淘汰されねばならぬ

子会社は親会社の利益のためだけに存在するのだと、先の大戦が作り出したルールが未だに残っている国である。どんなに学んだとしても、それは上位にある企業の利益の為に活用されるべきであって、自らが、くだらない例えだが、週末にビフテキを食べる給料を社員に渡すことすら許さない日本の企業構造が守られようとしている。Job型というレベルではない。必死に学んで人よりも優れたスキルを有しているとしても、それは平準化されて、成長しようとしない者と同等に扱われる。

嫌気がさして止めてしまうと、今度は辞めた人間というレッテルを張り、能力ではなくそっちを重視して、サラリーなど無能者で新卒から勤めている人間のほうがサラリーが高いという、不可思議な国だ。半導体分野の人員など、みんな、海外に引き抜かれて当然だ。今、学んでいる学生よりも遥かに厳しい学問と、経験を身に着けた者が、日本の5倍の賃金で引き抜かれている。それは当然のことだ。昭和の時代の基礎しか知らない学生を、海外企業が引っ張るわけは無かろう。

教育は恐ろしい程に変わらなければならない。それを何故するかと言うと、海外の産業構造の進歩を先取りするためだと言ったとしても、誰も納得はするまい。今、付き合っている企業に就職出来るのだから、それ以上のことをしなくてもよかろうとと言うことに、多くの研究者が陥ってしまうのだろう。そうで無い者の焦りようは素晴らしい。そんな人達だけを応援したいのだが、なかなかね。家庭の事情がどうのこうのと言うこともあろう。確かにそんな時代が小生にもあった。

でもね、どんな時でも、組織を思って頑張ってましたよ。しかし、この時代においては、昭和40年代、まぁ、1980年代かな?真似て、その中で一等賞になれば世界に買って頂ける時代があったよ。その頃の人間がリーダーとなっている最後の5年間くらいじゃないかな。するとだ、まやかしではあるが、世界のトップを疑似体験したリーダーが居なくなって、負け雰囲気組だけがリーダーの時代がやってくるわけだ。お手並み拝見などしない。自らの機能を最大化させる努力をする。何を言っても聞かない組織に何を言うつもりもない。そんなところだ。やるだけのことはやるけどね。

創造と破壊

創造と破壊。この両方が成長には必要なのだが、この国は破壊が苦手である。研究領域もそうかもしれなくて、所属学会に縛られて、それを頑なに守ろうとする。研究者には専門領域なる看板を付けられて、その領域であれば博士号を出して良いよというライセンスが与えられているから、それが自分達を縛っていることになってしまうのかもしれない。しかし、破壊を伴わない創造だと、いずれキャパオーバーになって組織は崩壊していく。良質な破壊を続けないといけないわけだ。

追従型思考の日本であるから、新しい事を言うと受け入れられず、ロジハラに叩き潰されそうになる。新しいことに過去のロジックは当てはまらないから、異なるゲージを当ててきて「合わない」と排除されていく。破壊する部分に当たってしまったら悲劇と思うか、それが時代と思うか。破壊を否定と捉えずに、新陳代謝出来ると前向きにならないと、猛烈な勢いで変わっていく世界に押しつぶされていくわけだ。DXをものづくりの現場に導入しようとすると反発があって出来ないなどと、そんな企業は既にゾンビだ。

経済の停滞が何処から来たかと言えば、それはもう簡単なことで、世界から見て圧倒的に遅れたものを遅れた方式で作っている企業をゾンビにして生かし続け、破壊してこなかったからだ。昨日よりも新しい事に挑戦していない企業に未来などある筈は無いのに、助成金などというもので、政治家が票を買い続けた結果だ。街角の駄菓子屋など遠い昔に無くなった。しかし、巨大なモールに昭和の駄菓子屋は繁盛している。そんなもんだ。生き方を変えることが出来たら、それはイノベーションである。

理工系と文系という不思議な分け方が中学校において行われて、工場で菜っ葉服を着て油まみれになるイメージの工学部が嫌とか、算数が苦手だから嫌とか、金融機関に就職できないからとか、謎の理由で文系に行っちゃう時代なのだそうだけど、その辺りの都市伝説を破壊しないと、結局、理工系人材増大なんて夢のまた夢である。大学は研究を基軸に新しい教育を模索し実践していかなければ破壊の対象である。自らの破壊も意識して進まねばならない時代である。

