オンライン会議募集

ねちっこい討論の末、次の思考の根っこに到達した時、これをネット上、所謂、オンラインでの打ち合わせで可能であったのだろうか、可能とさせるならばどんなツールが必要なのかを考えた。ほぼほぼ出来る筈なのだ。高解像度のディスプレー、そこそこリッチなトラフィック、それらしいツールなどがあるわけだから、それに慣れていけばきっと実現できるのだろうと。卒業式のような儀式的高揚感を持ち込むのは難しいのかもしれないけれど、大会場のスクリーンにどっかの偉いさんが喋って感激するような国民性だから、それもネットで良いのではと思う。

対面式会議が、年度計画の説明と意見聴取というものがこの2週間で幾つかあった。往復1時間程度の場所で開催され、会議時間は2時間が予定されていた。内容説明が45分、残りは意見聴取と言うのが例年の流れで、分厚い紙を捲りながら要点の説明を受け、疑問点、改善要求を20名足らずの委員が発言していく。発言に対する発言も当然ある。2時間でお開きになって、議事録が送られてきて、それに目を通して、納得して終わる。

その紙の束がPDFで送られてきて、それに目を通し、意見を数日中に書いて出せとある。意見が無いなら無いと書いて出せと言う。これは会議があったほうが楽だったなと思いながら、渋々書類に目を通したのだが、説明だけだと見過ごしていたことが気になってくる。会議の進行は自分の時間軸で行うわけだから、書類の他のページも見ながら意見を書いていく。書類の審査慣れ状態にあるわけだから、面倒だなとの思いさえ吹き飛ばせば、それは何とでもなる。

議事録が事前にあって、そこに集まる人の顔、即ち性格がイメージ出来て、画面に集う人達は音速でキーアクションが出来て、人の話し中にいきなりしゃべりだすような無法者が居なければ、ネットミーティングに移せる会議はかなりあると考える。ただ、宿舎からということになると日本のネットワークインフラの脆弱性が気になるところだ。いずれにせよ、昨日までオフライン会議に慣れきっている人達の思考改革が一番難しい。オンライン会議は全てが記録に残る。顔の表情まで残せる。何か一つ、やってみたい気がするのだ。会ったほうが早いということではない。オンラインの方が良いという会い方があるはずだ。挑戦したい。

鎖国にて

いよいよ日経平均の終値が1万9千円を割りましたな。遅きに失したWHOのパンデミック宣言で世界的な恐慌状態。米国が欧州からの渡航者を30日間制限するなど、景気対策そっちのけとなっています。円相場も1$=103円台ということで、ここ数年、為替相場だけで生きてきた日本大企業群の壊滅的ダメージがどれ程のものか恐ろしくなります。

我が国の鎖国状態によって、中堅・中小企業殿達が、ご自分で加工して部品を作っていたのだと思っていたら、かなりのアジア再受託があからさまになり、ここまで「もの」を作らない我が国になっていたのだなと悲しくなってまいりました。

人の移動も少なくなり、それに伴ってネガティブな要素が報道されるわけですが、ちっとも報道されない我が国の電力消費の情報ですが、相当に消費量が減っているのではと推測するのです。新幹線だって空身で動いているわけで消費電力は激減しているはずなのです。工場も止まっている、ホテル業もエアコンが使われないなんて状況なのだから、このエネルギー消費をキープするような考えがあっても良さそうではないかしら。

大企業のサプライチェーンを支える、本当に「もの」が作れる皆様が連合を組んで、最終製品を生み出すチャンスでもある。自らのフラッグを明確に掲げ、「もの」が作れる人達の価値のサプライチェーンを作るために、鶴舞大学は率先して一肌脱ぐべきと考えます。前向きでいきましょう。目は顔の前にしか着いていないのだから。

リーダーは?

