毎年の訪問者

職場に楽しみな事があるのは良い事だ。楽な職場は嫌だが、楽しみがある職場は宜しいという事なんだけどね。それがストレスを緩和してくれるものだとなお良い。某部屋には物凄く古いエアコンが、穴殺しとしてそのまま埋め込まれているのだけど、表側の放熱フィンの隙間に、毎年「鳥さん」がやってきて、子供を育てて、そして旅立っていく。今年はどうかなと思っていたら、ちゃんとやってきて、安らぎを提供してくれている。

古い電化製品であるから、当然の事ながら利用はしないのだが、何も知らない人が勝手にスイッチを入れて、鳥のご家族に甚大な被害を及ぼしてはいけないので、電源ケーブルを外してある。別のエアコンが設置されているから何の問題も無い。住居を提供することで安らぎを頂けていることは、双方にとってプラスしかない。家賃を頂こうなどとは思わず、中々にして良い関係が保たれているなと感じている。

私的なご近所さんが、ツバメの巣を叩き壊している場に遭遇したのだが、確かに糞等のことはあるだろうが、共生するということは出来なかったのかなと、ちょっと残念に思ったりもする。各戸の事情がおありなのだろうが、家の周りの害虫を駆除してくれていることも思うと、ちょっとどうかなと思ったりもするのだが、このあたりは様々なご意見がおありだろうから、踏み込まずにほったらかすとする。拙宅においては雉鳩さんがやってきては巣立っていくのだが、脅かさないように気を付けている。

SDGsって人間の都合だけでは達成し得ないわけで、その辺りのことを考え方を共有して考えていくきっかけとなっているんだろうなと思うのですよ。PCとにらめっこしてお仕事をしていると、視野が画面の範囲に限定されてしまう。社会との境界の、社会の側を思ってお仕事をしていないと、鳥さん家族を平気で破壊する人間になりかねない。経済活動を止めろとは勿論言わないが、自らが誰を番増させて頂いて、どんな価値を社会に提供している一員なのか、日々考え続けないといけないと、小鳥のさえずりに学ばせて頂いている私であります。

五月も半ば

気が付けば五月も半ばである。沖縄県は梅雨入りをしたと言う。東海地域の空もはっきりとしない、梅雨を思わせる雰囲気である。空気はさらっとせず、じめじめ感が増してきて「梅雨の空気を感じる」毎日である。太平洋高気圧が勢力を拡大させるスピードが上がっているのだろう。これも温暖化ということか。

太陽の周囲を回る地球の軌道等にとって、氷期と間氷期が決まるわけだが、その周期で考えると今は氷期の筈なんだよね。それが平均的な気候状態と言うことで、人為的な温度上昇と考えるべきと言われているわけだ。先日、ちょこっと車を運転する機会があったのだが、山々は初夏の彩という雰囲気だね。

朝は少し冷えるのだが、お昼頃には初夏の雰囲気である。はるか遠くの記憶なのだが、5月ってまだまだ肌寒かった思い出があるのだ。それがいつの間にかクールビズなどと言われ始め、ノーネクタイ、ノー上着で、まぁ、それは大歓迎なんだけどね。5月半ばでこの気温では、真夏が思いやられるのだ。

なんだか妙に進むのが速い毎日である。やらねばならないことがどんどんと増えてきて、気が付くと年末になってしまうような恐ろしさを感じる。内閣府は研究者の研究する時間をどうやって増やそうかなんて検討をしているのだが、結局のところ組織的な信頼関係に尽きるのだと思っている。何をしでかすか解らないから会議に参加させろなんて言う研究者がいらっしゃる間は研究時間は増えないでしょう。打破したい。

小さくても挑戦は美しい!

