新しい言葉の文化は何処に?

ずっと暗いニュースが続きますな。議員の逮捕だの国家間衝突だの。明るいお話を見出したいわけですが、それらを吹き飛ばすお話はなかなか出てこない、見つからない。天気まで再び暗くなってきたが、これは明日の土曜日から晴れ間が戻るらしいから、それは明るい話題と言うことに無理やり結び付けていきたいわけだ。晴れ間が明るいから、それが明るいニュースかと呆れていらっしゃると思うが、まぁ、それが戯言の本質なのだから仕方がない。

曇天の日は地下鉄を利用して職場と宿舎を行き来するわけだが、この時期、駅から大学までの間に、民家に咲くお花を見つけるだけで心地よくなるのです。花を愛でる方々がいらっしゃる。そのことがなんだか幸せを呼んでくれるわけですな。地面の割れ目からけなげに伸びるスミレが咲く姿も美しい。ほっとするのです。このほっとする瞬間こそ、元気の源、大切にしたい。

それは花だけではありません。「あれっ、この人、こんな一面があったのね!」と喜ばせて頂く事が沢山。そうであればその方々がもっと笑顔で、組織の大きな笑顔を生むようなありかたはどんなものだろうと、思案することで幸せが訪れるわけです。これは本当に嬉しいことで、きっと、誰もがお持ちの事と思うのです。それを素直に自らの宝物にするのではなく、公にして頂きたいのです。

人が出会うことが制限されているわけですが、表現が抑えられているわけではありません。こんな時だからこそ、深い言語文化の醸成に向けて歩き出したいなと、図々しく思ったのですが、そんな大それたことを戯言人間が出来るわけは無く、何処かの誰かがやってくれないかなと期待している、私であります。

揺れる世界

敢えて避けていたコロナ禍の話題。40代男性の感染患者が名古屋市から16日に見出されましたな。一昨日の話題なので旬と言うことでは無いのですが、見えないところにいらっしゃるということで、気を付けねばならないのは当然のお話。ずっと感染者が見出されていませんと言ったところで、偶然ということであろう。まだまだ要注意であることは間違いない。油断してはいけませんと言うことだ。

コロナ禍のお話はこの程度にしたいわけだが、世界を見渡すときな臭いお話がいっぱい。あんまり突っ込みたくない隣国の問題もあったりする。大国同士が死者を出す衝突もあり、いい加減なミサイル敷設問題を国会でまともに議論しないこの国って一体何なのだろうと不安に思う。不安に思った時は、自らのやるべきことをプロとして実行するのみですね。ビジネスとしてやるべきことをやるということしかありません。

天災と比較するのは宜しくないのですが、パンデミック状態であって、世界中が同じ苦境に立っているわけです。その個所に甚大な被害があるということではなく、世界中が同様に、命の危険にさらされているわけです。ジャングルを切り開き、対面する筈のなかった生命とご対面する機会がこれからますます増えてくる。京大総長のお話では、極地の氷が猛烈な勢いで溶け、今まで眠っていたウイルス・菌が地球上に広がり始めているとのこと。

グローバルとはそういう事であって、鎖国しようが偏西風に日本の上空にやってくるなとは言えないわけで、経済至上主義は、そろそろ終焉ということではなかろうか。人工光合成とか世界に貢献する研究とその商品化とかね、爆発的に金儲けをする人が出てくるかもしれませんが、日本の国土上では、勝手な願いではありますが、戦争という状況は発生して欲しくないと願っています。それだけはあっちゃあられんのです。そう思います。

自らに厳しく

現状が気に入らないと、環境を否定して自分の思考のみが正しいという心のレールが引かれてしまう。このレールに乗っている人に途中下車して頂くことは極めて困難である。共同研究なんてことになれば、自らの成果を活用しないのは、企業が価値を理解しないからだとなってしまうわけだが、鳥の目で俯瞰すると、自らの存在が極めて小さいものであることに気が付くはずなのだ。今、存在している環境を認めて、そこで自らを最大限活用して頂けるように思考をシフトしなければならない。