適材適所をAIが判断する。海外で先行しているやり方がいよいよ日本に入ってくる。これが進むと、生まれてから高校生くらいの嗜好で仕事が決められ、学ぶべき内容が支持され、行くべき大学が決められる。入試もなくなり便利な世の中の気もするが、突発的発想などは排除される。いや、その突発的発想能力までもがAIによって判定されるのかもしれない。

生産現場で求められるのは正に生産性であって、時間当たりにどれだけの「お金」を企業にもたらすのかが評価指標である。それが1日当たりの評価になるのか、一分なのか、一か月なのかは企業次第だ。某企業で伺ったことがあるのだが、一週間に1日でも爆発的に業務に打ち込む姿を見て、それが面白くて雇用しているとのことなのだが、1日当たりの生産量がゼロという日が続いて、5日間で見ると10日分働いているのだそうだ。

こんな人を雇用したいという場合と、そいつのお陰で他に妙な影響を与えるということを気にする企業と、それは分かれるであろう。AIならどんな判定をするのだろうか?上司の立場を代弁してくれることをAIに求めてしまうのだろうか。

組織は人によって育まれてきた。それがAIによって支配・指導されるようになるのか?AI指標で人の価値が決められる未来を手塚治虫先生は漫画を通して予言していた。大略、ろくな結果は生まないよという落ちであったが、その未来に向かって動き始めている気がする。世界規模の「難」の中にあっては国のリーダーが強いリーダーシップを発揮しなければならない。難しいからこそAIではなく、人なのではなかろうか?そう考える。

しなやかに生きること

日本の教育現場はどちらかと言うと知識や技能の習得と、それを再生する人間を育ててきたような気がする。出来るだけ早く、効率的にゴールに到達するかの競争を強いる。結果、プロセスよりも結果を評価するようになる。一本道で脇道無し。ひたすらに盲進する。

不安定で不確実な現実を思うと、今ある情報を処理する能力よりも、思考や判断を伴う情報編集能力が求められる。自らの意思を盛り込んでいく。即ち、知識や技能の活用をしなければならず、複雑で曖昧な情報から進む方向を決める勇気が必要だ。

リアルタイムというよりも、予測と賭けも必要だ。「今までこうだから、次もこうする」となりがちなのだが、次があるとは限らない世の中だ。コロナ騒動を見ても明らかで、恐らくは地球上に蔓延しているウイルスと共存共栄していくことになるのだろうが、来週、現状がどうなっているかなど誰にも分らない。

科学技術の進歩が著しくとも、突然、パソコンが無くなったりはしないし、自動車が空を飛び回るということはない。しかし、電話交換手の仕事はほぼ壊滅した。長い目で見ると消える職業がある一方、新しく生まれるものもある。頑なよりもしなやかに生きる。スマートである。

Web会議化の促進

Web会議の当たり前化が進んできた。そもそも論で、懇親会を実施しないのであれば、多くの会議はWeb会議で良い。懇意の間柄であればあるほど、それで良い。初対面だと画面に映っているのは誰かしらと、相互に考えている雰囲気が漂ってきて微妙であるが、ネットとPCの速度が十分なものになっていると感じる。

年間の移動時間を考えると、それはとてつもなく大きなものであり、それが無くなると、処理出来るワークは極めて増える。すると、時間外勤務時間が激減するような気がするのだ。週に2,3回も東京往復をしているような状況において、地域貢献の仕事が増え、本来成すべき事業への参加の可能性が増える。

一方で、移動して出会うからこそ納得しあえることも多いのは事実だ。画面での会議に慣れていないことが最大の問題なのだが、そんな気もする。これはWeb会議のシロートということなのだと反省するしか無いのだが、これも数をこなしていけば何とかなるものだと感じる。

コロナウィルス問題から発生したことなのだが、これを好機と捉えて、在宅会議や移動レスワークという部分を増やしていくべきと思う。会議は会わないといけない、書類にはハンコが無ければならないという因習は、そろそろ卒業しても良いと思う。

空元気を出そう

GDPが約マイナス7%ということは、実質の給与が7%減ったと言う事だ。もしも自分は減っていないというのであれば、それは他の人がその分もかぶっていると言う事だ。税金が上がり医療費、介護医療費等が上がって、確実に目減りした状況に出会うと、なんだか心が寒くなる。その寒さに負けるとコロナにも負けそうになるので、ここは意地を張る。まぁ、そうでもしないとやっていけない。

