オープンイノベーション?

なんのためのオープンイノベーションなのかということだが、従前、リクルート活動の意味合いが強かったのは否めない。法人化の後の共同研究は、共同研究という名の下の奨学寄附金と引き換えに学生を獲得するという雰囲気があった。当時、インターンシップなどが多様化していたわけではなく、企業も大学も手探り状態の中、国立大学の法人化の活用方法に気が付いた一部の企業の知恵の勝利といえよう。現場に入って指導具合を見て釣り上げる。外れのない見事な仕組みだ。

自社の強みを知り、ビジョン達成のためのコア技術の発展を目指したオープンイノベーションの姿は美しい。ビジョンが無ければ発展させるべき技術は分からず、自社のコア技術とのマッチングも見いだせない。自社の強みと思っていたものが、実は単にM&Aで買っただけで自社で発展させることが不可能な技術だったりとかね。そんなものは自社のコア技術に成り得ない。M&Aは所詮は砂上の楼閣である。

検査技術を開発したいというたわごとが舞い込んだのだが、出荷前検査の人達が担うのか、機械処理が終了した直後に、その場で観察するのかすら議論せずに投げかけてくる。KGIを設定せずにマイルストンを決めたいという。なんと情けない日本のものづくりの現状であることか。要素技術やコア技術などの話のずっと手前である。オープンイノベーションの意味を取り違えているのではないか。受託開発を請け負えというのなら、それなりの資金との交換が前提である。

技術は知恵から生まれる。知恵は歯の食いしばりと血のにじみから生まれる。それをただでよこせという。これが日本だ。海外ともお付き合いをさせて頂いているが、技術を生み出した人を尊敬し、支払う対価の交渉から入る。ゴールを定めマイルストンをいくつもさだめ、マイルストンごとに価格が提示される。正しいありようだ。横で見ていて羨ましく感じる一方で、朝鮮戦争時の大企業の中小企業からの簒奪が今も続いているのかとさみしくなる。日本とはそういう国だ。政治が堕落するのも無理は無かろう。

決断と行動

学者の世界だと、当該分野でコツコツと頑張ってこられて、地道に自らの世界を切り拓き、それが遂に世界的なジャーナルに掲載され、学会の基調講演者となられるといったような、なんというか、努力によって先達となられましたねという尊敬ストーリーというか、そんなものが見えやすい。見えやすいというか、素直に認められるし、だって、凄いんだもん、この人となるわけだ。そのあたりがTVというかマスコミが紹介する政治のお話では見えにくい。

有名なのは田中角栄氏が議員立法でどんどこ革新的な法律を作り、それをもって国家のあり様を換えていったことだが、その瞬間において、国民の過半数が納得する方向に国が動いたのであれば、それは素晴らしい政治活動であったと評価されるべきである。なんでもかんでもあいつがやったことは悪いのだという短絡思考の旧態依然脳みアンチ他人野郎はほったらかせばよろしい。

大学改革なんてものもおんなじで、本社の圧力で変わらなければならないということでバタバタしてはいかんのだ。海外対応事務を強化しましょうなんて、自助努力で為すべきことを概算要求に持っていこうなどというのは茶がへそで湧いてしまう愚策である。財政を管理して、何に振り分けるべきか、何を切り何を加えるべきかに腐心し、判断して決定したならば、行動あるのみである。結果の是非は未来にしか出てこない。

政治は個人の遊びではない。組織力最大化の為、そして組織を活かして頂ける地域社会の為を思って行わねばならぬ。臆病であってはならない。刺されて倒れても良いではないか。政治の道を選択したのであればその覚悟は出来ているはずだ。綺麗ごとでは無い。また、外野は弱気を利用し病巣を作ってはならない。そんな話ばかりが聞こえてくる。まぁ、眺めているだけに留めますけどね。頑張って頂戴としか言いようがない。

