耐性菌類

農薬を使っていると、その農薬に耐性を持つ虫や病原菌が生まれてきますと聞かされてきた。具体的な体験談を持たないので、TVなどでお話が出ても「あぁ、そうなのだな」くらいにしか響かない。情けないお話なのだが、事実らしいのだ。農薬は強固になり、耐性を打ち破る新たな薬物が出来、そしてそれに対して人間にとって害を及ぼすとしている細菌等は再び、耐性を持つ。勝ち負けの連鎖ですな。

国立感染症研究所によれば、既存の抗菌薬が効かない耐性大腸菌が増えつつあるのだという。それに感染すると、死亡率は30~70%なのだという。難病指定の病気と同様に、助かる確率の方が低くなる状況と考えると、敵もさるもの引っ掻くものだなぁと、妙に感心するのである。普段は腸の中だけにいらっしゃるらしく、その状態では悪さをしないのだそうだ。体力が落ちて血液に入り込むと、途端に自らの能力を発揮するそうな。

例えが微妙な気もするのだが、聴く耳を持たない諸氏が社会に増えているということに似ているなと感じているところである。何を言っても聴かない。完全無欠の馬耳東風の者が拡大していると実感している。そうかな?というレベルではない。今、語ったこと、ビジュアルに見せたことを、繰り返してごらんと言ってもやらない。出来ないのか?というレベルではない。敢えて拒絶するのだろう。

旧人類耐性人種とでも言うべきか。これと同じことが恐らく、歴史の中では繰り返されてきたのだと思う。そう感じたら後進に道を譲るべきなのだ。そこで耐えるのではない。人種の転換が発生したのだ。歯の食いしばりと血のにじみはもう流行らないのだ。誰かの為に身を粉にする。そう教わってきたのだが、それを求めていない社会において存在意義は無くなったなと、耐性菌拡大の記事を読んでそう思った。

3人寄れば・・

最近、ひょんなことから学術雑誌に投稿を依頼され、ごく限られた時間を積分して形にさせて頂いた。レフリー氏とのやり取りに四苦八苦するのはある意味快感で、自分を客観視させて頂く機会を頂戴したことに感謝するのだが、一方で、公務との両立の困難さを感じたのも事実である。公務か研究かと言われれば、立場において重きを置くべきは公務であって、研究ではない。しかしながら名誉職であった副学長職の時代では無く、両立は小生のような無能者には不可能で、二足のわらじは脱がねばならぬと叩きのめされた気分である。

3人寄れば学会と言っていたのは、学生時代の恩師であるが、要するに、世界初の学説を唱えたとしても、世界で広がる学術的繋がりを考えれば、同時にあと二人は同じ学説に到達するから、その学説がもしも人を引き付けるものであるならば、学会が出来るであろう。だから3人寄れば学会なのだと。誰が一等賞になるかという事ではなく、新奇なアイデアを説得力をもって学術誌に提示し、賛同者を得る行為は学者であれば当然の行為である。それが学術誌の競争力であり、その指標がインパクトファクターである。

進化が極めて速い分野によっては、国際会議論文のインパクトファクターが重要になる場合もある。若い科学者が日夜思考を重ね、それを議論する場はエキサイティングである。そんな時代もあったねと、自らを振り返る寂しさもあるわけだが、大学そのものが無くなってしまう恐怖に打ち勝つためには、懐かしんではいられない。

予告無しでやってくる「明日来い」の本社命令であるから、先取りして思考を進めておかねばならぬ。更には実行事実が無ければならぬ。同時並行で進めなければならない業務が多過ぎて、目こぼしも発生してしまう。それをIT技術でカバーしたいのだが、協力者の賛同が得られないと進まない。強権でどうなるものでもない。全ての構成員が正しく、また、意見が分かれる。学会は3人で出来るが、業務は全構成員の了解という思考で生き抜けるのか?理想はそうだがそれで良いのか?日々悩む私であります。

読解力?