誰かが何処かで何かを望んでいる。結局のところ、それが自分であったりするんだけど、定量的に誰かが小生を呼んで頂いている。まぁ、己惚れているので勝手にそう思っているんだけど、ルールに従えない人はリジェクトするというルールで動くのだけど、小生的には「間違ったルールで突っ走ろうという、旧態依然ちなチームは要らないのだ。

本当にたまたまなんだけど、40年も過去の事、いや、地球の出来事からすれば昨日にもならないのだけれど、こんな言い訳をお願いしたいなって考えたというか、サブクスそのものが当時には無かったからとかね。本日、それを思い出したからこそ、考える理由が生まれる。勿論、そんな奴とは口をききたくないから、小生の想いだけを大切にして、殺戮の極致を喜ぼうとする研究者はどうでもよろしい。

どうでも良くないのはルールだ。国が「中国の千人何々に加担してはいけない」という。組織としてNoと言うが、海外から我が国の優秀な研究者に声を掛けて頂くのだけれど、「自分の未来に対して、国が「知恵を日本を軍事的に崩壊させる研究にお金を出さない」と、当然のことなのだけれど、目に見える軍事力は勿論なのだが、地方大学にしわ寄せしている場合では無かろう。天下国家、大丈夫か?

まぁ、産学官金連携機構の偉い人たち、もういらんかな?自分で自分を追い詰めてごらんなさい。「たわごと」を言い続けるって、これは悲惨な程に体力が居るのだ。外野の攻撃が山ほどあるんだけど「知ったこっちゃない!」と、お前なんかどっか行けという気構えを含めた挑戦が厳しいね。誰かの依頼を頂戴した瞬間に、戯言では無くなるからね。バカバカしいから言わないけど、いや、言っても無駄だから沈黙するけど、笑顔を天下に持って行こうとは言ったのだが、それは約束されたのではない。生きている人間が、本気で考えた結果、天下の為に燃えている。小生は前に行く。それだけのことだ。

オタク道を歩め!

基本、オタクでなければならないと思っている。オタクだけが世界を変えていく。オタクは変化を恐れず、新奇が大好きである。思いついたら実行しないと気が済まない。それが素晴らしい。中途半端は絶対にダメで、他人に認められようなんて考える必要は全くない。とってもつまらないお話なのだが、3台のディスプレーを縦置きして並べて、A4ファイルを拡大して1面に投影して喜んでいた時代があった。1台、調子がおかしくなったころに4Kディスプレーの価格が下がってきたので、54インチの4Kディスプレーを使い出したら、これが快適で後戻りできなくなっている。

小さいディスプレーは趣味的に面白いのだが、小生的には巨大投影が楽しくて使い始めたのだが、多くの方が同様の方向に向かったので、最近ではそのこだわりは小さくなってきた。オタクの終焉は大衆化とともにやってくるわけで、次のオタク道を探さねばならぬ。PCが文房具化してしまったし、小生はゲームなどはしないので、PC道楽はしなくなってしまった。今では壊れなくて、そこそこ速い機械であれば何でも良いと思っている。最新のOSが使えなくなったら買い替えるくらいのものだ。

研究的には平坦オタクで、平らな面が3面集まった、尖がった金属棒を作るのが面白い。アルミや鉄では無くて、かっちんかちんのタングステンカーバイド粒子をコバルトで固めた超硬合金と呼ばれる棒を尖らせては、それを使って加工するオタクになっている。なかなか満足するものが出来ないのが面白いのだ。やりました、はい出来ましたということではオタク道とは言えない。何をやっても上手く行かないくらいが良いのだ。ノウハウが溜まって来てだんだんとゴールが見えてくるのだが、近づいては遠のくゴールを目指すのが良い。正しいオタク道である。

