働き方逆改革

一週間と言っても月曜日から金曜日という5日間なのだが、随分と長く感じる。長く感じるのは月曜日にあったことを思い出すと、それが遥か彼方に起った事と認識されるからであって、毎日毎日はあっという間に過ぎ去っているのだ。それが、次の1日というフィルタを通すと、遠い過去の経験になってしまっている。毎日、発生する出来事が、べらぼうに重くなっているからなのだろうけれど、これが土日になると、毎日があっという間ではあるが、昨日の事は確かに昨日の出来事だと認識出来るから面白い。

何やらの番組で、年を取ると月日の経つのが早いのは「トキメキ」が無いからだということを言っていたが、そりゃぁそうでしょうよ。がきんちょには公園で遊べと言っておきながら、自分は土日においても机にかじりついてプレゼンやら講義の準備やら原稿書きやらをやっているわけで、そんなもんでときめくようになっては、それこそ病気である。そこまでは突き抜けていない。むしろ、突き抜けない方が、何とかしようと思えるからそれで良いのだと思う。自分のペースで語っては、それは説明にはならない。

聞き手の頭の中を想起しつつ、お話をするという点においては、田中角栄さんなんかは見事でしたな。ビデオ映像などを拝見しても、全てが聞き手に向かっていて、もの凄い集中力だと感心する。若手ベンチャーのピッチイベントなどで感じるのは、聞き手にとっての価値を最大化させる工夫がほぼ無い。自身に満ち溢れることは悪くはないが、自慢を通り越して自己欺瞞を発信し続け、結局、何が出発点にあったのかすら伝わらない。

日常の会議においてもそうなっていないか、常に恐怖を感じている。一方で、誰にとっても容易に達成できる目標など意味はない。それこそAIにお願いすれば良いだけだ。そんなことを想いながら5日間を過ごしていると、心身ともに相当に消耗する。消耗した状態をリフレッシュさせずに次の週に突入していく。それを自己管理し続けよと言われるわけだが、そんなに簡単なことでは無い。11月も半ば、年末に向かって様々な催しが控えている。年末までなんとか乗り切れるか。例によって気合しかない私であります。

公園にて

近所に緑が多く、広場もあって、遊具もそこそこあり、住宅街にあって人の目も行き届きやすい公園がある。土曜日の午後、その横を通りかかったのだが子供も大人も誰も居ない。小生が在する区は、子供人口増のエリアであり、子供が減っているわけでは無い。子供たちは一体、何処に行ってしまったのでしょうか?

犯罪者が出没するから家から出るななどと言うアナウンスは無い。昼食後に外で走り回って遊ぶという行為は、野蛮人の行いなのだろうか。遊びから学ぶものは沢山あるはずなのだが、そんな経験は、今の時代には無用と言うことか。災害時に集まる場所と言うだけの価値なのだろうか。子供が居なくなって神輿を出せないなんてことはない。先日の秋祭りでは家の前を神輿が通った。おひねりを出したのだから幻では無いはずだ。

まぁ、家の中でゲームをしているか、塾に行っているか習いごとをしているかなのでしょうか。なんだか気味が悪いのだ。どんどん画一化された育成環境に陥って、他者と異なることをしたらそれが悪となってしまうようでは、びっくり仰天のイノベーションなど起こせないような気がするのだ。与えられた目標に到達する事など何の意味もないと思っている。目標は自ら設定するものだ。

少し前まで、別の公園でゲーム機を持った子達が、黙々と画面に向かっている様を見て、ネットワーク環境であっても、目の前に人間が居ることで、まぁ、何か得られるものがあるのだろうと思ったのだが、今ではその光景すら見られなくなった。人は何処に向かっていくのか。子供達が自分自身でなりたい姿をイメージ出来ない日本なのであろうか?ベンチャー云々言っている内が幸せなのかもしれない。ちょっと恐ろしい、そんな気がした。

やり直し不可

自己投資って結局のところ、商売出来るくらいまでやらないと趣味で終わってしまう訳で、投資する限りはとことんやり抜く覚悟が必要なのだと思う。思っているだけでそれが実践できているかと言われると、暗い穴倉に閉じこもってしまいたくなる人生だが、とことんやり抜こうと何度も思ったことは事実だ。昨日のネタにあった旋盤もそうだ。中心対称性の構造物をぐるぐる回しながら作っていく機械で、お椀作りなどでも活用される、所謂丸モノを造る機械だ。大概のものは旋盤とフライス盤があれば作り出せる。

