古きは訪ねない

究極の技術は無用なのだと、量産化できないとそれは使い物にならないと、大学の研究成果がゴミ扱いされる日本。炭化ケイ素(SiC)デバイスが結晶の良質化に伴って顔をもたげてくると、Si軍団がそれを初めて叩きに来る。でもSiの物性限界を超えてくるので、住み分け論になる。窒化ガリウム(GaN)デバイスも同様で、光るだけでしょというところから電源にも使えますと研究者が叫んでも「量産品に使えないとね」なぁんて国内企業殿が仰っている間に、海外ではじゃんじゃか小型の電源が出てきて、日本企業の入る隙間が無い。その頃に漸く焦りだす。いや、諦めて焦ってもいないか。

酸化ガリウム(Ga2O3)って材料があって、これは我が国が基礎の段階から(GaNもそうだけど)頑張って世界をリードしているのだけれど、これもSiがあってSiCがあって・・キラーアプリケーションが明確になっていないという事なのだけれど、そんなこと言っていないで、目新しさという触れ込みで社会に出す勇気は無いものか。その新しいものが社会に受け入れられないという状況こそ、若者の頑張る意欲を削いでいるのだ。大企業迎合主義というかね、親が「恥ずかしいから大企業に行け」なんて戯言を言って、若者がそれを受け入れているようでは、お先真っ暗だね。

ずぅっと「これは素晴らしい!」と予言というか、まぁ、材料としての特性から言われていたのがダイヤモンドデバイス。良質で大型の基板が出来るようになってきたこと、高速に研磨できる技術が出来てきたことから、近い将来、社会に認知されるかなと思っている。これなどは、それこそ、どんどん活用して、アーリーアダプターが喜ぶ商材に結び付けて欲しいと思っている。大学の研究者が徹底的に頑張って、要素技術を尖らせて社会実装を加速させていく。我が国発の工学技術を世界に先駆けて発信しなければならない。

小生は究極の技術以外は無用と考えている。逆に「ローテクのハイテク」こそ社会に求められ続けるとも思っている。壊れずしかも先鋭的で、一回購入したら永遠に使えるとかね。「そんな物を作ったら、次を買ってもらえなくなる」ということを言うわけだが、だったらとことん高価で良いじゃない。それがあるから新しいサービスが生まれるという部分をサブスクで考えれば宜しい。古きを訪ねても新しきは得ない。新しきを求めるから古きものが輝く。思考転換をしていかないとね。そう思う。

能力は活用され評価されるべき

リカレントやリスキリングという海外では当たり前のことが、我が国ではほとんど行われないのは何故だろう。何故だろうと思って、何社かのそれなりのお立場の方に尋ねてみると、リカレントなどに出ていくと、新しい人脈が出来て、転職されてしまうとか、知識を増やしても活用する部署が無いとか、なんだとかかんだとか。知識を増やして逃げていくのが嫌だとか、上司として博士の学位を取られると指示を出しにくいとか不思議なことを仰る。日本の先行きは暗いなと思ってしまいますよ。

お聴きしていると、企業内に人を呼んでコーチングするという事はOKだけれど、時間と金を掛けて大学で新規知識を増やすのは駄目だと。学ぶ意欲があるのであれば、それは時間外で勝手にやれと言うことだ。全てのお会社がそんな状況では無いと思うのだが、親方が叫んでいる「リカレント・リスキリングに地方大学は貢献せよ」ということと、ステークホルダの意見は全くことなるのだなと実感する。

新規開発案件で企業に無い技術を大学と開発するのは良くて、開発スキルを身に着けるためのリスキリングは駄目だというのはさっぱり解らない。キャリアアップの機会を作ると、新たなポストを作らないといけないとか、不可思議なお話が噴き出してくる。能力に見合った給料は払わない、活躍しても、能力が高くなってもそれに見合う給料は払いたくない。そんな国の貨幣価値が上がる筈はないなと苦笑いしている。