夏の風物詩

曲がり角だからいろんな意見が噴出して、あれが良い、これが良いと、良いことばっかり並びたてられて、過去が全部悪かったの如くに語られるわけだ。そんなことは全く無いのだが、ただ、変わっていこうとしないのは宜しくない。このあたりは日本人の性と言うことなのかもしれない。小生が週末に活用している農協の販売所なのだが、スイカとトウモロコシが出てくる頃は超満員で入れない。これを変わらないことが良くないということと結び付ける気は無いのだが、異様な光景に驚かされる。

スイカは老化や病気の原因となる活性酸素を抑え、がんや動脈硬化の予防が期待できるということが、まぁ、ネット等々で紹介されているのだが、ご老人が群れを成してスイカを買い求めている様は、風物詩としてはどうなのだろう。年齢層が明らかに高いのだが、お願いだから週末では無くて、平日の時間がある時に行って欲しいんだけど、一般ピープルの買い物を阻害するのは如何なものかと思ってしまう。終末だけしかスイカを販売していないということは無いのだから。

この高年齢化の傾向ということか、糖度を高めるということなのか分からないが、大玉のスイカを見かけなくなった。見かけなくなったのは農協の販売所だけなのだが、小玉になって高齢者にも優しいということだ。更に少雨の夏にはもってこいなのかもしれない。水を大量に要求する大玉のスイカの成長を待っているとシーズンがずれてしまう恐れもあろうし、灼熱に晒されて玉が割れるなども生じるらしい。小玉化は必然のことのようだ。

断面が黄色のスイカがはやりらしい。小生は赤いスイカで育っているから、赤い品種以外は興味が無く、どこぞのフルーツバーなどで一切れ賞味するくらいが関山なのだが、ご高齢者はこのあたりは宗旨替えが見事で、黄色い小玉を抱えてレジに群れを成す。ただ、やたらと商品を叩きまわっているのは頂けない。桃を握ってみたりしてね。作物に対する礼儀を失っている。日本の夏の風物詩は、どうも頂けない。そう感じるのは古いのかそうでは無いのか。苦笑いである。

文化

自然界及び人間の活動によって起こる自然界の変化について理解し、意思決定するために、科学的知識を使用し、課題を明確にし、証拠に基づく結論を導き出す能力というものが、大学で身に着けていくことなのだと思っている。自然界の現象には、当然のことなのだが人間の哲学的思考、行動も入ってくるわけで、ギリシャの哲人達が残してくれた書物群なども当然、その中に含まれる。O先生が文系・理系などのカテゴライズなどこの世に存在しないのだと仰ったが、その通りである。

男女平等性が世界の118位という立派なご評価を賜った日本であるが、文系だ理系だと、そもそもがきんちょの頃から分類わけしている国家など、国家の体を為していないのは明々白々。絶対値でどんどこ人口が減っていく最中、男女だの文理だの言っている暇がどこにあるのか。都知事選挙は女子同士の鬩ぎ合いで、流石、首都だなと思うわけだ。

老齢大国ではヘルスケア、医療関連人材が大量に必要になるだろう。ロボットがサイドバイサイドに現れるのだろうか?それにしても国産で無さそうなが恐ろしい。ボストンダイナミクス社の人型ロボットの進化に驚かされるわけだが、何故、人型なのだろうかという疑問はあるものの、高齢者のアシストという点においては、人型が正しいのかもしれないと思うようになってきた。災害での孤独死などのお話を聞くと、人型の友達が、例えロボットでも良いのかもしれない。

そんなことを考えるのに、理系も文型もない。人が人を思い、何がどうあるべきかを考え、学理から産業まで、全ての人がプレーヤーになれるのが良い。しかし、文化人類学を学んだことの無い人間に、友達になってもらおうと思わないし、ロボット製造にかかわって欲しいとも思わない。人だからこそ人に寄り添える思考が生まれる。そんな人になるために、学び続けねばならない。それだけのことだ。

