COP26考

COP26での議論において、経済活動を維持しながら地球平均気温上昇を産業革命から1.5℃未満に抑えようというところに落ち着いたとのこと。タイムマシンには乗れませんからね、人為的気候変動のトリガを引いたのは産業革命そのものだということは誰もが解っているんだけど、「わかっちゃいるけどやめられない!」って奴で、今まで大量にCO2を吐き出してきた行為には目をつぶって、これから絞りましょうということだから、多くの国々が「しょぼっ」となったのも無理は無かろう。

マスコミに因れば、あくまでもマスコミ報道を鵜呑みにすればということなんだけど、CO2排出量を2030年時点で2010年度比で45%削減しないといけないんだそうだ。電力活用をほぼ半分にしようというわけだね。電力を活用したければ、CO2排出を極限まで減らす手法が必要と言う事だ。シリコン太陽電池などは、その製造過程において殺人的にCO2を排出していくわけだから、太陽電池活用は無かろう。砂漠の上ならまだしも、緑化可能な地面にソーラーパネルなど、食料自給から考えれば言語道断である。砂漠の上だと砂が乗って、且つ、気温が高くなるから半導体的に損失ばっかりが増えて、見せかけの電力畑になる。

電力発生に対する石炭活用削減も盛り込まれたようですな。日本の世界トップレベルの石炭火力技術は芸術と言っても良いのだが、坊主難けりゃ袈裟まで難いの例え通り「おまえが悪い!」って言っていれば良いヒステリー軍団には何を言っても無駄で、説得など出来るはずもなく、まぁ、これを機会に更にニューテクノロジーを重ねていくしか無かろう。地味にこつこつといく。日本の得意技の筈なんだけど、どこまで通じるのか?アンモニア燃焼などを首相は叫んでいたけど、肝心のアンモニアが海外製だし、それも作るのに爆発的電力が必要だし。バリューチェーンにエネルギーが入るって知らないのかな、この国のリーダー達は。

人為的気候変動を生じさせるのはおかしいということではそうなんだけど、そんなこととっくに分かっていたわけで、それをまやかしだなどと叫び続けて金儲けだけに突っ走ってきた世界の政治家諸氏は、今更エンジニアに責任を押し付けるなと言いたいが、エンジニアと言う生物は、人類課題とか言われちゃうとね、気合を入れて何かやり遂げてしまうんですよ。「そんなところに注力しますか?」と驚くようなお話を頂戴したりして。いずれにせよ、地球人類全員がCO2削減に注力しないといけなくなったわけで、自分は何が出来るのか、自転車を漕ぎながら「息を止めないと地球温暖化に貢献だ!」などと自虐的になっても仕方が無く、それでもほんの少しずつでも何とかしようと考える面白さを味わっている私であります。

学びの順序

STEM教育とか言ってね、まぁ、理科好きの子を増やして、理科好きのまま育てることが出来れば、そのまんま日本は科学技術立国になるぜって幻想的な見せかけ旗印なんですな。悪いとは言いませんし、やるなとは決して言わない。言わないけど、博士課程を卒業したら、就職先が極めて限定されるとか、学費を払って入学金まで取られて、挙句が就職できないのでは誰が一体、その道に進もうと思うかだ。働きながら博士号を取るとかもあるんだけど、大切なのは頭が柔らかい時に、思いっきり、もう、これ以上学んだらあっちに行ってしまうというくらい、脳を鍛えることが大切なのだ。そこで初めて思考が柔らかくなる。

おまえはどうなんだと言われてしまうと二の句は継げないのだが、それでもぎりぎり限界までは学んで、思考して、挫折したよと申し上げることは出来る。ガマの油売り大学の陸の孤島が功を奏したんだろうけど、今の時代にあれをやったら、全員、折れてしまうんだろうね。先日、某お方とお話をさせて頂いたのだけれど「弱いよ~、折れるよ~」と同様のことを仰られましたな。もうその通りだと実感しています。パワハラ、アカハラと、弱者の訴えだけが美辞麗句となり、必死に頑張って、指導しようとしている教育者が糾弾され、そしてそれに賛辞が与えられる社会だ。やってられませんな。

