立場

月曜日は迎え撃つ気分である。月曜日からすると迷惑なお話であろうが、こちらからすると「土曜日が来たとするならば、永遠に来なくて良い」のが月曜日である。国への申請の締め切りと言うものがあって、それに向けて考えて、駄目だの行けそうだの、結局、落ちるのだが、それでも挑戦しないといけない流れがあって、そりゃぁ、ちゃんと前向きに挑戦するのだけれど、最善を尽くすことは尽くす。

これを延々と繰り返す。そして、これはほんの一部なので、もっともっと血尿と下血がお友達になる。このあたりは国家のお仕事と言うか、日本人のお仕事の有り様が「おかしいのではないか?」と本気で思っているのだ。思っているのだが、思うようにはならないのが世の習いだ。ガマの油売り大学時代のお話だが、Dコース者がわがまま言ってハイキングに行ってしまったら「王様達がハイキングに行ったら文句は言えないやろ」と、大先生が仰ったと後で聞いたが、その信頼関係が欲しい。

当たり前の数字で議論するが、2023年4月に就職した者は、学部卒だとすると2020年4月と言う、コロナ禍真っただ中の卒業生だ。社会を出歩くな、ウエブ講義だという時代人だ。それを憐れむことはしない。何故なら、リアルであって、足を引っ張る連中にあふれている環境よりも、自らを純粋に鍛えることが出来るチャンスがあったからだ。その観点だけではなく言えることは、ライフワークとライスワークを明確に意識できたのではないか。

小生は職制柄、土日なく、一生の切れ目なく、大学と言う場に生き、自らを活かすことがライフワークであるが、当然のことながら、そんな奴はほぼ居ないのだ。バカンスに行ってきますと年休を取って頂ければ良いのだが、小生も、なんか、そんなチャンスがあったら良かったのにと、人生をそんなゲージで見ることが出来たら良かったのにと、もう、余命いくばくも無くなってから思うのだ。必死に考える。誰かの為に考える。そんな生き方に共感も賛同も無いことを感じていた。誰かの為に生きることをライフワークにするか、自らの満足をライフワークとするか。価値観が違ったのだな。小生はライスワーク人間に映るのだろう。どうぞご自由に。それを実感した。ここ、最近だ。

雨である。しとしとと降っている間はなんの問題もない。豪雨となると災害と勝手に呼ぶわけだが、人間の経済活動を基準に考えるからそう呼ぶのであって、濃尾平野などは大河川の氾濫によって出来上がっているわけだから、感謝するべきである。土砂災害は悪だと、エジプト文明をナイル川の氾濫によって出来たと教えておきながら、何を言うかである。

とある企業人のお話を聞かせて頂いたのだが、その価値が語られなかったことに対して、日本の有り様を感じたわけだ。自分さえ良ければ宜しい。これでは大学は要らないと言われても仕方がなかろう。自らの研究は圧倒的に素晴らしいと言うのなら、圧倒的驚きか、感動を与えて頂きたいものだ。遥か年齢が下の方から、あぁそうですかとなるお話は苦痛である。

自らの思考が古いのはわかっている。当然なのだが、そんな事があったのかと、驚きがあることに幸せを感じたいのだが、それ、ゴールが見えているでしょと言う事を研究だと言われてもね。税金を使うべき事ではない。自らを省みてどうであろうかと日々、思わねばならぬ。

今日が終われば、生きていれば明日が来る。歌舞伎俳優が何を思ったのか知らぬが、自らの能力を他の人々の感動のために使い続ける事に疲れたか?俳優と言う職業もその他の職業も似たようなものだなと思わせて頂いた。苦悩の中に光を見出さねばならぬ。お仕事とはそんなものか?光明とは上手い単語だ。そう思う。

いずこも同じ

ここのところ連続して似たようなお話を聞かせて頂く。投資先が無いというお話と、新規案件が無いというお話。新規案件とは新規事業のことなのだけれどね。これも同じ話があちこちで出るのだけれど、バブル時代の成功体験リーダーが存在している限り、製造業は挑戦しないだろうねと言うこと。某F社さんが各務ヶ原に新しい生産拠点を整備するとかね、現業が活況になりそれを増強するということではなくて、今までとは異なる場で現商材を生かすか、新規の商材を立ち上げるかと言う挑戦のお話が無いということだ。