徹底的に良いものを作っていくというスモールビジネスが成立しない我が国と、そのビジネスストーリーで労働効率を高める方向に向かう諸外国。いろんな利益の上げ方があって良いのだが、身内を疲弊させてまで、薄利多売をしては駄目だ。貨幣価値が下がって国内物価が上がる筈の処を妙な補助金や顧客に転嫁できないとか、参院選挙前対策なんだろうけど、国民も降ってくる飴ばかりを期待している。学びを持って進む国であって欲しい。本気でそう思っている。そう行動していく。

宝箱

思い込みの際たるものが、「この研究成果はこの分野を飛躍的に改善する」というもの。最終商品を作っていらっしゃる企業との共同研究での新規開発で、アウトプットが決まっていれば、それはそうなんだけど、思い込みの研究では、案外、そうはならないものだ。柔軟に考えて、こんなところに使えるのではないかしら、あれとこれとそれと・・くらいの柔らかさが必要だ。この分野をなぁんて思っていると、思考視野が狭くなって、折角、世の中を変えるかもしれないのになんの役にも立たずに消えていく。いや、研究者の自己満足には十分に応えるか。

自分の胸に聞いてみてもそうだもんね。そりゃぁ、自分へのモチベーションとして「こんな役に立つだろう」というところで研究テーマの構築に入り、様々考えて出発するわけだ。数年経って論文等になり始めて、科研費が当たって。それで研究が進むのだけれど、学理の探求なので、仮説をこのような手法で検証し、因果関係も明らかにして、科研費の報告書を書いて。それで一つの研究テーマがゴールを迎えるわけなのだけれど、一時、大学に知財を獲得せよ!と親方が叫んだ時期があったのだけど、知財獲得に繋がる成果は存外少ない。それに興味が無くて学会等で発表するということもあるのだけれど、類似のものがあり過ぎて、知財認定されないものも多くある。

ここが考えどころで、「世界で初めてだ!」と考えて進めたのだけれど、時代のスピードに追い越されて、それを包含する研究テーマが立ち上がって、ゴールまで行ったのだけれど、全く新しく無かったということになってしまう事も多い。ところがだ、学理の探求の結果、仮説検証が出来て自己満足で封印されている成果だとしても、それを現代の科学技術によって社会実装出来るものって沢山あるのだ。それをきちんと掘り起こして、社会に展開していくと、それは一つの大学に留まらず、世界的に見てもとても多くの資産が眠っていることになる。

ハゲタカ企業殿は「売れる成果を無償で盗んでいく」わけだが、そんな連中は相手にしないように気を付けないといけないのだけれど、知の探究側も、探求した成果をしっかりと棚卸をしないと、それこそ税金泥棒のそしりを免れない。そのあたりを地道にしっかりやっていって、社会との共創を目指している大学と認知して頂きたい。そう思っている。

遥かなるお盆休み

五月連休の恐怖は、それが終わってしまうと、お盆まで大きなお休みが無い事だね。まぁ、正月と五月連休とお盆休みがあればそれで良いじゃないという昭和のビジネスマンはそれで良いのでしょうけれど、文化的空気に触れてみたいとかね、精神的に落ち着く時間が欲しいとか、あるいはそっと独りになりたいとかね、そんな休息が欲しいと願う人には、実に厳しい五月連休なんだな。羽を伸ばした後って、次のお休みは何時だろうって無いものねだりをしてしまったりね。幸い、今回の連休は、特に先週、2日と6日の平日が入ったし、その他にも「どうせ宿舎に居るんでしょ、Webミーティングしてよ」という魔の手に襲われているので、休んだ感が無いもんだから、まぁ、五月病にはならなくて済んだ。済んだけど、なんだか妙にくたびれた気がする。

そんなことはどうでも良いのだが、書斎に並ぶ本を見返したり、新刊を読んだりと、随分と活字に触れることが出来た。コロナ禍で獲得したWebミーティング環境だが、Skypeなど、それ以前のツールを使いまくっていた人には当たり前環境なんだけど、様々なツールがそれなりにユーザーの声を反映して進化したものだから、随分とお気楽に顔が見えるようになった。とあるお役所は、こちらの顔は要求する癖に、あちらは絶対に顔を出さないとかね、なんだそりゃ状態になるのだけれど、顔を見せ合いっ子するというのは必要だなとは思う。書斎からの中継になってしまって、背景をぼかしたりはするのだが、プライベート空間が大衆の眼に晒されるというのは気持ちの良いものでは無い。