隣の芝は

結局は経験ということなんだけど、経験って生きているだけでは決して積分値にはならない。負の微分値は大きくなっていくんだけど、その傾斜をどれだけ緩やかにするということかな。微分値も積分値も無くそうと思うと、自分が亡くならないといけないわけで、そうなると、そもそも無用なたわごとも言わなくて良くなるから、まぁ、いいかなという気もするのだ。どうも、人の経験値を全部ただどりしようという輩が、いつの時代にも現れるらしい。

らしいとか言っているが、実際に現れるからそう言っているだけで、なんで血の汗流して自分で何とかしないのかなと思うのだ。そもそも、人の経験値なんて奪うことなどできないのにね。羨むよりも自分しか出来ないことに挑めばよいのにと憐れんでしまう。他人の行動に感動している暇があったら、自分で何かすれば良いのにと思うのだが、どうも隣の芝は青いらしい。

年寄りのやることは見事である。何故かと言えば無駄がないから。行動と結果が見事な因果関係を結んでいて、相関関係を完全に排除した活動をしていらっしゃる。松の木の剪定仕事などを拝見すると、それはもう見事というしかない。人づきあいも同じで、無駄を排除するのが良い。昨日、一昨日と付き合いのの排除に成功したわけだが、これからもどんどんと排除していこうと思う。

人に取り入ることが出来ない性分なので、その手の方の気持ちはさっぱり分からないし、分かる気も無い。政治屋さんはそんなものなのだろうけれど、他人が出来ることなど、出来なくて良いのだ。いや、やらなくて良いのだ。その人にやらせておけば良いのだ。内省で自らの価値観を問い質し、為すべきことを為せばよいのだ。ただそれだけなんだけどね。どうも人が出来ることは自分も出来ないと悔しがる人がいるらしい。哀れなもんだ。

博士人材

博士人材を雇用しない我が国だが、雇用する側にもそれなりの言い分があるわけだ。博士取得者はアカデミアを目指していて、ものづくりを好きにならない。簡単に言ってしまうとそう思われているらしい。そうかもしれない。日本の博士取得者が極めて少ない現状を見ると、大学で博士課程においてどっぷりと研究に浸るわけだが、浸っている間に研究しか見えなくなって、社会と隔絶し、研究推しになってしまう。すると社会活動などに興味が向かず、研究オタクに突っ走る。

それはそれで極めて重要なことで、人のことは全く言えないわけなんだけど、それは余りにも博士人材が少ないことに要因もあるのだ。少ないが故に「ひょっとすると定年退職する教授のポストをゲットできるのではないか?」と思い込み、また、指導教員も逃げられたくないものだから「残れる可能性はゼロではない」と、嘘ではないことでたぶらかす。大勢いれば、まぁ、大学に残るチャンスは無いなと最初から諦めるのだ。それでアカデミアに固執してしまう。

海外では企業の研究職はほぼ博士取得者で固められているわけだが、それは現場における発見力、知的財産生産力の高さが圧倒的だからである。企業の一員として社会貢献の場に立っているわけだが、それは企業の開発のレベルの高さにも起因する。ものまねではない、ビジョンを抱き、企業哲学の元、他者と他律機能で共創し、利益をもたらす開発に取り組んでいく。開発の最中に必ず生じる課題を、学理まで掘り下げ、社会的問題が無いことをエビデンスをもって解決する。その力に正当な対価を支払う。

我が国の廉価・短納期という謎の哲学を貫く企業において、博士人材は無駄である。しかしながら、インバウンドしか稼ぎようがない我が国における暗闇を脱するのは、やんちゃな博士人材である。企業は博士人材育成に銭を投じなければならない。社内人材を教育したら離職するという低次元の思考で、どんどんと企業力を落とす愚を続けてはならない。教育は100年の計である。今から始めれば2124年頃には、世界において儲ける企業が我が国にも生まれるかもしれない。そう思う。