家電や自動車などのスーパーマスプロダクトで生き延びたお企業において、価値のコア技術となっていない部材製造者が「今ある生産装置で作るものを教えてくれ」という問い合わせがあちこちで飛び交っている。「ありませんよ」とお答えするしか無いのだが、聞く時間があるのなら世界の趨勢を学び、技術レベルを桁違いに上げる必要があることに気が付くだろう。超が付くほどの技術が要らないわけでは無いのだ。工作機械で出来る物品は価格競争に陥るだけなんだけど、商材がゲームチェンジを始めているから、価格競争商材は無用状態となっている。

自動車が完全自動化されれば、個人で所持する必要は無く、シェアするものとなろう。そんなことは無い、活動できる土日は決まっているのだから、やっぱり今までと同じ台数が必要だ!と車両製造企業のバブル期のリーダーは息巻くけれど、製造の現場仕事をロボットとAIが成し遂げ、ほぼほぼ在宅勤務で価値を生み出し対価を得る時代も同時にやってくるわけだ。そうなるとその方々の楽しみ方を提供するサービスが商材となるでしょうし、移動のツールは車で無くとも良いわけだ。買い物なんてドローンで良いしね。

堕落するわけではない。勉強、運動、仕事、休息を怠惰にならない様に思考を巡らせる人だけがお仕事もあるし、生活の糧を獲得できる時代になるのだろう。自動車なんて生産量が千分の一で良くなるのではないか。一方で、空間でそれを制御する半導体やエネルギーとそれを一定時間蓄積するツールか、分散してエネルギーを発生するインフラとそれに繋がるサービスが商材となろう。そんな時代がもうすぐ来るし、根性論の旧態依然のバブル思考者の居場所は無くなろう。そんな時代の株主から黙るべきなのかもしれない。愉快である。

夢は現在進行形で

スタートアップとかベンチャーとか、お若い方々にチャレンジして頂きたいのだけれど、チャレンジという単語そのものにアレルギーがあるようで、それは一体、どうしてなのかなと悩んでしまう。意識した行動って、自らの活動の5%らしくて、その他は無意識の活動なのだそう。無意識に文章を構築している戯言は置いておくが、申請書の文章などは意識しないと書けないのは間違いないですね。「それは大変だ」と思ってしまう。恐らく、他人の評価を気にしたり、主人公が自分で無かったりするのだろうなと思う。

こんなことをふと思うのは、お年を召された方々の意識の硬さにがっかり来ているからだ。こうあるべきだということに、何故、そうあるべきなのですかと尋ねても、返ってくるのは、それが当たり前だからだという、自分の中にしかないルールで他者を潰しに掛かってくる。新しく成りようが無いのかなとも考え始めている。結婚したら苗字が変わってしまうとか、同性婚がどうだとか、女性天皇は認めないとか、古い方々が言い合いをしている以上、何も変わらないのだろう。

全部が変わる必要は無いのだが、お若い方々には自らを主人公にして人生を送って頂きたいのだ。そう思っているだけなのだ。レストランで食事が出てくれば、やることは写真撮影であって、熱い内に美味しく頂くことでは無くなっている。常に他者目線で面白いのか?心から望む自分らしさを何故求めるのか。今までの事は振り返ることは有っても良いけれど、囚われる必要は全く無いのだ。親が大企業に行かないと恥ずかしいと言うから起業なんて考えませんとかね?ほんの僅かの命を、他人の意識の下で生きるのか?

在りたい姿を描く思考の方向性として、願望しないという手法が有効だと思っている。何かをしたい、こうなっていたいと考えてしまうと、過去をベースに自分の機能を考えてしまう。そうではなくて「私はこんな人達が喜ぶコミュニティの為にこんなことをしている」という現在進行形が良い。未来進行形にすると、将来はこうなっているみたいで、やっぱり過去に引きずられる。単純だ。主人公は自分、現在進行形の在りたい姿を描く。すると起業するしか無かろう。そう思う。