日本には精神文化的な「道」という概念があるわけだが、そんな崇高なものは遥か彼方の皆さんに頑張って頂ければ良くて、ディスプレーを縦置きして喜ぶくらいの感覚が良い。一点豪華主義で「何が何でも成し遂げてやる!」みたいに頑張れるものを見つけると、これがこの上なく楽しいのだ。お金があったら実現できるなんてものはオタク道ではない。執念が無ければ達成できないレベル感が良いのだ。単結晶やアモルファスのような均質なものだと出来てしまうのだが、地球上でもっとも硬い金属が単結晶化して、あっちこっち向いていて、そろっていない硬さなんだけど、その面を合せて平面化していく。更に尖らせる。簡単なようで極めて難しい。後少しと思いながらも数年が経過した。オタク道は険しく長い。それが楽しい。そんなもんだ。

古きは訪ねない

究極の技術は無用なのだと、量産化できないとそれは使い物にならないと、大学の研究成果がゴミ扱いされる日本。炭化ケイ素(SiC)デバイスが結晶の良質化に伴って顔をもたげてくると、Si軍団がそれを初めて叩きに来る。でもSiの物性限界を超えてくるので、住み分け論になる。窒化ガリウム(GaN)デバイスも同様で、光るだけでしょというところから電源にも使えますと研究者が叫んでも「量産品に使えないとね」なぁんて国内企業殿が仰っている間に、海外ではじゃんじゃか小型の電源が出てきて、日本企業の入る隙間が無い。その頃に漸く焦りだす。いや、諦めて焦ってもいないか。

酸化ガリウム(Ga2O3)って材料があって、これは我が国が基礎の段階から(GaNもそうだけど)頑張って世界をリードしているのだけれど、これもSiがあってSiCがあって・・キラーアプリケーションが明確になっていないという事なのだけれど、そんなこと言っていないで、目新しさという触れ込みで社会に出す勇気は無いものか。その新しいものが社会に受け入れられないという状況こそ、若者の頑張る意欲を削いでいるのだ。大企業迎合主義というかね、親が「恥ずかしいから大企業に行け」なんて戯言を言って、若者がそれを受け入れているようでは、お先真っ暗だね。

ずぅっと「これは素晴らしい!」と予言というか、まぁ、材料としての特性から言われていたのがダイヤモンドデバイス。良質で大型の基板が出来るようになってきたこと、高速に研磨できる技術が出来てきたことから、近い将来、社会に認知されるかなと思っている。これなどは、それこそ、どんどん活用して、アーリーアダプターが喜ぶ商材に結び付けて欲しいと思っている。大学の研究者が徹底的に頑張って、要素技術を尖らせて社会実装を加速させていく。我が国発の工学技術を世界に先駆けて発信しなければならない。

小生は究極の技術以外は無用と考えている。逆に「ローテクのハイテク」こそ社会に求められ続けるとも思っている。壊れずしかも先鋭的で、一回購入したら永遠に使えるとかね。「そんな物を作ったら、次を買ってもらえなくなる」ということを言うわけだが、だったらとことん高価で良いじゃない。それがあるから新しいサービスが生まれるという部分をサブスクで考えれば宜しい。古きを訪ねても新しきは得ない。新しきを求めるから古きものが輝く。思考転換をしていかないとね。そう思う。

能力は活用され評価されるべき

リカレントやリスキリングという海外では当たり前のことが、我が国ではほとんど行われないのは何故だろう。何故だろうと思って、何社かのそれなりのお立場の方に尋ねてみると、リカレントなどに出ていくと、新しい人脈が出来て、転職されてしまうとか、知識を増やしても活用する部署が無いとか、なんだとかかんだとか。知識を増やして逃げていくのが嫌だとか、上司として博士の学位を取られると指示を出しにくいとか不思議なことを仰る。日本の先行きは暗いなと思ってしまいますよ。

お聴きしていると、企業内に人を呼んでコーチングするという事はOKだけれど、時間と金を掛けて大学で新規知識を増やすのは駄目だと。学ぶ意欲があるのであれば、それは時間外で勝手にやれと言うことだ。全てのお会社がそんな状況では無いと思うのだが、親方が叫んでいる「リカレント・リスキリングに地方大学は貢献せよ」ということと、ステークホルダの意見は全くことなるのだなと実感する。

