知らないところで

時々発生するのが「自分の知らないところで名前と顔が出る」こと。まぁ、公人だから仕方がないのだけれど、記事の内容を拝見して赤面することしきりである。それくらいは良いのだが、どこぞの学会で知らぬ間に共著にされていて、他県から「今、何処に居ます?」とお電話を頂くことには参ってしまう。恐ろしい話である。客寄せパンダと思って頂けることを感謝しないといけないのかもしれないが、御免被りたい。

30年近く前、炭化珪素半導体に出合って、それからあれやこれやとやってきたのだが、いよいよその素材を使った量産化が始まるという記事を読んで、シリコン半導体の強さと、新素材が世に出ていくことの大変さを実感する。日本企業は直ぐにお金にならないと撤退してしまうが、米国企業が根性で量産化して頂いて、それを日本企業が購入してデバイス化していくという。素材作りを諦めてしまったことは残念だが、関わった素材が世に出てくることは喜ばしい。

シリコンを否定するものでは無い。芸術の域にまで達したプロセスは、最早、大学人が何かちょっかいを出せるレベルをはるかに超えている。基礎の基礎くらいは教育出来るのかもしれないが、実際のプロセスにおける難解さはちょっとやそっとで体得できるものではない。しかし、世界中の研究者がシリコンという素材に挑んだからこそ、量子力学を駆使して人類が究極の技術を手にすることが出来たことは間違いなかろう。純粋であるが故に、不純が解るということだ。それは今も続いている。

人間、皆、同時に年齢を重ねていくものだから、永遠にその関係性が続くのかなと錯覚してしまうが、区切りは必ずやってくる。そんな立ち話をするような年齢になったのかなと、ちょっと気が楽になって来た。自分の知らないところで名前が出るくらい、どうってことはないと思わねばなるまい。生きていますよということなのだろう。なんだか随分と長く頑張ってきたが、あと一息。気合で乗り切ることにしよう。

加工の正常進化

たまたま磨く必要があったから、研磨という行動をずっと続けてきた。今、燃料電池という気体水素を扱う部品が当たり前のように使われるようになり、気体水素分子に適する表面創りが求められる時代になって来た。水素禍だけではなく、凹凸を極限まで無くす加工が求められるということだ。従来は研磨布・研磨紙で磨くということが当たり前だったのだが、それだと限界があるので、5μm□当たりの平均粗さを0.5nm以下にしたいということだ。

それが何だと思う方が殆どだとは思いますが、それでも皆さんがご活用の携帯電話を構成する半導体部品の加工精度から比べれば「だから何?」と思われるレベルだが、金属をその精度で加工する要求がようやくやってきたということだ。刃物で切ったり、研磨紙で磨いたりすると「虹が見える」という症状が発生するのだが、少なくとも同じ色で反射する、若しくは色が出ないレベルにして欲しいとの要求が出てくる。

高校生の物理の講義で、波の干渉のお話があったと思うのだが、ある条件が満たされると、いろんな色が混じった光を反射させると、特定の色だけが強め合って、眺めてみると、その色に見えるという奴だ。その昔は、自動車からオイルが漏れまくって、水たまりには油の膜が出来て、太陽の反射で七色に見えたものだ。それは油の膜の厚さが均一では無いから。同じように、加工した表面の粗さが均一では無いと、虹色が見えてくる。そうなると粗さが不均一、即ち、ダメな加工というわけだ。

刃物加工だけで、色を出さないことが求められ始めた。正しい方向に向かい始めたなと思う。中小企業がどんどんと淘汰され廃業に追い込まれていると日経は伝えているが、虹色を呈する表面を作る加工屋は、もういらないよと世界の声として宣言されたわけだ。次は表面の粗さだけではなくて、材料内部の歪や潜傷が問題になるだろう。必ずそうなる。水素に手を出したらそこに行きつく。愉快である。