40%の消失に思う

コロナ禍でここ3年程で生活様式がかなり変わって、企業の業績も左右されたわけだが、その騒動が一段落したなと思ったら、ちょっと前まで活況だった半導体業界などは急激に売り上げを下げてしまう。便利なAIの登場で、それをどのように活用出来るかという提案と共に、新規のデバイスが提案されるまで、一息ついた状態なのかもしれない。SDGsだカーボンニュートラルだなどと新しい商材が生まれるかと思っているのだが、そう簡単には出てくることは無かろう。

中央省庁的にはカーボンネガティブを強く打ち出し始めている一方で、石炭にアンモニアを混ぜで少しでもCO2を削減しようという、やっぱり思い切った政治的決断は成せない国だ。小生は今こそ、じゃんじゃかと新しいビジネスモデルが出てくることを期待するのだが、物欲無く、ゲームですら難しい事は嫌という状況では、とても新規のビジネスに挑戦するということは無いのだろう。GDPの上昇分が赤字国債の分だけの国らしい。

国連が2022年7月に発表した世界人口推計によれば、2050年の世界人口は約97億人と、2021年よりも約18億人増加する見通しとのこと。2050年までに農業生産量を現在より60%も増やす必要があるとのことだ。外貨を持っていなければ食糧など買い付けできず、ものは作れないし食べ物も無い国まっしぐらだ。最近、自然共生経済に凝っていて、野菜などの植物系食物が、その生育家庭で40%も病害虫によって失われていることを知り、その量の多さに驚かされた。農薬研究者が「私は救世主だ」と仰るわけだ。

農薬を使って駆除が進むが、抵抗性遺伝子を獲得して、数世代で農薬が利かなくなるとの事。DNA組み替え作物は嫌だと言って毛嫌いする日本だが、自然界の昆虫類のDNAを積極変化させているのだなと、無意識の活動に恐ろしさを感じる。ふと、ガマの油売り大学時代に、アパートで孤独死して数日たって発見されて、腐敗していなかったという事件を思い出した。既に人間はケミカルによって激しく変化しているのだなと。ホモサピエンスでは無い人類に変化していっているということか。何処かで思い切る。決断をする。そんな日は案外近いのかもしれない。そう思う。

ラーメンの麺

従前より挑戦したかったことに「ラーメンの麺をつくる」ということがあった。なんだそんなことかと先哲は仰るかもしれないが、うどんは打ってもラーメンの麺は打ったことが無いという、料理趣味の方は多いのではないか?ある時からラーメンブームと言うか、高級ラーメンと言うか、なんだか妙に高級志向と言うか、そんな方向性が見えてきて、TVでも有名店の味比べだのなんだのが放映されて居た中で、製麺工程がいくつか放映されていたのが気になっていた。

これは有名な話なのかもしれないが、1700年以上前というから、仏教が我が国に伝来する前の出来事だが、内モンゴルの湧き水で小麦粉をこねると、通常のうどんではない状態の麺が出来ることが見出され、それがラーメンの起源とのこと。そもそも我が国では中華?は小麦粉にかんすいを加えて練り合わせて製麺したものと定められているということで、かんすいなるものを入手しないといけなくて、面倒くさくてやらず嫌いというところであった。

生きている内にやりたいことはやっておこうという最近の意識から、まぁ、何かは出来るのだろうくらいの気持ちでやってみた。うどんは小さい頃から当たり前にやってきたし、今でもしばしば作っているからなんとかなるだろうと、天然かんすいを購入し、それでやってみた。なんとまぁ、うどんと違うこと違うこと。これが化学反応かというところで、手ごわい手ごわい。マーケットでの生ラーメンの値段を考えると、とても掛けられる手間暇では無く、これを自家製で行っていらっしゃるラーメン店さんに頭が下がるのだ。

リスペクトは自らやってみるところからだなと改めて思った次第である。完遂の威力でがっちんがっちん(大袈裟)のうどん粉玉となり、捏ねるどころでは無いのだ。太い青だけでぐいぐいと体重を使って捏ねている様を思い出し、その必要性を感じたのだ。自然のかんすいというものと小麦の出会いを承継された先人にも感謝するところだ。出来上がった麺の味はというと、一回目にしては上出来ではないかと自画自賛である。何十年もうどんを打っていたからということもあるが。趣味が一つ増えて、なんとなく嬉しく感じている。そんなところだ。

