閉鎖空間

北極の気象を拝見していると、日本では既に菜種梅雨の気圧と気流配置となっている。強烈な寒気は大寒の終りと共に去っていきそうな気配だが、朝の冷え込みは当分続くのは仕方がない。これからぽかぽか陽気になってしまっては、卒業式前に桜が散ってしまうなんてことになりかねない。卒業式を楽しみにしている学生諸君のことを想うと、それだけは避けたいなと思ったりしている。胡蝶蘭に蕾が出始めて、一体どうなってんだろうと、一雨ごとの暖かさに驚く。

志賀原発特区に工場を運用されていた方に伺ったが、地面の隆起、陥没、断層のよこずれで、土の中がめちゃくちゃで、特に水道はにっちもさっちもいかない状態であると伺った。今も急ピッチの工事が続いていて、一日も早く、水が届くことを祈っているのだが、その在り方はどうなのだろうと、TVニュースを見ていて思う。電柱の在り方にしても、もうそろそろ見直しては如何かと考えますね。プレートが入れ子になった上にある日本という国のインフラはどうあるべきか、税金で何処までアシストするべきかを定めることなく進んでいく国の有り様に疑問を感じる。

安くということを錦の御旗に、地面の中と外に水と電気を通していったわけで、国土強靭化と言っている割には、新しい手法を考慮していないのは何故なのか?まぁ、超高齢化と少子化をほったらかして、インバウンド国家みたいなことで集票していたわけで、投票していた方々もその意識なのでしょうから、まぁ、因果応報と思うしか無かろう。民主主義国家であるから、多数意見に従うのは当然で、断層で寸断された道路など、元に戻ることは絶対に無いのだから、どかっと地質や土木研究者を集約して、方策を全国レベルで考えて、それを推し進めるのが宜しかろう。

漆や杜氏など、その気候、土地だから受け継がれる技がある。文化を捨てれば国では無い。文化そのものが国であって、分化が育んだ人が国である。元日に起こった災害と事件。事件の方はすっかりマスコミは忘れてしまったようだが、そうこうしている内に、最新鋭火力が外に火を噴いた。エネルギーを閉じ込めて街に送り出すべきエネルギーが大気開放されてしまった。巨大エネルギー発生と遠距離輸送は、もう、おしまいにするべきでは無いのか。そこには新しいビジネスも生まれるであろうに。旧態依然。どこまで続くのか。

タコつぼ

維持することは衰退であるから、昨日と同じことをしていてはいけない。何をどう変えるかを考えて、どれを洗濯するのかに迷ったら、昨日と違う事、思うようにいかないかもしれないと感じたものを選んでおけば間違いない。既得権みたいなものは本来は無いのだ。そうなのだが、妙に縄張りを守ろうとする。それも排除してしまいたいのだが、タコつぼ型職場では既得権を錦の御旗にしがちである。うんざりである。

DXと言いながら、出勤簿が紙とハンコだったりね。そんなものがある企業なんかもう世の中に無いのではと思っているのだが、それも延々と頑なに守られる。会計検査が入った時の為ということなんだけど、検査員だって画面で見るでしょう。他の書類はそうなりつつあるのだから。そうなりつつなのですけれどね。なかなか一気に変えるのが大変ということなのですけれど、やろうとしないからでしょと思う。日本全国で一夜にして鉄道の連結器を換えることが出来たのだから、紙をデジタルになんて一気に出来そうだんだけどね。

出来ないのはやらないからと言われて育ってきたので、どうやったら出来るのかを常に考えるわけなのだけれど、その考え方においても不可思議な事に、ゴールの共有が成されないのだ。一体、何の為の活動なのか解らないまま動いているのだ。現在の活動がどのような微分値、若しくは、新規の成果を生むのか解らずに、板に穴を空けろと言われて、真に受けて空け続ける組織である。これではDXなど実現するわけが無い。

例によって引っ越しのお話だが、捨てても捨てても無くならない書類群。過去の遺物だから仕方がないのだが、PC等々、様々な持ち歩き端末が出てきているのだから、全て電子版で宜しかろうと思ったりもするのだが、世の中的には対面で紙面が良いと断言されるリーダーも未だにいらっしゃる。会議で決まったらそれが絶対だと、自分オリエンテッドを振りかざす。何事も聞き入れないその姿勢には辟易だ。もう十分だ。