自分の足元を見ると、大地に呑み込まれていきそうな気分になるから、大法螺でも良いから天下国家を考えるのがよろしい。小さなことを積み重ねるということは日頃の行いで有効なのだが、天下の情勢を転換するには小手先ではどうしようもない。どうしようもないから大きなことを考え、そしてそれを身の回りに語るのがよろしい。

哲学者が何故名を遺したかと言えば、気候温暖、作物豊富な時代にあって、芸術に溢れた中にあって、市中で哲学者が人生を語ったからだ。語られた人生に対して、自らを省みて、納得した者が多かった哲学者の名が残った。街角に哲学者が経ち、辻説法をする。市中の民もそれを聞くために街に出て、自ら考え様々な世論が出来た。

好みの世論だけを事例に挙げて、全国民の意思の如くに上意下達するリーダーの下、これからどんどん心が寒い世がやってくる。地球は温暖化するが、心が寒冷化するようではよろしくない。空元気も続けていけば本当の元気になるだろう。いや、そうなるような思考をしなければならない。そう思う。

趣味

ふと思うと、趣味に割く時間を殆ど持っていない。唯一、読書という点においては、数分ではあるが断片に取り付き、活力補填に役立っている?と思う。これが趣味ですと胸を張って言えるものって本当に自分は持っているだろうかと、なんだか自信が無くなってきた。無くなってきたのであればこれ幸い、今一度、清算してみるのがよろしい。と言う事で、懸命に教員居室の断捨離を始めた。

定年退職された先生からお話を伺ったことがあるが、「後継者に全部任せた」という最大限に無責任とも感じるパターンと、半年、リヤカーでゴミ置き場を往復したというお話まで、スペクトルの広いご回答を賜った。研究においても趣味と実益があるわけで、論文になった研究テーマは、まぁ、実益の部分だろうし、そうでは無い部分は趣味なのであろうと思うのだが、引っ掻き回して出てくるノートやOHPシートを眺めていると、それが実感できるのである。

しかしながら、記憶に刻まれ、多くの文献を読み、書物を買い漁ったテーマは、かなり趣味寄りであって、そっち方面の書物は今後も読み深めてみたいと感じて捨てられないのだ。論文にしてしまったものは完結したものであって、まぁ、もう良いかなと分切れるのだ。研究室にやってくる学生諸君に活用して頂きたい書物は、共通の書庫に贈るわけだが、それとていずれ場所を塞ぐゴミになるわけだから最小限で無ければならない。後世につけを回してはならない。

電磁波と物質との相互作用ということが小生のテーマの骨格にあるわけだが、今も、「これを成し遂げたい」という強い想いがあるテーマに対して、どのように取り組むかを考えながら、書物の配列を変えている。考えてみれば残り時間は極わずかだ。自分の為に費やす時はほぼ無い状況において、それでもしみったれて学理にしがみ付く。笑われようが何をされようがそんなもんだ。それが趣味だ。実益になればそれに越したことは無いが、時間との闘いである。

旅は自らの自由時間で構成される、生きていることを自らの為だけに費やすことが出来る贅沢な行為だ。傷心を癒すのでも良し、脳のリフレッシュでも良し、何でも良しの自分イベントなのだが、ここ、十数年、気ままな山行すら出来ておらず、仕事以外の一人での移動など無い。恐らく、そんな時は二度と獲得出来ないのではないかと思っている。特に、コロナ騒ぎではどうしようもない。

インフルエンザで学級閉鎖ということがしばしば新聞紙上で出会う。30人学級中に何%以上の欠席者が出たら学級閉鎖と、目安が文科省から設定値として示されている。今回のコロナ騒動では、その指数よりも遥かに低い罹患率であるにも関わらず、小中高の閉鎖が通達された。春休みが伸びたから旅に出ろと言いたいが、家に閉じこもれと言うお達しだからどうしようもない。

そんな時、身体は拘束されても脳内までは拘束されないのだから、是非とも良書に親しんで欲しいのだ。何をもって良書と言うかは各人の選択の自由にゆだねられるわけだが、出来れば世界の文化に触れるような読書をして欲しいとは思う。MITのMicroMastersプログラムなどに触れるのもお勧めだ。これなどを眺めていると、海外を目指す学生ばかりになって、日本国内の大学への進学率がゼロになるのではと思ってしまう。まぁ、それはそれで良い。