脱皮考

気圧配置を見ていると、梅雨明けギリギリの愛知県、太平洋高気圧の縁を巡った湿った空気が南北に連なる雨を降らせる。日本海にある低気圧が大陸から寒気を引き出し日本上空で衝突し、未曽有の豪雨を降らせる。しかし、毎年同じことを言っている。大雨を捕まえて瞬時に分解、水素と酸素を取り出せるような仕組みの開発に至っていないのは、まだまだ人類は自然に謙虚であるということなのかもしれない。しかし、河川の氾濫で亡くなる方がいらっしゃるのは、ある意味、自然に対するドン・キホーテかとも思う。

明け方、足元を見たら蝉が殻を破って真っ白い姿を表しているところに出くわした。おぉと立ち止まる。小学生の頃、山奥のお袋殿の実家の庭先にある古い柿の木で同じ光景を見た。それは古い記憶なのだが、鮮烈に覚えている。そして時々思い出し、母の「七年の思いが七日に凝縮される」という言葉を思い出す。そんな頑張りを忘れていないか、それが出来ているか。未来を想って今を過ごしているか。時々、その姿を思い出してはセミの抜け殻を見ていた。

それを、恐らく、50年以上ぶりに観たのだ。凝視したのだ。ゆっくり、じっくり、でも確実に。頑張れ!と言葉がでた。そして記憶と寸分たがわぬ姿に、その記憶の確からしさと、感激した様を思い出した。土の中で七年。真っ暗闇で七年である。そんじょそこいらの頑張りと比べては罰が当たる。振り仰げば木々を揺さぶる程の合唱。圧力を感じる如くの合唱である。思いっきり歌ったら良い。

殻を破る。今まで土の中で頑張って来た衣を破って、天空に舞い上がる。活動する世界の何と広い事か。パートナーから「一回り大きく成長するために外側のかたい殻をぬがなければならない」とのお言葉を頂いた。殻を脱ぐ、殻を破る。世界の流れは間違いなく変わろうとしている。旧態依然の世界から脱せねばならぬ。その時だよと声を掛けて頂いた。そんな気持ちになったひと時であった。

多様性

多様性という上手い言葉がある。生物多様性は失ってはならないという時の多様性は、正にそうだろう。46億年という地球誕生以来から続く多様性を失ってはならないのは当然の事。もっとも人新世になってから、かなり減らしてしまったようだけれどね。人工物が地上存在物で最も多くなったということだから、重量ベースで言えば人の行動が地球を覆ったということなのでしょう。気になる多様性は他にある。

首相暗殺から1年が経過して、暴力行為の愚劣さを思うわけだが、ある方面からは良い顔であっても、多方面からすると排他するべき人ってことがあるよなという多様性。8割賛成2割反対という時でも、2割の反対の声が大きくなって、それが多数に感じられる。足を引っ張る意見は兎角大きく成長して、総論反対になっていく。この多様性は如何なものかと思う。議論の余地を残さないというか、日本の村社会的だなと感じたりするのだ。

お上は大学は多様性を持って、独自色を出せというわけなのだけれど、組織の中に居ると自分が独自だって思いがち。それも多様性思考。全国的にも世界的にも独自性を定義しなさいというわけだから、強みは何で、それを武器に教育をさせて頂きます、次に育って頂きますということが求められているわけだ。単に分野に多くの人が居れば良いということではない。それを言われてしまうと、総合大学に太刀打ち不可能になる。

批判も反対も勿論OKだ。根拠があればね。気に入らないからという事も多様性の内かもしれないけれど、何故、そう思うのかという時に、生理的に受け付けないからとかね、それでは議論にならない。どんどんと議論するのが良い。今が良いわけでは無いのだから。社会はどんどんと変わっていくのだから。常に変わって来た。これからもそうだろう。反対するより受け入れてきたが、これも多様性ということだ。それで良い。