難民・移民が自国の仕事を奪うから排除するのだという考えがあるが、同じ能力であれば賃金が安い地域に仕事のほうからそちらに移っていくので、移民の排除など意味を持たない。それがグローバル化と言うことだ。付加価値の高い「自分」であり続けるように、自らのスキルアップを継続していかなければならない。勿論それは、自分自身の努力でなければならず、人が手取り足取りしてくれるものではない。

Web会議が定常的になってきて、実感しているのが「移動時間が無くなった」こと。これはとてつもなく無駄な時間であったことが理解できた。出張・出勤するから何かが出来ないという言い訳はまるで通じない。むしろ、その移動時間の分が新たなWeb会議になっている。議論時間が増えているのだ。Webであってもメールと異なり、思考のぶつかり合いが発生する。これは正に知識の道場であり、知恵の形で身についていく。無意識の価値であって、スキルアップに他ならない。

「何故?」という単語は極めて便利であって、相手にも、そして自らにも問いを発することが出来る。何故自分が正しいと思うか、何故、人は自らを否定するのか。思考のレベルは合っているか?見下すのではない、相手の思考を尊敬するところから物事は始まれば良い。自らの主張は何故正しいか、きちんと因果関係を説明できる証拠があるか。即ち、自分が何故、職場に必要であるかを因果を含めて証明できるかが求められる時代になっているということ。なんと厳しい事か、自らに問い続ける瞬間瞬間の積み重ねである。

思い込まない

一所懸命に働いているから評価するべきだと国のトップが仰る。それは織り込み済みではないのか?勿論、そんな揚げ足を取る議員殿も醜いと言えばその通り。どちらも国民の代表なんだから、もっと紳士になれないものか?呆れてものが言えないという気分になっている。戯言に「呆れた」と言われてしまうほどだから、よっぽど情けない議論だということなのでしょうね。これ以上関わっても無駄なのだが、そんなことを言っても国のトップは一人しか居ないから、何を言うかはきちんと聞いておかないといけない。

きちんと聞いていると、なんだかなぁというのが東京都のトップの方のお話。ちゃんと調べたから数が増えたんですよ、これが真実味のある数字だと強い断定でマスコミを睨む。おいおい、それではちょっと前までの数字は何だったのか?都庁を真っ赤にしたり、あの派手な行為はなんだったのか?夜の店の数字が明らかになったのだから、これからしっかりと気を引き締めることが出来ますってどんな理屈なのだろう。一所懸命にお医者様達は頑張っていただいていたのに、上に立つ人の言葉かな?

人の事は何も言えない。本の少しの場面のTVだったりネットだったっりのニュースであって、肝心なところが切り取られていて、真意が伝わっていないのかもしれないしね。Y学長に運営会議に出て補佐をしろって言われた時に、「ト書き」をがっちり作り込むことに驚いた。臨機応変は許されない。正に国会答弁と一緒である。ただ、教授会は質問は決まっていないから、ト書き通りに行くとは限らない。そこにハラハラドキドキがあるわけだが、きちんと信念を持って、隠すことのない事を政治として行っていれば、臨機応変でも伝わることは伝わると思っている。

最初から聞く耳は無いし、信用していないから何を言っても無駄という方もいらっしゃって、こうなってしまうと、もう手の打ち様は無くなってしまう。ネットで会議を行っていると、言い分のある方は資料を共有してくださる。なる程、それが根底にあったのですねとなってくれば歩み寄りがある。案外、ウエブ会議のほうが双方の考えを根底から比べられて、落ち着くところに行くのかもしれない。妙な拘りを持った方は一旦それを棚にしまって頂いて、根拠基準で議論が出来るウエブベース会議で、全部良いのではないかと最近真剣に思っている。それで良い。

時間を作りたい

ちょっと前までは研究に没頭することを許されていたわけだが、感じていたことは、日に日にその没頭時間が短くなっていくことだ。多くの文献に「大学研究者の雑用と呼ばれる部分が多くなっている」と取り沙汰されて数十年が経過していると感じる。学生の頃から、直接、ご指導を頂いた先生の口から度々漏れていたことを考えると、これは構造的な問題であることは明白だ。これは断ち切らないといけない。