Webミーティングの時刻が決まっていれば、その時間帯だけベランダにイスとテーブルを持ち出して、青空会議を決め込むとか、それ専用の個室空間がある喫茶店などにもぐりこむとかね、働き方改革というか、この職場で働き続けたいと思うような環境付与が可能になるのかもしれないが、いきなり「今から良いですか?」って言われて、「あわわわわ」となって、ちょっとまちぃやと、急いで背景をぼやかしたりとか、カメラの角度を調整したりしてね。かなり慣れてきたとは言え、今からと言うのは如何なものか。うっかり受けてしまって、流せば良かったと思いながら議論をするのは若干の苦痛を伴うね。ちょっと考えて頂けないだろうかとは思うのだが、相手も切羽詰まっているのだろう、その鬼気迫る目つきに吸い寄せられて、必死に受け答えしてしまう。

連休の後半というか、天気が良くて、窓越しの青空が憎らしく、Webカメラを見つめるわけだが、ネットワークの進化というのは有難いやら恐ろしいやら。有難い方が多いのは間違い無いのですけどね。連休明けから目いっぱいのリアルな対面会議があり、背景を気にする必要は無くなるのだが、猫の額より狭い鶴舞大学キャンパスとは言え、移動を伴うミーティングは、心の疲労を肉体の活動で活性化するという様に前向きに捉えないとやっていられない。会議開始時刻には移動していくので、10分前に到着しましたよなどと言う電話は掛けてこないでくださいね。これもWeb時代のマナーだと思っている。

天下に泥棒あり

FRBがいよいよ本気で金融の在り方を示してきた。我慢に我慢を重ね、そして機会をとらえ敏に動く。羨ましい限りである。この国はと言えば全てにおいて指をくわえて見ているだけ。部品大国であって、結局は「ものづくり」のポジションから脱することはしない。他国の「ことづくり」と「場づくり」を支えて心地良がっている。まぁ、それは正しい選択なのかもしれない。世界に物が無かった時、他国の技術を持ってきて、量産化に向けた工夫で外貨を稼いだ。その量産化の工夫は、両々加工機械や多くの自動化機械製造にそのノウハウが受け継がれ、一部の企業が国益となって残っていることに安心しないといけないのかもしれない。

その昔は大企業の専売特許だった「弱者の知恵泥棒」が今や中小企業においても実行される。特に弱小大学に対してその傾向は甚だしい。「農民は生かさず殺さず」の江戸時代の思考で、知恵を無償ではぎ取っていくその在り方は、煉獄に落とされた弱者を痛めつける悪魔そのものだ。経営に関与する人間がその体制であれば、まぁ、その先が見えてこようというもの。ご注進してみようかなとは思うが、世界が大国の恫喝に指をくわえてみているだけの景色を思うと、なんだかばかばかしくなる。正義などどこにも無いのだ。連休中にニュースで見るのは、行動制限が無くなったから、人の移動で景気が良くなったという事ばかり。結局、それしか無いのだね、この国は。

変わらないのだ。DXなんて意識を変えないと進まないのだが、旧態依然のDXなんてほざいているわけだから、それこそ何も変わらない。意識・無意識に限らず旧態依然を私物化し、「何か変だ」と感じる正しい精神状態を駆逐していく。贖い続けるが、何時かぷっつんと切れるかもしれない。コロナ禍がもたらしてくれた在宅勤務の素晴らしさを、この連休期間中に存分に味わうことが出来た。何やってんだと言われるかもしれないが、職位的に求められたら討議をさせて頂くわけで、恐らく、コロナ禍以前なら、出てこいということになったのだろうが、先方もWebでということで、ラフな雰囲気で深い議論を展開できたことはとても良かった。30分と時間限定を守るお相手だったことも幸いした。

