程である。鉄道車両の車検や軌道保守に掛かる費用が莫大で、人が減っていく日本において、網の目のような鉄道網の維持は、所詮無理があると考える。税収で賄えない公共は在ってはならないというのも自論である。それは全国レベルで考えれば良い事ではあるのだが、1000%以上の赤字で公共と言われると、公共って何だとなってしまう。

その一つの答えが自動運転ということなんだけど、どうもこの国だけが、それが阻害されている。ニューヨークではロボットタクシーが当たり前に走っているのに、我が国では実験において、レベル4の車体をレベル2に落として街中を走行させる始末である。能登半島で道路が寸断されたが、自動運転の無限軌道車を走行させて、水を含めた物資輸送は出来なかったのか。何故、これ程にテクノロジーの参入が阻害されるのか。政治の圧力であるならば、破壊しなければなるまい。勿論、選挙でね。

半導体市場

半導体材料の研究に携わってきたので、半導体市場の成長率ってどうなってんのということが気になってしまう。極限プロセスであるから、そこに関わることが出来る企業は限られてしまうことから、その増減が「あのお会社の皆様、大変だなぁ」等々、お顔が浮かんでくるわけである。大略、2年周期で他の業界では有り得ない程の増減を繰り返すわけだ。これに耐えられる精神力と資本が求められる業界で、ちょっと危ないから撤退しようなんて企業殿は参入しようがない。

この半導体市場の動向って、いろんな角度から眺めて面白い。2023年度は成長率がどっかぁんとマイナス方向に振れたのだが、既にプラス方向に立ち上がり始めている。これを世界の消費電力の観点で見ると実に面白くて、生成AIが日本を除く世界の企業で6割以上の企業群が事務作業等に活用し始めて、どんどんと正しい人員整理をしていらっしゃるわけだが、すると当然、GPUは激しく動作をするようになり、GPUサーバーはどんどこ電力を食い始めるわけだ。電気自動車の比では無い。世界の消費電力が、生成AI出現前の3倍近く跳ねあがっている。

すると何が起こるかというと、その業界の省エネの為の工夫が進み始める。GAFAの皆さんは思い切り電力を消費しているが、流石に気になって来たらしく、CPU、GPUサーバー等、データセンターの省エネが進み始めた。すると、半導体がじゃかじゃか使われ始め、やっぱり消費電力は増えていくのだけれども、それだけ、本来人が関わらなくても良い作業を計算機がやってくれる正しい社会に向かっていくわけだ。AIが奪ってくれる作業は全てAIがやれば宜しい。人は知恵を生み出し続ければ宜しい。それもAIとせめぎ合いだけどね。

成長率が大きく変化するというだけで、数字的には極めて大きなもの成っている。だから、データセンターは勿論の事、計算機が消費する電力は世界的に巨大に成る方向に進んでいく。自然エネルギー、特に水力でかなりの部分を賄っていられる国は別として、多くの国が便利の為に消費電力を拡大させ続ける。それはEVの増大でも生じたことだが、EVにしろ生成AIにしろ、本来なら消費電力を一気に削減させて、人の便利を増大させる方向に行くべきなのに、便利向上に伴って発電施設をどんどこ増大させ続ける。半導体市場は人がどれだけ便利を求めて、地球を暖めているかの指標となっていて、人の愚かさ指標であり愉快である。

化学反応

マイナス30℃以下と言うから強烈な寒さだ。世界のそこかしこで発生している低温状況である。何故にそんなことを気にしたかと言えば、最近、本当にちょくちょく見かけるようになった、乗用車のトランクについているe-〇〇というマークである。マフラーが見えないことから、EVなのであろう。小生的には全く興味は無いのだが走行中には石油由来燃料を燃焼させた際に発生させる気体・粉体を出さないということで、地球温暖化抑止に寄与しているという気分になれそうな自動車ですな。