人生100年の教養

脳への刺激によって人類が進化を続けてきたのであれば、AIが提供する知恵とVision Proのような仮想空間をリアルに見せかける仕組みはどのように人間を変えていくのだろう。江戸から明治にかわって、多くの日本人が海外から刺激を受けて、まぁ、受けすぎて戦争まで突っ走ってしまったというところなのかもしれないが、新しい刺激というか情報の大洪水が人間に襲い掛かるとどうなっていくのでしょうね。

山道をのんびり歩きながら、野山の草花を眺めながらじっくりと思考することを趣味としているわけだが、そんなのんびり野郎は駆逐されていくのでしょうね。というか、異なる人種として隔離されていくのかしら。材料合成の在り方も、インフォマティクスで劇的に進化しているわけだが、量子力学的に物質の全てがあからさまになっていけば、理想の合成物も思いのままなのかもしれない。パラメータを1個だけ設定して、それを軸にグラフを書いてなんてことは遠い過去になるのだろう。

日進月歩どころか、秒単位で進化を続けるAIだが、シンギュラリティは案外、近いところにあるのではなかろうか?そんな時代になると、AI市長とか知事とか出てきて、それらが世界中のネットワークで関係しあって、客観的地域性なんてものを産みだし、自分の価値観にあった街がどっかにできてみたいになるのだろうか。職業そのものの寿命が短くなって、身に着けたスキルの寿命が短命化して、何度も学び直す必要が出てくるだろう。オープンバッジが職業獲得の御旗になろう。

大学は学び方を学ばせる場に変化していくだろう。スキルアップの場では無く、スキルチェンジを提供する場になるだろう。大学教員はAIをパートナーにして、世界の最先端の学びの仕方を教授する者として変貌を遂げていく必要が出てくるだろう。今日明日と言うことでは無いだろうが、そんなに遠い未来では無いような気がする。結局は様々な文化に寛容で、広く学びを受け入れることが出来る人物を育成する機関となるのがミッションであろう。人生100年時代にふさわしい教養教育が出来るか。それが重要だ。

加工屋さん

塑性加工に関わっている。関わっているのだが、日本と海外との考え方の違いに驚いている。日本では「安く、多くで薄利多売」が未だに主流。海の向こうから頂戴したお話は「絶対に世界トップを目指す」というもの。この差である。この差こそ、一人当たりGDPが世界で約40位の体たらくの根源である。

ものづくりは世界トップで無ければ意味が無い。そう思って活動してきているのだが、先日、某学会でお話をしたら「そんな技術は眉唾で信じられない」と一蹴された。お偉い方で大上段から見降ろされたのだが、既に海外の方には活用頂いている。それをどう考えるのだろうか。それも嘘だと仰るのだろうか?そこまでは聞いてはみなかったが、がっかりしたのは事実である。学者がこれでは社会は冷えるわなと。

加工は表面の形状が変化するだけではなく、刃物や砥石が走った下部に潜傷が必ず入る。これが曲者で、外観検査やX線解析では表面直近故に分からない。ここから機械全体の破壊が起こるわけだが、我が国ではこの現象は議論すらされない。海外の著名な論文誌では取り上げられるが、国内の有名学会においては小馬鹿にされるだけだ。刃物と被加工物の化学反応は完全に無視であって、加工による破壊は意識の彼方だ。

勿論、全ての企業がそうということではなく、成る程というお企業様もいらっしゃる。勿論、そのお会社はチャレンジャーであって、世界トップを常に狙って、技術競争を続けている。そんなお会社は根拠のある科学に疑いをはさむことなく、活用して頂ける。まだまだ捨てたものでは無いなとは思うのだが、それが余りにも少ない。危惧している。