まぁ、そんな前向きな議論もあるわけだけど、多く、中小企業が「困っているから無償で知恵をよこせ」というのはもうお断りだ。精神的に不快でしかない。鶴舞大学に対してそうなのだから、他の下請け企業にも同じことをしているんでしょうね。図面は無償だとかね、持ちつ持たれつみたいな気風が、そりゃぁ、戦後の全て無くなった状態ではそうだったでしょう。ウクライナの惨劇を見るにつけ、胸が痛くなり吐き気がしてくるわけだが、あんな状況から這い上がった諸大先輩の方々には勿論、首を垂れる。当たり前だ。しかし、バブルを謳歌して、リメンバーバブルみたいな連中殿には辟易だ。ご免こうむる。

ゼロの国

雨は天の恵み。連休初日に何処かに行こうかと思っていたが、大雨となって何処にも行かず。それ故にのんびりと骨休めが出来た。こんな時こそ必要である。まぁ、骨休めと言っても不断よりはのんびりと思考し、BGMの中、キーボードを叩くみたいな過ごし方なのですけどね。切羽詰まらないといろんなことを考えるもので、それが休日の価値という事なんでしょうね。ちなみに暢気な休日に最初に聴く曲は決まっている。だから余計に楽ちんだ。選ぶ必要もない。

その昔は飛び石連休とか言って、大型連休なんて概念は無かった。土曜日の授業が無くなって、4日が休みとなり、何日か休暇を獲得すると大きな連休となる。日本人は勤勉だと言われるが、確かにその一面はある。勤勉なのに給料は上がらず、物価だけ上がる国になっているのは何故だろう。原材料が高騰しているのに商品の価格に転嫁出来ない。必死に自国通貨の価値を下げたがる一味によって、資源活用のお仕事は上がったりだ。これをどのように捉えればよいか。国内資源を精査し尽くして、新たなモノづくりに挑めという事か。それも良い。

電力という極めて便利なエネルギー源を熱から取り出している現状から変えねばなるまい。何を作るにしても動力が電気エネルギーであって、それが海外由来の化石エネルギーから変換されている以上、それらがシャットアウトされたとして、この国で何が出来るのか考える必要がある。簡単ではない。しかし、そんな極端な考え方に立たないと、何をなすべきかが見えてこない。その状況において、世界から買いたいと言って頂ける「何か」を作り出さない限り、この国の未来は無かろうね。

食糧も入手できない。エネルギー源も無い。下手をすれば永遠に休日となってしまうかもしれない。人間だから知恵は生み出せる。しかし貧すれば鈍するに陥るもんだ。観光させてお金を還流させるくらいが関の山だ。投資をしろと叫んでいるが、貨幣価値がゼロの国家の企業に誰が投資するのか。リアルな投資価値を作り込んでいかないと、仮想も成立しない。単純では無いが、ゼロから数字を生まねばならない。そんな切羽詰まった国なのだなと、休日になるとしみじみ思う。

連休がやってくる

永遠にやってこないのではないかと疑ってしまった連休がやってくる。過労困憊な状態が続いていたから、ちょっとは静かにさせて頂く。前半は雨の日が多そうだが、天気予報的には後半に晴る日がありそうだ。雨が降ったら降ったで、まぁ、庭でBBQなどしてやろうかななどとは思うが、やるかどうかも解らない。草臥れ切って何もやる気がしないかもしれない。とか何とか言っているが、やらないといけないことは沢山あるから、まぁ、何かをするのでしょうね。時にはじっくりと読書も宜しい。そんな気分でいる。

がきんちょの頃は、祝日はもっと少なかったし、連続して休暇を取得するという考え方そのものが無かった気がする。働きバチであっちの世界に旅立った親を思い出すのだが、社会の構造がそうだったと思う。ましてや研究者に5日間は必ず休暇を取得せよなんて指導が降りてきて、一方では研究成果をあげていけという。没頭してはいかんのか?まぁ、電子雑誌にアクセス出来れば、宿舎で論文検索などはかなり出来るような時代になっているからね。でも結局、職場としての大学に出てくるかそうでないかの違いであって、没頭していることには変わりが無いのだ。労務管理的には職場に来るなということなんだけどね。

