共通一次テストとその昔は言った。遠い遠い昔である。1000点万点、社会2科目理科2科目が必須で、その他は定例の科目だ。監督中に試験問題を拝見したりするのだが、基礎的でわかりやすい問題で、大学での基本的学習能力を判断するには十分と感じた。
要はそこなのである。 入学試験は大学でやっていけるかどうかを判断させて頂くものである。ただ、定員というものがあるわけで、努力の積み重ねを評価させて頂くものである。ただそこが難しい。
合格がゴールになっているわけで、将来、誰かを笑顔にしたいということが努力目標になっていない・・人が多いと感じる。 大学受験の経験が無いわけではない。遠い遠い物語になってしまっているだけだ。こんな世界で頑張ろうという夢はあった。全く違うことをやっているが、夢は間違いなくあった。あったのだが高校生が判断する学部学科が、その夢に繋がるかなど分かるものか。
だからでかいことは言わない。言えない。言えることは「共通テスト」であるということだ。不公平は無いのだ。努力判定だから、その結果、序列が着く。社会に出れば公平な序列に出会う方が珍しい。何があっても時間だけは待たない、待ってはくれない。これも平等だ。頑張るしかない。人生、それだけだ。
1700万年
豊川は中央構造線の内帯と外帯とを分ける中央構造線を刻んでいる。正確にはその近くを流れているということなのだが、当初は破砕している外帯を刻んでいたのだろうが、度重なる地殻変動で現状になったのだろう。豊川を挟んで聳える本宮山は大陸から別れた地層で、吉祥山は太平洋の沈殿物の付加体である。1700万年前には津具のあたりまで海だったし、1500万年前にはその中流域には巨大な火山が活発に活動し、後に巨大なカルデラ噴火を起こし、その跡が風雨で削られ今の奥三河から豊川周辺の地形を作った。
国府というところがあり、三河國国分寺があったところだ。聖武天皇の時代には三河の中心地だったということだ。そこに何故人口集積地が存在したのかというところに面白さを感じる。縄文海進の時代、豊川の中流域あまで海であり、人口集積地は設楽のあたりであった。河口には土砂が堆積し、海が後退すると肥沃な土地が現れ、河口の淡水が得られる山際の平坦地に移住するのは日本各地に見られる。恐らく三河國国分寺辺りはそんな移住者のたまり場だったのであろう。
山に登らなくなって数年が経過したが、三河の土壌を考えるのはとても楽しい。実際のところ、豊川を遡っていくと実に風光明媚である。愛知県の宝だと心底思っている。出かけないのは勿体ないのではと、時間が許せばふらっと飯田線の旅を楽しみたいものだ。今では新幹線の車窓から数秒間眺めるだけの山々だが、火山の名残の温泉も沢山あって実に愉快である。
JRでも名鉄でも行けるのだが、名鉄の特急でぶっ飛んでいくのが好みである。そりゃぁ新幹線で豊橋まで一気が楽だが、本数が少ないのが問題である。車窓の風景も悪くない。旧東海道沿いの松並木なども垣間見え、趣のある旅である。小生の場合は勿論お仕事での移動なのだが、1500万年の歴史を想いながらの車窓は格別である。
周回遅れ
今上天皇陛下とお会いさせて頂いたのは、既に30年を超える年月の向こうだ。当たり前だ。今もそうだが若々しく、前向きで、いかなる瞬間においても妃殿下をお気遣い、圧倒的に目指すべき姿をお示し頂いた。
将来、何をやりたいなどと、そんな質問があり得るはずはないのだが、昨日の続きであるが、陛下はなんと仰られるのであらせられれるのか。日本人に生まれると、怪我をして十分にそれを癒すことも許されず引退させられる。厳しい国だ。
同じようぬ生まれるのだが、いつの間にかベクトルが定まり、あっちに行けと無意識に命令される。される側も嫌では無くてそちらに無意識に進んでいく。しかし、そちらの門番が、来る資格が無いと騒ぎ立てる。世界を見ているか?