化学的電池だから、当たり前なんだけど、10℃温度が低下すれば電池内部物質の化学反応速度が1/2になるわけだから、北極からの寒気が駄々洩れになっている昨今、大陸では冒頭に述べたような寒気がやってきて、EVが停止というだけではなく、給電ステーションまでが動作不良に陥って、充電麻痺状態に陥っているとか。ハイブリッドも電機システムは同様だが、ガソリンシステムを有している分、自家発電出来る点が強いということで、走行にはガソリンを燃焼させて走るという利点を電池システムで上回るというのは厳しいのが現状ですな。

水素燃料電池車であっても、反応後の水が凍ってしまってはとんでもないことになるのでしょうが、言論統制が成されているのかどうかは分からないが、今のところ、燃料電池車の排水システムが凍り付いて動かなくなったということは聞いていない。上手に作ってあるのか、どうかはわからないが、解りきったことへの対策ができていると信じてみたい。厳冬期に化学反応電池自動車が全滅しているわけだが、自動車を作って動かすということ自体が地球環境を悪化させていることは間違いのないことだから、まぁ、CO2排出などは些細な問題なのかもしれない。

ごみ処理施設を見るたびに、エネルギーを使って作ったものを、ダイオキシンなどを生成するからと、更に大きなエネルギーを使って焼却していく。石油を掘り出し化学的に変化させ、挙句の果てに燃やして灰にし続けるのだ。これが文明の在り様というのか。自動車はリサイクルしていますよと言っているが、リサイクル時に地球を温暖化させていませんとは言ってはいない。自転車などは偉いもんだ。そのあたりにしておくのが良かろう。日差しが暖かくなって、EVは正義だと大きな顔をしている場合ではない。歩く。それで良いではないか。人類にふさわしい。

連休中に

大震災の際に発生してしまう大量の災害廃棄物。思い出が詰まった物ばかりだから、廃棄物とも言い難いのだが、ここでは便宜上、そのように書かせて頂く。小生が現在居住している近所に、T公園があるのだが、そこは伊勢湾台風時の災害廃棄物を堆積させ、擁壁で囲い、土をかぶせて出来た公園地であると、古くからその地の半径5km以内に居住されている方にお伺いした。小山である。恐らくだが、焼却等の手段ではどうしようもなくなったものを集約した結果であろう。やや恐ろしくもある。

能登半島地震においてはその量は、今現在の推定で240万トンとの事なのだが、全くもってピンとこない巨大な量であることは間違いない。元来、人が活用していたものだけでそれだけの量がカウントされるわけだ。崩れた土砂の量などはそれには積算されていないのであろう。お話によれば、大規模土砂崩れがあって、塞がってしまったトンネルなどは、その再利用を諦め、新規にトンネルを貫通させることになるのだそうだ。そこに住まう人がいらっしゃるのであれば、その為に進んでいく。熱い心である。

世界に目を転じるまでもなく、ネットニュース等で世界中の気象災害の状況を獲得できる。日本列島よりも巨大な低気圧が大陸を蹂躙し、とてつもない豪雨で車列が流されていく様は、ノアの箱舟の序章と感じてしまう。見たわけでは無いが、実際にあったお話っぽい大洪水が、温暖化によって大気中の飽和水蒸気圧が上がり続ければ、必然的に発生するのだろうなと思う。週の頭にあった関東地方の豪雪にしても、太平洋の温度が上がり、水蒸気量が増えたために生じた現象であろう。

うるう年は災厄が多いと言う説があるが、これは都市伝説に過ぎず、真に受けるつもりはない。しかしながら、太陽の活性期でもあり、それに伴って、とてつもない気候変動が生じてもおかしくは無かろう。備えはいくらしていても後悔することは無い。二月には二度の連休があり、万が一の備えに取り組むにはうってつけである。ぼぉっと過ごすか、自助出来る初動を確保するのか。知恵は何のためにあるのか。考える連休であっても良いのではないか。そう思う。

理想を語ろう

理想を語ると偽善者と叫ばれる。必死になって前を向いていると後ろから刺される。挑戦者は愚か者と呼ばれる。そんな日本ではあるが、挑戦者が尽きることは無い。素晴らしい事である。純利益が4兆円を越えたとしても、リコールの山では威張れまい。その利益が不正の上に成り立っていると、多くの民は知っている。知ってはいるが、その社の自動車を購入することは止めない。その昔の安全を提供してきた経緯があるから。どんなに、税金が上がっても、脱税をリードする政党に投票し続けることを止めない。他に代わりが居ないからという理由らしい。