遅ればせながらとなってしまうのだが、国際学力調査なるもの。読解力の育成が足りていないという日本の教育の現状が示されているのだが、読解力が無いのに数学・科学ではトップレベルの成績が獲得できるのは何故なのだろうと、小生は考えてしまう。科学や数学のどのような問題が出されているのか知らないのでこんなことを言っても無駄なのだが、科学とは自然が与えてくれたものを理解し、それを有益なツールとして解釈するものだと思っている。読解力そのものである。

世界79か国から60万人が参加しているということだから、全日本の高校生の成果と言う事ではないらしい。いずれの科目も北京・上海・江蘇・浙江の4地域が一位であり、流石中国だなと感心するところ。次いでシンガポール、エストニアと続く。今回の結果を受けて、文科省は学習指導要領をいじっていくとのこと。それで良いのか?と悩むところだ。

何かの文章を読み、それを解釈し、その根拠を述べるという判定だそうで、自分の意見とその根拠を述べることが求められるということなのだが、それを実現させる教育って、延々と積み重ねられていると思ったのだが、そうでは無いらしい。読解力が育つ教育手法に正解など無いだろう。こんなことを繰り返していると、テストに出された問題にしか脳が反応しなくなるのではないか?極めて恐ろしい。

自らの気持ちを自らの国の言葉でしっかりと表現する。それだけの事ではないのか?プログラミングが入ってくるが、これなども最終的な価値を定めるところから始めるわけだから、正に読解力教育そのものだと思うのだが、技能を伝えることに重きが置かれすぎていないか?ものづくり至上主義が日本経済の没落、いや、最初から繁栄など無かったのかもしれないが、日本の教育って人をどうすることなのという根本から考え直さないといけないのではないのか。国家百年の計である。いつ始めても良いはずだ。成果は100年後にしか出ないのだから。

お金の無い国だから

タイヤを履いた絶対安全を謳うボルボらしい発表だなと感心し、日本はますます遅れていくのだろうなとため息がでる。まぁ、日本だけの責任では無く、米自動車技術会がさだめた自動運転レベルにこだわる日本と、そこから全く逆の視点から目指すところを明示したボルボとの差である。要するに技術オリエンテッドのものづくりか、本来目指すべきものづくりかの違いである。自動車は人間が使う移動手段であって、ユーザーにとって選択した車はどんな安全を使い手にもたらしてくれるかを指標にする。当たり前のことが今まで示されていなかった。

とは言うものの、小生も自動運転レベルという言葉に踊らされていた。ボルボの再定義によれば完全自動運転、運転支援、完全自動運転と運転支援を切り替える状態の3状態を定義した。2020年内に死亡者や重傷者を無くすことを目標に掲げるボルボ社は運転支援強化に取り組み始める。我が国のNEDOでも取り組んではいるのだが、ソフトウエアだけではなく、ハードウエアそのものの処理能力を高め、自動車そのものをコンピュータとするという取り組みは、ボルボ社の発表で加速せざるを得ないだろう。

ハードウエアを徹底的にオーバースペックで作っておいて、処理ソフトウエアは遠隔更新で機能拡張していく。ユーザーは購入した後もソフトがリアルタイムで更新され、機能強化がなされていく。当然のことながら、それらを含めた車両価格になっていくわけだが、そもそも論として、自動車は絶対的に安全な乗り物でなければならず、安価な製品を求めすぎな社会構造そのものを変革することに繋がる。良いものは高価でなければならない。

良品安価を謡うことも、そりゃぁ有難いに決まっている。ただ、我が国の賃金が先進国においては最低状況にあり、それだからこそ物の値段を上げることが出来ず、企業が競争力を失っている状況である。テック系ベンチャーが我が国では発生しにくいという現状もそれと関連しているのは間違いなかろう。安全・安心は当たり前だが、それを実現するには資金が必要である。それをユーザーが応援できるレベルの給与体系にならない限り、人口減とともに日本は滅びるのだろうなと悲観する。

目指せ10倍!

新聞の一面にも出ていたのだが、出生数が2018年において91.8万人だったそうだ。亡くなられた方が136.9万人だそうで、45万人ずつ国民が減っていく勘定である。小生が生まれた時代の出生数が大略160万人でやや少なかった頃、現在、50歳手前の方々のころは210万人だったわけだから、それから比べると、100万人規模で減少したわけだ。

厚生労働省が示す人口動態によると、昭和の終わりから平成の数年間、昭和40年代に比べて大きく減少しているから、そう考えると、出生数が減ってくるのは当たり前なのだろうなと感じた次第。バブルがはじけた後、婚姻数が横ばいで、平成15年くらいからは減少を続けている。人口総数が減ってくるのだから、出生数が減るのは必然であろう。

平成18年頃から自然増減は減の方向で推移し、近年はそれが加速している状況にある。グラフで示されているので、近未来推定が出来るのだが、昭和50年頃からほぼ直線的に減少は続いていて、令和7年頃には年間100万人の減少ラインに到達しそうである。これはとっくの昔に分かっていたわけで、年金問題だの、税収減などを自国民頼みにしてきた政策が、如何に頓珍漢なことであったか、改めて思い知ることとなった。