活動範囲がグローバルになって、世界の進歩が高速化しているわけなのだが、人間のシナプスの接続速度が進歩に合わせて高速化したとは聞いたことがない。思考速度が変わっていないのに、入ってくる量とその時間的密度が大きくなっているのだから、むしろ、研究に没頭できる時間は増やさなければならないのだ。しかし、あれもこれもと足し算していった結果が今だとするならば、「時間が無い」と感じていることは自分達が引き起こした現在の宿命ということになる。引き算せねばなるまい。

会議を減らそうというお話はよく出てくるが、会議のための準備の会議があって、事前の資料の準備もあって・・一つの事を決めるのに大量の人が動き回り、知識のキャッチボールの結果で決定が下される。独裁はいけない、それはアイデアが細いからだが、アイデアを太くしながら、関わる人とその時間を減らすことは出来ないのだろうか?地球規模の問題であれば、必要な行為だが、小さな組織でも地球規模の会議を開いて意思決定をし続けることから、何故脱出出来ないのだろうか?

切り捨てる勇気と改革の意欲は、どちらも必要であって、どちらも個々人での日々のワークにおいて考えるべき事柄である。普通にやっていたことが何も生んでいないのであれば、自らのPDCAによって価値を産まないものは取り敢えず切り取る勇気が必要である。後で使うだろうと思って取っておいて、使った試しなど無い。当たり前だが、社会は高速に先に行くのに、過去の思考がそれを凌駕することはほぼ無い。古典と呼ばれる人類の叡智と、たまたまの思いつきの個人の差なのだが、しかしキラリと光る発想もある。それは勇気を持って公開、共有して智慧に発展させていく。集団の無駄を削いでいく方策は、結局は個人の図抜けたひらめきということなのかもしれない。難しい課題だ。

歩調は何故合わないか?

珍しく、いろんな方が「あんた、これを言い切りなさいよ」と追求してくるのだが、小生的には、だからなんだということである。そもそもこれは「たわごと」であって、『ざれごと』などと間違って読み下す方の威張りくさった命令口調の「こう言え、ああ言え」などの命令はどうでも良いのだ。おまえ、気をつけろとご支援を頂くが、あぁ、なるほどねと思うだけだ。バックキャスティングの基準は何か?と真面目に考えたとしても、省エネ程度の意見があふれかえるだけだ。

ゼロ・エミッションが正しい世界なのだが、これがなかなかにして厳しいのだ。小学校の先生が言っていて、今なら理解できるのだが、「摩擦が無いとみんな歩けないのよ」って。その通りなのだが、モノ同士が触れ合ったら、そこには必ず摩擦が発生するのだ。これが面白いのだ。原子の性質がストレートに現れる。これこそ生命を支える一つの機能であって、人間がどうのこうの出来る代物ではない。

勝手に決まっていると言われると、それをいじりたくなるのが人間の性であって、じゃぁ、なんとかしようではないかと考える。考えても、室温の温度領域では、原子はかなりの熱エネルギーの中に晒されているわけで、皆、好き勝手に動こうとする。そうなると平均的な結果しか出てこない。一斉に、電子と原子核が歩調を合わせるならば、凄まじい威力を発揮するのに・・と、常に思っている。本気で思っているから大馬鹿であるのは間違いない。

マイナスとプラスが歩調を併せたら、これは凄いことになるのだ。磁石はその一つの例えかも知れないが、これも相当に適当に並んでいて、くっつくという効果を出すのだ。人間もご同様。ほんの少しだけでも歩み寄ると凄いことになるのは間違いないのだ。そうなのだが、人間らしく、人がこう言うなら、こちらはああ言うというのが性である。なかなかにして前に行かない。手を握り合わない。そんなことを考えていたら週末である。雨である。じっくり考えるとしよう。

言葉の責任は何処に?