他に代わりが居たら、そちらに任せるのだろうか?実際に、代わりが居ないのは事実っぽくて、結局は陽の当たる場所に出たいだけの集団には任せることなどできやしない。やりたい人よりやらせたい人というのは、リーダー選択の鉄則なのだが、やらせたい人が見当たらなければ現状維持というのも情けないお話だ。折角、男女ほぼ同数居るわけだから、男の群れに見当たらなければ女性の群れから見つけ出せば良いではないか。前向きに挑んでいらっしゃる方は大勢いらっしゃる。

自己肯定感が低い国民性と呼ばれるが、それは確かにそう感じる。小生とて同様であるが、特に我が国の女性においてそれが強いのではないかと思っている。無意識の思い込みをアンコンシャスバイアスと呼ぶわけだが、偏見という意味合いもある。まぁ、ここでは無意識の思い込みと捉えたいのだが、それをとっぱらうにはどうすればと考えるのだが、兎に角、小さな挑戦と小さな成功の結果を素直に喜ぶところからでは無いかと思っている。それを繰り返すことで、やれば出来るという自己肯定・効力感が生まれるのではないか?

小生の周りは「できる」女性の集団であって、小生などはちじこまっているわけだが、そんな職場こそ健全である。男子ばかりでは何も生まれない。摩擦を恐れず進んでいける男女混合チームであれば良い。理想を語って良いではないか。こんなふうに成ったら良いなと思って良いのだ。大切なのはそこに向かって進み続けることが出来るかだ。邪魔をする、足を引っ張る愚か者は多い。それを悲観していると何も出来ない。愚者は愚者でしかないのだから、ほっとくしな無い。そんなもんだ。

挑戦しようよ

入試本番、共通試験の後、各校の本試験に向けた志望受付の締め切りが報じられた。例年の事なのだが、前年度、倍率が高かった学科は倍率が下がる。要は難しそうだなと思うと毛嫌いされて、組みし易しと思われるとどどっと翌年、応募者が増える。この辺りは予備校がしっかりと指導するそうで、その学科志望なら何処が倍率的に可能性が高くなる等、何を身に着けることが出来るかではなく、取り敢えず合格は出来るであろうという指導が成されている現状がある。

それは何というか、大学の浮沈にも関わってくる。アドミッション、カリキュラム、ディプロマの三種のポリシーがあるのだが、それらと卒業生の獲得したディプロマが一致していないと社会に判断されたならば、教育機関として成すべき事を成していないと判断され、卒業生の受け入れは止めましょうとなるだろう。10年先、20年先の我が国と世界のありようをしっかりと予測し、それに向けた教育が成せるようにしなければならない。

リスキリング・リカレントというところも極めて重要である。企業様によっては明確に「この知識を使える形まで育成して欲しい」と具体的な目標を上げて頂き、且つ、費用も計上して頂けるのだが、多くが、どっかのコンサルに頼むと高額だから、この範囲の何かを格安、出来ればゼロ円で聞かせてやって欲しいなど、教育を見下したお話を投げかけてくる。カラスの方が余程賢いと感じてしまう。これでは日々、企業が無くなっていくわけだなと感じる。

中学1年生の後半に、理科系科目が難しくなってくる。理科系と言えば重厚長大産業で、真っ赤に溶けた鉄が走る様をTVで見て、あれが理系だから文系に行こうと、工学のダイバーシティが保たれていない。確かにそんな場面もあるのだが、多くはそんなことはない。物理は文学よりも愉しい。決まっていない未来があるからなのだけれど、決まったゴールを求める社会の風潮が、そもそもおかしいのだ。決まっていないことに挑戦することを忘れているこの国。異常である。

執念?