あぁ、フンボルト氷河

アンデス山脈って凄くて、熱帯なのだけれど氷河を抱いている。大学入学直後に、ラテンアメリカ史という講義を受けて感銘し、N先生のお部屋に通ったことを忘れたことはない。マチュピチュなどに行ってみたいなと思いながら、まぁ、いかないだろうなと空の財布をひっくりかえしてため息をつくばかり。ということを言いたいのではない。その熱帯氷河を抱く国の一つであるエクアドルのフンボルト氷河が無くなってしまった。溶けちゃったということだ。

氷河の定義って面白くて、氷が沢山あるだけではだめで、氷の自重で流れないと氷河と呼ばないのだそうだ。そりゃそうなのだろうけれど、ちゃんと定義があることを愉快に感じる。愉快と言っていられないのが氷河の消失だ。南米において、最初の氷河消失国になったそうだ。標高5千メートルの地域においても氷河が氷原となってしまったということだ。

アラスカ地域においてもどんどこ溶けていて、それは溶けているだけではなくて、温室効果が炭酸ガスの20倍と言われるメタンがじゃんじゃか出ているという。こうなってくると、電気自動車にして地球温暖化抑止なんて間抜けなことを言っている場合ではないのではないのか?炭酸ガス固定化、メタン固定化技術とか、真面目に取り組んでいかないとグリーンランドが氷原になっちゃって、海面が1mくらい上がっちゃうのではなかろうか。

メタンが出てくるということは、有機物が腐敗したものが地表に出てきたということで、その中にはひょっとすると人類が遭遇したことのない細菌が出ていていたりするかもしれない。連鎖的に環境が変化し続けているのは事実だろう。地球という、人間にとっては大きい塊なんだけど、その塊に影響を及ぼす程の活動をしたというのは凄いことだと感心するものの、本当に、この星、大丈夫かなと懸念し始めたフンボルト氷河の消失事件でありました。

自動車と土木

自動車業界と土木業界。どちらも極めて大きなお金が動くことと、作るモノには基準が設けられそれを満たさないと国がその販売を認めないという点において似たものがあるなと感じる。昨年来、同僚のTさんがC国のオカラ工事について言及し、その都度「まぁ、日本も同じようなことやってんじゃないの?」なんて言っていたのだが、やっぱりというか、まぁねぇというか、三重県のほうでみつかりましたな。トンネル施工に関するインチキだそうだ。

紀伊半島の先端とまでは行かないまでも、交通不便な領域であるがゆえに風光明媚、自然が残され、良いところである。長期の休みとお金がふんだんにあったら行きたいところだが、両方ともないので、まぁ、もう一度行けるか行けないかというところだが、自動車専用道路の整備が進んでいるのは陰ながら応援していて、繋がったら考えなくもないというレベルなんだけど、その道路工事においてインチキが見つかって、何と、トンネル内側をもう一度剥がし直すというから凄まじいインチキである。オカラ工事ここに極まれりということで、C国云々、決して言えない。

建設会社の技術員や現場監督らの倫理観の欠如やミス、加えて県の監督体制に不備があったということで、官民一体となったオカラ工事ぶりは、まさにC国のお株を奪う有り様で、教育に金を掛けない日本の有り様だなと諦めの境地に至る。書類の書き換えなどが行われていたということで、自動車業界における数値の書き換えと同様のことも行われていたとのこと。やり直しによって、本来の完成予定に比べて2年ほど、後ろ倒しになるとのこと。定年後になるから良いかなどと言っている場合でもない。

何というか、上から目線と言うか、小生の周りにもそんな輩が増えてきている。6名までねと約束をしておきながら、金がそっちに入るんだからいいでしょ!と、貧乏人を穴の開いた銭で横っ面叩くようなことを平気でやってくるとかね。ルール破りを自社の都合で更に強化して破ってくるとかへっちゃらである。倫理観の欠如と言うと簡単で、選挙演説でカーチェイスをやらかすような者が政治家を目指すとかね。恐ろしいお話である。