納税に想う

まだまだ大寒期間中で朝の冷え込みは厳しい。厳しいとはいえ、その昔のように、駐車場の車たちが真っ白になっているという朝は少なくなっている。それが温暖化ということなのかもしれない。しかしながら、太陽は南半球寄りにあるわけだから、当分の間は北極から寒気が流れ出てくるわけだ。夜明け前に起きだして職場に出てくる生活をしていると、太陽が昇ってくる位置がずれてきていることと、白く成りゆく時刻が早まっていることを実感できる。宇宙は停まっていない。愉快である。

政治家の活動などにイラついても仕方がないのだが、税金だけは何が何でも民から引っぺがすくせに、自分たちは日常的に脱税を繰り返す。初めての渡米の際、たまたまというわけではないがインデペンデントデイで、ワシントンのオベリスクが無料開放されていた。列に並ぶ米国人に「お前はいつワシントンに来たのだ?」と問われ、昨夜に着いて某安宿に滞在したと言うと、「それではお前はここに並ぶ資格がある。税金を支払ったからだ」。強烈な印象として残っている。

それがこの国では政治家が脱税をしてもとがめられない。トカゲのしっぽは切られるが、検察すらそれを認める。ということは、司法の世界すら脱税を擁護しているわけで、国民も税金を納める必要などなかろうと思ってしまう。そんな国において、教育費はどんどこ削るという。しかし子供は増やせという。なんのこっちゃである。競争して奪い合う研究費は増えているが、教員養成のための人件費は着実に減っていく。教育で税金を納める者が減るから、大学を減らすのか?なんだか鶏と卵で妙な話だ。

入試シーズン真っ盛りで、様々な入試が繰り広げられて、受験者には数多くの機会が与えられている。それぞれの入試において開催側からすると求める人物像が異なっていたりするから、自分はどのようなことを将来成し遂げたいから、この大学のこの入試を選ぶのだという強い気持ちを持たねばならぬ。そうでなければ来なくても良いと言われるだけである。もう少し政治家諸氏が天下国家の将来を思考してくれないかなと、無いものねだりをしてみたりもするが、自助努力と言われて終わる。賽の河原の石積である。

分散考

シリコン系というか、いわゆる重くてハードな太陽電池は、山の斜面だったり、池の上だったりと、それなりの平坦地が必要になってくる。斜面に乱雑に並んでいるところもお見受けして、これはとても柔軟な発想の方が作られたのだなと感心するのだが、大略、山地を大規模に切り開き、コンクリートの土台を作りこみその上に金属の筐体をくみ上げ、硬質の太陽電池を敷き詰める。当然のことながら、山の保水力は激減するわけだ。大規模誘致を成しているエリアの皆さんは、望んでやられたのだろう。何が起こるかは原発誘致と同じである。

最近になって大規模太陽電池敷設の反対運動が起こっているようだが、時すでに遅しであろう。国内を近距離航空機で移動すると、低空飛行してくれるから大地がゴルフ場や太陽電池で傷つけられている様が目に飛び込んでくる。系統電力線で吸収しきれないほどの大規模かつ変動性の電力発生源をじゃかすか作りまくっている。山がおかしくなれば海もおかしくなる。海幸彦・山幸彦の双方が泣いていることであろう。

ペロブスカイト太陽電池はわが国初の太陽電池で、屋根の上の分散電源としてはうってつけと考えるのだが、どうも隣国で量産化が加速して、有機ELパネル同様、他国の収益源となっている。シャインマスカットとかね、どうも政治家諸氏は自分たちの次の当選だけのい思考でいっぱいいっぱいで、天下国家の行く末を見ていないから、どこに投資して、どこを切るかという判断ができない状況にある。まぁ、いずこの組織も似たようなものかもしれないが。リコールなども同様であろう。

とは言うものの、災害地を拝見すれば、分散エネルギー源と飲み水確保のためのシステムの分散化が必須であることは明白である。しかしながら、それらが国のてっぺんで議論され始めたという痕跡すら見当たらないのは嘆かわしい。ひっくりかえった月への使者に、太陽光による恩恵が出始めたらしいと聴く。なんという天恵。天は平等である。そのエネルギーの活用法を単なるビジネスライクで考えるのではなく、人の幸せベースで考えたら如何か。そう思う。