日本チームのサッカーアジアカップ敗戦の見出しが気になった。熱量が足りないとか、執念が見えないとか。実際にグランドに立っていない人間だから、何でも言えるわけだが、技術の差以上に、競技で活動するのは人なのだから、その人の意思というか、価値観というか、そのレベルでの敗戦ということであろう。外から見ていて感じられるほどに「なにおっ!」という気合が、応援団に伝わってこなかったということだろう。

どんな分野でも同じである。年齢や経験など関係ない。最後は「なにおっ!」が効いてくると思っている。それで負けたら準備も稽古も不足だったというだけだ。技術が劣って、気合も劣っていたら、勝負ごとに勝てるはずは無いのだ。学問で言えば、徹底的な基礎を学び抜き、それを行いながら応用における基礎の延長を繰り返し学ぶ。そして実験によって現象を確認する。それをひたすら繰り返し、自分のものにしていく。それが出来るのは経験が無い若年層ということになるのだが、その熱量を感じることが少なくなっているなと体感している。

エールを送ればパワハラ・アカハラ。コンプライアンスがどうのこうのとあっと言う間にご退場である。まぁ、良いけどね。国立大学が法人化する直前の、教員を送る会での教授先生が仰ったことを忘れない。「僕は逃げ切りました。明日からは大変ですよ。研究に集中出来た自分は勝者です。君達は大変だ」と。定めたことを国に報告することが本当に増えてきた。民主的に定めろと言いながら、学長のガバナンスを効かせろという。会議体は等比級数的に増え、研究者が研究できない国になってきた。

選ばれる大学にならねばならぬ。それは単に当該分野の論文数が増えれば良いという事では無い。質と数の両方が必要である。それは「成し遂げたい」とどれだけ執念深く未知に取り組めるかである。サッカー敗戦の見出しに複雑な思いを抱いた。熱量・執念などという単語に久し振りに出会った。記者氏も同様の年配者であろうか?愚痴にしか取られない表現をして、どれだけの効果があるのだろうか。ご同輩読者の賛同は得られるかもしれないが、プレーヤー年齢層にはその気持ちは届くまい。そんな気がする今日この頃である。

方向性

その昔、ものづくりの三大能力として、技術の素性を知り、技術の可能性を知り、可能性を形にするなんてことを言っていたわけだ。技術は自社のビジョンの鏡であって、顧客との永続的な約束なんだけど、約束と言うことは顧客のビジョンを実現する手段に選んで頂けるものということだ。要素技術とかコア技術とか、まぁ、単語があるわけだけど、自社の中では顧客のビジョンの実現を叶える技術として中核技術があって、これが外から見える奴。工科系大学で言えば「なんとか学科」ということになるんだろうけどね。これが一般的で他との別化が難しい。

差別化が難しいということは、選び手である受験生にとっては自分が将来、どんな夢を叶えるためにどんな能力を身に着けたいと、はっきり認識出来ているということを前提にして、その中核能力を支える中核技術を獲得できますよと言うフラグが立っていないといけないわけだ。単に物理工学科とか言っちゃうと、何が何だか謎めいてしまうので、そうなってくると分かりやすいところを目指しますわな。はっきりしている女子の皆さんは、物理工学科を選択しないのはそんなこともあるのではなかろうか?

まぁ、大学なので、極端に水素製造学科なんて名前は付けにくいのだけれども、昨今、我が国においても、そののりで尖った専門家を集約して、それを強味にし始めているのも事実だし、少なくなり続ける国民の教育をどう考えるかとしたときに、間違った方向では無いと考えてはいる。如何に思い切って、速やかに舵を切るかということなんだろうけどね。文化的学問はみっちりやらねばならぬ。人間になるということですな。それは失ってはならない。

中核技術って、それを受け取るのは人なのだから、文化的素養はしっかりと土台として持って、要素技術もがちがちに体得しないといけない。そして特色としてコア技術は何なのかを組織として認識して、そこに注力していくということでしょう。10年後を考えて狙いを定めないといけいないのだが、自分の分野が途切れることを忌み嫌っていては発展は無かろう。一方でローテクとなった学問分野も絶やすのはよろしくない。このあたりが難しい。新しさの土台は古きにある。学問とはそんなものだ。