協調ロボット考

ひょんなことから産業用ロボットのチューニングに立ち会う事となった。具体的な商材製造に関わる時点での、自動化に向けたロボットの設定というところに立ち会えたのは貴重な経験であった。その場に立ち会わせて頂けたお陰で、いろんな事が頭を巡った。単純には、正確に同作を文句も言わずにひたすら繰り返せるという、まぁ、俗に言われるロボット考である。過去に見た協調ロボットの中でも大振りで頑丈そうであって、しみじみと頼りになりそうだなと感じた次第。専門家諸氏には笑われるだろうが、その繰り返しの確度には感心した。

次に想ったことだが、ロボットは確かに人の代わりに作業を繰り返して頂けるのだけれど、ロボットを導入する価値のある作業で無いと、高額のロボットの導入は勿論のこと、Sierさん達への高額なお支払いに見合わないなということ。その裏返しであるのだが、ロボットを導入してまでも成す価値のある提案を人間が成さねばならないということだ。そちらの方に関わらせて頂けて、にんまりではあったのだが、要するにそういうことだ。ファミレスの猫ロボットは、フロアメンバーよりは遅いが、確実に運んで頂けるわけで、それであれば人件費の削減は、経営者としては必須の思考であり、導入する価値は高い。休みが必要無いしね。

加えて言うならば、目的が明確であればある程、空間的挙動の正確さに価値が生まれるなということ。ものづくりの専用機にはかなわないのだろうが、ゆっくりで良ければ人が関わるよりずっとゴールに近い値を出してくれる。チューニングとはロボットの動作では無く、アウトカムズをロボットを通じて社会に送り届けたいという経営者の願いなのだなと実感した次第。エンジニアが、ものづくりのヒューマンファクターを減らしたいという低次元の思考では、ロボットを導入する価値は無いなと感じた。どうせ、そんな商材は、他に置き換えられて消えていくだろうから。

エンジニアの方と、ああだこうだ言いながら、設定を繰り返し、形になった経験は快感であった。ロボットさんと心が通じたというか、お願い、頑張ってというか、そんなエールを送りたくなった瞬間である。それと強烈なレーザー光などものともしないタフさですよね。勿論、小生の我儘をお聴き届け頂いたのはエンジニア諸氏でいらっしゃって、ロボットさんでは無い。我儘言いたい放題で申し訳無いなと感じつつ、アウトカムズの獲得に専念できるロボットさんとの対話は愉快である。次からの基礎研究も、ヒューマンファクターを除いて思考出来る点も優れている。この期に及んでそんな機会を頂き、愉快であった。

少量多品種時代

鋳物など、量産品構築に掛かるテクノロジーは凄まじい。釣鐘のような一品ものから、自動車のエンジンという超量産品迄、そのコアテクノロジーの活用の場は恐ろしく広い。共通項は「壊れてはならない」量産品であること。金属工学は勿論の事、砂に関わるセラミクス技術、熱伝導等々、学問的なところは当然の事、鋳型から出した鋳物を再加工する機械技術の高度化も素晴らしい。鋳物という4000年の歴史がありながら、更に発展が続けられるテクノロジーも珍しい。

半導体関連株がとても好調だそうで、平均株価の底上げに寄与しているという。AI関連技術が社会進出を始めたばかりで、当面の間は半導体の活用に伴う、その進化は続くのは間違いない。Si基板は生産が追い付いているのかなと妙な事に心配になってしまう。電信柱みたいなシリコン単結晶からウエハが切り出され、無欠陥に磨かれ超平坦面が得られる。そこにも超技術が積み重なり、俗に言うところの半導体となって、様々な機器の動作に関わっていくわけだ。

鋳物やさんは何をやっているのかと、その昔、その筋の方に問うたことがあって、お応えは「鉄屋」だったのだけれど、鋳物が成していること、例えばエンジンであれば、自動車による移動によって、次の目的を達成することに集中することを叶える屋という返答が来るべきである。鉄を溶かして鋳型に入れることは、鋳物がどんな価値をユーザーに提供出来ているかという観点で思考するべきなのだが、どうも日本企業はその考えが出来ず、日産自動車に強要されると薄利多売に突っ走ってしまうわけだな。