新規開発案件で企業に無い技術を大学と開発するのは良くて、開発スキルを身に着けるためのリスキリングは駄目だというのはさっぱり解らない。キャリアアップの機会を作ると、新たなポストを作らないといけないとか、不可思議なお話が噴き出してくる。能力に見合った給料は払わない、活躍しても、能力が高くなってもそれに見合う給料は払いたくない。そんな国の貨幣価値が上がる筈はないなと苦笑いしている。

徹底的に良いものを作っていくというスモールビジネスが成立しない我が国と、そのビジネスストーリーで労働効率を高める方向に向かう諸外国。いろんな利益の上げ方があって良いのだが、身内を疲弊させてまで、薄利多売をしては駄目だ。貨幣価値が下がって国内物価が上がる筈の処を妙な補助金や顧客に転嫁できないとか、参院選挙前対策なんだろうけど、国民も降ってくる飴ばかりを期待している。学びを持って進む国であって欲しい。本気でそう思っている。そう行動していく。

宝箱

思い込みの際たるものが、「この研究成果はこの分野を飛躍的に改善する」というもの。最終商品を作っていらっしゃる企業との共同研究での新規開発で、アウトプットが決まっていれば、それはそうなんだけど、思い込みの研究では、案外、そうはならないものだ。柔軟に考えて、こんなところに使えるのではないかしら、あれとこれとそれと・・くらいの柔らかさが必要だ。この分野をなぁんて思っていると、思考視野が狭くなって、折角、世の中を変えるかもしれないのになんの役にも立たずに消えていく。いや、研究者の自己満足には十分に応えるか。

自分の胸に聞いてみてもそうだもんね。そりゃぁ、自分へのモチベーションとして「こんな役に立つだろう」というところで研究テーマの構築に入り、様々考えて出発するわけだ。数年経って論文等になり始めて、科研費が当たって。それで研究が進むのだけれど、学理の探求なので、仮説をこのような手法で検証し、因果関係も明らかにして、科研費の報告書を書いて。それで一つの研究テーマがゴールを迎えるわけなのだけれど、一時、大学に知財を獲得せよ!と親方が叫んだ時期があったのだけど、知財獲得に繋がる成果は存外少ない。それに興味が無くて学会等で発表するということもあるのだけれど、類似のものがあり過ぎて、知財認定されないものも多くある。

ここが考えどころで、「世界で初めてだ!」と考えて進めたのだけれど、時代のスピードに追い越されて、それを包含する研究テーマが立ち上がって、ゴールまで行ったのだけれど、全く新しく無かったということになってしまう事も多い。ところがだ、学理の探求の結果、仮説検証が出来て自己満足で封印されている成果だとしても、それを現代の科学技術によって社会実装出来るものって沢山あるのだ。それをきちんと掘り起こして、社会に展開していくと、それは一つの大学に留まらず、世界的に見てもとても多くの資産が眠っていることになる。

ハゲタカ企業殿は「売れる成果を無償で盗んでいく」わけだが、そんな連中は相手にしないように気を付けないといけないのだけれど、知の探究側も、探求した成果をしっかりと棚卸をしないと、それこそ税金泥棒のそしりを免れない。そのあたりを地道にしっかりやっていって、社会との共創を目指している大学と認知して頂きたい。そう思っている。

遥かなるお盆休み

五月連休の恐怖は、それが終わってしまうと、お盆まで大きなお休みが無い事だね。まぁ、正月と五月連休とお盆休みがあればそれで良いじゃないという昭和のビジネスマンはそれで良いのでしょうけれど、文化的空気に触れてみたいとかね、精神的に落ち着く時間が欲しいとか、あるいはそっと独りになりたいとかね、そんな休息が欲しいと願う人には、実に厳しい五月連休なんだな。羽を伸ばした後って、次のお休みは何時だろうって無いものねだりをしてしまったりね。幸い、今回の連休は、特に先週、2日と6日の平日が入ったし、その他にも「どうせ宿舎に居るんでしょ、Webミーティングしてよ」という魔の手に襲われているので、休んだ感が無いもんだから、まぁ、五月病にはならなくて済んだ。済んだけど、なんだか妙にくたびれた気がする。