身を削り、精神的ストレスを抱えながら頂くお給料だから、無駄金にしないようにと思う訳だ。何かしら、お仕事に反映されるようになれば、それは元を取ったということになる。元の取れない買い物は、結局のところ無駄金であったということだ。その成果が何時出てくるかと言うことも問題だが、大金であればあるほど、効果は後から出てくるような気がすると、最近、思えるようになってきた。旋盤くらいのものであれば、即効性が無いとせつなくなってしまう。

読書などと言う代物は、これは一生掛けて積み上げていく自己投資だから、そこにあるだけで良いのだ。時々眺める本も、日々、繰り返し眺める本も、間違いなく日々の暮らしに影響を与えてくれるし、人生哲学と言うか、様々な活動に対して影響を与えていると感じているから、良書は安いものだと思っている。古本屋をやろうとは思わないから、本で商売というわけでは無い。趣味レベルを突破する読書となれば良いのだ。

商売できるくらいってどの程度なのかというKPIは、小生は「一発勝負」なのだと思っている。それが出来るようになれば、商売レベルだと勝手に判断している。失敗したらそれを活かして次に挑戦などと繰り返している精神状態では、絶対に商売なんて出来る筈はない。その場で決断、行動、そして判定を受けて感動して頂ければ、それは商売レベルなのだと思う。リセットボタンなど無いのだ。そんな緊張感が必要な時、それを実践できるかだ。それだけだ。

必要不可欠な機能さえあれば

新品で3万円のPCがあるのだから、旋盤があったっておかしくない。とある道具として使うために購入してみた。日本製ではなく、どこぞの大国製品である。国際郵便で送られてきた箱を開封すると、マニュアルと言うものが全くない。ホームページからダウンロードするなどという事もなく、自力で考えろ、買った奴が悪いと言わんばかりの外連味の無さに、かえって気持ち良くなる程だ。やたらと懇切丁寧な日本製品に慣れてしまった自分に、活を入れてくれる製品である。

なんのことは無い、まぁ、あれこれいじってみて、10分ほどで「成る程」となった。3万円である。恐らく日本製品なら10万円になって、丁寧なマニュアルと、ごうごうと音を立てることなど無いのだろうなと思いつつ、自分のやりたかったことはこれをベースに出来そうだと納得できる代物である。3万円で作ってみろと言われたら、嫌だと言える状態にはある。買った当人としては黒字商品であるからそれで良い。

起動させてみると驚くことが沢山ある。これは面白い。高校生時代に初めて旋盤に触った時の驚きと感動がちゃんとある。全て自分で考えてアナログ操作、教える人は鬼教官。その鬼が居ない分、気が楽だ。試してみると十分に働くことが判った。日本製品には絶対にないいい加減さと、購入した人間に全権を渡す気前の良さだ。

電子化された上等の機械しか知らない人には絶対に使えない。原理原則を知っていなければ、恐ろしくて電源すら入れられない。逆を言えば、きちんと機械の特性を理解している人ならば、これで良いのだ。初めて使う人、知らない人にとって懇切丁寧な道具に仕上げていった結果、基礎を理解する能力を人から奪っていったのではないか?そんな機械は危なくて要らないと思われるかもしれないが、新しい機械を作る人には絶対に必要な知識、知恵なのだ。日本のモノづくりの弱さの根源に触れたような気がした。手取り足取りは、ある場においては悪である。安い買い物であった。

地球は生きている

桜島が噴煙を5000mを超える高さまで上げ、爆発的噴火を起こした。記録されている中においては最大の高さだそうなのだが、記録され始めたのは1955年だそうだから、それほど古い記録があるわけではない。地続き噴火を生じた際には、ひょっとすると今回の噴煙より高い噴煙柱ができたのかもしれない。大地は動いているのだなと実感するのは、火山現象が一番では無かろうか?

