見果てぬ尾根道

身近にあったら幸せな空間だなというお話を、街中のBBQ場から綴ってみようかなと思ったのですが、存外、存在しないもんだなと、生きていくのも大変だなと思う訳ですよ。ネタ切れ序に身近に無いけど好みの空間のお話でまとめて(まとまら無いな)みようと、やけっぱちの尾根歩きのお話。山登りってピークハンティングに興味が行きがちなんですけれど、まぁ、それはそれで良いんですけどね、ピークハンティングって、上に向かって進むことが目的化されてしまって、自分を見つめる遊び心は生まれない。尾根歩きにはそれがあるのですな。

南アルプス全踏破なんてのは二十歳のヤングなボーイで無いと厳しいので、人生後半戦に入った方でも楽しめる尾根歩きが良いですな。日の出と共に歩き始め、夕暮れ前に降りられるくらいのところがよろしい。延々と森の木々に憩う鳥の鳴き声(さえずりなんて生易しいものではだめだ)に背中を押され、何かから逃げ出したくなるような一瞬も無ければならず、這いつくばって喘ぐ場面も必要で、しかし、断崖絶壁での憩いも必要。即ち、尾根歩きは人生そのものの鏡というわけですな。

巨大なピークを伴わなくても良くて、海外の雑誌には草原とアルプスのロングトレイルなんてのを見かけますが、そんなもの我が国には乗鞍くらいしか無いからとても身近とは言えない。お勧めも出来ない。ジャングルみたいなところならいくつもあって、そんなところを自分で探して挑戦してみて下さいとしか言いようがない。

ちっとも身近では無くなってしまったが、共通項は「ほっとする」一瞬があるということかしら。左右が絶壁の尾根歩きだって、その先に一瞬の安らぐテラスが必ずある。そこに到達していなかったとすると、稜線から外れて魂の輪廻の道に入り込んだということだから、それは考えずに、ひたすら進むところに愉快がある。自らと向き合い思考を極限まで巡らせるには、誰にも会わない尾根歩きが一番である。それを求めて今年の夏は時間を作りたいものだなとは思うのだが、やはり身近に無さ過ぎて厳しいかなと思いつつ、ちょこっとトレーニングに励む私であります。

遥かなる喫茶店

鏡を見ると疲れ切った自分が嫌になるわけですが、メモ帳に向かってあぁだのこうだのと考えるのは、書斎も良いけど喫茶店も優れた空間だと思うのです。人が蠢いているのが良いですな。BGMから魔笛・夜の女王のアリアなどが流れてくると、声の楽器性にのみ込まれ、その瞬間、どこで生きているのか、思考の渦にのみ込まれ、新しい発想が生まれてくる、そんな空間が良い喫茶店の在り方だと思うのです。

食事優先のK店ではなく、それなりの喫茶店が良いわけで、マロンパフェしか無いランプでも無く(誰も知らないって)、山手線のガードの下でも良いのです。馥郁たる香りに包まれ、静寂と音楽を獲得できる空間こそ、自分を見つめることが出来、そして自らを理解するための必須なアイテムが喫茶店なわけですよ。

しかしながらそれを身近に獲得出来るかと言えば、それは極めて困難なわけですな。そうなると、これは自分でコーヒーを淹れるという方向に行ってしまうわけですが、しかしそこにはあるべき不特定多数の人のざわめきが得られない。音楽と香りを獲得できたとしても、大切な人の息吹きが無い。これはとても大切だと思う訳です。例えば、無人の階段教室の教壇に立ってローテーションを語っても面白くもなんともない。

ざわめく息吹きがあるからこそ、自らの言葉の意味を理解できる。思考の結果に感動できる。それが喫茶店である筈だと勝手に決めつけているところが既に間違っているのかもしれませんけれど、コーヒールンバではないけれど、痺れるような香りに悶えながら、考えに考え続ける時間を提供してくれる場所を、いずれ持ってみたいものだと、これはあんまり身近なお話では無かったなと、身近にあって幸せを感じる場って探すのが大変だなって、4日目でネタ切れ感満載ですな。

ラジオ力

最近はYouTubeによって多くの方々が情報を発信できるようになてきて、とても素晴らしい時代になったことだなぁと感じるわけです。大衆目掛けて持論を展開しようと思ったら、その昔はそれこそえらいこっちゃだったわけですよ。文化講演会で招待講演の機会を与えられるためには、それなりの年齢とそれなりの人脈が無いと無理だったわけですよ。それが老若問わず出来るようになってきた。若者の思想も聞けるようになり、これはとても楽しい事だと思うのです。