新聞の出生数が92万人を切りましたという記事をみて、正確な人口増減ってどうなっているのかしらと正確な数値に迫ってみたわけだが、これは余程の覚悟をしないとこの国無くなってしまうのではないのかと本気で思う。一人一人が10倍以上の生産性を獲得できる国民への変貌。厳しい道のりだが挑むしかない。震えてくる。

適正価格

大学との共同研究に掛かる費用を正当に企業は支払うべきだと、3年前に文科省が大学支援を絞っていくことの見返りを企業に求めたわけだ。実際のところ、企業は大学の知識に対して、相当に安く見積もって言いよって来ていたのは事実である。きちんと積算すると間違いなく大学は赤字。だからこそ、正当な対価を企業は研究の直接経費を算定し、その運営に掛かる費用を乗せて下さいと申し上げているところである。

それではこれまでどうなっていたかと言えば、共同研究の運用に掛かる費用は大学が補填していて、その赤字分を交付金から埋めていく措置を取らざるを得ない。とすると、大学業務の一つの柱である、勿論、国が求めている企業の大学活用において、その活用が進めば進むほど、国の歳出が増える方向に行く。

その赤字がどんどん続くとどうなるかと言えば、ソ連の崩壊の如く、負債過多で組織全体が沈没に向かう。だから、そうなる前に、文科省が大学と企業との間できちんとした成果を出すことを前提に、金銭計算をしっかりとやってくれと言ってきたわけだ。法人組織であるわけだから当然の活動をせよと本社が支社に伝達しただけのことだと思っている。

蓋を開けてみると、本社からの伝達後3年が経過した時点で、その取り組みに多くの国立大学法人組織が着手し、あるいは実行し始めている。企業とのお付き合い型から成果主義へと移行しているわけだが、ここで重要なのは、企業のためだけの活動になっては本末転倒で、そこで得られた有用な知識を関わった研究者、学生が身に着け活用できるようになっていなければならない。共同研究が増えたら論文が減ったのではいけない。この辺りのバランスが極めて難しい。容易に解決には向かわない。悩めるところだ。

いよいよ減少

12月もあっという間に一週間が過ぎた。驚くべき速さである。毎日は猛烈に濃いのだが、気が付くと日が暮れて、朝が来ている。何も12月に限ったことでは無い。これが日本の標準であろうと思っている。世界の富が8人の個人にあり、残りを奪い合う地球と言う星における生活は、まぁ、こんなものだろう。苦しいからこその毎日だと、ひたすら自分に言い聞かせている。

立場上、他の事業所(大学とも言うが)の様子を追いかけている毎日なのだが、他人の庭の花は常に赤く、芝は青い。どきっとするニュースに溢れている一年であったわけだ。令和2年度までは平成19年まで急激に減り続けてきて、一息ついている18歳人口減だが、いよいよ令和3年から新たな減少加速を始める。事業所毎の差別化的提案競争が激しくなるのは必至である。

全国の国立大学入学学生数が大略年間で10万人弱なのだが、それに対して、18歳人口が毎年2万人程度減り続けはじめる。それなのに国立大学は要るのかという議論は必ず起こる。企業であれば、ユーザーが減るのだから生産量を減らし、工場を減らすのは当然の方策である。要らないと社会に認知されれば直ちに消滅するのが、今の大学の置かれた立場である。

教育の質を上げ続けなければならない。その為には研究の質の向上は必須なのである。それは破産した国家で担えるものでは無く、社会も一体となってその役割に関わって頂かないと、国家そのものが地球から要らないと言われかねない。ギリギリのところまで引っ張ってしまった、そんな日本の状況であると、社会の皆様にはご理解を賜りたいと、ひたすら努力の私であります。

政治無関心の行きつく先

中京地域の景気を見るには、日経を見たりNHKを見ても全く無駄で、三丁目に出錦するのがよろしい。がらんがらんの年末の夜を見れば、どれだけの景気の状況か直ぐに分かる。リーマンの時から比べればまだましかもしれないが、景気が良いとは決して思えない。次のどのようなリズムで景気が上がるのか分からないが、しばらくかかるのではなかろうか。

そもそも論として、情報ネットワークの高密度化以外に産業をひっぱるものがあるのか?従来産業とは異なる世界のモノづくりは発展を続けていくのであろうが、自動車作り等、ロボットで済むものはロボットが主役となって、人間がアシスタント化していくことが当たり前のような気がする。真に学理を追求する研究者か、3世代後に世界を引っ張る革新技術を生み出す研究者かしか残らないのではないか。三世代と言っても数年後だったりするかもしれないが。