国葬

カーボンニュートラルに極めて近い環境だったのだろうなと思うのは江戸時代の「お江戸」の在り方であろう。現代人がそこに飛び込めば不便な事は当然で、そもそも電線が無いのだから。情報共有をしようと思えば回覧板だの手紙だの。手紙とというものがかなりの確度で届いたということも驚きなのだが、紙が貴重で、文字を読み書きする階層はそれなりのものだったのだろうからということなのだろう。それなりの階層がそれなりの役割を果たすというのも大切なことだ。女王陛下の国葬をTVで拝見し、まさにそう思ったところだ。

世界で最も有名な王様の崩御であり、英国のみならず、世界の歴史に足跡を残された方の影響力の大きさを感じたわけだ。とてつもない方の国葬の後に、どっかの国では、反対が強い中で強行される国葬もある。公式には30億円を越える税金が投入されるとのことで、そんなことが一部の人間の我儘で行われるという、不思議極まりない国家であるということを、世界に知らしめてしまう。弔問外交で何が語られるのか?世界に対する国家のプレゼンスを上げることに繋がるのか?

未だに「モリカケ」問題が綺麗になったということは聞いていない。宗教団体と政治との関係性は、マスコミはちっとも突かないが、これの筆頭格として問題視されているご当人である。亡くなったら「ちゃら」ということではないのだ。独立機関である日本銀行を政府の出先機関の如くに見下した発言は、多くの人の脳裏に焼き付いていることだ。国家を安売りし、予見された円安による物価上昇への無策甚だしく、それを先導したことも全て後に残している。

野党の方々も、結局は追従で、与党も野党も無い日本らしさを露呈している。国民の6割が選挙に行かない国だから、まぁ、これは必然なのかもしれない。多くの方々の頑張りによって獲得してきた投票による参政権を放棄するのだから、一部の集団が勝手気ままになんでもやって良いという国なのかもしれない。台風が来れば国土は荒れ放題だ。国土強靭化計画とか建築・土木技術は優れているのだなどと話は聞くが、それは本当の事か?と疑いたくなる。英国の強さをまじまじと見せつけられたなぁと実感した国葬のあるべき姿でありました。

昨日のことだが、久しぶりの風雨に驚いた。ここ数年、暴風雨に見舞われなかった名古屋地域だが、日本海を進む台風進路の右側に位置すると、自然の猛威にはかなわないのだなと実感させて頂いた。伊勢湾台風の被害映像などがTVでは流されたわけだが、その時の様子を伺ったことがあるのだが、台風一過の惨劇をはっきりと覚えていると仰っていた。海洋水温の上昇に伴って、より大型の台風が日本を直撃してくるだろう。インフラは大丈夫だろうかと心配になる。

自動車に限らず、軽量化が推し進められてきているわけで、強度と言う観点で言えば「大丈夫」ということにはなっているわけだが、それは出来たばかりのフレッシュな素材で行われている検査であって、現場で活用されるようになった時、その強度がずっと保たれるかどうか不安である。重厚長大を尊ぶわけではないが、それなりの頑丈さと言うことを求めるためには、素材の量も必要になってくるだろう。

連休の初日の土曜日に樹齢1300年の巨木が林立する、神社に詣でてきたのだが、その森の安心感と言うか、神々しさと言うか、ただただ圧巻である。縄文時代の遺跡から9千年も前から人が住み始めた場所と言うことであったが、延々とその地に人が住み続けている場所にふさわしい森を体験し、近代化とは無縁の営みに感動した。もちろん、現代の環境整備が行き届いているからこそ、人が近づける森になっているわけで、人と自然との正しいお付き合いの姿とはこういうものだろうなと実感した。

歴史が受け継がれるというのは、こういうことなのだろうなと感じる。日本においては弥生時代になる前から、人々の共同生活という形がしっかりと遺跡から読み取ることが出来ている。自然への畏怖から山岳信仰が自然と発生し、山を信仰してきた古代の祈りの場も拝見できた。今のように情報が得られない状況において、台風などの災害は神の怒りに感じたであろう。それは今も昔も同じではないか。人間は進化どころか退化しているだろう。どこまで退化していくのか。恐ろしい。

火中の栗を拾う

円安がどんどこ進んでいて、オリンピックも賄賂まみれで、我が国の品位もどんどん落ちる。英国の故女王陛下の国葬に並列させて、国内で反対意見も大きい中で強行しようとするとかね。それまでにコロナのカウントは極力減らし、病人だらけだけど安心な国とか言うのだろうなぁ。ものづくり地域と言っているけれど、EV化によって使わない技術がどんどんと出てくる。国内の人口が減るわけだから内需は期待できなくなるわけで、それでは国外に販売できるものづくりが出来るのかと言えば、出来るのだろうけど、安く見積もられている国の製品を買いたいと思うかしら?

