放談

今でもやっているのかどうか知らないけれど、その大昔、時事放談という、元衆議院議員を務められた細川隆元さんを論客に、ただひたすら現在の政界の有り様を小馬鹿にする、分かりやすい番組があったのですよ。歯に衣着せないとはあの事を言うんだろうなぁと、今でも時々思い出す。あれくらい好き勝手言えれば痛快だろうと思うのですな。

それを目指していると言う訳では無いのだが、本来、戯言ってそんなことで25年位前に始めたのだけれど、今、そんな暴言ばっかり吐いているとろくなことは無いので、ブレーキの連続ですけどね。いきなりホッピーみたいなことを言い出す裏には、ぎゃぁすか叫んでみたいことがあるんだろうなぁくらいに眺めているのがよろしい。

狭視野三昧の政治批判をしても仕方がないということもあるが、いちいち腹を立てていたら、なんだか嫌になってくる有様ですからな。マスコミも含めて未来が全く見えない我が国の有様に、がっかりしても仕方がないので、関係のないお話をつらつらとつづるわけだ。小放談といったところかしら。

放談では済まされないだろうけれど、昨今、路上等での殺人事件が頻発していますな。その昔の米国かとびっくりする有様。電車がスピードを出し過ぎてひっくり返るあたりから、日本も理性のコントロールが効かなくなっているのかなと思ったりもする。TVの向こうに納得するほどの大放談をする方がいらっしゃるほうが良い時代ということなのかもしれない。言われた側もどんとこいみたいなね。そんなものかもしれないな。

ホッピー

深刻なネタばっかり語っていると肩がこる。こってはつまらないから、いい加減なネタが良い。それが本来、戯言であったのだからということで、急に思いついて、下世話なネタを。下世話と言えば赤ちょうちんであろう。やっぱりそうでなければならない。ということでN先生が苦手なホッピーのお話。

何もそれしか飲みませんというお話ではありません。石渡秀さんという方が、生み出した清涼飲料ですな。ホッピーそのものはアルコール飲料では無いのですな。瓶のマークが桜であることをご存知の方は、余程の酔っぱらいでありまして、ビールは高いけど似たような味で安く酔いたいという、地方大学生の救世主。今でこそホッピービバレッジというおしゃれ?な名称の会社の飲料ですが、コクカ飲料という、国花という単語を知っていないと想像も出来ない社名であったわけですな。

これは小生には全く関係の無い事ではありますが、プリン体が無い飲み物なんですよ。甲類という、これまた貧乏学生の友で割って飲むものなんですな。ホッピーだけで飲むというのはしないわけで、まぁ、そんな奴はいないか?いずれにせよ、お酒なのに健康に良い!(幻想)だから小生は、見かけると好んで飲んでいるわけですな。

アルコール的にはビールより強いので、同席の皆さんがビールでじみじみの時に、同一速度で酔っ払えて調子が良いというのが愛飲の理由だったりするけれどね。この様子で付き合っちゃうと、N先生みたいに「二度と呑まない」みたいになっちゃうので、それは気を付けた方がいいかも。ということで、これからの季節、飲んだことが無い方は試してみてねとは決して言わないので、勝手にやって頂戴という、戯言の真骨頂らしいお話でしたな。

公共交通とは?

想い出話はつまらないが、札幌からちょっと(?)行ったところに医療系大学があって、そこまで電車で行けるんですよ。本数がじゃんじゃかあるわけではないので、ちゃんと調べて行かないと、ホームで待ちぼうけになるのは、まぁ、良くあることですな。随分と立派な校舎郡がこつ然と現れ驚かされるわけですよ。砂漠の真ん中のラスベガス程では無いにせよ(かなり大袈裟)、立派なものですよ。

この「電車が走っている」というところが重要なのでありまして、ディーゼル区間だといつ無くなるのか定かでない。医療系大学までは電化がされていて、なんだか随分とJRは忖度するんだなと思ったのだが、そこから先の無電化区間が来年、廃線になるとのこと。小生はノスタルジーに浸ることは無いので、乗りに行こうなどとは全く思わないのですが、それを活用していらっしゃるかたはお困りだろうと思ったりはした。

