小野浦海岸から陸に上がったところに「まちの駅」というのがあって、食と健康の館と銘打っている。こちらは過去、2度程行ったことがあって、流下式枝条架塩田が作られている。自然の家の弟子のH君の話によれば、自然の家に宿泊した小学生達に塩づくりの体験をさせるのだそうで、かなり驚くということだ。小生はこの施設をTV番組で拝見し、すぐさま見に行ったと記憶している。

能登半島では今も揚浜式塩田で塩づくりをしているので、天然塩田が国内に無いわけではない。そうなのだが、この流下式枝条架塩田は愛知県下では唯一だし、名古屋から1時間ちょっとで見学できる場所であるから、「学び」という点においては優れた施設だと思う。内海駅から歩いて行ける場所にあり、山歩きの想い出と共にセットで体験は如何であろうか。

ここの塩は購入出来て、実際に使ってみると能登の塩とは違った味がして面白い。どちらがどうということは、個人の好みなので度外視するとしても、元来が、海に居た生命である人類だから、海のミネラルを多く含んだ自然海水の塩を積極的に用いるべきだというのが小生の考えである。小豆を炊いて一つまみの塩でも随分と食味が変わると「意識的」に思っている。

早朝であったので残念ながら塩田の操業は見られなかったが、その「まちの駅」の一角にある体験所の看板に「海のごみも もとをたどれば 街のごみ」とあったのが極めて印象的であった。塩という人間に必須の成分を蓄える場所を、積極的に汚しまくる人間の都合。脱プラスチック。達成しなければならない。

聖書初翻訳

自然の家は小高い丘の上に建ち、「リーダー室」では無いサイドからはオーシャンビューが楽しめる「そうだ」。早朝に砂浜を散歩していた小生を学生達が窓から見ていたというのだから、オーシャンビューを楽しめるのであろう。「リーダー室」からは小汚い野球グラウンドが見えるくらいで、面白くもなんともない景色で嘆息出来る。その自然の家からは5分も歩けば小野浦海岸に出られる。

美浜町は昭和30年代の合併で生まれた町であって、江戸時代は自然の家のあたりは尾張国知多郡小野浦村であった。実は小野浦海岸こそ、小生が名古屋に移ってきて最初に行った海水浴場であり、今回もそこに立ち寄ることが出来て、とても懐かしく、そして嬉しく思ったわけだ。小野浦海岸にて傘を差しながら、鳴海駅で購入したおにぎりを食べたほどだ。で、その昔から「日本初和訳聖書」という看板の文字が気になっていた。

アメリカワシントン州へ漂流した小野浦の千石船「宝順丸」の乗組員、音(乙)吉、久吉、岩吉の3人が、異境を放流中にドイツ人宣教師ギュツラフと協力して日本初の和訳聖書を完成させたという顕彰碑が建てられている。この音吉という方は、鎖国中の出来事であったため、漂流で異国に着いてしまったという事で罪人となり、帰国が許されなかった方である。その遺灰を2005年に173年ぶりに故郷の良参寺に埋葬したということで碑が建てられている。

シンガポール在住の際には、幕府の遣欧使節団である福沢諭吉に会っているそうだが、随分と見下した対応だったらしい。人の上に人を作った諭吉らしい態度だなと思う次第である。今回の旅で聖書初和訳という意味が解り、鎖国の惨劇、身分という人間が勝手に作った愚かな代物に吐き気を覚えた。そうであってはならないと、自らの戒めにしていこうと思った次第である。

野間古道

内海というところにお世話になったわけですが、これが内陸の駅で、ホームから海なんか見えないわけですよ。地図を見ればわかるんだけど、なんかその名前から海際の駅みたいなところを想像していったら、全く違って驚いた。初めていくところは、早めの徒歩散策と決めているので、雨だろうがなんだろうが、車組を尻目に歩く。駅の近くに梅原猛先生が、仙台から昭和初期に移ってこられたお宅が残る。演繹と帰納を見事に使われる哲人を形成した場所が内海であるということに感銘を受ける。ホームの下の狸にはやや驚かされるが、内海はなかなかにして良いところと感じる。

駅から半田南知多線という大通りを素直に進めば600m程度で海なわけで、千鳥ヶ浜海水浴場というところに出られる。そこへのアクセス鉄道としては贅沢とも言えるのかもしれない。しかしそれをやってしまうと面白くもなんともないので、自然の家への最短ルートの山道を選んでいくわけだ。細い路地を進むと廃業している味噌醸造所などに出会える。こんな発見こそ、醍醐味である。ちなみに梅原猛先生のお宅も代々の醸造業であった。最盛期には13件もの味噌・醤油醸造所があったそうな。