さっきのSTEM教育に戻るんだけど、数学は、もう、とことん、興味がある子にはアシストして、その才能を活かして頂ければ良いと思っています。数学だけの大天才で、10歳で博士号出したって良いんじゃないですか?もしもその域に達していると評価されるのであれば。科学や工学は、哲学とか文学とか、文化人類学とかね、芸術は勿論の事、人間が人間の活動に謎を持ち、そして美しいとか、悲劇とか感じられる感性を養ってから挑戦して欲しいのですよ。単に、上司に言われたから何かをやるとかでは無くてね。コンテストのために何かするとか、頭の良い馬鹿を育てないで頂きたい。大人の欲目で子供の才能は消失していく。

「わぁっ」という驚きが必要なのだ。それは単に科学的興味だけでは続かないと思っている。そして発展させられないと思っている。実体験からそうだ。三つ子の魂百までまでで、その感動と驚きに、宇宙の神秘、自然の摂理を深く学び、そして人が人のために己の力を活かす素晴らしさを感じることが出来、その後、科学だの工学だのを学べばよろしい。キャンパスの銀杏が色づいたことすら気が付かない輩が、工学で人を笑顔に出来る筈は無いのだ。そう思う。

何か新しい事を求めるあなたに

何を持って新しいというかは、その人の感性に依るのかもしれない。論文になっていたり、出版されていたりしたら「もう古い」と語る方もいらっしゃるだろうし、社会一般の過半数が知っている、使っているとなったら「もう古い」判定をされても良いのではという方も当然あってよろしい。学術雑誌が届いて「量子リザバーコンピューティング」なる文字を見て、面白そうだなと読んでみて、小生にとっては新しいなと感じたのだが、相当数の参考文献が挙がっていて、2017年の論文が出発論文として引用されているから、その道の方にとってみては「今更何を言っているのか?」ということになるのでしょう。何が言いたいかと言えば「新しさ」の定義は難しいなという事。

昨日、ご来客があって「何か新しい事をしなければなりませんと言う。そりゃぁそうだろうと思うのだ。これだけ世界が猛烈な勢いで動いていっているわけだから、財源無いのにばらまきの政治に走るとかね。ばらまいたら景気が良くなるって本気で思っているのかね?そこまで古い手法に拘らなくても良いのにと思うのだが、国民の大望だから仕方が無かろう。そんな愚痴はほったらかして、「何か新しい事」ってなんだろうね。その人は行き詰まった現状を打破するべく「何か新しい事」に挑もうとされてはいらっしゃるのだが、「具体的には?」の問いかけには無言であった。

そこに学び方の過ちがあるのではと感じるのだ。与えられた課題に対して、他者の力を借りながら前に進んでいくトレーニングは幼少の頃から十二分に積んできている。ゲームなどはその最たる例だ。「昆虫の絵を書いてみましょう」とかね、具体的な指示が出される。感想文を書けと言えば「こう書くのだ」という指示付きだ。あの世に行っても閻魔様に「地獄に堕ちろ」と行き先が支持されますからね、考えずとも行くところはある。ところがだ、「何か新しい事」にという課題迄行きつくのだが、その次の一歩を踏み出せる「お若い人」に出会ったことは無い。悲しいかなそれが現実である。

小さい頃から英才教育、私学に通ってエスカレーター方式で「いいとこの秀才」で、立派な?大学にご入学、そして一流企業という、まぁ、敷かれたレール一直線、わき目もふらず学ぶだけ学び、その学びを活かして「挑戦して失敗する」ことを体験してこなかった。
挫折が無い方には「何か新しい事」は絶対に生み出せない。小生は絶対という単語は大嫌いだが、ここにだけは思いを込めて言い切ってみたい。何か新しい事をやりたいのであれば、挑戦して挫折せよ。それを繰り返せ。すると何か見えてくる。自分が本当にやりたいことを。それはもう、新しくても古くても良いのだ。それが目の前に無ければ尚良い。進めばよかろう。それだけだ。

調理器具は永遠に

「シャキシャキ」っと野菜を食べるにはということに応えようとしているのかどうかわからないけれど、世界中にスライサーなるものがあって、サラダ的に野菜を摂取しようという試みが成されているわけですな。温サラダとかあるのだけれど、まぁ、そんな面倒なことをして、貴重なビタミンを破壊したりミネラルを流し出したりして、繊維しか食べていない状況になるよりは、適当なサイズで野菜を頂くのが良いでしょうな。勿論、温度を上げて栄養素を獲得しやすくする努力は必要なのであって、スライサーやミキサーという調理器具の発展を見てきたわけでしょう。

