春認定の日

桜が咲くとどっかに出掛けてみたいと思うのだが、昨今はそんな日程を組むことが出来ず、精々、駅から鶴舞大学までの道すがらを旅だと思い込むので精一杯である。それでもそれは間違いなくリフレッシュになっていて、様々な発見をもたらしてくれる。

コブシの木がネコヤナギのお化けみたいなつぼみを付ける頃から、春の勢いが増してくる。まんさくの頃はまだ寒いが、コブシが白や薄紫の花弁を広げる頃には、コートのボタンが外れてくる頃だ。6時半には明るくなりかけて、公園のラジオ体操の人影が目視できるようになってくる。毎年の事ながら、大先輩方の活気には元気を頂ける。

気が付くと公園の樹々に新芽が吹き、フレッシュグリーンが揺れる様を見て、気持ちが晴れやかになる頃、薄桃色の桜の花芽が膨らみ始める。その頃になると、もう、気分は花見なのだが、最近の若い方々は花見の文化が無いので、研究室で鶴舞公園などという粋な行事はとんとご無沙汰だ。まぁ、これも時代である。

桜の一輪が帰ってきてくれた途端に、心は一気に春である。一年間になんの区切りも見いだせない職制に追い立てられてしまってはいるが、何が区切りかと言えば、正月よりも桜の一輪との対話である。それを見出すための春先の街中の徘徊は、実に有意義でアドレナリンどっぱぁである。まぁ、満開だけど、一人の花見もよろしかろう。そんなところだ。

自分本位の時代

歯を食いしばらない。それが現代の美学なのかもしれない。真似をしようとは決して思わないが、どうもそう見えてしまう。卒業に向けて花向けの言葉をなんて言われても、時代が違いすぎますからね。あれは大略、10歳程度の年齢差の先輩から送るのがよろしい。

なんとなくなのだが、誰かに認められたいから頑張るとか、他人の目があるから自分を出せない環境に育ってきた気がする。本当にやりたいことすら見えなくなって、他人の言葉が人生の舵になってしまっている。それを乗り越えて自分が進むべき方向はこっちだぁ!と絶叫出来た時、自分そのものの思考を信じることが出来るようになるんでしょうね。

ただ、社会に出てみるとピラミッド構造が思いっきり強固にあって、図面屋さんの誕生など、その最たるもののような気がする。そこで思考するべきは、やはりバックキャスティングなのだと思う。他人を超えるなんてしょぼい目標は捨てきって、今の自分より煌めこう、理想はこんな自分だと信じるところから、今成すことを実行するべきだ。

人間という種族は、最初のアダムとイブはどんな状況にあったのかはさっぱりわからないけれど、見返りを求めて活動するよりもあなたのための貢献とお互いに想いあった社会に生きてきたのではなかろうか。与えられたゲームや脳髄に手を突っ込んでくる人間に憧れるのではなく、与えられた命を懸命に生きるところからスタートするべきだろう。う~ん、どんなにあがいても誰にも伝わりそうにない。まぁ、人生はそんなもんかもね。

他律主義

桜の季節が温暖化のお陰でどんどん早くなっていて、年度内で立派なお花見が出来るようになった。なったのだかなってしまったのだか、まぁ、人間が作った桜が人間の仕業で、人間が勝手に決めた暦の上で早く咲いているだけであって、喜ぶことも嘆くことも馬鹿馬鹿しい。愛でればよろしい。それだけのことだ。

母の手のぬくもりとやらを思い出させるのは桜であって、そう女々しいことを言うならば、卒業式よりは入学式の満開が好ましい。なんだかんだ言っても、やっぱり入学式の初々しい若者の笑顔と桜は良く似合う。冬に耐え、そして眩い輝きを見せる桜は、何と人生と重なることか。

卒業という「業を終える」ということなのだが、終えたからこそ次があると考えると、尊い言葉に思えてくる。一所懸命に頑張って、その結果、その頑張ったご褒美に証書を頂ける。努力証書に恥じるべき者も多いのだが、まぁ、小生もその部類だが、業を終えた価値を自ら見出さねばならぬ。それが卒業なのだと思う。

感傷的に成りがちで、花向けの言葉を小馬鹿にしそうだが、いやいや、先人の言葉は重いものだ。まぁ、他人を軽んじて自分だけが努力していて、それを認めない奴はゴミみたいな風潮があるが、全く持って大間違いである。真の努力は首を垂れさせる。そうならないのであれば努力をしていない。それだけのことだ。

生活様式を転換できるか?