ただ、ビジュアルを伴ってしまうと、その情報のパワーはもの凄く、そこで展開される言葉の妙に没頭できないわけです。要するに、必死に聞いてメモを取って、後で見返して自分の意見を見出していくという心の会話、心の対話ということにはなりにくいのです。これは小生だけなのかもしれませんが、画像は画像なりの楽しさがあることは勿論なのですが、ラジオの方が自らの気持ちを、流れてくる音声に重ねられる空間を作ってくれる身近な道具ではないのかなと感じているわけです。

今、書斎には昭和30年代の電蓄が現役で動いているのですが、今でもAMラジオ波を捉えることが出来て、がっしりとした木製のフレームに取り付けられた6インチのスピーカーから暖かい音声が伝わってくるのです。所謂、アナログ、モノラルなわけですが、NHKの極めて上質のマイクロフォンで獲得される優秀なアナウンサーの語りは、初対面でも気持ちが通じ合えるというか、これこそラジオ力だなと感じるわけです。

人間力って比喩力だと思うのです。共通言語である「例え」を獲得したからこそホモサピエンスが生き延びたと想像するわけですが、その比喩力強化にはラジオはとても優れたツールだと思うのです。面と向かった会話だと、目の前の人に忖度してしまうわけですが、ラジオだとその必要は無く、自らの思考力を存分に働かせることが出来る。身近な対話空間を作り上げるラジオ文化には無くならないでねと祈るわけですが、はてさてどうなることやら?

音の言葉を聞く

場はあるけれど、ほっとんど行けないコンサートホール。つくば人時代にはそこそこ良いホールが近場にあって、しかも常に空いていて、次に来る時には無くなっているんじゃないのかと心配になるくらい。学生だったこともあり、学割で立派な世界的奏者の方々の音楽を楽しませて頂きましたよ。まぁ、時間があったということだと思うのです。そんな楽しみは時間が取れなくなってくると遠い世界になっていく。それを身近に実現させるのがオーディオ装置ということになるでしょう。

ヘッドフォンというステレオ空間が、一番簡単なオーディオ装置によって実現されるわけですが、これにおいても上等かそうでないかというものがあって、多くの方々はそれを知ることなく、平穏な世界にいらっしゃる。そこそこのコンサートホールでリアルな音楽空間を楽しんだことが無いと、そんなものなのだろうなと納得できるのでしょうけれど、目の前でフラメンコを見たりギターの音色を楽しんだことが一度でもあると、音楽による満足ということがとても遠いところにあることに気づいてしまうわけですな。

こうなってくると、それなりの装置を揃えないと楽しめないわけですよ、音を。これはそこそこ苦行でありまして、それなりの頑張りを見せないとバイオリンの胴鳴りなどは再生出来ないわけですな。もともと板に入っていなかったりするわけです。これなどは録音技師が楽器の美しい音色を楽しんだことが無いからでありまして、そんな板しか知らない人達は、それこそイヤホンで良いのですが、知った人はそうはいかない。

身近にあって作曲家の魂の叫びに触れるためのオーディオなわけですが、そのオーディオ装置となりますと、これはまともな音源とそれを再生する装置と、それを包み込む部屋との相互作用によって作られる空間そのものだと気が付くわけです。屋上のBBQ場との違いはこのあたりにあるわけでして、下手に手を出さずに、良いヘッドフォンを求めるくらいでとどめておくのが良いのかもと、永遠に終わらないオーディオ人生に苦笑いなのであります。

屋上BBQ

身近にあるとなんらか意味があるなというもの、場所について語ってみたい。居酒屋なんてのはその代表格なんですが、そこに意外だなぁというものを一つ加えると、ちょこっと絞られてくる。先日、研究室のBBQを街中でやって、これが妙に盛り上がるわけですよ。山の中の解放感も良いけれど、直ぐ足元にマーケットがあって、足りなければ買いに行ける気軽さ。なんか妙に清潔感があって、そこそこ大人の集まりでこれまた不思議と面白い。

チェーン店っぽくて、近所にあったにも関わらず全くのノーマーク。1500円で焼いた炭から何から何まで準備してくれて、ゴミ処理までして頂いて、手ぶらで行って楽しくわいわいやって(騒ぐと退場)手ぶらで帰る。こんなお気楽な世界が身近にあったとは魂消た次第。広い年齢層が集まっている雰囲気でしたが、小生が最年長かも・・みたいな感じです。