リコールに思う

金型変更で、金型の中での樹脂の周りが変わってしまって、使用中に変形する可能性があり、酷い時には燃料輸送がストップしてしまうという。リコール記事を拝見して、真面目なものづくりの国は何処に行ってしまったのかと寂しくなる。某D社殿の某氏にとても可愛がっていただいたことを思い出し、あの方がご存命であったなら、そもそも論として、こんなことは発生しなかったのではないかと、精神的な柱と言うものは大切だなと感じるのだ。

燃料ポンプと言う、自動車の走行において極めてプリミティブな、そしてベースとなる商材において、それを形作る要素技術である金型に欠陥があるという状況は、永遠に信頼を失うに等しい状況で、今後の信頼回復には相当の時間とお金が必要だなと感じる。もう二度とと言うか、今回の失態の要因分析を徹底的に成され、次に活かすしか無いわけだ。金型による樹脂製品の量産と言う点においても全て見直しが必要ではなかろうか。

樹脂と金型という、同じものが無限に製造されていくという点において、これ程優れた量産工程は無かろう。3Dプリンタの正常進化を待っている間は、高速性という点において金型と樹脂のコンビは、その座を降りることは無かろう。金型とそれに樹脂を送り込む手法の深化と共に、樹脂の進化も求められよう。電動化になってより高速回転に耐えうるような、高靭性の樹脂も必要となってくるだろう。オープンイノベーションによって企業は閉じることなく新たな挑戦を続けねばならない。

日本企業が挑戦を止めてしまって久しい。良品廉価・短納期という、安心・安全とは真逆のコンセプトに貧乏国らしく突き進んできたわけだ。図面の通りに出来れば良いと、その素材に歪が入っていようが、活用時に想定外の挙動をしようが、作り手の思考をゼロにして、図面形状の再現のみに突き進むものづくりのあり様が、必然的に到達したリコールであると感じる。物価を上げる理由が企業利益を上げるだけではなく、市井の民が安心を獲得できる暮らしが出来る為でなければならない。遥かなことに思えるが、そこを目指さねばならぬ。100年は掛かるかもしれないが、教育からである。そう思う。

スチールラック

小生の居室を尋ねて頂いた方は誰しもが知っている、扉の右手の書籍ラック。スチール製で鶴舞大学に来て直ぐに、生協で購入したものだ。シンボリックな本棚でずっと一緒にいたわけだが、ついに解体とあいなった。一つ一つ処分を進めていくわけなんだけど、一口に近いところから空にしていかないと奥のものを出せないので、そこからやっていこうというわけだ。中に陳列されていた本達を、3種に分けて片付けたのち、こまごまとしたものを取り出して、解体準備完了である。

解体の為には地震対策の金属治具を取り外さねばならないのだが、東北震災の際に業者さんにやって頂いたボルトが外れない。小生がスパナを全力で回そうとしてもびくともしないのだ。ハンマーで叩いて漸く周りだし、事なきを得た。腰板に打ってあるボルトを外してみて驚いたのだが、何と、ネジが一本折れたものが腰板に残っていた。なんで穴が二個あるのだろうと10年以上も思っていたのだが、業者さんがやっちゃっていたのだなと、その理由が解って苦笑いである。

その後、よいしょとひっぱりだして、いよいよ解体となるのだが、天板は目に見える箇所にボルトが2本あって、それを抜いたら簡単に外れた。さて、底板である。手を掛けたらふわっと板が外れ、フレームが現れた。そこにはボルトなどは一切なく、どうなってんだこれという状態である。脚にはまっているプラスチックの部品を外してみてもがらんどう。これははめ込みだなと、室内作業を断念して廊下作業である。T嬢の助けを借りていざやってみると、これが抜けない。

7時前の校舎に鳴り響く金属音。30年もの間、本の重さを支え続けた金属同士のはめ合わせである。ものの見事に一体化して「本当にこれでやっていることはあっているのか?」と疑問を抱く程である。それでもえいやと叩いてみると、ずるっと5mm、10mmと動き出す。実に良く出来ていて、今、流通しているものよりも遥かに頑丈なのではと感じた。撤去した床を見ると、そりゃぁまぁ、埃が溜まるわなと、数十年の汚れを撤去して、出来た隙間に他のものを置いていく。第一歩である。延々と続く。

