人為的自然現象

70歳まで企業は雇用する努力をせよと言う。稼ぐ能力がほゞ無い大学などにおいてはどうやって給与を生み出すのかと、そればっかりが頭の中をぐるぐる回る。鶴舞大学においては組織一体となり大車輪の働きをして頂いていて感謝の念しか無い状況だが、それを通り過ぎた時、一気に悲惨のドミノが倒れ始めると恐れている。

その最中、金融機関や経産省の方々が、本社以上のものづくりベンチャー企業への期待を押し付けてきている。投資をしたいから良好なベンチャー企業を紹介しろとか、中小企業の第2創業を実現する魔法の呪文を教えろとか、そんなもんがあったら誰も苦労はしないのだ。そんな状況が我が国の現状なのだなと思うと、握り拳に更に力を込めざるを得ない。

某「あきお」さんが終身雇用は困難であると仰った。中京圏にもその波がいよいよ来たかと、雇用形態のグローバル化の波が浸透したなと実感するのだ。明日からもう来なくて良いと言われたらどうするべぇかと本気で思う今日この頃だが、まぁ、どうしようもないですな。教育の質を向上せよと言う人よりも、学生が減ったんだから事業所は閉鎖するのが当然だと競争原理を振りかざす人の方が多いわけですからね。

それで良いわけは無いと思うわけですよ。益々もってこの辺境の東の地は、今から本格的にやってくる社会変革という自然現象を一体となって渡り切っていかないといけないわけです。脱アフリカから相当の時間を掛けて作り上げた縄文と言う1万年の平和国家を、殺戮と封建国家に変えた神武さんは、これもまたヨーロッパから始まった社会変革の波を受けた形の象徴だったわけで、次の海を渡った新規自然現象が東の端まで来ましたよということだ。それだけのことだと受け止めねばならない。

集中力

気候変動も地殻変動も他人事では無いのだが、これまたちょこっと自分事の他人事?大学授業の100分化がじわじわと広がりを見せているとかやってみると分かるのだが、90分間教壇を行ったり来たりして、板書と拭き取りを繰り返すのってかなりの重労働だ。授業の前準備にも相当に時間が掛かるわけで、単に一回当たり10分増えるというだけだろうと言うのは、座って聞く側の論理だろう。

そもそも人間の集中力の限界って15分と言われているわけだ。トレーニング次第ではかなり伸びるかもしれないが、今の90分とて単に座って聞いているだけでは、とてもでは無いが集中しきれる時間では無いと感じている。キャッチボールをしながら話をしているわけだが、キャッチボールの相手は断続的集中領域に入り込むことが出来ると思うが、その他の皆さんは単に聞いているだけだ。階段教室の頂上付近の者などは、最初から黒板などは意識の彼方だ。

100分にすると文科省的な定めから逆算すると、15回の講義日数を14回に削減できる。そうなると、特に月曜日の講義などは祝日で潰れて、夏休みの集中講義対応みたいになることを避けられるのだそうだ。それは講義をする側からすると有難いが、される側からすると夕方遅くまで講義が食い込み遠方から来ている学生は、危険な夜道を歩かなければならない負の効果も大きくなる。社会人コースなどにおいては昼間の講義の後から開始が基本になってしまっているので、カリキュラムが組めない状況になるやもしれない。

教員の力量次第というところなのだが、自己研鑽しろと言っても、いっぱいいっぱいというのが現状だと感じる。8時間15分だけしか勤務してはいけない、自己研鑽時間は通勤時間に含まないとか、教育職ってなんなのだろうと思うわけだ。学生の意欲向上のために創意工夫をし、土日・夜間を潰してまで尽くしても労働じゃないよと跳ね返す。これが日本だ。

今年もゲリラ豪雨

自然との共生ということでは、つい先日、小生が愛してやまない奥三河の明神山の麓にある宇連ダムが枯渇寸前という報道が成された。ダム毎に貯水量はきちんと公表されていて、過去との比較も出来るようになっている。これなどはGNSSのデータ隠蔽とはえらく違って、良い方向性だなと感じるわけです。水と言う公共財への考え方がしっかりしているというか、やらないと死んでしまうというか、まぁ、正しいと思うのです。