温泉と言うものも火山の営みによって生み出されるものであるから、火山国の日本においては、大地の活動と共に生きる知恵を持たねばならない。ならないのだが、対処しようのない巨大な力である。近くに住まないくらいしかやり過ごしようがない。その昔のカルデラ噴火などにおいては、関東地方まで灰の影響があったし、気象条件が数年にわたって変化することだってある。日本どころか、地球そのものが火山星と言っても良いのかもしれない。

火山の近くから温泉が湧いてくるというのはとてもイメージしやすいのだが、どういう理屈でここから温泉が噴き出すのだろうという場所に出会うこともある。海際でボコボコと激しく湧き出す温泉に出会うと、この辺りも近い将来、天変地異が起こるのかしらと心配になったりするのだが、歴史的には全くそんなことが残っていないとなると、これまた摩訶不思議ということになる。不思議なことは不思議のまま残しておくのが良いかもしれない。

常に地響きを繰り返す桜島に驚いたのは三十数年前だが、街中での降灰に驚かされたのだが、街の方々は年中の事だからと仰っていた。むしろ頼もしく思っていらっしゃるようでもあったのだが、カタストロフィックな爆発が起こらないとも限らない。天災は忘れたころにやってくる。台風だけではなく大地からの災害にも、もっともっと気を配るべきだ。全く安全な場所など無い。そう思っているくらいでちょうど良いのかもしれない。噴煙の映像を見てそう思った。

時代は

RPA(Robotic Process Automation)によってホワイトカラー業務改善に向かっていくのは必然だ。その昔、チューチューマウスというツールがあったのだが、これは猛烈に便利であった。いつの間にか使わなくなってしまったが、それの遥かに進化した状況がRPAであって、既に多くの現場に投入されている。こう言うと直ぐに人員削減という単語を想起されて、ちっとも業務改善に向かわないのが日本の悪いところだ。まるで違う。

人の為の人ということが小生の信念であるから、得体のしれない業務をRPAにやらせて、その間に新たな生産に向かえば良いのだ。それはまだまだ無限にある。むしろ無限に生み出し続ける余地がある。働く人の心を救うITでなければならず、その早期導入こそコストメリットのある対応である。一方で、それは一部署だけで閉じる話ではなく、規模が大きくなったと単に踏む手順が増え、必然、反対にあう。

で、あるならば、無理をせずそのまんまという選択肢もあるのだが、社会から圧倒的に乖離して、化石化した環境を維持することの精神的苦痛に耐えられない。簡単ではない。そもそも常に業務改善を行っていることは間違いない。しかしそれが改善が目的化されていないか?本来あるべき姿とは何か?そこをイメージして、今だからチャレンジできることに挑まねばならない。

不況で喘ぐ我が国において、大学だから安穏ということは許されない。研究者の「活き活き」の発展を続ける覚悟は、バックヤードの変革という事である。これは挑戦である。常に新しく。厳しいが挑み、実行しなければならない。そんな昨今である。益々厳しくなる。そう思う。

挑戦と忍耐の時代

1995年に遡るのだが、日経連が打ち出した方針が、労働者派遣法の改正に向かい、正規・非正規社員の大いなる差別化が始まった。非正規という云わばバッファとしての方々への対応が劣悪な状況になった。バブル崩壊というお金がお金を生むという幻想から醒めた途端に眼前に広がった日本の在り方である。

失われた平成などと言われるが、平成から就職した小生にしろ、その後輩たちにしろ、そもそもそれ以前に何がどれだけあったのか知らないわけだから、今を原点に前を向いて進んでいくしかないわけだ。過去を取り戻そうなどと、そんな過去など持ち合わせない。小生はそれを幸福なことだと思っている。

エジプト軍に鉄と言う文明で勝ったヒッタイトですら、勝利直後に地球規模で発生した気候変動によってあっという間に国が滅んでしまった。鉄が出来ても食料を確保しなければならないのは当然のことで、鉄剣で他国を侵略できたとしても、その国に農産物を生み出す環境が無ければ、結局は戦をして腹が減ることになるわけで、崩壊するしか無いわけだ。

消費税が2%上がって、予算の目減りが急激になったわけだが、何がどう変わるのかは全く見えない。どこかで誰かが恩恵を受けている筈なのだが、それがちっとも見えてこない。我儘を言いたいわけでは無いが、辛さを分担させるのであれば、少しは見える幸福があっても良いのでは無いか?望むことは間違っているのかもしれないが、トップには思い切ったジャッジが求められる世界環境なのだと思う。挑戦と忍耐が必要だ。

考古学から学ぶ

人類の技術的発展の続きになってしまうが、応用事例はあっという間に陳腐化、腐敗していくわけだから、その時々のお若い方々にお任せするしかない。引き継ぐべきは要素技術であり、それさえしっかりしていれば、新しい複合技術には対応できる。そもそも人がイメージするものの殆どが複合技術であって、真に新しいことはそうそう出てこない。