いよいよ

文部科学省曰く、令和4年度国公立大学入学者数が約6万8千人。私立大学は78万人。昨年の出生数が80万人を切ったわけで、18年後にはその人達が大学受験をするとすると、今のままの大学の有り様では、全入と言うか座席数のほうが多くなる勘定である。競争関係というのは強さの源泉であって、全入ではぬるま湯になり、日本全体が死滅するかもしれない。勿論、東大や京大はより倍率が高くなるのだろうが、そうではない大学は決意をもって、今、変革せねばならない。

それは今いる教員を鍛えて、Q1ジャーナル、ネーチャー、サイエンス系をじゃぶじゃぶ出そうなんということでは無い。大学の有り様そのものを変革せねばならぬのだ。名工大なら女子大になるとか、アジア・オセアニア系学生を、企業と共に博士まで育てるとか、そんな勢いを持った変革が必要なのだ。トップは決断するしかない。それを成さねば次の期は無かろう。

企業も体たらくで、今ある仕事が無限に続くみたいな幻想を抱き、一度、入社させたら二度と勉強させない、勉強は無駄だなどと思っている。それは現在の企業トップが学ばなかったからだ。視野も度量も狭い、それが日本企業のトップの有り様だ。例外は勿論あるけどね。ヒアリングに依れば、リカレント・リスキリングは天職のトリガであって、広い世界を見せたくないという呆れた考えが企業トップに蔓延している。

2030年から受験生の減少の傾きが大きくなる。要は全大学に対する入学への倍率が下がっていくということだ。その中で、倍率を上げる大学も出てくるだろう。すると、極端に減る大学も出てくるということだ。デパートが無くなっていく。特色の無い学びの場は無用である。社会が何を求めているか。それを鍛えていくこと。思い切る期限が刻一刻と迫っている。当たり前では駄目だ。それが世界だ。

大掃除経過

久しぶりに大掃除のお話。いつまでやっているのだとおしゃられるかもしれないが、これはもう、永遠に終わらないのではないかと思ってしまうほどなのだが、なんと、漸くだが、全ての棚、引き出しを「一度」ひっかきまわし「何故、これをとっておいたのか」と首をかしげるものを廃棄することが出来た。いわゆるひと段落なのだが、これは下世話な例えで山登りでいうと1合目が見えてきたみたいなものだ。選択していって残ったものを更に選別に入る。

その昔、TVを見ていたら「まず、引き出しの中身を全部ぶちまけましょう。そこから必要なものを選んでいきましょう」ということをやっていて、それを実践しているのだが、戻すものが多すぎるということだ。実際のところ、ボルトだの、ナットだの、工具だのは捨てるに及ばないし、サンドペーパーが箱に入っていたりするものも、捨てる理由を思いつかない。この理由が思いつかないというのが曲者だ。

薬品などは当然、きちんと処理をしないといけないから、それは避けて保管しておくとして、真空ゲージとかね、ガラス管のものなど今、使っている人は居なくて、予備として持っていたものは皆ごみとなっていくわけだ。これなどはとても惜しいわけだが、無念と思いながらも次の仕分けで引っかかるわけだ。単位を落として「卒業できないので助けてください」と迫ってくる者には「来年頑張りな」と冷徹に言い放ってきたわけだが、自分が持っていて、まだ使えるものなどというものを廃棄することにちゅうちょしてしまう。

断捨離の困難さということなんだろうけどね。世の中には見事な断捨離のスペシャリストみたいな人がいらっしゃって、ミニマリストというか、どうやって生きているのだ?と不思議に思ってしまう人をお見掛けするわけだが、そんな方に思い切って捨てて頂きたいと思ってしまう。とりあえず、かなり廃棄は進みましたよという途中経過まで。