料理が趣味というか実益というか、嫌では無いというか、がきんちょの頃から「男子厨房に入りなさい」というところで育ってきたもんだから、調理器具は実験道具に見えるわけですよ。より短時間に調理が出来て栄養素を体内に取り込むことが出来る工夫は、小生にとっては研究そのものでありまして、新しい情報があって、「これは!」というモノがあると、今は「クリック」となってしまうわけですな。勿論、滅多やたらにあるわけではないですけど、特に日本には超一流どころが揃っているおろし金などは興味をそそるわけです。

ワサビとかニンニク、ショウガ等々、日本食には欠かせない薬味は、おろし立てが良いとは限らないわけだけど、おろし方で獲得栄養素や食味がまるで違うのは誰しもが経験しているところでありましょう。だから、常に新しい情報が入ると、挑戦してみたくなるわけですよ。何万円もするような代物は、まぁ、使い方もお手入れも殺人的に大変だし、そこまではやり過ぎないのが面白みなので、まぁ、TVの向こうの世界に置いておくわけですが、数千円のものだと、なんだかワクワクしてくるわけですな。しかも作ってみたい料理に活用できそうだと勝手に思い込んで、脳内の必要物品リストに掲げていくわけですよ。

まぁ、これも趣味だからと言ってしまえばそれまでなのですが、過去から溜まりに溜まった物の断捨離を進める一方で、生活環境に笑顔をもたらすモノに置き換えていって、最後は何も残らずにあっちの世界に行くのが良かろう。そろそろ年末のお節の準備に入らないといけないわけで、それに向けても活用できればなお良しである。道具は活用すればする程安くなるわけで、使い倒してすり減らせるのが宜しい。金額的にもそれくらいのモノを購入するのが宜しい。達観してきた。

民度

「民度が高い」という元首相の発言があったが、69歳にもなって京王線のジョーカーの物まねで新幹線に放火するかな?徹底的に民度が下がり切っているということなのだろう。マスコミの報道を見ただけなので、どれだけ正確な情報になっているのかさっぱり解らないが、そのような事件が発生したことは間違いないのだろう。一たび、常軌を逸脱した事件が起こると、それが当たり前の出来事の様に繰り返される現状に辟易する。流石新幹線で、消化後、運転を再開している。流石である。

分別ということなのだろうが、民度の質保証なんてものが必要になってしまうのではないか?便利と思うマイナンバーカードであっても、「安全性が・・」なぁんてマスコミの発言で、便利に活用しようとする者の「益」を害しにくる。遠隔医療行為を進めようとすると人の命より自分の雇用とばかりに政治を活用して反対してくる。医は算術なりとは良く言ったものだ。理由は解らないが何故かコロナ禍があたかも消滅したかのように見える我が国であるが、ドイツなど、日本よりはワクチン接種率が低いとはいえ66%の方が接種していて、再び新規感染者が増加している国がある中、どんどん行動緩和となっていっている。ここにもちょっと民度問題があるように感じる。

一方で、感染者が近所に居たか居ないかということを教えてあげますよと言うスマホアプリなど、税金を投入したにもかかわらず、エラーが多く、使い物にならないとか、科学的根拠のないマスクを税金で大量発注して国民に配りまくるとか、30兆円近いお金が使われていないとか、政官の民度も激しく低いと言わざるを得まい。これらの反省が全く無い中、18歳以下の方々にはお金を撒きましょうなんてことは、まともな議論も無く決まっていくのであろう。これも等しく、国民が支持しているのだから受け入れるのが筋なのだろうが。こんなことで本当に良いのか。

昔の事を言うと「年寄りが」と蔑まれるが、向こう三軒両隣という言葉があった。お付き合いできるのはそんな範囲で、お互いが緩やかな監視状態にあって、コミュニティが保たれていた。こんなところに民度の高さがあったのではないか。高く維持せざるを得ない状況が創り出されていたのだと思う。今では職場の隣人ですらメールでご相談である。記録が残る方が良いということもあるが、自分の壁を限りなく高くして、隣人の侵入を拒んでいく。対面を推奨する気はさらさら無い。しかし、隣人と文字だけのお付き合いですまそうとは思わない。この辺りが既に古いという事か。民度ってなんだろうと、新幹線車内での模倣放火で思った次第。これから益々増えそうな状況と感じる。辛い世の中だ。