マーケティング的にも考えているなと思いましたよ。アルコールは当然売れるし、生鮮食料品も間違いなく売れる。販売戦略的には持ちつ持たれつというか三方良しというか、うまい具合にお金が流れているなと感じました。炭はオガタンで贅沢言わさずにローコスト。施設もお金を掛けずに参加者が動き回って低人件費。理想的ですな。

BBQって楽しいのだけれど、その場所まで行くのが大変、片付け大変、誰かが飲めないなんて苦行っぽい側面が必ず付いてきたのですけれど、公共交通機関で行けて、低価格。これなら時々やっても良いなと、屋上を見下ろすマンションに苦笑いした一日でありました。

時短に想う

この季節、土日に街中を眺めてみると、運動会なる活動が小学校で成されている。極めて気温が高いからとか、授業の時間が無くなるからという理由で、短縮型の運動会が流行っているそうな。時短運動会という事らしいが、子供の頃の体を動かす経験を少なくしているだけではなかろうかと思うのだ。給食費を払わない家族がグアムで暢気に遊んでくるなんて時代だからこそ、運動会くらい思い切りやったらどうなんでしょうね。

炎天下で動き回ると、体調不良を訴えて、危険だから時短にするというのが筋書きらしいが、炎天下で教える体力が先生の側に無いんではないのかと、小生などは思ってしまうわけだ。応援席の親も「応援なんかしてらんねぇよ」という家族の絆なんてものが希薄になり過ぎている現状を反映しているのかなと、妙な方角から記事を見てしまう。

炎天下で走り回る子供達がえらいこっちゃなのは分かるのだが、帽子をかぶって、休み時間もあって、給水も出来て、なぁんて、砂漠に放り出されているわけでは無いのだから、それくらいは我慢出来る人間になってもらわないと困るという観点は、既に許されない社会なのだろうか。バイトが中心となって、適当にボタンを押していると卒業できる仕掛けなんてのが当たり前になっちゃっているからなぁ。

大学に金を出しても研究成果が出ないから潰すとか、博士課程に進学する学生が増えないのは大学のせいだみたいなことばかりが記事になるけれど、そこで学ぶ人間の耐える力が落ち切っているんじゃないのかという言い分は採用されないんでしょうね。ターミネーターの如くに執念深く、エイリアンの様に無限の活力を持つ。そんな人間を育てるなんてのは流行らないんでしょうね。何も生まれないわけだわなぁ。

放談

今でもやっているのかどうか知らないけれど、その大昔、時事放談という、元衆議院議員を務められた細川隆元さんを論客に、ただひたすら現在の政界の有り様を小馬鹿にする、分かりやすい番組があったのですよ。歯に衣着せないとはあの事を言うんだろうなぁと、今でも時々思い出す。あれくらい好き勝手言えれば痛快だろうと思うのですな。

それを目指していると言う訳では無いのだが、本来、戯言ってそんなことで25年位前に始めたのだけれど、今、そんな暴言ばっかり吐いているとろくなことは無いので、ブレーキの連続ですけどね。いきなりホッピーみたいなことを言い出す裏には、ぎゃぁすか叫んでみたいことがあるんだろうなぁくらいに眺めているのがよろしい。

狭視野三昧の政治批判をしても仕方がないということもあるが、いちいち腹を立てていたら、なんだか嫌になってくる有様ですからな。マスコミも含めて未来が全く見えない我が国の有様に、がっかりしても仕方がないので、関係のないお話をつらつらとつづるわけだ。小放談といったところかしら。

放談では済まされないだろうけれど、昨今、路上等での殺人事件が頻発していますな。その昔の米国かとびっくりする有様。電車がスピードを出し過ぎてひっくり返るあたりから、日本も理性のコントロールが効かなくなっているのかなと思ったりもする。TVの向こうに納得するほどの大放談をする方がいらっしゃるほうが良い時代ということなのかもしれない。言われた側もどんとこいみたいなね。そんなものかもしれないな。

ホッピー

深刻なネタばっかり語っていると肩がこる。こってはつまらないから、いい加減なネタが良い。それが本来、戯言であったのだからということで、急に思いついて、下世話なネタを。下世話と言えば赤ちょうちんであろう。やっぱりそうでなければならない。ということでN先生が苦手なホッピーのお話。

何もそれしか飲みませんというお話ではありません。石渡秀さんという方が、生み出した清涼飲料ですな。ホッピーそのものはアルコール飲料では無いのですな。瓶のマークが桜であることをご存知の方は、余程の酔っぱらいでありまして、ビールは高いけど似たような味で安く酔いたいという、地方大学生の救世主。今でこそホッピービバレッジというおしゃれ?な名称の会社の飲料ですが、コクカ飲料という、国花という単語を知っていないと想像も出来ない社名であったわけですな。