そんなことはどうでも良いのだが、書斎に並ぶ本を見返したり、新刊を読んだりと、随分と活字に触れることが出来た。コロナ禍で獲得したWebミーティング環境だが、Skypeなど、それ以前のツールを使いまくっていた人には当たり前環境なんだけど、様々なツールがそれなりにユーザーの声を反映して進化したものだから、随分とお気楽に顔が見えるようになった。とあるお役所は、こちらの顔は要求する癖に、あちらは絶対に顔を出さないとかね、なんだそりゃ状態になるのだけれど、顔を見せ合いっ子するというのは必要だなとは思う。書斎からの中継になってしまって、背景をぼかしたりはするのだが、プライベート空間が大衆の眼に晒されるというのは気持ちの良いものでは無い。

Webミーティングの時刻が決まっていれば、その時間帯だけベランダにイスとテーブルを持ち出して、青空会議を決め込むとか、それ専用の個室空間がある喫茶店などにもぐりこむとかね、働き方改革というか、この職場で働き続けたいと思うような環境付与が可能になるのかもしれないが、いきなり「今から良いですか?」って言われて、「あわわわわ」となって、ちょっとまちぃやと、急いで背景をぼやかしたりとか、カメラの角度を調整したりしてね。かなり慣れてきたとは言え、今からと言うのは如何なものか。うっかり受けてしまって、流せば良かったと思いながら議論をするのは若干の苦痛を伴うね。ちょっと考えて頂けないだろうかとは思うのだが、相手も切羽詰まっているのだろう、その鬼気迫る目つきに吸い寄せられて、必死に受け答えしてしまう。

連休の後半というか、天気が良くて、窓越しの青空が憎らしく、Webカメラを見つめるわけだが、ネットワークの進化というのは有難いやら恐ろしいやら。有難い方が多いのは間違い無いのですけどね。連休明けから目いっぱいのリアルな対面会議があり、背景を気にする必要は無くなるのだが、猫の額より狭い鶴舞大学キャンパスとは言え、移動を伴うミーティングは、心の疲労を肉体の活動で活性化するという様に前向きに捉えないとやっていられない。会議開始時刻には移動していくので、10分前に到着しましたよなどと言う電話は掛けてこないでくださいね。これもWeb時代のマナーだと思っている。

天下に泥棒あり

FRBがいよいよ本気で金融の在り方を示してきた。我慢に我慢を重ね、そして機会をとらえ敏に動く。羨ましい限りである。この国はと言えば全てにおいて指をくわえて見ているだけ。部品大国であって、結局は「ものづくり」のポジションから脱することはしない。他国の「ことづくり」と「場づくり」を支えて心地良がっている。まぁ、それは正しい選択なのかもしれない。世界に物が無かった時、他国の技術を持ってきて、量産化に向けた工夫で外貨を稼いだ。その量産化の工夫は、両々加工機械や多くの自動化機械製造にそのノウハウが受け継がれ、一部の企業が国益となって残っていることに安心しないといけないのかもしれない。

その昔は大企業の専売特許だった「弱者の知恵泥棒」が今や中小企業においても実行される。特に弱小大学に対してその傾向は甚だしい。「農民は生かさず殺さず」の江戸時代の思考で、知恵を無償ではぎ取っていくその在り方は、煉獄に落とされた弱者を痛めつける悪魔そのものだ。経営に関与する人間がその体制であれば、まぁ、その先が見えてこようというもの。ご注進してみようかなとは思うが、世界が大国の恫喝に指をくわえてみているだけの景色を思うと、なんだかばかばかしくなる。正義などどこにも無いのだ。連休中にニュースで見るのは、行動制限が無くなったから、人の移動で景気が良くなったという事ばかり。結局、それしか無いのだね、この国は。