例によって近年の探索によって、ヒッタイトの鉄文明よりも1000年早く、鉄を溶かして固める技術がトルコエリアに存在していたことが明らかとなった。それはヒッタイトの製鉄・精錬技術よりも稚拙ではあるが、溶かして固めることは出来ていたようだ。隕石である隕鉄を加工する事は、それよりも古くからおこなわれていたから、自分たちで何とかしようという、見いだされた中では最古の鉄鉱石・砂鉄の溶解と固化であったようだ。

この鉄からヒッタイト精錬技術に至る間に人類が挑戦したことは、酸素の除去であった。今も変わらず「良い鉄」を作り続けているわけだが、その原点が紀元前2000年頃にあったということは、鉄を扱って4000年も経過しているという事だ。技術の発展はそのようなものだ。そう考えると、半導体Siの発展というものが、製鉄からの学びにあったからこそ短期間に達成できたと思って良い。自然との決別によって生まれた要素技術を、新しい材料にどう活かしていくのかを引き継いできた証である。

新しい素材でないと「お金は儲からない」仕掛けになっているから、新規素材開発に向かっていくわけだが、要素技術を積み重ねするだけではそれはなかなか容易ではない。合算させるべき要素技術が全て揃うことはあり得ないし、新規開発が出来る者に出会う確率は更に低い。確率が大きい大国だけが勝ち抜いていくのか。心身ともに伸び伸びと元気で健康でないといけない。一方で、あれもやれ、これもやれと言われる。ITで出来るものは全てさせる。それによって人を人の為に活動して頂くような環境を作らねばならぬ。そう思う。

テクノフェア御礼

どんな状態をもって猿類から原人と呼ばれるような変化とするのか、それはその専門家にお任せするしかないのであるが、近年、様々な発見が相次いで、400万年くらいであろうということになっているそうな。そこから我々ホモサピエンスに変異するのに370万年を要するということに、自然界の「長さ」を感じることが出来る。

先日は大入り満員、感謝のテクノフェアであったわけだが、様々な議論が熱くなされ、とても素晴らしい会であった。感謝申し上げます。会を盛り上げて頂いたバックヤードの皆様のお陰である。年単位の計画で当日を迎えるイベントであり、様々な意見を頂くが、来年に向けて既に動き出しており、進化を続けさせて頂きたいと思うところです。

で、自然界に任せておくと数百万年があっという間に過ぎ去る進化であるのだが、AI研究の進化によって、それが更に加速するというのが今回の主張であったように思う。そしてそれを加速させる原動力は、やはり人であることも共通認識としてあった。

積み重ねのフォアキャスティングではなく、バックキャスティングの視点をもっと打ち出したかったのだが、時間を頂けず消化不良でややへそが曲がったところではあったが指数関数的に高度化していく技術に触れることが出来た。ハードもソフトも結局は人間がどう支え合うかが本質的なところであって、独りよがりの技術であってはならないことは間違いない。

テクノフェア2019

名古屋から金沢はとても行きにくい。しらさぎ号などはスイッチバック的に米原で方向転換する。お客同士、仲良く椅子をひっくり返す様は、旅っぽくて嫌いではない。殺伐とした新幹線車内とは大違いだ。名古屋からだと、自動車で行けば3時間のところだが、公共交通機関となるとそうもいかない。飛騨経由はとてつもなく遅く大回り。流石に東京経由で新幹線と言う訳にもいかず、結局のところ、昔ながらの福井経由のしらさぎ号だ。これはこれで実は気に入っている。

大学研究者、特に、大型の設備を使い、材料分析を日課とする先生方にとっては、設備更新とその維持は、世界と伍しリードするには必須の事である。我が国の産業競争力の発展の為にも必要である。日本の国としては解っていることなのだが、国の予算というところにおいて、なかなか順番が回ってこない。それを真剣に考えようという集まりが金沢であった。

山の上の本校舎というわけでは無く、駅近くのサテライトでの実施であり、駅からぶらぶらと歩いていくにはちょうど良い距離である。金沢というところはなかなかにして文化豊かであるが、これなどは愛知出身の前田公のお陰が大きい。勿論、戦国の前から街であったのだが、整備発展と言うことにおいて、為政者の力は絶大である。

今日は鶴舞大学の開学記念日であり、名工大技術展示会であるテクノフェア開催日である。何故かAI関連のパネルセッションに引っ張り出されるという異常事態に巻き込まれており、冷や汗たらたらである。技術は素晴らしい。そして大学の技術には夢がある点においてさらに素晴らしい。その夢を描き切り、バックキャスティングで開発案件に到達する。そんな一日をアシスト出来たら幸いである。皆さま、どうぞよろしくお願い致します。