これは小生には全く関係の無い事ではありますが、プリン体が無い飲み物なんですよ。甲類という、これまた貧乏学生の友で割って飲むものなんですな。ホッピーだけで飲むというのはしないわけで、まぁ、そんな奴はいないか?いずれにせよ、お酒なのに健康に良い!(幻想)だから小生は、見かけると好んで飲んでいるわけですな。

アルコール的にはビールより強いので、同席の皆さんがビールでじみじみの時に、同一速度で酔っ払えて調子が良いというのが愛飲の理由だったりするけれどね。この様子で付き合っちゃうと、N先生みたいに「二度と呑まない」みたいになっちゃうので、それは気を付けた方がいいかも。ということで、これからの季節、飲んだことが無い方は試してみてねとは決して言わないので、勝手にやって頂戴という、戯言の真骨頂らしいお話でしたな。

公共交通とは?

想い出話はつまらないが、札幌からちょっと(?)行ったところに医療系大学があって、そこまで電車で行けるんですよ。本数がじゃんじゃかあるわけではないので、ちゃんと調べて行かないと、ホームで待ちぼうけになるのは、まぁ、良くあることですな。随分と立派な校舎郡がこつ然と現れ驚かされるわけですよ。砂漠の真ん中のラスベガス程では無いにせよ(かなり大袈裟)、立派なものですよ。

この「電車が走っている」というところが重要なのでありまして、ディーゼル区間だといつ無くなるのか定かでない。医療系大学までは電化がされていて、なんだか随分とJRは忖度するんだなと思ったのだが、そこから先の無電化区間が来年、廃線になるとのこと。小生はノスタルジーに浸ることは無いので、乗りに行こうなどとは全く思わないのですが、それを活用していらっしゃるかたはお困りだろうと思ったりはした。

思ったりはしたのだが、廃線予定区間の一日の乗降客が平均57名で、収入1500万円に対して負債が3億1400万円と聞くと、そりゃぁ、たった今、廃線にするべきだろうと決断できますな。やむを得ないというレベルではない。1931年に開業されている歴史は十分にあると思うのだが、北海道という冬に厳しい土地柄のせいか、活用する者の移住が少なかったのでしょう。自動車の発達が一番、大きいとは思いますが。

公共交通機関がどんどん減っていく。人が減るから当然だと考えるのか、まばらに分散している住居を集約して、公共交通機関活用でCO2削減を目指す国づくりをしようと考えるのか。既にターニングポイントは超えてしまっている感のある日本ではあるが、様々な事例を考えていくうえで、本当にそれで良いのかと、狭視野政治でこのまま突き進んで良いのか、不安を抱きますな。

国土は美しくあれ

両陛下が愛知県で開催される植樹祭にご出席なされましたな。なんと有難い事で御座いまして、戦後、荒廃した国土復興を目指して昭和陛下が始められた行事が今年で70回を迎えるという節目の年でもありますな。1950年から数えて70回ということだから、70歳の方でも戦後の生まれと聞くと、長く平和が続く国だなと、改めて有難く感じるのであります。

今年も既に6月を迎えて、あっという間感覚満載なわけですよ。ときめきが少ないと過ぎる時間を短く感じるという事らしいのですが、ときめいている暇など無いというのが本当のところでありまして、週末などは落ち着いて読書も出来ないなんて状況になっていることはとてもよろしくない。よろしくないけれど、どうしようもないのでありますな。この調子だと、明後日あたりに正月が来るくらいの速度で過ぎていくかもしれない。

頭をひねって昨日と違う発想で日々を迎えたいと願っても、時は過去の因習で迫りくるわけで、自分勝手に何か事を起こせるわけでもない。過去のルールを守れと言うことなんでしょうけれど、それって面白いのかなと、日々、疑問に思うんですけどね。イノベーションを起こせ!みたいなことを言うけれど、やっていることは過去のいい加減な部分を大切に守り切ろうとする保守本流。

複雑に絡み合ったルールの中で、何か一つを変えるって大変ですけどね。でも、それに挑戦しないと何にも変わらないわけですよ。変わることが良いと言っているのではない。これは間違ってはいけない。変えなくて良いものに溢れる社会が良いということで、なんだか苦役ばっかりの状況は変わって良いのですよ。緑溢れる国土、良いでは無いですか。これなどは延々と続いて頂きたい良い活動であるはずです。荒れきった竹林などは整備して、美しい国土と世界の人に感動して頂けるような国になったらどれだけ良いか。 願ってやみませんな。