思ったりはしたのだが、廃線予定区間の一日の乗降客が平均57名で、収入1500万円に対して負債が3億1400万円と聞くと、そりゃぁ、たった今、廃線にするべきだろうと決断できますな。やむを得ないというレベルではない。1931年に開業されている歴史は十分にあると思うのだが、北海道という冬に厳しい土地柄のせいか、活用する者の移住が少なかったのでしょう。自動車の発達が一番、大きいとは思いますが。

公共交通機関がどんどん減っていく。人が減るから当然だと考えるのか、まばらに分散している住居を集約して、公共交通機関活用でCO2削減を目指す国づくりをしようと考えるのか。既にターニングポイントは超えてしまっている感のある日本ではあるが、様々な事例を考えていくうえで、本当にそれで良いのかと、狭視野政治でこのまま突き進んで良いのか、不安を抱きますな。

国土は美しくあれ

両陛下が愛知県で開催される植樹祭にご出席なされましたな。なんと有難い事で御座いまして、戦後、荒廃した国土復興を目指して昭和陛下が始められた行事が今年で70回を迎えるという節目の年でもありますな。1950年から数えて70回ということだから、70歳の方でも戦後の生まれと聞くと、長く平和が続く国だなと、改めて有難く感じるのであります。

今年も既に6月を迎えて、あっという間感覚満載なわけですよ。ときめきが少ないと過ぎる時間を短く感じるという事らしいのですが、ときめいている暇など無いというのが本当のところでありまして、週末などは落ち着いて読書も出来ないなんて状況になっていることはとてもよろしくない。よろしくないけれど、どうしようもないのでありますな。この調子だと、明後日あたりに正月が来るくらいの速度で過ぎていくかもしれない。

頭をひねって昨日と違う発想で日々を迎えたいと願っても、時は過去の因習で迫りくるわけで、自分勝手に何か事を起こせるわけでもない。過去のルールを守れと言うことなんでしょうけれど、それって面白いのかなと、日々、疑問に思うんですけどね。イノベーションを起こせ!みたいなことを言うけれど、やっていることは過去のいい加減な部分を大切に守り切ろうとする保守本流。

複雑に絡み合ったルールの中で、何か一つを変えるって大変ですけどね。でも、それに挑戦しないと何にも変わらないわけですよ。変わることが良いと言っているのではない。これは間違ってはいけない。変えなくて良いものに溢れる社会が良いということで、なんだか苦役ばっかりの状況は変わって良いのですよ。緑溢れる国土、良いでは無いですか。これなどは延々と続いて頂きたい良い活動であるはずです。荒れきった竹林などは整備して、美しい国土と世界の人に感動して頂けるような国になったらどれだけ良いか。 願ってやみませんな。

新しい物の有り様

名古屋の残念は、車を拝み、道路を自動車様に譲ってしまったことだろう。路面電車が闊歩して、元気な諸先輩方が胸を張って移動しまくれる街だったらどんなに素晴らしいだろうか。バスに乗っていても、路肩の違法駐車に乗り降りを妨げられ泣き寝入りだ。

いすゞ自動車と日野自動車が、ドイツ企業が独占状態であった連結バス製造にチャレンジされたニュースは久し振りに笑顔にしてくれた。何も日本で初登場というわけではないのだ。1985年のつくば科学万博にて輸入された連接バスが走っていたのだ。一人の運転手殿が100人を超える人を安全に輸送する。その路面電車にも似た大きさは偉大であった。

日本では11ヵ所で海外製の連列バスが活動しているらしいが、大きな話題にはなっていないように感じる。人がもっと出歩いて、出会って笑顔で話をする国になって欲しいと思う小生的にはとても嬉しいニュースであるのだ。鉄路だけではない、何か、偶然の出会いが増えそうで良いではないか。

運転は難しいだろうし、走行できる道路環境も難しかろう。しかし、CO2を無尽蔵に生み出す面積を減らす手段として優れていると感じる。燃料電池やEVでは無いのは残念な選択だが、国内技術を結集させて、地球により優しい移動手段に進化して頂きたい。そう願うものが出てきたことを喝采したい。願う自由は奪われないだろう。そう信じたい私であります。

若者に自由の無い国

人が動いて、人と会う。これこそまさにあるべき姿と考えている。大学の講義などはネットの録画配信で良いということがまことしやかに伝わるわけだが、まぁ、一理ある。もしもその程度の人が教壇に立っているのであればという条件が入るわけですけどね。