例によって理想論を並べてみたのだが、理想から入らないと話は始まらない。会議の紙の資料などはそれこそゴミの始まりであって、デスクの上のスペース破壊者そのものである。緻密に並べられた文字列を精緻に読み取るには余りにも多すぎる情報量であり、既にそれはゴミである。勿論、この「戯言」は偉大なるゴミであることは承知の上なのだが、まぁ、お許しくださいというところだ。少なくともペン立ての中で数年間も働いていないノベルティボールペンよりはましな存在だと己惚れている。

シェアして使うことがオフィスなどではゴミ削減の一歩だと認識している。定規などは各自の目の前にある方が作業効率が高くなるからそのほうが良い。一方、滅多に使わないというようなものは「のり」などは共有で良いと勝手に思っていて、迷惑を省みずその都度「貸してください」とお願いしている。そんなところから一つ一つ減らしていくことが重要である。その意識を持つことが大切である。

核家族化によって一人一人が独自の活動を家と呼ばれる空間をシェアしている人同士が「パック」された食材を独自に活用している社会においては、過去に中に何かが入っていた「パック」のゴミの削減はかなり困難な気がする。そしてそれらの一定量が巷に投げ出され、そしてマイクロプラスチックになっていく。ゴミ製造のゼロ化が最早無理なのであれば、少なくとも街にゴミが溢れている現状は無くならないのか?

学会誌などは電子化の方向で検討されているが、ビニール袋に入って送られてくる紙という資源のなんと多い事か。折角の電子化社会ではあるものの、まだまだ画面でじっくり書類に目を通すという文化が浸透しきっていない。恐らく小生の年齢よりも上の方々の責任であろう。やはり人の頭の中の問題ということになるのだろう。生活様式を転換させる。いずれ廃棄するものを作らない。それを実現するものづくりこそエンジニアが思考し続けるべきである。それに注力したい。

取り残される日本

週末にマーケットに出掛けるわけだが、野菜などは極力「裸売り」している店を選んで購入している。新鮮かどうか一目でわかるし、何しろ不要なゴミを出さなくて良い。昭和40年代前半にあっては、籐の買い物かごなどは何処の家庭にもあって、店頭には卵が山と積まれて1個買いをしたもんだ。それがあっという間に現状の様にビニールパック、プラスチックパックに化けていった。

街のパンやさんでは焼きたてのパンを紙袋に入れて売っていたし、豆腐屋などにはボールを持って行ったものだ。住民が商店と一体化してお互い、少しずつ努力して無意識にゴミを無くしていたのだろう。ゴミ収集も年を追うごとに増えていったような気がする。そして夢の島がパンクして燃やして地球温暖化に貢献するようになってきたわけだ。

フランスではスーパーにおいて食品の廃棄が法律で禁止されているわけだが、我が国では家畜の飼料にするから問題ないと、無駄に作って本来の目的外に大量に使うことにご執心だ。惣菜を作るには多くの調味料も必要になっているわけで、それらはかなりの割合で海外からの輸入に頼っている現状を考えると、日本の食卓は本当に大丈夫かとどんどん不安が募るばかりだ。例によって調子良く話がずれてきているが、ゴミを無くすには一体どうすれば良いのでしょうねというところに無理やりもっていかないといけない。

パッケージを不要にするなんてことは出来ないことと思っている。思っているのだが本当にそうなのだろうか?PCなどを購入すると段ボールや本体よりも高価なんじゃないのというゴージャスな箱が廃棄物となって出現するわけだが、こんなものが本当に必要か?何か、間違っていないだろうか。良いものを大切にすり減ってどうしようもないところまで大切に使い切る。そんな良いものがパッケージレスで買い手に届くということは出来ないのだろうか。輸送効率を考えるとそれは理想論であることは分かる。分るが何とかゴミを減らしたい。何よりも共有している地球を汚して平気な心を無くしたい。

文明開化はゴミ創りか?

先日、今年の幸福度の世界比較がマスコミを賑わせて、既に忘れ去られているわけだが、世界で58位だそうだ。幸福かどうかなどというのは一人一人の感じ方であろうから、国全体が幸福かどうかなどはほっといて頂戴と言いたいのだが、マスコミ的には面白いお話なのでしょう。健康寿命の項目では2位だったのだが、人生の選択の自由度が64位、寛容さが92位と言う事で総合成績として58位だ。ゴミの量なんてのがあったらどうなったんでしょうかね?