目を閉じて、言葉が想起する「絵」を、まぶたの奥に描いて下さい。「コロナの後」というのが現在、私達に求められている世界観の具現化である。うぅぅんと、あれやこれや適当に、それこそいい加減に「こんなところでは無いかしら?」とイメージするのはたやすいが、それを約束しろと言われたら、どうしますか?言いたいことは、そりゃ、無理だがやということ。与党も野党も何も言えない、そりゃぁそうでしょう。貴方の頭の中を政治家に責任を取れというのは、要するに無責任だな。

毎日毎日、新しい、定量的な政府が市場に出す金額が明らかになり、それが、どんな理屈で何処に行くのかは、野党が何を言っても与党は言わない、言わなくても圧倒的多数の与党だから正しいという認識なんでしょう。それは確かに国民の圧倒的多数が認めた政権だから、それに文句を言ってはいけない。と、思っている方々がリーダーになると、今のようになるのだ。なるんだけど、それで正しくないと言うことは出来ない。民主主義だから。

これは散々、言ってきたけど、新しい民主主義が産まれてきても良いのではとは思うのだ。なんだか変だぞと思った議員は、その理屈を勇気を持って社会に明らかにして、別に、党を離脱しなくて良いから、正しいと思ったことを、揚げ足を取られること無しに、社会に堂々と訴えることが出来る、そんな状況を許す国民であると認識されるような、そんな民度になりませんか、そうなると、確かに、民度は高いとなるんでしょうよ。

首相の支持率が40%を超えている。40%とは凄い数字で、単なる批判表を取り除けば、国民の半数、民主主義的に、正しいと推している方々が民意として存在していらっしゃる。だから現状こそ、国民が望んだ姿なのだと納得するのだ。納得していないという人は、民主主義を理解しない人なのだ。国家とはそんなものだ。人の話を聞いて反映しますよということでは何も決められないと知ったような話が聞こえてくるが、それは全く違う。反映できるから、意欲を持って前に進めるのだ。どうなってんですかね?ということを、梅雨の間に、考えますか?

陸地と海

いよいよ梅雨入りですな。以前の職場となったところで、岩見沢からの先輩が「梅雨ってもっとじとじとしているだけかと思ったら、思いっきりの雨じゃないですか!」と驚いていらっしゃったのを、この季節、必ず思い出す。ついでに冬の晴天を見て「関東の青空が憎い」と本気で怒っていた長岡の同級生も冬になると思い出す。昨今の大雨の振りっぷりは凄まじい。10分間で100mmの雨はいかんだろう。一気に洪水、大水害だ。そんな雨が当たり前に振る。備えは十分ですか?

大雨がコロナウイルスを洗い流してくれたとして、水の中で生き延びる彼らだから、川に集まり海に流れ、プランクトンに吸収され魚の餌になって、大型魚に集積されたところで刺し身になって、人間に入ってきたらと思うと、陸地がキレイになったとしてもその先は恐ろしいと、妙な想像をしてしまう。長生きの細菌程恐ろしいものは無いなと思うのだ。彼らは自己増殖をするわけではないが、寄生能力は極めて強い。宿主を換えて自らも変身して、人間に帰ってくるのだろうか?

地球温暖化のネタは言い尽くした?感があるわけだが、北極圏では雪に苔が生えて、それによる太陽光の吸収量が大きくなり、苔ごと海洋に流れ出ているらしい。アイスランドでもそれは顕著で、近い将来の海面上昇は約束されているらしい。恐ろしいことだが、北極圏で水位が上がっても、地球の大きさを考えると、そう簡単には地球全体の水位が上がるわけでは無いという。まぁ、大陸の洪水なんてまさにそうですからね。陸でもそうなら海でもねということなのかもしれない。

陸の栄養が大量に海に流れ込む。魚介類にとっては上等のご馳走なわけだが、ウイルス等、不可解なものも40億年掛けて流れ込んでいるわけで、それに耐性を持ってきた人間なわけだから、魚経由でそんなにおかしなことは起こらないのかもしれない。しれないが、度胸が無いから煮たり焼いたりして食したいものだ。食するものがあるうちは良いのかも知れない。心配のし過ぎであることは間違いなかろうが、今にも雨が振りそうな空を見上げてそう思った。