安かろう良かろうの時代では無い。海外では給料がそれなりに出されているから、高くても買えるから良いものを買うということが世界の趨勢だが、我が国では安かろう良かろうが延々と続く。意識の高い生産者は当然の事ながら、フェアトレードして頂ける国に良いものを送り出している。この国に残ったものが安く買えるということは、要するにそれなりの出がらししか残っていない国と言うことだ。その流れを断ち切らねばならない。

簡単では無い。従前のピラミッド型ものづくり社会においては、価値あるものの図面が降りてきて、それを求められる材料で三次元化し、どんどん川下に流していくわけだ。利益と製品を川下に流していって、与えられるのは次の図面である。そこには挑戦と言う考え方は全く無い。図面が与えられる間は危ない橋を渡らない。渡らないうちに、橋が落ちていることに気が付いたら、はい、それまでである。誰も助けてはくれないね。

敢えて火中の栗を拾わねばならない。弾けるかもしれない、それはリスクだが、弾けたら中から美味しい栗の実が出てくるわけだ。リスクもあるけど美味しさも出てくる。拾わなければ何も無い。栗を拾えないのは、拾ってもどうしたら良いのか分からないからだ。どうすれば良いのか分からないという状態にあったら、そこからオープンイノベーション、大学に駆け込むのが宜しい。その時に勘違いをしてはいけなのは、自らに知恵を付けようとするなら、ゼロ円と思ってはいけない。知恵をリスペクトする方には開かれた大学である。お越しください。

閻魔帳に思う

義理と人情を測りに掛けりゃ義理が重たいなんとかよという歌がありましたな。この義理も人情も大切にしてきたのが、日本の経営の根本だったと思うのですよ。弥生時代に「みんなで田植え、そして収穫」って登呂遺跡を拝見して、凄いものだなと感心したことを思い出す。病気になって寝込んだり、怪我で田植えに参加できない人も居たでしょう。それでも運命共同体として一緒に暮らしていたのでしょうと「勝手に」想像している。実際のところどうだったのか解らないけれど、労働力は貴重だったはずで、仲間外れをしている余裕は無かっただろう。

DX云々は当然の状態であって、それからはるか遠くにある日本の現状をバランスボールの上で大臣殿がどう思っているのか知らないが、AIが活用できるデータを創り出す体制にとっととなって頂きたいと思うのだ。円安がどんな影響を及ぼすか、世界の経済学者は日本に警鐘を鳴らしているのに、日本国内からはそんな悲痛な声は聞こえないし、大略5%未満の企業は円安万歳なんだけど、そう思っているアンケート結果の公表なんか無いしね。これからどうしようという時に、データが無い国。う~んである。

で、義理と人情のお話がここに出てくるのだけれど、当然の事ながら経営と言う観点においてもDXは正しい状態であるべきだ。こんなことを言うと義理も人情も無い奴と言われそうだが、組織全体を潰してしまったら、それこそ義理も果たせない薄情者となるわけで、そうならないようにするために、様々な観点からの情報が欲しいと願うわけだ。いろんなアナログな声が飛んでくるわけで、それはそれで正しいわけだが、それを異なる視点の客観データで比較検討すると「そうでもないな」となったりすることもある。勿論、ごめんなさいということもある。容易では無いのだ。何せ原資が限られているしね。

それとあからさまなジョブ型雇用としているわけではないというのも、デジタル的人物評価が難しいということになりますな。とは言うものの、人情で押してこられることを「はいそうですか」とは言えない現状ではある。その昔は「声がでかい人」、「根回しが激しい人」の意見が通っていたわけですが、今の時代はそれをやると間違いなく組織が崩壊しますからね。組織の人の幸せを願うわけだけれど、それを獲得することの難しさである。鳥の目、魚の目、虫の目とは良く言ったものだと、なかなか到達できない境地だなとDXに頼りたくなる自分に苦笑いである。