博士考

平成の初頭に博士100倍計画みたいなものが出てきて、それで量産したのは良かったのだが、少子化の流れと法人化の流れが合体して、結局、博士を取得しても就職先無いよねとなって悲惨なことになっている。小生の授与式においては、文学博士が十数年ぶりに現れたと言う事で、工学博士などは「ふぅ~ん」であった。企業に進んだ者は既に引退の年齢であるわけだが、学会方面に進んだ者は、今もしぶとく勤務させて頂いているようだ。

博士過程においてテーマをどのように設定しますか?とか、博士課程に進学してネガティブな要素は無かったですかとか、多くの(?)若者から質問を頂戴して、あれやこれやと答えたわけだ。テーマが見つからないというのは、今、真剣に学んでいないからで、それはそれで良くて、もっともっと深くそして広く学ぶ必要がある。世界の文化、社会現象も学び、ニュースを見ていて現象だけではなく、必ず、理由も自ら考えねばならぬ。正解不正解は無い。人の数だけ考えがある。

博士って何だろうと思った時、それは問いを作れる人種なのだと考えている。これもきっと千人千様の考えが出てくると思う。答えが無い問いを作る。正に、バックキャスティングの原点であるビジョンを考えるのは、正に、これに当たる。世の中、人類が分かった気になっているものなど殆ど無くて、当たり前だと思っていたものに「何故?」と問いかけてみると、先人から何も返ってこないことだって山ほどある。そういうものなのだと偉い先生になる程、見下して言い切るが、解っていないということだ。

自分の興味が解りませんというのは、人生をもっと真剣に生きるしかない。真剣に、猛烈に、強烈に生きて始めて、自らの価値観が見えてくるし、その価値観のベクトルの中において、こんなことがあったら面白いのにと、そんな課題を創り出せたのなら、その者は博士課程に進学し、学問に没頭するべきだ。24時間、365日、寝ずに考えられる体力があるのは限られた年齢だ。その時に学び尽くすと、如何なる困難も、それは見えたものだと達観できる。専門馬鹿ではないのだ。博士とはそういうものだ。

健康創造

健康は全ての年齢で自らの努力で獲得するべきだと、一番弟子から指摘を受けた。指摘というか一般化された意見というか。どんなところから出てきた会話かと言えば、油断すると直ぐに肥満体になるというところから。天気が良ければ自転車で13kmの道のりをえんやこらと、八事の山を越えながら出勤することで、今のところ、就職時に作った洋服を着ることが出来る。時々太ったり元に戻ったりを繰り返している。

年齢を重ねたら気を付けないとLサイズになってしまうと言った時に、それは全ての人がそうですよ、健康は全ての人が創り出すべきなのですと、弟子からズバッと言われてしまい、そう言えばそうだなと納得させられた。目指す職業がYouTuberという小学生達の、50m走のタイムが遅くなっているとか、栄養失調気味の児童が多くなったとか、ニュースの類では拝見するのだが、大学生を診ている限りは食事は出来ているのかなとは思う。栄養の偏りはあるのかもしれないが、ぶくぶくの肥満学生を拝見することは最近では無くなってきている。

滋賀県が頑張って医療費を減らす為のキャンペーンを打って、見事に医療費の絶対値を減らすことに成功している。そもそも論として、不健康だから医療給付金が必要なのであって、国民全員がぴんぴんころり状態であったならば、140兆円の医療費を見込まないといけないというのは、国家として如何なものか。マスメディアでジムの宣伝がなんと多い事か。ジムビジネスが花盛りになるというのも妙と言えば妙だ。

休みの在り方、働き方改革だの、いろんなお話が出てくる。未だに対面で無ければ仕事にならないという意見が多いのだが、通勤時間を気晴らしの散歩なりに充てて頂くだけで、心身のストレス軽減に繋がって、医療費削減に繋がるのではないか?旅行をけしかけ、美味しくて栄養たっぷりな食事を食べさせ、お金を引っ張り出すところまでは良いが、保険給付金が増えているのでは本末転倒である。理想はどんな状態か?分かり切った事である。