アナログ力

もう、どうでも良いのだが、元副大臣が疑いを掛けられて事情聴取を受けようが、まぁ、国民が承認したのだから、それが民意であり民度ということだね。日本にも真面目にものづくりをしていた時代があって、この週末に1955年製造の、とあるものを調整していた。時間的には1~2時間で済んだのだが、それに着手するまでが数日を要したことが笑い話。断捨離が出来ていないとこういう時に無駄な時間を要するのだと、とある方が仰った「思い出はいつかゴミになる」という名言を思い出さざるを得ない。まぁ、この季節、大掃除も兼ねているのだが、埃を取り除くのと、床に乗っかっている物品を撤去するのとはわけが違う。そこに鎮座していた歴史を成仏させるのだ。

断捨離とか簡単に言うのだが、バックキャスティング的に考えれば、亡くなった時に、近郷近在の人々に迷惑を掛けないと言う事を考えれば、徹底的に成さねばならぬ。就寝用具以外は全て消し去るのが本質だろう。しかし、煩悩の塊で生きているわけで、そうそう、分別ごみ袋に放り投げる気合が足りない。こんなものはもう使わないと、未来を考えると捨てられないが、断捨離は存外、フォアキャスティングだと実行できるなと思った。そもそも1年、使わなかったものをこれから再び使うはずが無いのだ。書物やレコードなど、文芸に関するものはそうでは無いが、いや、これとて怪しいが、電子機器やケーブルなどはとっとと廃棄すれば良いのだ。

テレビで拝見した断捨離の方法なのだが、引き出しの中身などは段ボール箱に、ばぁっとあけて、そこから必ず使うものだけを拾えということなのだが、ドル札の束とかそんなものまで出てくる始末。これは捨てる必要は無かろうと苦笑い。オーディオ機器のセッティングを進めながら、何しろ、500μmの純銀線のはんだ付けだ、失明寸前の視力ではきついきつい。それでもなんとかこなして「新世界から」のLPレコードが、その昔の音色を取り戻した時は、オタクエンジニアで良かったと、ちょっと幸せを感じましたな。プロの機械だから必ず戻る。いや、そりゃぁ、回転軸とてすり減るだろうが、全て分解してグリスアップして組み直し、5μmのがたつきまで感じる指先で満足したメンテが出来たのだし、耳で覚えた音階のストーリーが戻ってきたのだから良しとしよう。

モノをいじって形にしていく。オーディオ趣味者ではあるが、ウルトラ最新のデジタル音響設備を使いこなしているわけでは無い。アナログ時代の化石人種が、音響を語ることははばからねばならぬのか。バイオリンのE線が奏でる響き、木造のバイオリンの胴鳴りなら体に刻み込んでいる。それでは駄目なのか。デジタルで無ければ許されないのか?レコードの欠点は、回転速度が一定ということだ。外側と内側で分解能が変わってしまう。それでもSP程の回転速度であれば、圧倒的な音の問い掛けに出逢う。問われて応えない、正しく問う事すらままならないデジタル人種と言ってしまうと「老人」と無視されるが、老人力も捨てたものでは無い。音も味覚も、アナログだ。小馬鹿にするなかれ。

そろそろ

「量産」は廉価な工業製品製造には必然の概念である。直径30cmの半導体ウエハが数十枚、一度にぐるんぐるん回って磨かれる様は脅威である。磨いたら今度は薄くして張り合わせて・・何という事をしているのかと思うが、パッケージ化されて出てきた時の価格は、ちゃぁんと一般民間人が背伸びをすれば購入できる価格帯に収まっている。製品性能はそのプロセスによって決定づけられるわけだが、プロセス上の機械の能力が高くなってきているので、その機械を適切に活用できる企業であればそれなりのものが出来るのが現状である。半導体にとって人間はゴミ発生源だから、居ないに越したことは無い。

様々な製造現場で「自動機械で私の仕事を奪うのはけしからん!」なんて騒ぎが生じていると、マスコミ等を通じて聴こえてくるわけだが、半導体業界においては、人間に作業があればそれだけ歩留まりが下がって、自らの給料が下がる方向に行くわけだから、作業は奪われるのが良いという認識だ。だから機械機能の精緻化に反対する不可思議なユニオンなど無いし、むしろ、トップが新規の研究に企業資金を投入しないことには暴徒と化す。誰でも出来る作業が奪われるのか、機械に譲ってより高度な作業に挑もうとするのか。世界シェアを競う半導体関連業界企業と、シェアが無限に落ち続ける自動車産業企業との体質の違いは明確だ。