休みが続くとは言え、永遠に続くわけでは無いから、きちんと考えて時間を消費しないと勿体ない事になる。休日の時間って異様に早く過ぎますからね。連休初日の夕方が来ると「あぁ、もう休日が終わってしまうのか」となんと切ない事でしょうという気持ちになる。だからと言って、あれもこれもなんてことを決めておくよりも、適当に、こんなものかなくらいの方が気持ちが楽になって良いのかもしれない。休日思考貧乏みたいなものかな。

何はともあれ、五月連休というのは国民のイベントと言っても良いくらいの代物だから、これだけはやっておこうということを決めておくのは悪い事では無い。小生もそれは一つだけは決めてはあるのだが、それとて別に、折角の連休中にやらなければならないことは無いし、だらだらするのも悪い事では無かろう。親が死んでも食休みでは無いけれど、のんびりぼけっと世界平和を祈ってみたい。まぁ、やることと言えばそんなことかな。

挫折せよ

どうやったら出来るのか。それを考えている時が一番幸せである。出来ないことを上から目線でねちねちと叱り続ける上司もどきが多いが、そんな輩は作業人であって、仕事をしたことは無いのだろうなと思ってしまう。経験で出来るようになったのなら、それをそのまま伝承して、皆が同じレベル感で作業が出来ればそれで良いでは無いか。ところがそんな輩に限って、経験値の私物化に走っていく。現状の自分を越える作業をしようとも思わない。哀れなお話である。

何かを成し遂げる、当初に設定したゴールに到達することは容易な事では無い。夢を描いて進んでいくわけだから、当然の事ながらハードルは極めて高く、そして足を引っ張る方々に囲まれているから容易なことでは進められない。紆余曲折、一歩も進まず三歩下がったりしてね。チーターもびっくりだ。それでも諦めないで粘り腰で踏ん張っていると、なんとかなっていくものだ。まぁ、相手にも依るけどね。

結局、思った通りに成らなかったなぁという時は、まぁ、諦めることにしている。いつまでも引っ張っても草臥れるだけだからね。面倒だからやりたくないという人とは組めないね。しかし、それはやっていながらでないと見えてこないのが欠点である。突然「あっ、この人は実はいやいやながらの参加だな」って何処かで見えてきますよね。二枚舌で見事に騙される。基本、性善説で生きているので、この手の方は苦手なのですよ。

夢に向かっていると挫折がある。挫折が無いような夢なら見ない方が良い。自分を育ててくれるレベル感の夢を見ないといけない。そこには必ず挫折がある。だって夢だもの。夢を見ない人は、夢を見ている人を見守ってやらねばならぬ。必死に足を引っ張るのは止めて頂きたい。文句は誰でも言えるが、夢を見て進む勇気はなかなか湧いてこない。恐怖で一杯だ。その者を尊敬し、見守ってやるのが良い。そうでなければ君は一生、卑屈未練である。

新三つ子の魂

今の中等教育の現場を拝見したことが無いのが宜しく無いのだが、小生の遠い昔を振り返ると、小学校では『糸のこ盤』で木材を切って、彫刻刀を使って、何か彫り物をしたような記憶があったり無かったり。中学校ではボール盤を使って、木材にほぞ穴あけ加工をして、ブックスタンドを作った記憶が、こちらは明瞭に残っている。強力な機械に触れて「こりゃ、凄い」と感じた体験は忘れないという事だ。いや、単に、ロボットの様な(ボール盤だが)機械が、ロボットアニメを見ているようで楽しかったのかもしれないが、貴重な経験である。久保先生というお名前の先生であったことを覚えている。感謝申し上げたい。