じゃんじゃん作って燃やすのだから、廃棄物発電施設の利用率はとても高くて、65%を平均で超えているとのこと。日本中の地面すらゴミにし続ける太陽電池は15%、風力ですら25%(24時間に対して)であるから、再生可能エネルギーに比べれば施設効率は良いということなんでしょうね。しかしながらゴミを作って燃やすという、なんだか、発電のためにゴミを創造しているのかと嫌になる。

コストという観点で言うと、廃棄物発電のコストは大略17円/kWh以下で、火力の30円/kWhに比べれば随分と安いが、天然ガス発電の14円/kWhに比べると高くつく。ゴミ発電には、焼却灰の処理コストも加わるから、単純に施設活用だけのコストでは済まないが、これは石炭火力では同様のことだ。ゴミを捨てて燃やすのだからゼロ円だろうなんて考えてはいけない。

マイボトル、買い物袋の活用等、ゴミを削減する努力は可能であって、それは積極的に成されるべきなのだが、駅のコンビニで「それから」と「サラダしたらば」を買うのにマイバッグを使ったことが無い小生に何も言う資格は無いけれど、突き詰めていくとそういう事なんでしょうね。ヨーロッパでは買い物袋は紙になっているし、土にかえるものを活用するようになっている。江戸時代まではそれが出来ていたのに、文明開化という謎の掛け声でゴミ大国になった我が国は、チーム地球に組み入れられる資格がある国か?と首をかしげてしまう。

焼却は正しいのか?

「想い出はいつかゴミになる」というのはある人物の名言だが、物理的に視覚に捉えられるものをゴミと考えるのが良かろう。ペン立てや引き出しには、所謂ノベルティと呼ばれる類のゴミが林立、おしくらまんじゅう状態になっている。袋から出してもいない立派なゴミが存在している。ペンならば使う気になれば使えるのだが、恐らく、生きている間に全てのインクを使い切ることは絶対に無いと断言できる。これはゴミだ。

筆記用具をゴミと呼ぶとは何事だということなのだが、正直、使わないものは空間を塞いでいるゴミ以外の何物では無いだろう。利用されないものが空間を占めている場合、それは在庫かゴミである。ゴミは捨ててしまえば良いというのは間違った考えであって、元来、捨てる物はあってはならないだろう。それが石油から生じたプラスチックならなおさらだ。生物資源と言うべき石油への侮辱と捉えるべきだ。

ボールペン、CD、電卓、おもちゃなどは名古屋市においては可燃ごみである。可燃というからには燃やして炭酸ガスにしてしまうということだ。リサイクルするのかとおもいきや、燃やして無くしてしまう暴挙に出るのだ。この暴挙を「何となく」市民に納得させているのが廃棄物発電である。東京都などでは随分と前から進めていて、埋め立て地が無くなったからには燃やしてしまえということで、環状八号線を用賀ICから北上すると巨大な煙突が見えてくるが、それが代表格である。燃やして発電、熱は温水プール等で活用というハイブリッド型だ。ちなみに我が国初の廃棄物発電施設は大阪に建設されたもので、1965年に開始されている。

臨海地域の再開発を可能にしたのは、このゴミ焼却型発電機の登場によると言っても過言では無かろう。兎に角、片っ端から燃やして燃焼温度を上げていく。不要なものを燃やすのだから優れたシステムという解釈なのだが、そもそも不要なものを作るってどうだろう。大事に使っていた道具がすり減って、やむを得ずという事では無いのだ。人間の勝手な都合で資源を消費して、あまつさえ燃やして消滅させる。人類は己惚れた生き物である。

ゴミ箱の街

週末に車に乗って何気なく中央分離帯を見ると、必ずと言ってよいくらいに草むらにペットボトルや缶が投げ入れられている。道端のたばこの吸い殻なども含めて極めて汚い日本の道路事情である。その他、都市河川などを眺めてみると、ゴミまみれの状況に辟易する。これらがそのまま海に流れ、マイクロプラスチック問題へと発展しているのだなと理解できる。

理解して、だからどうだということも無いのだが、こんなことは決してあってはならないと思う。極力というか、ゴミは持ち帰り責任をもって地域の定めに従って処理をするのが当然なのだが、それがほぼ無視されているような気がしてならない。いや、きっと、たまに見かけるものだから、そしてそれが目立つものだから全国民がゴミのポイ捨てを公共の場所でやっているのではと勘ぐってしまう。まぁ、そんなことは無かろう。