先週、鶴舞地区で突発的な豪雨があったのですが、N氏の報告によれば名古屋駅周辺は同時刻は乾いていたとのこと。豪雨の境界線が極めて明瞭な、都市的ゲリラ豪雨という、ここ数年の自然災害が今年もやってくるのだなという予兆になっていますな。

そう思っていたら屋久島の記録的豪雨だ。既に梅雨前線はしっかりと形成され、沖縄地方は既に梅雨入りだ。移動性高気圧がやけに気合が入った状態で、冬の間においても水温が下がらない太平洋エリアの水分が、屋久島めがけて突撃した結果である。人為的作用の積分が、地球環境に影響を及ぼし始めた結果であろう。

温暖化の議論は否定派も地球規模でいらっしゃるので温暖化と結びつけるのは短絡的思考ではあるが、なんか気候が変だよなと感じる。5月ってもっと爽やかな日があったと思うのだが、連休前から半袖シャツで過ごせる状況である。東北地方はまだ四季があると感じるが、名古屋においては冬と夏しかないのではと感じる。この夏のゲリラ豪雨。平成12年9月11日の時間雨量97㎜の時は凄かった。あの頃からおかしかったのかもしれない。備えねばなるまい。

浅知恵

初めて出掛ける場所があると、学生時代においては「何とか気合で」近づいて、就職してからは事前に地図で調べられるだけ調べ頭に入れて、今ではGPSと住所任せで、お気楽極楽になったもんだと実感する。山においてもコンパスと地形図だけが頼りであったが、今ではガーミン君が相当に威力を発揮する。発揮はするが、保険で地形図とコンパスはザックの底に潜んでいる。電子機器への絶対的信頼などは、たぶん、小生は死んでも無いだろうね。関わってきたからね。

それはさておき、久し振りに箱根の火口周辺地域に噴火警戒レベルの情報が伝えられた。東京圏エリアの一大観光スポットだから、警戒レベルの変化は大々的に報道されますな。測位衛星を利用した全世界測位システムGNSSの観測によれば、3月くらいから顕著な変化が観測出来ていたそうな。10連休中前の発表は避けたいというのが地元の意向だったのでしょうけれど、かなり信頼できるGNSSの誤差範囲を超えた計測結果を観光収入と天秤に掛けたということ。

気持ちはわからないでもないけれど、もしも噴火が発生していて、後になって「実は知っていました」というのは相当にまずかろう。温泉や風景はそもそも地球の活動がもたらしたものなのだから、人間の都合でどうにもなるものではない。どうにかしてはいかんのだ。いかんものはいかんのです。

名古屋に来てから箱根観光などしたことは無くて、やっぱり関東の観光地だよなぁと、NHKのニュースを見ていて思った次第。中部地域では御嶽山が同様の状況にあるわけだが、南アルプスから御嶽山に掛けては、常に隆起を続けていて火山活動と地殻変動との相関が見いだせていないらしいのだが、それなどはAIで相関関係を既に見つけていると思うので、世間に公表して頂きたいと切に願う。自然への畏怖の念。忘れては生きてはいけない。改めてそう認識した。

お金は何処に行ったの?

自分の国で製造し使われたプラスチックの廃棄物を、他国に処理をしてもらっていたとか、マイクロプラスチックの問題がどうだとか、道徳や倫理の全く無い話が延々と語られる。プラスチックの便利さが人々に目を覆わせてしまうということなのだろうけれども、人類は何処まで愚かなんだろうなと、温暖化どころの騒ぎでは無いなと感じている。

マリアナ海溝の底に住んでいるエビをどうやって採取して調べたのかの方に興味があったりするのだが、消化管内からプラスチック繊維が見つかったのだそうだ。水深千メートルより深い部分に1千万トンを超えるプラスチックのゴミを貯蔵しているそうで、そんな話を聞いてしまうと、魚は食べられないなと思ってしまうのだ。