少し行ったところに知多牛工房がある。閉まっていて中を覗くことはかなわなかったが、予約をしてから行くところらしい。そこを過ぎるといよいよ登りの杣道となる。これこそ近道の神髄である。駅から10分も歩けば、そんなところに出会えるところが知多半島の良さと言っても良いのではないか?やたらと便利な都会とはまるで違う楽しさがある。

早朝散歩で分かったことだが、野間古道として、野間から内海へ抜ける古道ということなのだそうだ。内海峠までだらだらと登りが続き、切通しなどに出会うことが出来、歴史を感じることが出来る。木が覆いかぶさっているところがあり、利用が多いとは思えないが、それだけに散策路としては一級品と言ってもよいであろう。夏の虫が多い時期には行きたくないが、内海の想い出としては十分な古道であった。

内海にて

鶴舞大学には社会人と一般学生が学ぶ大学院コースがあって、短期集中型で単位を取得するために、合宿形式の講義もある。そのお仕事で知多半島にある愛知県美浜少年自然の家というところにお世話になりました。お世話になったついでと言ってはなんですが、長い事、知多半島に出掛けているにも関わらず、殆ど話題にしたことが無かったので、折角なので、知多半島の内海でのいろんな出会い等々のお話をしてみようかと。

知多半島に出掛けるというよりも、セントレアからどっかに行くという感じで、知多を意識して観光することはあんまりない。知多四国八十八か所巡りの1番札所が近所(という程でも無いけど)にあって、何度かやってみようかなとは思いつつ、立ち寄ったこともない。で、何でかなと勝手に想像すると、車で行くと道路が混むという想い出しかないのだ。背骨の部分に知多半島道路があり、海沿いに海水浴場を結ぶ道路がある。地元の人はいろんな抜け道をご存じなんでしょうけれど、夏も正月もやたらと混む。

今回、自然の家にお世話になるという事で、公共交通機関で行ってみた。内海駅経由で行くわけだが、その内海までがこれまた大変。神宮前から直通で行けるわけだけど、土日だと1時間に3本しかない。各駅・急行・特急が1本ずつ。富貴まではそこそこ快調に特急は進んでくれるわけだけど、富貴から分岐すると単線に化ける。化けると特急なのに待ち合わせ時間調整が入る、まるで秋田新幹線のようだ。

これだともう一度行ってみようかなという気に全くならない。(怒られるか?)自然の家と言いながら、ホームページを見ると「車で行くことが前提」となっている。これではねぇ?内海駅から徒歩35分(小生で)。山道を雨の中、歩くところでは無いな。名鉄がもうちょっと本数があって、快適に走ってくれるともっとお客さんは増えるのだろうになと、ちょこっと残念な名鉄知多線でありましたな。

見果てぬ尾根道

身近にあったら幸せな空間だなというお話を、街中のBBQ場から綴ってみようかなと思ったのですが、存外、存在しないもんだなと、生きていくのも大変だなと思う訳ですよ。ネタ切れ序に身近に無いけど好みの空間のお話でまとめて(まとまら無いな)みようと、やけっぱちの尾根歩きのお話。山登りってピークハンティングに興味が行きがちなんですけれど、まぁ、それはそれで良いんですけどね、ピークハンティングって、上に向かって進むことが目的化されてしまって、自分を見つめる遊び心は生まれない。尾根歩きにはそれがあるのですな。

南アルプス全踏破なんてのは二十歳のヤングなボーイで無いと厳しいので、人生後半戦に入った方でも楽しめる尾根歩きが良いですな。日の出と共に歩き始め、夕暮れ前に降りられるくらいのところがよろしい。延々と森の木々に憩う鳥の鳴き声(さえずりなんて生易しいものではだめだ)に背中を押され、何かから逃げ出したくなるような一瞬も無ければならず、這いつくばって喘ぐ場面も必要で、しかし、断崖絶壁での憩いも必要。即ち、尾根歩きは人生そのものの鏡というわけですな。

巨大なピークを伴わなくても良くて、海外の雑誌には草原とアルプスのロングトレイルなんてのを見かけますが、そんなもの我が国には乗鞍くらいしか無いからとても身近とは言えない。お勧めも出来ない。ジャングルみたいなところならいくつもあって、そんなところを自分で探して挑戦してみて下さいとしか言いようがない。

ちっとも身近では無くなってしまったが、共通項は「ほっとする」一瞬があるということかしら。左右が絶壁の尾根歩きだって、その先に一瞬の安らぐテラスが必ずある。そこに到達していなかったとすると、稜線から外れて魂の輪廻の道に入り込んだということだから、それは考えずに、ひたすら進むところに愉快がある。自らと向き合い思考を極限まで巡らせるには、誰にも会わない尾根歩きが一番である。それを求めて今年の夏は時間を作りたいものだなとは思うのだが、やはり身近に無さ過ぎて厳しいかなと思いつつ、ちょこっとトレーニングに励む私であります。