タイパ

タイムパフォーマンスを「タイパ」と呼ぶことを新聞で読んだ。恐るべき短縮であり、説明が無いと分からない。曲において、イントロが長いと歌手の歌声に到達するまでに飽きられてか呆れられてか、その両方か解らないが、聴いて頂けないらしい。そんな曲作りが成されているとは恐れ入った。数年前に、技術を紹介するYouTubeビデオを作って公開した時に、情報系のお偉いさんから「そんなに長いものは誰も見ないよ」と言われたことを思い出した。それは単に長さの指摘であったのだが、いわゆる「サビ」がいきなり飛び出してこないと食いついてくれないという事だろう。

食料品のマーケットにおいてもレジ待ちが長い店は敬遠されて、それが短くなる工夫が成されている店の売り上げが伸びているとの事。店側からすれば、お客様が商品を獲得して駐車場の車まで到達する時間を短くさせる工夫が必要だということだ。某国のエリー湖畔にあるジャイアントイーグルなんぞ、ナゴヤドーム4個分くらいある駐車場に停めて、商品を購入しようなんてことは、お若い方々は絶対にしないのだろうなと、「タイパ」を読んで思った次第。

映画も倍速で見るとか。そうなってくると芸術作品の在り方も随分と変わるのでしょうな。直感出来るものが流行ってくる。旅行なんてどうなのでしょう。どこでもドアが無いと旅行しないとかね。まぁ、確かに出張などはそれでも良いが、計画をして、観光地まで行って、そして帰って想い出にふけるまでが旅行なんて考えないのでしょうね。GoToキャンペーンを使っている年齢層を知りたいものだ。価値の獲得までの時間を如何に短縮するかが、購買行動に繋がっていそうな気はするが、それって楽しいのか?

良品廉価納期短縮は自動車業界のキャッチフレーズではあるが、そうやって汗水たらして働いて作ったものが、あくせくあくせくと使われて、直ぐに飽きられて中古マーケットに売却されて、どんどんと値崩れしていく様を見たら、どうなのだろうとなんだか虚しくなってしまった。そんなことを思いながら、自分で書いた会議のト書きを見たら、ちゃんと「概要を述べますと」と20秒で何を話すかを語ろうとしている。短縮イントロは人の有り様の縮図だったのだなと思う反面、思うような曲を書けないアーティストは大変だなと、恐らくだけど、そんな話に左右されずに、自らの主張をきっちりと通す本物だけが残るのだろうと、短縮行動は自らの旬を短くしているだけなのだろうと、「タイパ」を眺めて苦笑いする私であります。

思い切る

CO2の排出量を削減しましょうと地球のあちらこちらで言っているわけだが、それは先進国がやたらと工業化というか、便利を追及してきたからで、工業化が進んでいない国々が、そのあおりをうけて、激しい台風などに襲われているのはとんでもないことだと思う。太陽電池云々と、あたかもエコみたいなことを言うが、巨大な重機で地べたを掘って、太陽電池が出来てからでは獲得できないほどのエネルギーを使って、酸化ケイ素をケイ素に換えて、それからも大きな電力を使って漸く太陽電池だ。

勿論、それだけでは無くて、色素太陽電池とかね、省エネルギーで太陽のエネルギーを獲得する方向に変わってきてはいるのだが、今まで、宇宙空間に反射されていた太陽エネルギーを地球に閉じ込める方向に向かうんだよね。現在、沖縄方面に集中的にやってくる巨大台風を見ていると、そんなに太陽エネルギーを地球に閉じ込めて良いのかなと思ったりもする。先日の精密工学会のお話もそうなのだけれど、一体、何処に向かって研究が進んでいるのかと疑問に感じてしまう。

CO2を出しませんというのであれば、現在、ロシアが「化石燃料を敵国に渡しません」と、まぁ、敵と味方という単純二元化路線でいくならば、エネルギーを供給しないというのは戦術として正しいわけで、それを良いことに、もう、ガスは燃やしませんとかね。それくらいの工業的変革があったも良いのではと思ったりする。そんなことをするとガス会社が潰れてしまうとか、そんな意見もあるだろうけれど、地球温暖化云々を言うのであれば、それくらいの英断が必要である。

思い切る。これはなかなかにして難しい。しかし、やらなければならないのは間違いないわけで、それは何も地球規模に限らず、足元の小さな組織でもそれは言える。時の為政者の英断で変えられるところはある。理屈をきちんと説明して、決断することもこれからますます必要になる。旧態依然の組織から無くなっていく。そんな気がする。