何が言いたいかと言えば、可能な限り若年時代に「ものはこうやって作るのだ」という体験を沢山させて欲しいということだ。
ナイロンの合成というか、屈折率の異なる液体間をピンセットで摘まんで、その先を回転、巻き上げていくと、なんとナイロン繊維が出来てくる。これなどは化学反応の学習ということなのだが、中学生の時に見ていたら、そっち方面に進んだ人間になったかもしれない。創薬に興味を持っていたかもしれない。要は、質の高い体験を、なんだか解らないけれど、見せることってとても大切だと思うのだ。出来たものを触って、リアルが目の前で出来上がる経験を、数多くさせて欲しいと願うのだ。

STEM教育とかね、高校でやっているんだけど、小学校低学年でやって頂きたいものだ。「先生にスキルが無い」というなら、文科省が高校や大学から実践するような仕掛けを作れば良いのだ。大学発ベンチャーで、特にディープテックを増やせなんて言うけれど、種まきは小学校3年生頃までだろうと思っている。大学の研究室で見出したものを社会に出せとか言っているけど、こんなことをやってみたいと小学校の頃から思っていないと、そう簡単に挑戦者には成れない。挑戦者を潰すことに懸命な大人が待ち構えた社会だからね、この国は。

延々と一票の格差とか言って、何十年経っても民意反映が不平等だとか、戦争が始まれば防衛予算を増額しましょうとか直ぐに動くとか、そんなことには入れ揚げるんだけど、イノベーションを起こせとか言う割には、その種まきに頭を使おうとはしない。工科系高校という仕掛けはあるのだが、ものづくりの楽しさと大学進学の両立を図っている学校の何と少ない事か。ものづくりをしない人が工科系大学に入り、その人が教員になって指導していく。本質的なところが見えているのだが、さてさて、どんな荒療治が必要か。長く掛かるがやる奴がやらないとね。そう思う。

知床の悲劇に思う

「こんなものがこんな価格で入手出来るのか?」と世界から物を買ってみると驚かされる。逆に「一年足らずで劣化が目に見える製品がメードインジャパンか」と、特にエレクトロニクス製品の凋落振りは凄まじい。そんなものなのかもしれないが、この格差が何故生まれたのかを真摯に受け止め考えないと、作ったものが海外に流通して行って、外貨を獲得出来る国には永遠に成れないのではないかと不安でいっぱいになる。そうなってはならないのだ。

メタワールドがやってきますと、それはそうなのでしょう。新規の仮想通貨がTVコマーシャルで現れるくらいですからね。日本が最も豊かだった縄文時代においては仮想通貨は無かったとは思うが、シャーマンが居たくらいだから仮想という概念はしっかりと存在したと思う。火焔土器などはその存在そのものが魂の叫びであり、実態の向こうの思想が具現化されているのだと、全国宝火焔土器に囲まれた展示会で震えたのを覚えている。遺伝子が繋がっているのだなと実感させられた。この感動が重要だ。

LSI製造において、我が国は要素技術では貢献出来ているが、トップレベルの最終製品を作り出すことは出来ない。中古の露光器が飛ぶように売れて喜んでいる体たらくだ。開発コストが掛かり過ぎるから挑戦しない。ビジネスとしては当然の判断だが、技術しか売る物を作れない国において、その判断は正しかったのか。知床クルーズで悲しいことが起こって胸を痛めるのだが、その船は以前にも座礁経験があり、その船が行方不明になったのだという。修理が真っ当ではなかったのではと疑いたくなる。修理が出来ない技術しか無いのかと、そこに哀しみを覚える。

小生は異端児である。改革と挑戦に挑み続ける人種であって、八方美人の政治家諸氏とは真っ向対立する思想にある。沈む観光船で国民の命を奪うGoToなんとか(名前が変わったらしいが、興味が無いので覚えていない)を推進する政治家とそれを尊ぶ国民とは決別してしまいたいとは思うが、民主主義で、国民と名乗れる国家は日本しかないから仕方が無い、ここに居るわけだ。技術をもっと高めなければならない領域は沢山ある。あるが、高める土壌がこの国の何処にあるのか。それを見つけるGoToなら何処にでも行く。そんな気分である。