遥かなる喫茶店

鏡を見ると疲れ切った自分が嫌になるわけですが、メモ帳に向かってあぁだのこうだのと考えるのは、書斎も良いけど喫茶店も優れた空間だと思うのです。人が蠢いているのが良いですな。BGMから魔笛・夜の女王のアリアなどが流れてくると、声の楽器性にのみ込まれ、その瞬間、どこで生きているのか、思考の渦にのみ込まれ、新しい発想が生まれてくる、そんな空間が良い喫茶店の在り方だと思うのです。

食事優先のK店ではなく、それなりの喫茶店が良いわけで、マロンパフェしか無いランプでも無く(誰も知らないって)、山手線のガードの下でも良いのです。馥郁たる香りに包まれ、静寂と音楽を獲得できる空間こそ、自分を見つめることが出来、そして自らを理解するための必須なアイテムが喫茶店なわけですよ。

しかしながらそれを身近に獲得出来るかと言えば、それは極めて困難なわけですな。そうなると、これは自分でコーヒーを淹れるという方向に行ってしまうわけですが、しかしそこにはあるべき不特定多数の人のざわめきが得られない。音楽と香りを獲得できたとしても、大切な人の息吹きが無い。これはとても大切だと思う訳です。例えば、無人の階段教室の教壇に立ってローテーションを語っても面白くもなんともない。

ざわめく息吹きがあるからこそ、自らの言葉の意味を理解できる。思考の結果に感動できる。それが喫茶店である筈だと勝手に決めつけているところが既に間違っているのかもしれませんけれど、コーヒールンバではないけれど、痺れるような香りに悶えながら、考えに考え続ける時間を提供してくれる場所を、いずれ持ってみたいものだと、これはあんまり身近なお話では無かったなと、身近にあって幸せを感じる場って探すのが大変だなって、4日目でネタ切れ感満載ですな。

ラジオ力

最近はYouTubeによって多くの方々が情報を発信できるようになてきて、とても素晴らしい時代になったことだなぁと感じるわけです。大衆目掛けて持論を展開しようと思ったら、その昔はそれこそえらいこっちゃだったわけですよ。文化講演会で招待講演の機会を与えられるためには、それなりの年齢とそれなりの人脈が無いと無理だったわけですよ。それが老若問わず出来るようになってきた。若者の思想も聞けるようになり、これはとても楽しい事だと思うのです。

ただ、ビジュアルを伴ってしまうと、その情報のパワーはもの凄く、そこで展開される言葉の妙に没頭できないわけです。要するに、必死に聞いてメモを取って、後で見返して自分の意見を見出していくという心の会話、心の対話ということにはなりにくいのです。これは小生だけなのかもしれませんが、画像は画像なりの楽しさがあることは勿論なのですが、ラジオの方が自らの気持ちを、流れてくる音声に重ねられる空間を作ってくれる身近な道具ではないのかなと感じているわけです。

今、書斎には昭和30年代の電蓄が現役で動いているのですが、今でもAMラジオ波を捉えることが出来て、がっしりとした木製のフレームに取り付けられた6インチのスピーカーから暖かい音声が伝わってくるのです。所謂、アナログ、モノラルなわけですが、NHKの極めて上質のマイクロフォンで獲得される優秀なアナウンサーの語りは、初対面でも気持ちが通じ合えるというか、これこそラジオ力だなと感じるわけです。

人間力って比喩力だと思うのです。共通言語である「例え」を獲得したからこそホモサピエンスが生き延びたと想像するわけですが、その比喩力強化にはラジオはとても優れたツールだと思うのです。面と向かった会話だと、目の前の人に忖度してしまうわけですが、ラジオだとその必要は無く、自らの思考力を存分に働かせることが出来る。身近な対話空間を作り上げるラジオ文化には無くならないでねと祈るわけですが、はてさてどうなることやら?