転換

マスコミだけかもしれないが、AIは危惧するべき対象であると大声が聞こえてくる。人間中心のルールが有るべきだという、耳障りの良い言葉を強調している。一方で、生成型AIを発展・活用する企業も生まれてきて、それは喜ばしい事だ。そもそも論である。道具である。作業ロボットが良くてAIがダメとは何事か?男女共同参画だの、ダイバーシティだの聞こえてくるが、それを加速させる道具である。現状を遥かに超える投資が必要である。

勿論、AIに何をさせるのかという議論は必要であるし、研究も見えない部分で盛んに行われていることは間違いなかろう。10年前の講義ノートを使って講義を展開するような講師はご退場だし、小学生のITスキルに追いつけない教師も同様だ。ただ、教育の為に欠ける時間よりも、総務的な仕事に時間をとられ、研究や教育に時間を割けない現状はもっての他である。それもAIやロボットに代替させられる部分は極めて多いのだ。それを人海戦術でこなすことが正しいのだという旧態依然の脳内構造が潰していく。

10年後を考えれば、22歳で大学を卒業した者は32歳である。企業においてはバリバリ(死語か?)の者である。その人達は既にChatGPTは当たり前の脳内構造であって、その人達が油にまみれるのが正しいのだ、上司の罵声を浴びながら仕事を覚えるのが正しいのだ、スキルアップは対面に限るなぁんて会社に入りたいわけが無かろう。人間中心と言うならば、問題を生み出せる思考能力を備えた学生を教育出来ねばならぬ。そんな組織へ転換せねばならぬ。

10年後の社会状況を想像するのは難しい。難しいと感じてしまうのは正解を求めるから。そんなもん解らないけど、少なくともスキルをAIと共に身に付けながらAIを育てていく環境がベースにあろう。曖昧表現はAIが直ちに共通言語に置き換え、健康状態は勿論の事、モビリティの活用状況まで全てデータ化されている時代であろう。工場は完全に無人であるべきだし、食糧自給率も100%を目指そうとしていることだろう。それには極端な転換が必要である。それは間違いないが、真剣に学びスキルを身に着けた若者が笑って仕事が出来る社会になることに投資がなされているべきだ。転換が遅すぎる。そう思う。

多文化は?

コロナ禍が忘れ去られ、普通の生活が戻ってきたようで、面談要望が一気に増加した。新聞によれば、新人の経験値を上げるのは対面活動が重要だから、テレワークは無くしてリアル出社のみに切り替えた企業がかなりあるそうだ。何とナンセンスな。折角の世界の方々との交流をリアルタイムで可能とするテレワークのお作法を高めるのでは無く、旧人類の旧態依然の浪花節を若者に押し付けようとする厚顔無恥。これが日本流なのだろう。「滅びるね」と明治の時代に語った漱石の慧眼である。

石炭火力にアンモニアを混ぜて混焼させCO2排出削減を目指す技術開発を、CO2を継続して排出する技術の延命と切り捨てる海外の主張は美しい。本気かどうかということだろう。今を極端に変更するとパニックになるということだろうが、石原都知事が「現状の煤煙をまき散らすディーゼル車は東京を走らせない」とか「エネルギーばっかり食う信号機はLEDに換えろ」と言って、社会の方向性ががらっと変わった時が懐かしい。「滅びる」方向に日本は進むのが好きらしい。

変わる時は劇的な時に限るわけだ。明治維新などは変化の内には入らない。真の黒船がやってきた先の大戦後ということなのだろうけれど、それでも本質は変わっていないのではと思っている。政府はスタートアップ&ベンチャーを乱立させたいなどと口では言っているが、本気で無さそうだなと言うのは規制で世の中を縛り付けている状況から明かだ。コロナ禍をインフルエンザと同列にします程度の事は言うが、来月からガソリンエンジン車は走行を認めませんくらいのことを言い出すと、世の中は変わる。