遥かなる店じまい

旧正月の手前に大寒があって、今年は1月20日から2月3日の間である。だから当然寒い。北関東から名古屋に移ってくる時に、岡崎出身のY君が「福井から入ってくる寒気が伊吹山にぶつかって、関が原に雪を落とし、落ち切れなかった雪が名古屋に流れ込んでくるから、名古屋は積雪しますよ」と熱く語っていたことを、大寒の度に思い出す。成る程ね。そういう見方をするのだなと感心した。昨日の衛星の雲画像は、正にそのような状況であった。

名古屋の積雪は積もる傍から溶けていく程度なのだが、30年近く、研究室という閉じられた空間に、貯め込み続けた物は、どかせどどかせど、次から次へと湧いてくる。前職の書類などが出てきて懐かしがったりしてしまって、そうなるともう、遅々として進まない。それでも何とか、宿舎に移送する本達のパッケージングは終焉に向かっている。数年前に一度、精査しているので、廃棄はかなり少ない。入手するのに苦労した本達も、今後の人生に関わりそうにないなとなると、目の前から消えて頂くしかない。

奇特な方がいらっしゃって、引き取って頂ける書籍達も現れて、それはなんとも嬉しい限りである。片付け始めると、限られた空間を最大限に活かすには、幾つかのお作法があるなと発見もあって楽しくもある。毎日、ほんの少しなのだけれど、地味にパッケージングを続けると、あれだけ学者っぽい部屋を演出していた本達が見えなくなってくる。学者の引っ越しは本棚を空にするところからスタートだなと思うわけだ。

まだ、そこまでは到達していないが、本棚を空にして、その本棚を解体して運び出して空き地を作る。すると活動出来る床が現れる。そこを更に活用していく。その連続である。貰って頂けそうなものは送り出せば良いのだが、全てがそんなに上手く行くはずはない。泣く泣く廃棄というものも沢山出てくるだろう。数年前に貸しておいた本が、あらぬところから発見されたりとかね。歴史の清算にはもってこいだなと、店じまいをしながら考えている。

水素考

日本のエネルギー問題解決に向けて、水素をエネルギー源として活用しようという取り組みは1975年のサンシャイン計画の頃、現実的ターゲットとして思考され始めている。今ではレストランで水素バーナーを使って調理された料理が供されているところまで来ている。調理器具を作る企業は、何時、利益が出るか解らないけれど、今のうちに提供してシェアを獲得しようという挑戦を成されたところが素晴らしく、レストランとしては高圧ガス管理区域を作り、水素ボンベを敷地内に設置し、調理場に水素炎を立てて、それで調理しようとされた挑戦が素晴らしい。やはり挑戦は美しい。

水素は燃焼時に炭酸ガスを出さないということは当然なのですが、調理として大切なのは燃焼時に水が発生する事なのだそうです。鍋鎌でお湯を作るということでは無く、直接、食材を水素炎に晒すことでふっくらしっとり仕上がるとか。まだ、肉・魚の類の調理だそうですが、パン焼きとか面白そうだなと勝手に思っているところです。消防法の関係で、一般家庭に持ち込むには現状では困難な点が多いのですが、調理の利点を聞かせて頂くと、複数個あるバーナーの1個は水素炎バーナーにしてみたいなと思ったりする。

先日、商工会議所でお話を伺ったところによると、まだまだ水素そのものが高価な取引価格になることと、我が国では量産が出来ていないことがビジネスのネックだとの事。オイルショックで水素だと言ったのに、エネルギー安全保障的に自国で消費する分は全て自国で生産するという意識が完全に失われ、オーストラリアから買えば良いという方向になってしまっていることに呆れ、そして悲観する。食糧とエネルギーが自給自足できなければ国家では無い。

どうもこの国は絶対的な危機意識が無さすぎる。思い切った方策をとれない。政治家諸氏は票勘定のみで走り、検察もマスコミも国家の汚職に対して及び腰。結果、国民は蔑ろで、国の負債が増えるばかり。エネルギーこそ根幹であって、インフラとしてのエネルギー無くして、国民の元気が生まれようがない。人である。人が中心である。その考えの下、挑戦者を褒め称えねばならぬ。自らも挑戦を続けなければならぬ。槍で刺され足をもがれても前進である。