日本では金型や鋳型を使った商材で無いと、商品として認められないような雰囲気を感じる。量産品でなければ商売とは言えない。一品ものでは利益が出ないと。しかし、それを欲する人の笑顔があるならば、それを生業にしても良いではないか。これからの半導体産業を支える加工にしても、現状で良い筈はなく、既に諸外国は日本国産の刃具よりも圧倒的な鋭利さをもって新しいものづくりに挑もうとしている。良いものは良い。だから高価であるべきだ。そう胸を張って頂きたい。

仮想空間にて

ドクターXだったか、総合診療医殿が患者から、あの手この手で情報を引き出して、最終的にジャッジを下す番組があった。人体が発症させる病気に関して、まだまだ解明されていないことが多く、医療の進化は人類の永遠の課題と感じる。その医療に携わることを志す方々に頭が下がるのだが、工学的分析もさることながら、それらの定量的なデータと、主観だらけの患者の発言をビックデータとして結びつける研究が世界で進み始めている。

その道のご専門の医師にお伺いしたのだが、問診のトレーニングというか国家試験の為の「模擬患者」がとても少なく、日本における総合診療医を育成することの障害になっているという。Apple社が出した50万円のARグラスなどは装着するどころか見たことも無く、どれだけリアルというかのめり込めるのか分からないが、その空間の中において、模擬患者を創成して、医師との対話によって自己学習させていくのだという。知らないからいい加減な内容になっているに違いないが、そんなものだ。

最初は標準語でスタートするのだそうだが、地域色豊かな我が国であるから、AI模擬患者においても方言を熟知しなければならない。すると、単なる工学者だけでは太刀打ちできず、文化人類学や民俗学の先生方にも将来は関わっていく事に成ろう。自然と領域横断型の研究になってくるわけだ。人を観るわけだから、当然の事とは思うが、それらの方々が一堂に会したら面白そうだ。橋渡し屋としてはこれ程の喜びは無い。

AIがサポートして頂けるのであれば、携帯端末で常に自分で自分を診ることが出来そうである。ちょこっと筋肉痛を、ストレッチの手法を教えてくれたりして。栄養管理もやってくれて、ピンピンコロリ一直線で、医療費ゼロの国になったら素晴らしいではないか。健康であることが一番である。そこに工学が携われるなら素晴らしい。半導体もそんなことに使われたら嬉しかろう。そう思うのだ。

何でも「質」が大切だと思っている。質が低下してくれば終わったほうが良いという代表例がNHKのブラタモリという番組であろう。小生的には継続して拝見することをしないTV番組において、継続的に拝見し続けた稀有な番組であった。どうも昨年くらいから、つまらないなと感じていたら、いよいよ終焉と言うことらしい。博学な方から博学を引き出してこそのNHKと思っていたが、それも無くなっていよいよTV離れが出来て有難い。

もうちょっと愛想が良いと有難いなと感じるのが窓口での対応なのだが、結果までのスピードだけを考えると、ぶっきらぼうでも正確無比にゴールまで一直線に活動して頂けるのが良い。市役所などでクレーマー諸氏を見かけるが、自らの定性的な依頼を反省することなく、定量的な結果を求める愚に辟易する。質問力が無い者には聞き力も無いわけだから始末に悪い。

博士号取得などにおいても質が重視されるべきである。インパクトファクターが無く、ハゲタカジャーナルであっても数があれば博士号を獲得できるような惨劇は無くなるべきだ。まっとうな論文を作成した者は、それが自らのこれからの人生の励みになる事であって、低次元の博士論文にずるさを感じる必要は無い。これからの生き様を自ら納得するのがよろしい。それだけで良いのだ。

気象庁の二週間天気予報を拝見したら、どうも最低気温が5度以下が今週もずっと続くのだそうだ。深夜の気温低下は睡眠の質を下げてくる。寝ぼけ頭の言い訳をするわけだが、春眠暁を覚えずとも言ってられず、暁の頃には職場に到達している状況が続く。丁寧に一つずつお仕事をしていかないと、この年度末の雪崩の如くのご依頼をこなしていけない。気合である。