身近なところから

段々と梅雨入り前のじめっとした暑さがやってきましたな。結構、体力を奪われる。こまめな水分補給を心掛けたいが、それも実現不能になることがしばしば。当たり前と言えばそうだが、健康を気遣いながら職務を遂行できるであろうリモートワークという状況は、現代においてかなり正しい姿だと思う。そのためには「紙」の書類の完全除去が達成されなければならない。紙を何年か保存しないといけないみたいなルールは即座に改廃せねばならぬ。

それこそ全国的に一斉挑戦みたいな流れにならないと、これは実現不可能な雰囲気があるのですが、雰囲気だけで、実際にはやれるはずである。これまたしょっちゅう、プレゼンで言っているのだが、1925年7月17日に九州を除く日本中の鉄道の連結器が、一夜にして一斉に変わった。そりゃぁ、連結器なんだから一斉に変わってくれないと、繋がらない客車だらけでは話にならないですからね。細かいことを言いたいわけではない。やれば出来るのですよ。出来ないのはやらないからである。

面倒ですからね、変えるのって。でも、データベースに乗る形にデータが扱えれば、助成金の学生さん達への配布手続きで、窓口担当の方が倒れるなんてことにはならないのではないのか?様々なところで同様のことが起こっている。仕事を残して欲しいから紙の仕事を無くさないで欲しいなどという考えは間違いである。人がしなければならない仕事は山ほどある。いや、山ほどに大きく険しい仕事を皆でなんとかするという行為だけが残るのだろう。

学び続けなければならない。卒業という単語は無くなってしまうのかも知れない。そんな時代に突入しているのだと実感している。忙しいから学ぶ時間が無いというのであれば、その環境は変わるべきだ。忙しいという字は『心』を『亡くす』と書く。心がお亡くなりになっているようでは、人の為にお仕事が出来ないでしょ。事務のお仕事において紙が無くなった時、猛烈に世界が変わるのでしょう。そんな日を見てみたい。ゼロから始まる。そんなところだ。

共鳴力

宿舎の周りの草刈りをした。単に機械をぐるぐると回して、地上部を刈り取ったというだけのお話だ。米国と違って、くさぼうぼうにしていたからといって罰金を取られることは無いのだが、梅雨前に刈り取っておかないと凄まじいことになるので、今の内にやってしまうのが良いのだ。超硬ビットを活着させた円盤はものの見事に見た目を綺麗サッパリにしてくれて、刃物の価値を感じることが出来た。道具は有り難いと思うのだ。

プレゼンテーションで「腹が減るからマンモスと戦う、素手で戦うと怪我をするから道具を作った」と石器創造に関して、それこそいい加減な想像で語ったわけだが、今でも黒曜石を割った稜を用いれば、木材や肉類は容易に切断できることを、博物館での実験で体験させて頂いている。石器は十分な能力があるわけだが、それを人類は捨てているわけだ。石が無くなったから石器が無くなったわけではないということを言いたいだけだ。

石油はどうだろうか?大雨が降ると直ちに温暖化の話が出てくる昨今だが、石油や天然ガスを使わないというタイミングは、現世人類に創り出せるのだろうか?石器が金属器になり、その次がプラスチックと呼ばれる樹脂製品になってきて、その次はということにもなるのかもしれない。石油は余りにも便利であり、燃焼以外にも数え切れないであろう数の便利用品の源になっている。情報の時代とは言うが、情報では腹は満たない。これが道具の本質なのだと思う。VRではお腹は膨らまないのだ。

動植物の成れの果てが石油ということならば、刈り取った草を何万年も待つこと無くそれを活用できれば良いのだが、今の技術では相当のエネルギーを必要としてしまい、直ぐに代替というわけにはいかない。人口三千万の江戸時代、良いものを大切に使い合い生活をしていた。道具のシェアよりも、恐らく、心のシェアをしていたということだろう。結局は人との共鳴力に勝るものは無いということだろうが、貧富という概念を乗り越えないと、ネクストコロナ時代なんてものはやってこないのだろうなと、しみじみ思った週末でありました。