破壊的イノベーションが企業も雇用も粉砕していながら、次のビジネスを見出していくノキアのようなことが我が国では起こらないのは、日本的浪花節というか、一族郎党古いものにしがみついて、共倒れしていく美学に酔いしれているからだろう。海外から見たら茶番にもならない。仕事が無くなって死滅するから、古いものを作り続けてくれと泣きつかれたら、切る英断こそ、切られた側に挑戦の機会を与え、新しきに挑む勇気の獲得に繋がるのにと、とても残念に思う。

これからも破壊的イノベーションは収まらない。余りにも破壊が目に見えなかったからね。勿論、部署が他社に買われたとか、ミクロな血の流れはあったと思うのですが、カテゴリそのものが無くなってしまうとかね、これから続々と出てくるでしょう。ゲームの世界に出てくるアイテムが続々と生産されている。20歳前半の諸君が、今、目の前にあるものを欲しがるとは思えない。過去など思い起こす必要は無い。どんどん進めば宜しい。今できることは既に古いのだ。それだけのことだ。

丼ものなら

丼飯的なものは各国にあるんだけど、丼を抱えてかきこむことが出来るのは日本くらいなものかしら?茶碗に触っただけで下品なんて蔑まれる国もありますからね。郷に入ったらということで当然、ルールに従うのですが、ガキンチョの頃からの条件反射というかな、茶碗の類が出て来たら、まぁ、抱えますわな。「お茶碗はこう持つのだ」と躾を受けたことを覚えているくらいだから、余程、守らないガキだったのでしょうね。不思議なくらい、覚えていますよ、食事のマナーの刷り込みを。それが今も継続中で、棺桶の中にまで持っていくんでしょうね。習慣って。

日本の丼ものは基本的にご飯の熱と水分を上手に使った、機能美の極致だと思っているのですよ。鰻丼とかは上等過ぎてお目に掛かれないので、もっと気軽な奴が良いですよ。カツ丼なんて言うのもかなり上等の部類なんだけど、これなんかは「豚肉をカツに揚げる」行為に障壁がありますな。油を大量に使うところに困難がるんだけど、お惣菜で購入してきてそこからカツ丼に仕上げていくという安直技もあり得ますな。しかし、全てを自家製造するというのが小生の主義なので、これはちょっと無し。

自家製造出来て、日本の丼オブ丼と言えば親子丼。親子で頂く手作り親子丼なんてのは最高ですな。凝ってみると奥が深い親子丼なんですよ。考えてみれば、街にお金を取るメニューにある位ですからね。「美味しく」作るとなると、これは結構大変ですよ。皮がぐにゅっとしていたり、鶏肉が「ゴム」みたいになっちゃっていたり、玉ねぎがまるで生だったり瀕死だったり。出汁が塩辛かったり真っ黒だったり。玉子が生だったりカチンカチンだったり。まぁ、基本、美味しいから食べてしまうのだけど、新しいもも肉の塊を買ってきて、自分で作るのが一番ですな。

熱々のご飯に煮込んだ具をサラッと乗せて、一味など振ってみたりして。三つ葉を載せるなんて技もあるのでしょうけれど、そんなお上品さは求めなくて良いのですよ。丼はお気楽極楽が一番で、出汁に浸った残り少ない時に、どんぶりを抱えて「カッ」と掻き込んだりしてね。まぁ、やらなくても良いのだけど、やっても怒られなさそうな親子丼なんですよ。上等の鰻屋さんの鰻丼だったら許されそうに無い技なんだけど、親子丼なら許されそう。何でいきなり親子丼なんだって言われるかもしれないけど、親子の絆に親子丼なんて最高だなって想った次第。それだけのことだ。

遥かなる80%

そもそも論、今回の選挙って、与党も野党も類似品で、何が違うのかを探し当てるのが大変だった。勿論、日銀と一緒になってゼロ金利なんてとんでもない政策を延々と続けるのは異常だし、自殺者まで出した事件があったとしても裁判所までがいっしょくたになって知らんぷりという政権が良いわけでは無い。日本人らしく過ぎたことは忘れてしまう、未来も真剣に見ないということで、結局は55%程度の参政率ということなのだろう。まぁ、前回、前々回から比べたら数%は伸びたわけでこのまま増えていくことを期待するまでですね。

選挙ネタを面白がっていたのですが、まぁ、結果が出てみると、過去の審判ではなく、未来の判断でもなく、取り敢えず、憲法改正をしてみようかという国民の新たな総意が見えたという事でしょう。国家統制が国民の活動に及ぶようになるんでしょうね。まぁ、パンデミックの最中、協力要請しか出来ない政治には限界を感じたのは事実ですな。しかし、それは政府の行動の鈍さ、首相の決断の無さが招いたことで、統制の問題にすり替えているだけでは無いのか?まぁ、憲法が定めた選挙が成され、民意として決定されたわけだから、従うことになるわけですな。