学会にて

先週のことで申し訳ないのですが、精密工学会と言うところで関係者が発表したわけですよ。本来、新潟大学で開催予定であったのですが、ご存じのコロナ禍の第7波のお陰でウエブ開催となって、小生もバックヤードでエールを送るくらいのことが出来たわけですな。当然というか、参加者は皆さん慣れていらっしゃって、質問の手もどんどん上がる。小生の関係者に対してやたらと上がる。知らんぷりされるよりずっと良いのですが、上から目線の的外れな嫌がらせみたいなのはどこでもあるのですな。無事に終わってほっと一息ですよ。

お話の一つの柱が、そろそろダイヤモンドを使った加工から卒業しませんかというもの。ダイヤモンドは永遠になんて言うのは女子を飾るものだけにしておいて、欠けた時に膨大なエネルギーを発生させたり、化学反応性がやたらと高く、金属表面を破壊しまくるダイヤモンドは加工にはふさわしくないのですよというのを、実験データで証拠固めをして出したわけですが、その業界においては「ダイヤモンド命」の頭がダイヤより硬い連中がそろっているもんだから、襲ってくる襲ってくる。それが面白くてやったんですけどね。

シリコンカーバイド単結晶の研磨の時もそうだったのだけれど、数年間、同じセッションに出し続けて信者を増やしていかないと正しい科学は広まっていかない。やっぱり地球は回るみたいなもんで、直ぐに「あぁ、そうですね」なんてならないのはアインズ様同様想定内。ただ、これから学会活動も難しくなってくるので、どうしたものかなぁと。ただ、学会で批判を頂くというのは有難いもので、やっかみはほったらかしますが、耳を傾けるべきだなという内容も頂けるのですよ。謙虚に受けとめて次につなげようと思うわけです。

何はともあれ、真剣に研究して、実験データを積算して、何度もやってみて間違いなく出来るというか再現することを精選してお披露目していくわけです。今まで誰も発表していないことを面白がってやるわけで、聴衆が騒めいているというか静粛になってしまっているというか、それがとっても楽しい瞬間ですな。生きている限り挑戦は続けたい。そう思った私であります。

国家安

どんどん円安が進んでおりますな。政府と日銀が結託して外国人が日本で買い物しやすくして、モノづくりとか複雑な思考をするよりも、手っ取り早くギリシャ方式で観光だけで経済を回していこうとする安直さがにじみ出ておりますな。ガソリン代のアシストは、そろそろ限界が見えてきたようで10月末までらしくて、そうなると、国内の一般民間人の皆様は、移動は10月末までとなるのかなと思ったりもする。まぁ、ハワイで一日20万円も使って平気な国民の皆様は、ガソリン代なんてへっちゃらなのでしょうね。書斎に閉じこもって書類と格闘に明け暮れるとしよう。

昨日の日経さんだったか、博士を増やせない国は亡びる(そこまで言っていないけど、戯言らしく大袈裟にしないとね)ということで、それは我が意を得たりで嬉しかったりもするのだが、博士を取得して、仮に大学等で研究職を得たとしても、博士の指導(博士号を認定できる)が出来ないとか、いつまで続くか解らない丁稚奉公をさせられるとか、海外では当たり前の研究室を持てないとか・・これでは研究者になろうなんて思わないわな。

企業に至っては、4年生卒業者以下の扱いですからね。地獄を見て(とても大切)、やっとこさっとこ博士号を取得できたと思ったら、暗い未来が待っているという現状、日経さんが「博士を増やせ!」と号令を掛けても、それはまぁ、無理なご相談ですね。海外からの意欲のある留学生が日本の学生の承継枠を埋めて頂いているのが現状。国に戻れば明るい未来が待っていますからね。科学技術立国云々言いながら、その実、その旗手を国家で育てようとはしていない。出先機関に丸投げ状態だ。まぁ、ニンジン的毒まんじゅうは頂けますけどね。

9月って、国際会議や国内の学会が数多く開催されているわけです。勿論、優れた発表は数多く、論文賞を獲得された内容を拝見すると素晴らしい研究内容ばかり。新奇なもの、発展性のあるもの。発表される機関は様々だが、国の未来とは言わない、企業におかれましては自社の未来を見据え、川下企業から与えられる図面を待っているだけではなく、自ら社会の笑顔に関われる商材づくりに挑戦しませんか?そこには閻魔様と騙しっこをして鍛えられた博士人材がお役に立ちますよ。「視野が狭くて使えない」とか仰いますけどね「使えるだけの思考力が無い」だけでしょ。人ですよ、本当に。円がこのまま240円に戻っちゃって、プラザ合意をまたやるのかななんて思ったりして。泣ける。