圧倒的に進んでいる世界なのに、威張るのはティラノザウルスだ。なんと恐ろしい事か。そりゃあ、皆、やる気など無くなるに決まっている。まぁ、面白い。学問を捨てて威張るだけの方々。愉快である。
明日を考えない人
偶然ではあるのだが、新入生に尋ねる機会を得た。将来、何をやりたいのだ?それに対して何も考えていない、何も考えずに入学したと。これが極めて一般的な状況なのだろう。偏差値的に、距離的に入れるところに入る。凄い実力だと思うのだが、今こそ力を発揮するべきであって、入学試験で燃え尽きてはいけないのだ。
そんな若者達に「何を作ったら良いのかわからない」状況の企業群は一体どんな魅力を投げかけるのか。何をしたいわけではない。雇う側が何をさせたら良いのかわからない。グローバルな目を持っていない人々の末路を見るようだ。
自動化、省力化は何のためかと言えば、目の前的には人件費カットである。それは当然の流れである。将来の不安に満ちた我が国において、ワークシェアで給与は半分で良いですと言い切れる人がどれだけいるか。自動化の究極には機械精度で同一の品質を作り込めるという流れはあるが、人手が入った方が良いものが出来るのだと信じるのであれrば、それを受け入れる国を見出さねばならない。iPhoneはすべからくロボット作だ。
スマホは文句を言わない。そんな文句を誰も言わない世界を望むのか。ひょっとするとそうなのかもしれない。試験など出す奴が悪くて、能力を高めることなど興味なくて、スマホの進化が全てをカバーしてくれる時代になるのだろうか。実はそんな風に思ってはいる。しかし、それを活かす人間教育が出来ていないと感じている。それも踏まえて「何をやったら良いのかわからない」と言う発言であればその通りだと思う。仮想空間で生きる人に教えるものを持ってはいない。今、そんな端境期なのかもしれない。ため息が出る。
成人式
成人式を迎えたのは、もう何年前だろうか。昔で言えば元服だな。近江八幡では17歳で元服若衆であって、意思決定、行動に責任が求められる。この行動に責任が求められるのが大人認定かと言われると、そうでも無いんじゃないかなと思っていたりする。
赤ん坊が泣き叫ぶのはおしめが汚れた場合が多いわけだが、それは主張と言うよりも、子供のお尻をかぶれさせたと、親をがっかりさせないためということであって、泣くという行動は責任に溢れていると感じる。赤ん坊に負けている人は居ないか?
他人の辛さを感じ取って行動できる人というのが小生にとっては大人と思っている。考えてみれば大学教員でいると、もの凄い数の成人式への参加者と毎年お付き合いをしているわけだ。20歳になったからと言って、突然人生がでんぐり返るわけではない。昨日からの延長でその日を迎えるわけだ。
東海地域においては3万人も増えたのでそうで、若者減少中の日本においては特殊なエリアと言えよう。しかし、もちろん、目出たいことで、若者が沢山居てくれるのは頼もしい。頑張ってください。お願いします。
入試
大学の入試が猫の目の様に変わっていく。判断力云々が取りざたされるのだが、普通の人間生活を送っていればそんなものは自然に身に付くものだと思っているのだがそれは違うのだろうか。電車にだってバスにだって普通に乗っているぞ。判断力云々だけが問題ではないのだが、何をどのように伝え育てるかが本質であって、小学生が学校を休んで中学受験に励んでいる現状は本当に正しいのか?
考え方は様々ではあるが、頭でっかちで実践力が全くない人間が溢れかえりそう。考える課題を与えられそれにどの様に返答すれば良いのかを訓練し続けるのだ。危機的状況とて作り出されそこで訓練を受け続けていくと、その訓練以外の圧倒的理不尽な圧力を受けると、何も対応できない状況に陥る人が殆どだそうだ。
そんな人種を作り上げているとしか思えないのだ。同様に、綺麗さっぱりな実験装置でボタンを押すだけで育ったエンジニアは、想定外の結果に全く対応できないと、多くの企業様から苦情を頂いてしまっている。最もそれは大学だけの責任では無かろう。研究所であってもお作法ばっかりでオリジナルのアイデアを排除してきた我が国のお作法文化にも責任があるのだと考える。
結局のところ思考力とそれを許す環境が重要なのであって、判断力など、環境次第でどうとでもなると思っている。この思考力こそ筋道に慣れてしまった結果に失われるものであろう。思考したら試験に落ちるような仕掛けを延々と続けるのだ。自分で考えろと言っても無理であろう。嘆かわしい時代であるが、そんな国になってしまっていることは否めないだろうなと苦笑いする私であります。
若者よ
突然思い出した。新高山登れと。新高山が、そして、それが言われていた時代を知る人は居るまい。今の戯言は極めて弱く、暴言は吐かないのだが、30年前の戯言を読み返せば、もう、むっちゃくちゃである。今の戯言なぞ、心安らかな枯山水である。。
パナソニックハーレーのモノづくりに昨日は感動したのだが、結局のところ、本当に新しいテラスに、どかんと自分の命をぶつけて、よく頑張ったと自分自身で納得できるかどうかだ。1億人の内、9千百万人が人の批判だけで生きているわけだが、そうでは無いと、言えるものなら言ってみそ・・実に愉快である。
走り回って血を吐いても、会社と認識される企業殿達は、特に日本の方々は自分だけが生き延びれば良いのだから、いや、それはそれで正しい。ここに日本が置かれた厳しさがある。新しい挑戦に対して、大学が関与しても「結果は伝えます」と言っても無視して利益を挙げている会社に学生が雪崩の如く就職している。
若者よ、立て!古き者が己惚れて何かを言う、この日本を踏みつぶせ!何も生まないくせに偉そうに振る舞う連中を無視して、知らんぷりして歩むが良い。それが我が国の生きる、唯一の道である。過去を尊重せよと、威張る君よ,何故、そこに居るのか?