学問の自由って素晴らしいと思うのですよ。自ら信じる宗教を学ぶということも同様で、政治的に取り締まられていない我が国は、これはやっぱり自由な国だなと、有難いと思うのですな。行動に反社会的な事を誘発するような学問や宗教は縛られて良いとは思うのだが、学び知識として身に着けるところまでは如何なる縛りもあってはいかんだろうと思う訳です。

行動に移すかどうかは倫理感であるから、これはこれで国家とした教育が為されねばならない。海外からネット電話で詐欺をするとかね。テクノロジーの誤った使い方であり、人の心という最も弱いところに付け込んでいくその浅ましさは強烈に国家から排除せねばならぬ。しかし、農産物が盗まれるとか、そんな汗を冒涜するニュースが後を絶たないのはどういうことか。

今、研究者の立場になろうとすると、企業ではほぼ海外に限られるし、国内の大学では職を得たとしても5年任期に縛られていたり、諸々の出来事に阻まれて図書館に籠ることも許されない現状だから、博士課程に進学しようなどとは思えない。働く自由が無い世界という事だ。だから新しい事など生まれない。当たり前の国に自らしている。それが日本だ。

自由とは?

自由って何なんだろうと思えば、それは他の人を労働によって喜ばせたいと願い続けることが出来るという自由なんだろうなと考える。好き勝手に車を動かして、通学児童に突っ込んで行く我儘が許されるという自由ではない。と、思っているのは小生だけなのかもしれないが、個人や組織がやりたい放題ということが自由の象徴であってはあるまい。

基礎点が足りないから受けたい大学を受験できないとか、そんなことが学問の自由を妨げているとか、そんなことばかりをマスコミはえらそげに書き立てるが、基礎点を獲得する自由が与えられていたにも関わらず、努力をしないで機会を獲得したいという勝手と自由をすり替えて、頑張った者の汗を無視する嫌らしい世界だ。

汗は尊い。日夜努力して、その自由を獲得した者の、なんと清々しいことか。我儘をしたいから寄付をしろという者の、なんと嫌らしいことか。歯の食い縛りと血の滲みによってのみ自由は獲得できるのである。重要なことは「そこに自由がある」ということだ。学ぶことも働くことも、謂れもなく駄目だと突きつけられれば、そこには絶望しか残らないだろう。

耳が聞こえなくなっても歯を食いしばって作曲を続けたベートーヴェンを想う時、自らの置かれた境遇が、余りにも自由であることに恥じ入るばかりである。聴覚を失った者にですら、作曲という創造の自由が与えられているのだ。それを獲得し続けたのだ。もっと努力をせねば、もっと走らねばと情けなくなる。国会議員は言論で裁かれてはならない自由が与えられているという勝手な言動を許す国家であって欲しくない。

マスコミの有り様は?

上皇様ご夫妻がコンサートに出掛けたというTVニュースを拝見した。そっとしておいて差し上げれば良いのにと、御公務から離れられてもそっとしておかないこの国の有様に、やはりがっかりするわけですよ。芸能人では無いのだ。有名税など支払う必要は無い方々であって、むしろしっかりいらっしゃるけれども、心の中というお姿であって頂きたいなと願う訳です。画面で拝謁させて頂きたいわけではない。

もっと騒ぎ立てるニュースはあるだろう。マスコミだからこそ出来るパワーがあるだろう。天下国家の為に命を削った角栄さんを追い回して追い落として命を奪ったあの時の勢いは何処に行ったのだ。逆らえば圧力が飛んでくることに恐怖し、政権という謎の権力にゴマをすり、臭いものを隠し続けるこの国の有り様はどんな状況だ。

昨今、勘違いの官僚上がりの政治家君が、憲法違反の暴言を吐いたけれども、追及の手、極めて緩く、自国の美を護る言論が全く聞かれない。ペンは剣よりも強かったんぢゃ無いのか?政治家が社会の人事にまで口を出す。金にちょっかいを出す。そんな時に出て来てその有様を暴いていくのがペンによる浄化というものでは無かったのか?