国の主たる外貨獲得商材にちょっかいを出せるのは政治だけだ。カーボンニュートラル云々が正しいのかそうでは無いのかを判断するのは一世紀以上の後の人々だろう。今すぐ何かをと言っても、戦争を始める愚かな為政者がいるような生命体を護る必要などないという考え方があっても良かろう。若い世代が挑戦し続けられる社会になって欲しいと思うのだが、老人も頑張らねばならぬ。若者とは異なる文化の所有者である。多文化共生が老若の間に生まれ無ければ次は無かろう。そう思う。

来客考

ベテランのエンジニアとお話をさせて頂くと、妙に話が合う。根本的に便利なツールが無かった時に、自ら考え、作り、使って、それをブラッシュアップさせてきたから。そして他流試合を数多く行って、自らを追い込んできたから。40年近く前のお話で盛り上がれるとは思っていなかったが、それは先方も同じであろう。隣に期待したい人が居てくれると実践的学びになって更に良い。出会いには学びが無ければならない。そう思っている。

ただ、苦労話になってはいけない。それは大嫌いだ。あの時は大変だった、何故ならばこうだったからくらいは盛り上がって良いのだが、私は大変に努力をしてうんたらかんたら・・は勘弁して頂きたい。その時代、その時代に「大変だった」とぼそっと言う程度の体験が出来た人は幸せなのだと思えるようになってきた。苦労しなくても良いよなんて言うのは「お前なんか要らないよ」と言われていることと同意である。その人にしか出来ないからお願いするのだから。

自分でやったほうが速いから任せないというのもよろしくない。何でもかんでも自分でやったという人は薄っぺらだ。人の手を借りながら、そして使って頂きながら活動することで、自分の視野は間違いなく広くなる。苦言ばかりの人は所詮、無理難題を受けた経験が無いのだ。独りで出来たのでしょ?大したことは無い。チームで必死になって何年も耐えて形にする。そんなお話は愉快である。うなづく。

依頼されるということは、なんらか頼られていることだ。そして頼るということは期待しているからだ。それは思ったことをやって欲しいというのでは無く、その人にしか出来ない味を付加して頂きたいという期待だ。自分がやったら出来る結果を求めているわけでは無いのだ。依頼を受けた人は自分の色で良いのだな位に挑戦するのが良いのだ。そんな気持ちでお仕事をしてこられたのだろうなと感じる方のお話は楽しい。そんな時間を頂戴出来た来客は素敵である。

期待したい

期待したい人と期待してはいけない人という枠組みが、長く生きていると出来てくる。期待してはいけない人には苛立ちが先に立つ。期待したい人には「それは面白い!」と期待外れなのだが自らの思考の枠を超えてくれて有難うと、感謝の気持ちが湧いてくる。面白いものだ。もう一歩踏み込んで、期待してはいけない人の有り様を精査してみると、課題を解決出来る人と、問題を喚起させてくれる人との違いであることに気が付く。課題解決は、既にAIのお仕事だ。AIに代替される人を、無意識に期待外に置いていた様だ。

この課題解決を得意とする人は、既知を組み合わせて未知と人に示すことが上手な事にも辟易している。「これは素晴らしいのだ!」と提案しても、なかなか社会の評価を得られない方は、その手の類にあると気が付けば良いのだが、どうも気が付かないから、更に既知を重ねていく。出来上がるのはその昔のガラケーであろう。凄いけど飽きられる。簡単に解けるパズルのようなものだ。

問題を喚起させて頂けると、地球の上に独りで生きていなくて良かったと実感させて頂ける。所詮、人間は狭視野の中に生きているから、その視野を広げて頂ける感動を、ついつい期待してしまっていることに気が付く。思いもよらない反応が楽しいのだが、それを楽しいと感じさせてくれる人と、言い訳と感じてしまう人と、何が違うのか自らに問うと、おぼろげながらに見えてくる。他人の意識に寄り添って語る者か、純粋にこうありたいと語れる者か。

教育の場に寄付をお願いすると「見返りは何か?」と問われる。投資して下さいと言っても同様である。株主が居るわけだから、株主への配当を考えると、配当説明が出来ない事には投資できないとなるわけだ。企業を潰してはならないのは当然だが、AIには期待できない問題を喚起してくれる可能性を育てることへの投資は、いずれ必ず大きな見返りを持って還る。「辛いことはさせないよ」というコマーシャルを見た。期待してはいけない人を増産しているこの国である。おぞましい。