変わらないのだ。DXなんて意識を変えないと進まないのだが、旧態依然のDXなんてほざいているわけだから、それこそ何も変わらない。意識・無意識に限らず旧態依然を私物化し、「何か変だ」と感じる正しい精神状態を駆逐していく。贖い続けるが、何時かぷっつんと切れるかもしれない。コロナ禍がもたらしてくれた在宅勤務の素晴らしさを、この連休期間中に存分に味わうことが出来た。何やってんだと言われるかもしれないが、職位的に求められたら討議をさせて頂くわけで、恐らく、コロナ禍以前なら、出てこいということになったのだろうが、先方もWebでということで、ラフな雰囲気で深い議論を展開できたことはとても良かった。30分と時間限定を守るお相手だったことも幸いした。

まぁ、そんな前向きな議論もあるわけだけど、多く、中小企業が「困っているから無償で知恵をよこせ」というのはもうお断りだ。精神的に不快でしかない。鶴舞大学に対してそうなのだから、他の下請け企業にも同じことをしているんでしょうね。図面は無償だとかね、持ちつ持たれつみたいな気風が、そりゃぁ、戦後の全て無くなった状態ではそうだったでしょう。ウクライナの惨劇を見るにつけ、胸が痛くなり吐き気がしてくるわけだが、あんな状況から這い上がった諸大先輩の方々には勿論、首を垂れる。当たり前だ。しかし、バブルを謳歌して、リメンバーバブルみたいな連中殿には辟易だ。ご免こうむる。

ゼロの国

雨は天の恵み。連休初日に何処かに行こうかと思っていたが、大雨となって何処にも行かず。それ故にのんびりと骨休めが出来た。こんな時こそ必要である。まぁ、骨休めと言っても不断よりはのんびりと思考し、BGMの中、キーボードを叩くみたいな過ごし方なのですけどね。切羽詰まらないといろんなことを考えるもので、それが休日の価値という事なんでしょうね。ちなみに暢気な休日に最初に聴く曲は決まっている。だから余計に楽ちんだ。選ぶ必要もない。

その昔は飛び石連休とか言って、大型連休なんて概念は無かった。土曜日の授業が無くなって、4日が休みとなり、何日か休暇を獲得すると大きな連休となる。日本人は勤勉だと言われるが、確かにその一面はある。勤勉なのに給料は上がらず、物価だけ上がる国になっているのは何故だろう。原材料が高騰しているのに商品の価格に転嫁出来ない。必死に自国通貨の価値を下げたがる一味によって、資源活用のお仕事は上がったりだ。これをどのように捉えればよいか。国内資源を精査し尽くして、新たなモノづくりに挑めという事か。それも良い。

電力という極めて便利なエネルギー源を熱から取り出している現状から変えねばなるまい。何を作るにしても動力が電気エネルギーであって、それが海外由来の化石エネルギーから変換されている以上、それらがシャットアウトされたとして、この国で何が出来るのか考える必要がある。簡単ではない。しかし、そんな極端な考え方に立たないと、何をなすべきかが見えてこない。その状況において、世界から買いたいと言って頂ける「何か」を作り出さない限り、この国の未来は無かろうね。

食糧も入手できない。エネルギー源も無い。下手をすれば永遠に休日となってしまうかもしれない。人間だから知恵は生み出せる。しかし貧すれば鈍するに陥るもんだ。観光させてお金を還流させるくらいが関の山だ。投資をしろと叫んでいるが、貨幣価値がゼロの国家の企業に誰が投資するのか。リアルな投資価値を作り込んでいかないと、仮想も成立しない。単純では無いが、ゼロから数字を生まねばならない。そんな切羽詰まった国なのだなと、休日になるとしみじみ思う。