定量評価

研究的にも事業的にも大気中のCO2を地中に固定するというお話が沢山出てきている。メタンハイドレートを掘りだして、燃料として活用しようという、ちょっと前まで我が国のエネルギー資源として注目されていたお話などどっかに行ってしまいましたな。それはそれとして、地中に固定化させるCO2を何万トンとかは書かれるのだけれど、現状、世界からどれだけ排出されていて、その何万トンがどれだけの価値、即ち、温暖化抑止に役立つのかという記事にお目にかかったことが無い。

政治資金の脱税なんかも相対論的に「こいつは悪くてこいつは大丈夫」みたいな検察の扱いなんだけど、あれなんかは一般民間人だったら1円だって追徴だ!となるのでしょうけれど、ところがどうして、政治家諸氏になるとおっかないのかどうか知らないけれど、無罪放免となるわけだ。次の選挙でも勝ち残ってくるのでしょう。このあたり、マスコミのデータ活用能力の欠如を感じるわけです。定量的な評価が出来ない連中が記者をしているんでしょう。

定量的と言えば、円安の故に海外から買われている株なんだけど、4万円を超えるなんて噂もありますが、借金還流の結果故の出来事だから、そんなにうまいこと行くはずはない。CO2の固定では無いけれど、新規技術への投資は停まっているわけでは無いので、そんなお会社が牽引してくれるのかもしれない。日本を支える中小企業殿達が創り出す知財をきちんと活用して、それなりの対価を支払って、技術全体をTier0企業が守るような仕組みが出来てくると、ちゃんとした株式ということになるんでしょうけどね。ここにも定量的な評価が必要である。

ヨーロッパの戦火が消える気配が全く無い。ガスコンビナートが火を噴いたとかで、そこで発生するCO2はいったいどの程度になるのだろう。人工衛星で発生する熱量を監視しているのだろうから、そこから発生量を定量的に算出して公表して頂きたいものだ。乾いたぞうきんを絞る如きの省エネ技術がどれだけ頑張ると、戦火によるCO2を帳消しに出来るのか。暫くは地球は温暖化の方向を向いていくのだなと思うばかりだ。定量的な評価。成さねばならぬ。

月面にて

とてつもない資金と犠牲をつぎ込んで、アームストロング船長が月面に降り立ってから50年以上の歳月が経過している。その間、夢に全く投資をしないこの国が、漸く月面に痕跡を残した。正確に言えばもっと前に本当の傷跡は付けたけど、軟着陸という、取り敢えず、信号を送ってこられる人工構造物を月面に送り込んだことは楽しい出来事である。マスコミは太陽電池が働いていないとか言っているけれど、やっとこさっとこ、降り立ったのだから、それはこれからどんどこ「想定外」を繰り返していけば、何とかなるだろう。そんなもんだ。

今、自動車分野ではそれなりの性能の車両を海外に買って頂ける状態になっているが、そうなるまでに一体どれだけの研究を積み重ねたのだ。とてつもないお金と時間を掛けて、最近はさぼるようになってきた衝突試験だって、一体、何度繰り返したのだ。暴走事故があれば車両が悪かったのではと疑われ、悲惨な状況になりながらも、一歩一歩進めてきたのだ。それで漸く、曲がって停まる自動車が出来上がったのだ。月面で宙返りするのは日本のお家芸だろう。次は頑張れと応援するのがよろしい。

現状、どのようになっているのかがわからないのが頂けない。月面に作業者が居るわけではないからそう簡単に状況が確認できないのは残念だが、二号機、三号機と飛ばして、自走するローバーも飛ばせるようになれば、逆立ちなのかどうなのか分かるのだろう。大切なのは徹底的に定量的なデータを獲得することだ。諦めたりはしないのだろうけれど、これでいいやと決して思わないことだ。想定通りになったとしても、もっと良い状況と言うのはあるはずだ。半導体分野の深化など、それに尽きる。

どんどんと半導体デバイスの素子が小さくなっていって、原子核が捕まえている電子の軌道の半径よりも小さいスイッチなんて聞かされると、量子力学的に正しいことが生じているのか疑問になってしまうのだが、それでも動いていると論文などで拝見すると、時代の進化の面白さを感じさせて頂ける。分からないから楽しいわけで、兎に角、暗いことしか起こらないこの国が、漸く、ウサギと会話できそうになったのは楽しいではないか。次にもその次にも期待しよう。月なんておもしろいじゃないか。そう思う。