ゴミの分別という点において、名古屋市はかなり良くやっているとは思うのだけれども、それが極めて難しくて、ホームページを見て確認することになる。かなり丁寧に指示されているので、「このゴミの種別が分からない」ということにはならないと思う。恐らく、数々の問い合わせに対応してきた努力の結果なのだと思う。

まぁ、それはそれとして、そもそも論としてゴミを出さない、作らないということが最も重要なのだと考える。ちょこっと調べてみたのですが、年間4千5百万トン以上の一般廃棄物が出ているそうだ。これが多いのか少ないのかぴんと来ないのだが、かなりの量であることは間違いなかろう。その80%程度が焼却処理されているそうだ。今もデスクの周りには捨てれば良いのにと思われるものが、勿体ないからという理由で鎮座している。今週はゴミだらけの人生にスポットを当ててみたい。

国憂

ディープテックに限らないのだが、B2BからB2Vの橋渡し役を鶴舞大学は担わせて頂きたい。その為には具体的な事例を一所懸命に積み上げ、社会の皆様に味見をして頂くよう奮励努力せねばならぬ。日々、居住地を移動するアドレスホッパーよろしく、少なくとも4年間、いや、飛び級を使えば3年でも良かろう、1年生の歳に起業して3年間でV2Bで新規事業に取り組み卒業していく、新しいアドレスホッパーの形も面白かろう。

ここで社会に訴えたいことは、大学がそれら教育や橋渡しをさせて頂くには、それなりの管理費用が発生するのだ。これを社会はゼロ円と考えるから話がばかばかしくなるのだ。技術が完成したらゼロ円で寄越せと言う破廉恥であさましいことがへっちゃらに繰り返されるのだ。米国企業には60%もの管理経費を支払っているにも関わらず、国内大学に対してはゼロ円で済まそうとする。上前をはねられると平気で言う。

確かに、最終製品にコミットしないやり方では、その社のGDP向上という社会貢献に繋がらないのだから、上前泥棒のそしりは免れぬ。だからこそ、一歩一歩、信用を獲得させて頂くべく、活動していくしかないのである。それは真摯に意識に刻まねばならぬ。

金属3Dプリンタにおいて、1000ショット位であれば性能を落とさない金型も出来る時代になってきた。いや、世界ではもっと優れた機械も出始めていると聞いている。そんなものが地域にあって、企業様と大学発『元気な』ベンチャーとのコラボレーションに挑戦資金を出して頂き、それが一つのピースとなり、そのピースの連鎖で新規事業が成り立つようなビジョンメークを成し遂げたい。それが鶴舞大学の一つの使命であると感じる。実学とは本来がそのようなものでは無かったのか?そんな使命に邁進致しますと強く社会に発信させて頂きたいと、アドレスホッパーの存在に触発された私であります。

ハゲタカの国

翻って身の回りを見てみると、型にはまった社会活動ばかりが目立つ。起業においても「出来るからやる」、「受け入れられるからやる」という企業者が多いと思う。無茶言うなと言われてしまうかもしれないが、ディープテック系の企業が殆どないのが日本の構造的なところだと思う。我が国では浜松地域におけるものづくりベンチャー支援が進んだ取り組みだと思う。

実際に、全くの新規のものづくりはえらいこっちゃである。先人に足を引っ張られ、風評を立てられ、それでも一歩一歩進んでいくと、なんだかそれが当たり前に思えて来て、社会とお付き合いするのが面倒になってくる。それがこの国の実情では無いだろうか。テストしてやるから100個、無償で持ってこいとか、「もっともっとサービス(無料で)」というのがこの国の大企業のあり方だろう。だから日本にディープテックは育たない。

となると、アントレプレナーシップ教育の為には、それと対等な連携をして頂ける企業群が必要だ。うっかり、ちょっとベテランの者に協力を仰ぐと、途端にそいつがでかい面をして、若者の価値を横取りし、チームを崩壊させる。そんな相談役などご免こうむるのだが、そんな人種の何と多い事。相談役を引き受けますよなんて看板を上げている人と若者を触れさせてはならない。本物のディープテックならば、必ず本物のアンテナに引っかかるのだ。そんなもんだ。

最近「あんたがその昔しゃべっていて、最近、世に出た事について無料で教えろ、それを自社の商売で無償で使ってやるから」と虫の良すぎる言葉を吐きかけてきた方がいらっしゃるが、丁重にお断り申し上げた。それこそ1円も出さず、完成したからやっぱりゼロ円でよこせと言う、これが大企業病でなくてなんなのだ。アドレスホッパーの勇気に賞賛を惜しまないのは、こんな体験を日々しているからだ。