遥かなる規制緩和

古い雇用を守りながら、新規を導入していくとどういうことが発生するか。思いっきり規制が掛かった中で、旧来と新規が混在して混乱し、旧来が良かったから新規開発は止めましょうと言うことになる。日本の王道で、これは一般民間人も、企業もお役所も全く同じ。マイナンバーカードなどは流石にここまで無茶苦茶だとは思ってはいなかったのだが、コンセプトとしては小生は正しいと思っている。適切なサービスを定量的に評価されることに異論はない。ごたごたが過ぎますけどね。

身の回りで言うと自動運転でしょうね。諸外国ではレベル4だの5だのと実証され始めていても、この国ではレベル2で大騒ぎ。街の規制が新規挑戦を許さない。自動運転に挑戦しようとするベンチャー諸氏は海外に逃げ、技術が日本に残らない。いや、発生する機運すら見えてこない。限られた企業が限られたエリアで実験を続けているなと言うのは見えるのだが、街の中にハンドルの無い車が出てくる気配すらない。

都市伝説的に量子コンピュータのお話が出てくるが、作って試してアジャイル型開発をしていかないと、何が得意なのかも分からない。分からないから盛り上がらず、その開発と活用に挑む学生の芽を摘んでいく。流石に事故を起こしまくられてはたまったものではないが、限られた領域において、どんどんと挑戦する特区が出来ても良かろう。生成AIをどう使うかを大学でどのように考えているのか等という体たらくなヒアリング結果が新聞を賑わしているようでは、数年先も大丈夫かと思う次第。

新しいことが全て正しいわけでは無い。それは当然である。しかし、旧態依然は全てが正しいわけでは無い。技術の進化、世界の趨勢を研究室の中では感じられても、一歩、街に出てみると、おやおやどうしたことかと残念に感じる。自動運転云々はひょっとすると人が移動しない社会と言うのが答えかもしれない。医療だって身体情報をセンサで獲得し、自動で未病対応がなされるのかもしれない。マイナンバーが嫌だから紙も欲しいとか、本心か言わされているのか分からないが、そんな記事が飛び交うところにテクノロジーの進化は虚しいなと思う次第だ。

少年野球から

7月の声を聴いた途端に灼熱がやってきた。夏らしい、激しい暑さに「お久しぶりです」という気持ちがわいてくる。生命のエネルギーを最大に燃やして生きていると、いつ何時、終焉がやってくるのかと、ある意味、楽しみではあるのだが、大好物の灼熱の太陽に再会できたというのは嬉しい限りである。買い物に出歩いてみれば、小学校の校庭で少年野球に熱中している。まだまだ元気はそこにある。

国が求める多くの申請の基準が10年後となっている。2033年の社会がどうなっていて、その時、あんたらはどんなふうに社会に役立っているのか定量付けろ。その定量に向かって毎年どうやって進化するのかバックキャスティングで示せという。いろんな未来予想というか、未来希望というか、少年野球小僧だった頃に、こんな世の中になるのかなと大阪万博で見せられたことを思い出す。

その後に筑波科学万博というのがあって、3D大画面映画を見せられたりはしたのだが、こんなものかなぁという、まぁ、今と大差ない38年前だ。その間に出てきたのがスマホと生成AIかしら。勿論、それらを産みだす技術が地味に成長してきているのだが、原理原則が大きく変わったわけではない。3Dプリンタなんて半導体の作り方が、目に見えるサイズになっただけで、新しさを感じることは無い。

ふと思ったのだが、全く今存在していない技術を描けと言うことがどれだけ困難であるのか。延長は描けるが新規は難しい。こんな世の中になっていたら面白かろうということだって、定量的に描くことはとても難しい。難しいのだが、少年野球団のキラキラの笑顔を見ていたら、これが継続すりゃ良いのではと思った限りだ。でも、変わらないことは難しい。炎天下で子供達が安全に集まって、全力で未来を目指す。教えは何処にでもあるものだ。