話は全くぶっとんで、正常な戯言に戻るわけだが、先日、小生が活用している乗用車のコンソールパネルに見かけないインジケータが点灯したのですよ。結局のところエンジンオイルの状況を判断するセンサの故障だったのですよ。工業製品だから壊れるのは当たり前なのかもしれませんが、ディーラーさんの態度がよろしくなくて、「何故壊れたんですか?」って??そりゃ、こっちのセリフだろう。いきなりセンサー代金はいくらですと請求書を渡してくる。すげぇ商売だ。半導体素子が無くて車を作れなくなるT社らしい対応だ。

安全は当たり前、安心は企業とユーザーとの信頼関係ということだが、後者が完璧に失われましたな。まぁ、真のエンジン異常の時にインジケータが点灯しなかったということよりはましなのだが、企業人としてその言い方はどうなんだと。良い商売があったものだ。エンジンにくっつけるセンサである。余程の信頼性が無ければ「安心」は得られないのはそうでしょう。国産の車載用半導体が無いということも、結局は安全を創り出す体力が国内エレクトロニクス企業に無くなっているという事でしょう。そして人づくりをしていないということ。「博士は要らない、自分達で育てるから」と技能優先、智恵には高給を払えないと、数十年、人にお金を掛けてこなかったツケが回っただけでしょ。知識と智恵を大切にしない国。それがこの国でありましょう。投票率が上がる筈は無し。

何も変わらない

少し前のお話で恐縮なのですが、10月29日に発生した太陽フレアの影響が出るとか出ないとか。今回の10倍程度の大きさの現象の際にはGPSが異常をきたすとうの影響が出たそうなのですが、幸いにして今回はマスコミを賑わすほどの影響は出なかったようで、選挙活動などに問題は無かったそう。何処かでなんらかのことが生じているのかもしれませんが、未だに解っていない太陽のイベントでありまして、サイエンス的にちょこっと何かが生じないかなと期待してはいたものの、なぁんにも起こらずちょっと肩透かし。まぁ、何も無いに越したことは無いですけどね。科学的に何かを変えようと思うのであるならば、今日から始まる鶴舞大学のテクノフェアにお越し頂ければ!

世界のエネルギー事情とか、食料事情が、賃金は下がり物価が上がるこの国の現状で、ちょっとは投票率が上がるのかと思ったら、そんなことは全く無いのですね。政治的無関心で自由主義の街が失われるとかね、そんな状況が世界では広がっているわけですが、まぁ、上がらないのだろうなと思ってはいたものの、少しは変わるのかなと若干は期待したのですよ。この国、本当に大丈夫か?お若い方々は海外に移住すればいいやって思っているのかもしれないけれど、国家と言うことを考えない人は受け入れてもらえないと思うんだけどね。

懸命に教壇に立ってきたのですが、受けての側が「就職出来るから良いや」くらいに思っていたのであれば、なんと空しい人生であったかと言うことですね。全部が全部と言うことでも無かったのかもしれないけどね。評価評価で評価疲れの部局にいるわけだけど、評価してくる側の世界の立ち位置が下がり続けているところで、評価に耐えようと努力していることそのものが虚しくなりますな。某政治家殿は「老人が居座っているから若い研究者にポストが無いのだ」と暴言を吐くわけで、じゃぁ、あんたらは何なのだと反駁を聞いてみたいものですな。未来が見えるって仰るんでしょうけど、だったら何で実質GDPが落ち続ける国家なんだ?

まぁ、野党が共闘とか言っているけれど、大義の為に歩み寄るというものではないですからね。主張は違うけど同じ傘に入って小競り合いをしているほうが真っ当に見えるという、国民感情にぴったりマッチする政党が勝ち続けるということなんでしょうね。何処がどうなっても良いのですが、少なくとも8割以上の人が投票活動に参加するような国家であって欲しいですよ。若者が新しい事に挑戦しようと思えなくなる政治、寄付を社会力向上にしようと思えるような税制とかね。積極的な外交とかさ、なんかあるでしょうよ。あの体たらくなコロナ対策もOKだったと認めてしまう。この国、一体、どうなってんだと嘆いてみてもなんにもならない。まっ、自分の成せることを一歩一歩積み重ねるしかないなと思いながら、賽の河原の石積ももう飽きたなと感じる私であります。