原発をやめてプラスチックを使わないとなると、開発しなければならない技術が沢山出てくるだろう。世界規模での思考のリノベーションが求められる。きっかけは何であれ、全大学の研究者は知恵を絞るべき問題であるのは間違いなかろう。

ちょっと見渡すと使われていないプラスチック製品がなんと多い事か。そもそもパソコンなどはプラスチックの塊みたいなものだ。便利な道具ではあるが、確実にゴミになる。新規開発という美しい言葉の裏に命を奪うゴミの発生がある。お金と命を天秤に掛けて、お金が重く下がる時代。もう逆転させる時であろう。そう思う。

自動車のご乱心

ここのところというか、しばしば発生する自動車の暴走。これなどは工業製品が人の命を大量に破壊する顕著な例であって、銃の乱射並みの犯罪である。いや、殺傷を目的としていない工業製品なのに、命の輪廻を断ち切る仕業が許される稀有な商品だなと思うのだ。

便利な道具である。いや、道具だから便利なのは当たり前なのだが、その持っているエネルギーの凄まじさが誤って解放された時の悲惨さは表現しきれるものではない。それが当たり前の出来事のように日々報道されるのだ。研究不正などはあの手この手で「取り締まれ!再発防止をせよ!」と釜茹で地獄を大学につきつけるのだが、人の列に自動車を突っ込ませても製造責任は問われない。

運転する人が悪いということになるのだが、自動車そのものが人に危害を加えることが出来る仕掛けの研究に、それこそ国や企業がお金を投じるべきだろう。儲けが2兆円を超えたと威張るの裏側には、尊い命が殺傷されているということがあるのだ。ボルボ社などは年限を確約して進めている。日本では何故出来ないのか、やろうともしないのか。

儲け不正と叫ばれるべきだが、残念ながら我が国は自動車産業だけで成り立っているように思い込んでいる。既にサービス産業の儲けが対投資効果では製造業よりも遥かに大きくなっている。人を殺す工業を産業としてはならない。そこに我が国が世界のリーダーとなる道があるとは思うのだ。

研究不正

研究不正の話題が、一週間、何処からも聞こえてこないなんてことが無い世の中になってしまった。政治の不正などは大きな力と、特に日本人の忘れやすさで消えてしまうが、研究不正はめいっぱい叩かれる。それは正しいと思っている。いや、叩かれなければならないのだ。

不正だそうでないかというところの根幹が倫理と言うことになるわけだ。勘違いは不正ではない。思い込んで思い詰めて、ふっとそれっぽい結果が出てしまうと、焦って「正体」と勘違いすることはある。そこで立ち止まって3回やってみて、同じ結果が出てきたら、それは結果であろう。ただ、今、研究者にはそこまで時間が無い。それがまずい。

社会に研究者にじっくりと研究をさせる余裕が無い。自己評価のための書類と常に格闘し、競争的資金の評価者に怯え、任期と戦い求められる成果をニンジンにして、自ら馬車馬になっていく。

丁寧に準備をし、じっくりと考える。ゲームでは無いのだ。誰かが創った道ではない。自然が長い歴史を掛けて生み出してくれた自然のほんの一端を見せて頂く崇高な活動だ。「だから何?」と社会に言われてもほっとけば良い。それが真実ならそれで良い。それを守るのが大学だし、国家はその精神に対して、札束で頬を叩くことをしてはいかんのだ。

研究の原点

和を以て貴しとなす。国際社会に晒された先祖が、それに処する為に生み出した約束事である。これ程美しい思想は無いだろうなと思うのだ。しかしながら、今、組織というものがお互いを潰し合い、強制された生存競争を走らされているなと感じる。

週の頭から多摩川を超えてお江戸に入ると、その目のギラギラ感と疲弊の色に驚かされる。名古屋駅に戻って降り立つと、衝突しないで歩ける状況に感動する。笑顔に出会い安堵する。これで良いのだと実感する。良い街ですよ、名古屋。