3月になると大きな旅行バッグを引っ提げた人達を多く見かけるようになるはずなのだが、明らかに減っている。経済活動が停滞する時だからこそ、脳の貯蓄を増やすべきだ。これこそが人間の本質的な活動であって、AIとロボットが人間の仕事を代替してくれた社会に対する予行演習であろう。どうせなら一般民間人も含めて昨年の大型連休並みの赤日にして欲しいと願ってしまう。怠惰な意識に歯止めは無い。苦笑いである。

人は国家なり

数年前の笹子トンネルの天井板崩落に限らず、我が国のインフラの老朽化・劣化が問題視されて久しい。ものの時代から人の時代なのだから、大規模インフラは捨ててしまえという暴言を吐く輩がマスコミに現れるが、小生はそうは思わない。適度な国土強靭化による国の安らかさというものは確保されねばならないと考えている。あくまでも小生が考えているというだけだが、適切な修繕は絶対に必要である。

年度末になると、各所で掘り起しが始まり、想定外の渋滞に出会う。コロナウイルス蔓延によって移動する人が減っているからか、渋滞の規模は小さいような気もするが、逃げ場のない中央高速道路の集中工事などに出会おうものなら悲劇である。新東名が出来て本当に良かったと思う。これがインフラなのだなと実感するわけだ。

そのインフラも活用する社会が無ければ意味は無く、その社会を構成するのは人なのだから、人の健康状態が維持されなければインフラは何の役にも立たない。鶏・卵で医療に掛かる物資が輸送できなければ健康は保たれず、だからインフラ整備なのだという意見も正しい。正しいだけに難しい。どちらも正しい選択肢状態の解決を手助けしてくれるのが高度情報通信と巨大データのAIによる処理であろう。

人間の神経伝達速度並みの情報伝達速度・量が期待される6G技術開発にもっと真剣に取り組むべきだし、人の健康情報獲得とインフラ情報獲得も並行して行われるべきだ。情報収集と対話によって平和はもたらされるべきだが、石があったら投げたくなる人類同士の対話の前提に、何らかの道具立ても今のところ必要なのかもしれない。話が大きくなり過ぎたが、我が国の国会のやり取りの稚拙さが嫌になる。そんな日々だ。

国費投資先としての大学

18歳人口が減少していく中で、何故、鶴舞大学を文科省が応援しないといけないのか?鶴舞大学だけではなく、全ての国立大学法人に返答が求められている。民間の商店街の店舗であれば、大規模店舗が近所に出来たのに、何で継続するのとは聞かれない。営業継続は経営者の意思で決定されるからであって、運営費交付金なるものが運転資金の骨格になっている現状では、税金の使用理由が求められて当然だ。

常に大学が存在する理由を意識せねばならず、小生的にはそれを所信表明で語っているわけだが、それがどれだけ伝わっているのかはさておいて、地域の特殊性を勘案してその理由を考え続ける必要がある。昨今のAI、IoTを基軸にしたものづくりの正常進化に乗り遅れ、いや、乗ろうとしてこなかった中京地域において、何で鶴舞大学が必要なの?と追及されると「もっと大声を上げ続けても良かったのでは?」と思ったりもする。

一方で、基本は18歳人口内から選抜された「チーム鶴舞大学人」を世界的視野で周りを引っ張っていける勇気ある人材に育って頂くことであり、それを達成していることを前提として、社会貢献活動に活動範囲を広げていく地道な作業を続ける必要がある。県・市事業は勿論の事、コンソ事業も同様の意識で行わせて頂いているわけだし、プログラミング教室なども同様の意識である。地域の元気が命の源泉であるのは間違いない。

社会から見える形の大学のイメージはあるが、その方向性は日本ではほぼほぼ突っ込んだ議論は成されていないし、実践した大学は無い。学生が何人、どんな会社に就職したかということがメインの見せ方から、大きく踏み込んだ指標を出しては見たいが、その実現は若手教員に相当おんぶにだっこ状態になる。なかなかに難しい。しかし踏み出さないと本社から要らない支社と言われる。やはり踏ん張らねばと思う。