音の言葉を聞く

場はあるけれど、ほっとんど行けないコンサートホール。つくば人時代にはそこそこ良いホールが近場にあって、しかも常に空いていて、次に来る時には無くなっているんじゃないのかと心配になるくらい。学生だったこともあり、学割で立派な世界的奏者の方々の音楽を楽しませて頂きましたよ。まぁ、時間があったということだと思うのです。そんな楽しみは時間が取れなくなってくると遠い世界になっていく。それを身近に実現させるのがオーディオ装置ということになるでしょう。

ヘッドフォンというステレオ空間が、一番簡単なオーディオ装置によって実現されるわけですが、これにおいても上等かそうでないかというものがあって、多くの方々はそれを知ることなく、平穏な世界にいらっしゃる。そこそこのコンサートホールでリアルな音楽空間を楽しんだことが無いと、そんなものなのだろうなと納得できるのでしょうけれど、目の前でフラメンコを見たりギターの音色を楽しんだことが一度でもあると、音楽による満足ということがとても遠いところにあることに気づいてしまうわけですな。

こうなってくると、それなりの装置を揃えないと楽しめないわけですよ、音を。これはそこそこ苦行でありまして、それなりの頑張りを見せないとバイオリンの胴鳴りなどは再生出来ないわけですな。もともと板に入っていなかったりするわけです。これなどは録音技師が楽器の美しい音色を楽しんだことが無いからでありまして、そんな板しか知らない人達は、それこそイヤホンで良いのですが、知った人はそうはいかない。

身近にあって作曲家の魂の叫びに触れるためのオーディオなわけですが、そのオーディオ装置となりますと、これはまともな音源とそれを再生する装置と、それを包み込む部屋との相互作用によって作られる空間そのものだと気が付くわけです。屋上のBBQ場との違いはこのあたりにあるわけでして、下手に手を出さずに、良いヘッドフォンを求めるくらいでとどめておくのが良いのかもと、永遠に終わらないオーディオ人生に苦笑いなのであります。

屋上BBQ

身近にあるとなんらか意味があるなというもの、場所について語ってみたい。居酒屋なんてのはその代表格なんですが、そこに意外だなぁというものを一つ加えると、ちょこっと絞られてくる。先日、研究室のBBQを街中でやって、これが妙に盛り上がるわけですよ。山の中の解放感も良いけれど、直ぐ足元にマーケットがあって、足りなければ買いに行ける気軽さ。なんか妙に清潔感があって、そこそこ大人の集まりでこれまた不思議と面白い。

チェーン店っぽくて、近所にあったにも関わらず全くのノーマーク。1500円で焼いた炭から何から何まで準備してくれて、ゴミ処理までして頂いて、手ぶらで行って楽しくわいわいやって(騒ぐと退場)手ぶらで帰る。こんなお気楽な世界が身近にあったとは魂消た次第。広い年齢層が集まっている雰囲気でしたが、小生が最年長かも・・みたいな感じです。

マーケティング的にも考えているなと思いましたよ。アルコールは当然売れるし、生鮮食料品も間違いなく売れる。販売戦略的には持ちつ持たれつというか三方良しというか、うまい具合にお金が流れているなと感じました。炭はオガタンで贅沢言わさずにローコスト。施設もお金を掛けずに参加者が動き回って低人件費。理想的ですな。

BBQって楽しいのだけれど、その場所まで行くのが大変、片付け大変、誰かが飲めないなんて苦行っぽい側面が必ず付いてきたのですけれど、公共交通機関で行けて、低価格。これなら時々やっても良いなと、屋上を見下ろすマンションに苦笑いした一日でありました。

時短に想う

この季節、土日に街中を眺めてみると、運動会なる活動が小学校で成されている。極めて気温が高いからとか、授業の時間が無くなるからという理由で、短縮型の運動会が流行っているそうな。時短運動会という事らしいが、子供の頃の体を動かす経験を少なくしているだけではなかろうかと思うのだ。給食費を払わない家族がグアムで暢気に遊んでくるなんて時代だからこそ、運動会くらい思い切りやったらどうなんでしょうね。

炎天下で動き回ると、体調不良を訴えて、危険だから時短にするというのが筋書きらしいが、炎天下で教える体力が先生の側に無いんではないのかと、小生などは思ってしまうわけだ。応援席の親も「応援なんかしてらんねぇよ」という家族の絆なんてものが希薄になり過ぎている現状を反映しているのかなと、妙な方角から記事を見てしまう。

炎天下で走り回る子供達がえらいこっちゃなのは分かるのだが、帽子をかぶって、休み時間もあって、給水も出来て、なぁんて、砂漠に放り出されているわけでは無いのだから、それくらいは我慢出来る人間になってもらわないと困るという観点は、既に許されない社会なのだろうか。バイトが中心となって、適当にボタンを押していると卒業できる仕掛けなんてのが当たり前になっちゃっているからなぁ。

大学に金を出しても研究成果が出ないから潰すとか、博士課程に進学する学生が増えないのは大学のせいだみたいなことばかりが記事になるけれど、そこで学ぶ人間の耐える力が落ち切っているんじゃないのかという言い分は採用されないんでしょうね。ターミネーターの如くに執念深く、エイリアンの様に無限の活力を持つ。そんな人間を育てるなんてのは流行らないんでしょうね。何も生まれないわけだわなぁ。