何度も言うが、景気が良いと自らが思ったことは一度もない。それでほのぼの生きているのでなんてことはない。起きて半畳寝て一畳である。ただ、採血されるような病気にはなりたくないだけであって、最低限の健康が保てればそれで良いのだ。それよりも何か人に活用して頂けるようなアイデアを生み出したいと、それは常に思考している。恐らくそれは、魂が抜けだすまで続くのではないか。

ただ、国民が減少し、政治家が国の借金を膨大にして、その利息を国民の税金で埋めていくような政治の国で生きたくはないとは心底思う。政治に無関心で、総選挙をやっても投票率が3割台という悲惨な国家では、ほのぼのと言っても十三階段を登り詰める人生である。桜を見る会だのなんだのあっても、何も変わらない。日本だけでは無い。何か、世界の停滞を感じる。そんな不安を感じているなら自らそれを吹き払うしかない。そう思う。

有料自動運転路線開始

田沢湖より北西の位置に秋田県上小阿仁村がある。愛する秋田県を応援し続けたいわけだが、昨日、日本で初の自動運転車両による定期営業運行が始まった。この日本初というところが素晴らしい。テストを延々と繰り返し、結局やらない都市部より、税金を正しく使うという点において極めて優れた取り組みである。一部の区間では係の方が助手席に座るという事なのだが、取り敢えずの間は安全確保のためやむを得ないであろう。いずれ単独自動化に進んでいただきたい。

住民の皆様も、従来の運転手付きバスをよくぞ諦めた。そのことに敬意を表するのである。運転手の確保が困難で、人件費を考えたら公共交通機関は全廃となるか、自動運転運行を選択するか。2年間の実証実験の後の実行と言うことなのだが、恥ずかしながら実施されていたことを存じ上げませんでした。これから他地域に良い波及があることを望みたいですな。

東北地方は保守的と思ってしまうのだが、縄文時代では先進的取り組みが成されていたわけだし、中央集権的政治に最後まで抵抗した独立独歩の精神が強い地域なのだと思っている。新幹線の接続が遅かったこともあり、様々なサービスが遅れてしまってはいるものの、半導体のメモリ工場が立ち上がっていくなど、先進的かつ基礎的な開発能力の高いエリアである。

北海道も含めて、寒冷な地域ということは、データセンターなど無駄に冷却を必要とする近代産業にとっては得難い環境なのである。これらがどんどん活用されていくのではないか?今まで未開であったが故に、これからの優位性が極めて高いと考える。その地に生まれた自動運転の「有料」の定期運行は実に先進的取り組みである。敬意を表する。

感情の柔軟化

マナー云々あるけれど、年齢と言うか、時代に即したルールがあるのだろうからとやかく言いたくないなぁと思いつつ、同年齢の集まりだと感じないことが世代が異なる人々との集合では感じることがあるなぁと、マナーというか、人前での振る舞いというか、見たくないものを見ることもある。これまた昨日のふとした一言のように、気を付けなければと感じることでもある。やはり人の振り見て我が振り直せというのが基本なのかもしれない。

若者文化を直接感じるのは、正に、講義の現場である。新しいネタを盛り込もうとはするけれど、確実に開く年齢差である。それは埋めようと思って埋められる代物ではない。文字を書くよりも写メで済ます文化の持ち主に、何を言っても無駄なのである。画像化した意識の伝達手段が主要な情報伝達の手法となっていて、まるでエジプトの象形文字世界の生命体の如くである。筆記試験など課すと、読み下すのにロゼッタストーンが必要なのではと唖然とする。

電車内マナーなどは、既にマイナーな人種となっている小生などにとって、何が正しいのかさっぱり分からない。新幹線ですら、しかも指定席車両であってすら、どかどかと人生の大先輩たちが割り込んできていて、小生や、小生よりも相当にお若い社会人の方がじっと待つ。手前の席で弁当を広げて、すみませんと言うと睨まれる。横浜まで待てないのか?と品川から乗って思うのだが、そんなことを想うことも、思う方がマナー違反なんでしょうね。奥の座席を確保するなら始発駅から乗れと。

パワハラ、アカハラ様々あれど、これなども世代障壁がかなり大きいのではなかろうか?当たり前と思うのは自らだけだと納得して、見てみぬふりを残りの人生貫くしか無いのかもしれない。世代がどんどん若返るし、昨日の常識が明日の非常識となり続ける、世界的情報が入り続ける現代である。感情の柔軟性を高めていきたい。心底思うところです。