騙すより騙されてしまえという、なんか、独特の空気感を感じるのだ。食糧で仕事が出来、工業で自治が出来る。大きな河川が山からの栄養を大地に蓄え、肥沃な土壌の恵みを工業にまで活かしている。こんな土地はそうそう無い。長良川河口堰などのエゴの産物などで大地を汚す愚をやらかしたりもするが、命を繋いで行ける土壌であることは間違いなかろう。

今も、街角にお社を祀り、頭を下げる。小生とて同様である。そこに先祖の活動があり、共同体の中心を大切にする心がある。競争とは無縁の象徴である。その象徴を心に抱いて自分で考えて活動する。研究の原点もそこにあると思っている。だからこそ道徳や倫理というルールを守るべきである。しかし命のバトンと共にそれらを伝えていない世の中だと感じる。まずい気がする。

命のバトンを受け渡す土台

その場で懸命に過ごす。道徳とか倫理とか、それは実は当たり前のものであって、自然と受け継いできている事実であると思っている。空気のようなものであって、人の経験を尊重し自らの活動も信じ、そこから議論が生まれる。その土台と言うか空間と言うか、その場にあるものこそ道徳や倫理と言うことであろう。

人として如何にあるべきかということだ。地球の上にあってそれを思い、そして実行しなければならない難しい時代である。しかしながら親が居て、その前にもそれぞれの親があり、命のリレーが行われてきて、たまたま、バトンが今、自分にあるだけだ。それを次世代に繋いでいくものだ。AIのシンギュラリティなどは関係のないことだ。

突然、湧いて出てきたわけではない。先祖がどんな期待を込めてくれているのか定かでは無いが、一つの命を大切にしないといけないのだ。数十億年の繋がりである。やはりそこには道徳や倫理があるのだと思っている。この10年で自動車による物理的移動速度がどれだけ速くなったか?なっていない現状であるのに、その産業こそが絶対だと信じ込むことは道徳とか倫理などに、運命共同体としての生命から見たら反すると思う。

自分の活動だけが正しいと、我儘を貫く方がいらっしゃる一方で、人が居て自分が居る、同じ命を共有していると自然に対する畏怖の念を持つ方もいらっしゃる。先の大戦で伝統的思考が抹殺されてはいるが、今一度、この島国を見つめ直して、背伸びをせずに日本の伝統ってなんだろうかと考えながら今日を生きては如何だろう。そんな毎日を過ごしたい。

見えるものに向き合う人

縄文の遺跡においても環濠があり、侵略に備えていたことが伺われる。住むという場所は生きる拠り所であり、身を守ってくれる唯一の城という事になる。人間は協力して外敵に向き合っている時以外は隣人と仲良くなっていないということなのだろうか。寂しい限りである。目に見える同一種族を敵と認知して殺傷していく。何と恐ろしい本性であることか。

300年間続いた江戸時代の終焉だって、無血開城の後に、やっぱり流血が無いと気が収まらないという薩長同盟の方々が、白旗を上げる人達を攻め滅ぼし、国から智慧を消し去っていった。それが日本の国の在り方だったのではと、国を巡って実感する。見えない心の内を、エゴという形で見える化して、それに反旗を上げる人達を見えなくするという行為をするということが人間の本性だとすると、人間を辞めたくなる。

一方で、人が生み出す見事なまでの芸術や、丁寧に作られた家具や器など、身の回りのものを丁寧に作り込む所作に出会うと、人間であって良かったとも実感するのだ。これなどは見えるものを心という見えないものに見せる形にしているのだろうと、人の力の凄さを体感するのだ。

見えなくてもある、あるけれども見えない、見えるものを見えるようにする。これこそ人の思考の有り様なのではと思う。見えるものをしらんぷりするとか、見えないふりをするとか、そんなずるさではなく、智慧を深める個人主義こそ、コンパクトではあるが経済的に自立していく日本の在り方ではないか。新しい、本当に素晴らしい智慧にきちんとした対価が与えられる。そんな社会に向けて動き出さねば消えていくのだろうなと、やはり丁寧にこつこつしかないなと納得している私であります。