小さい組織では「言えない」ことは「言わない」ことが崩壊を食い止める防波堤ということもある。なんでもかんでもあからさまということでは政治にならない。しかし、天下国家の事である。しかも憲法違反の発言をした者を、国会も追及せず、マスコミが糾弾しないとするならば、最早、国家では無かろう。知恵のある若者が逃げ出していくのは当然の流れだなと、まぁ、そんな時代なんだなと、化石時代人のため息ですな

美しき国に向かって

泰平の眠りを覚ます上喜撰たった四杯で夜も眠れずとうたわれて150年が過ぎ、大西洋のクジラを皆殺しにしたメカニズムに組み込まれ、独立できない国に居るんだなぁと、そこまでするか?という程の歓待ぶりを、江戸の日本人達が見たらどう思うんだろうなとちょこっと考えた。

当時の有識者の方々は西洋が如何に強大で戦闘能力が如何程のものかは理解していたわけで、TVドラマに描かれるような閉ざされた国の山猿軍団とは全く異なる状況だったからこそ、たった四杯であったとしても時間稼ぎくらいしか出来なかったわけですな。まぁ、これなどは結局は国を閉ざしていたからということにも原因があったとも思えますけど、文字認識率の極めて高い国家であり、自ら学ぶということが農村の末端にまで広がっていた文化レベルだったことは忘れてはならないのでありますよ。

アジアに出掛けて自国民から詐欺で金を奪うとか、当たり前の如くに禁止薬物を用いるとか、車が児童の列に突っ込むとか、観光バスが渋滞に突撃していくとか、この国、一体、何やってんだと、職業柄、頭を抱えるしか無いわけですよ。頭を抱えて何もしないのかと言われても、まぁ、考えて実践はするわけですけれど、効果は100年経たないと出てこない仕掛けですからね。

出張に出掛けて、並んで待っていると、行く手を阻んで暴力的に乗り込んでいくのは、人生の諸先輩方だ。頭が痛くなる。まぁ、画面を見つめてゾンビ状態の連中よりは活力はあるなとは思っても良いのかもしれないけれど、決して美しい姿では無いですな。こんなことは教わってこなかったのに、教えた方々が美しき日本を破壊してく様は、この国の有り様の全てかもしれない。これではいかん。いかんものはいかん。そう思う。

確率

存在確率で事象の確からしさを表現する量子力学ですが、量子コンピュータの出現が云々とTV等では叫んでいらっしゃいますな。学生の頃、講義でO先生が語る量子力学に最前列でワクワクしながらも「なんのこっちゃ?」と頭を悩ませたのは事実ですな。電子スピン共鳴法にてある場所の電子の存在確率を計算する羽目になったころに「ほほう、すげぇ役に立つな」と初歩の量子力学を現実に当てはめることが出来て感激したのは30年以上も前だ。もうそんなに経ってしまった自分に驚いてしまう。

別に量子コンピュータはすげぇと今更語りたいわけでは全くありません。存在確率という、この「確率」という点に注目したいのです。フィリピン海プレートが何センチ動いたから東南海地震が発生しますとは誰も言えない。30年以内に80%の確率で震度7以上が東海地域にやってきますよということは言える。しかしそれは発生するわけでは無い。あくまでも確率なのだ。

数字を見せられるとパニック障害が心に発生し、ネガティブ思考回路だけがシナプスを支配するのが人間で、そうなっても大丈夫と、どんと構えていられる人物はそうそう居ない。居ないのだが「確率だろ」と割り切ることは出来る。人口統計は我が国においては100%当たる。今、0歳の方々が20年後に全員が生存している場合には何人になると、これは当たる。だから備えることが出来る。問題は備える方向性だ。

人が居なくなるから教育組織はそれに合わせて削減するべしとするか、一人当たりの労働生産性を上げる為に、むしろ、教育の質を徹底的に高めるための戦術を立てるべしとするか、その方向性が重要なのだ。これもまた確率である。質を上げても世界の潮流に追いつけなければ無駄な努力だし、だから止めとけと叫ぶ重鎮の方々が沢山いらっしゃる。でも手をこまねくのは嫌いである。両足で立って両手で花束を抱えて彼女の気を惹いた700万年前から、知恵と工夫でものづくりをしてきたのだ。その為には教育という活動は必須であり有効であると信じている。そこから逃げ出すことはしない。そう考える。