ジャンプ
パナソニックさんがハーレーと組んで電動バイクの世界に入っていくとのこと。家電からの見事なまでのシフトであって、あるべき姿を見せて頂いた。スッキリ気分である。地球という単位で見れば、人とお金と土地があるところで量産品が生まれていくのは必然のこと。消耗材にしがみ付き価格競争に喘ぐよりも優れたかじ取りである。
電動化させることで通信インフラなどとのリンクは抜群に良くなる。新たなサービスも生まれてこよう。サービスをどこまで広げられるかがこれからの肝になるだろう。自動車とは違って雨風に晒される厳しい環境に、思い切りよく飛び込んだ覚悟が素晴らしい。他の製品も引っ張られて尖がっていってくれる事を期待したい。
伝統芸はそれはそれで良いのだが、闇雲に過去の栄光を振り回すのは如何なものか。今の技術は人の生き方を変えてきたわけで、当然ながら考え方も変化していく。そこに過去の栄光流を振りまいても仕方がない。今流に置き換えていく必要がある。自分が年齢を重ねるよりも、地球の流れは圧倒的に早いのだ。認めるしかない。
近年、世界に置いてきぼりを暮されてきた家電だが、アイリスオーヤマの戦術に見られるように必要な機能のみでシンプルな家電が日本人にも漸く受け入れられるようになってきたなと思っていた矢先のハーレーパナソニックである。見守っていきたい。そんなところだ。
日本
昨年末から随分とお休みを頂いた。連続した時間を頂くといろいろと考えることが出来ることに、今更ながら納得する。本当に当たり前の事なのだがそれが出来なくなっているというのが現代社会のひずみというものだろう。
ダイバーシティなどと当たり前の条項が奇跡の如くに新聞紙上賑わすのも、やはり我が国のひずみなのだろうなと思います。普通の事が目指すべきことになっていること自体が異常である。異常が日常になってしまっていたことに、日本の在り方を憂うのである。
思考することすら「おやっ」っと感じてしまう日本の現状である。考えない日本が当たり前では、新しい事など認められるわけがないのだ。当たり前の事が排除される日本は生きにくい。
松の内、これは元日だけの地域から1月いっぱいという素晴らしい地域まであるそうで、日本人の柔軟性に感動する。柔軟こそ当たり前なのだが、常に目指さねばならぬ。意識してでもそうしたい。そう思う。
新年
毎年年初に思うのだけれども、世界のサイエンスの劇的な進化が加速していて、既にbeyond AIなどという単語が当たり前に出てきている。学者は形式化、数式化が大好きなのだけれど、AIはそんなものは必要としない。決定か確率か、そのような判断基準で生きてきたのだけれど、要素要素で決定しないことが実は生命の根源であって、だからこそ人は人を認め尊敬することが出来、お互いが自律的に活動できる社会になるのではないか。
組織運営から考えると、ミクロな決定がマクロな結果を生み出しているのだけれど、人間という視野が極めて狭い生命体の活動組織だからこそ成立してきた社会規律の方法論であったのではないのか。予測範囲を超えた結果が出てくると不快感を露わにするのだが、構築するべき社会の方向性は、結論を持っているものでは決してなくて、むしろ自在に進化発展していくものであろう。人同士の相互作用が生じた結果どうなるということではなく、既に全く関係のない働きかけも受容するべき社会の巨大さになっているのであって、如何に巨大な視野をイメージ出来るかが、beyond AIということなのかもしれない。
古い脳みそだから時間の概念を持ってしまうのだが、予測という点において、極めて狭い判断基準で次の瞬間を考えてしまうのだが、ビッグバンが生じ150億年の経過の後の世界に生きている地球人と、水素とヘリウムしか知らない知能が出会ったとすると、実は案外、複雑な予測を可能と出来るのは、時間が止まってしまったような宇宙の生命ではないのか。複雑な状況で一つ一つの結論がないと前に進めない人類は、自ら時間を停止させていて、時間と思考とがリンクしていない狭い世界に自らを貶めているのではないか。
年頭に、年末にはこんな反省をしている一年にしようとは思うのだが、その反省そのものがイメージ出来ている時点で既に視野が狭く、狭いからこそ無関係と判断してしまう相関性を打ち破って、思考そのものが細胞分裂の如く分身をカオスを持って発展し膨大な空間を持って、その視野において学習をしなければならないのだろうなと思った次第。だから今年からは「努力する」以外のことは言わないことにしよう。そんな松の内の働き初めである。