ラーメン

小生的にはラーメンの食べ歩きの趣味は全く無いので「そんなもんか」と思っているだけなのだが、街のラーメン屋さんが、ゼロゼロ融資の返済および小麦等食材の高騰で利益率が下がってしまい、人件費確保などが不可能になり倒産していっているのだという。TV番組的には結果を報道するだけなので無責任発言で終わるのだが、ニュースいわく「ラーメンに高額を支払うことは出来ないから、利益率を上げられない」という。

別の報道では1000円を超すラーメンメニューでも行列が出来るとも言っている。先のニュース番組においてはラーメンは庶民の食べ物で、ワンコインが目指すところだ。だから千円などとんでもないという結論で、値上げは以ての外という事であったのだが、一方で、政府は給与を上げて価格転嫁が可能で、サステナブルなビジネスが出来る日本を目指すなんて言っているわけだ。後者の意見ももっともな気がするのだが、仮説がある。全ての人の給料が上がるという仮説だ。

AIの登場によって、多くの仕事がAIやロボットに奪われると言われているのだが、恐らくはそう簡単には難しいだろうと考える。差が出てくるのはAI使いの匠と、そうでない人達の仕事の質であろう。仕事の質に応じて賃金が設定される正しい社会になっていくとすると、千円のラーメンを食べられる人とそうで無い人が出てくるわけだ。その昔、一億総貧乏という言葉が使われて、ガキながらに「そうなんだ」と記憶している。

必死に努力して学んで、それを活かすことが出来る社会になって、世界に価値を提供出来て、それが給与となって跳ね返ってくるべきであって、金が金を生んで、バブルの様に実体の無い金遊び癖が抜けない政治家や経済界トップの思想が一掃されないと、本当に頑張る気になる日本にならないのではないか?経済活動が地球を滅ぼす状態にあるような愚かな星ではいかんだろう。

ネイチャーポジティブ

ネイチャーポジティブという言葉を、農工大学長殿からご紹介頂いた。現状、ネイチャーネガティブエリアに突入しているということなのだが、我が国だけではなんともし難い状況に世界はある。今ある農地に大量の農薬と肥料を投入しても、増加し続ける人類の空腹を満たすことは出来ないということだ。すると何をしなければならないかと言えば、不毛な砂漠を農地にするしかない。我が国では農地を宅地や工場、ソーラーパネルで覆うという訳の分からない方向に進んでしまっているが、退廃国家だなぁと思うのだ。

食糧の3割以上が廃棄されているということも大きな問題だ。保存食にしようとすると莫大なエネルギーが必要となる。輸送にしてもそうだ。食糧を無理やり海外から運んでいるわけだが、ちっともSDGsでは無い。綺麗ごとを言うなと常に言われるが、綺麗ごとを言っていかないと、小生が生きている間に、取り返しがつかない世界になってしまうのではないかと危惧するのだ。

アフリカにおけるサハラ砂漠の南進を防ぐ、グリーンベルト創造の取り組みを拝見して、これは凄いなと感じた。雨季を確実に捉えることで、砂漠を有機化していく取り組みである。これは日本の現状を真っ向から否定する動きで、とても羨ましく感じている。政府の支援待ち、資本投下待ちの活動では無く、そこにいる人がやりがいを持ちながら、経済活動としている。バイオエコノミーと言っても良いのではないか。

かちんかちんの大地をつるはしで打ち砕き、雨が降ればマイクロピットに溜まり、大地に染み入るようにする。きっと、原始の人達もそうやったに違いないと、人が成せる範囲で食糧を増産していく。出生数が激減しているが、それは定常状態となっていくだろう。人が成す機能の有り様から考えなければならない時代への突入という事だろう。人もネイチャーの一部だから、ネイチャーネガティブな現状では、人が減っていくのは当然である。何を今更である。

エントロピー

ずっと言っていることだが、エネルギーと食糧の自給率が100%で無い国は国では無い。物価と給料だけが上がれば国民は納得すると思っている政治家諸氏も総入れ替えの時期であろう。今が良いと、旧態依然を恋してやまない老害も、これにて終了にしては如何かと実感している。老害と言うが、若年層にも老害は多い。気を付けねばならぬ。挑戦という単語を忘れたら、既に老害である。今は変わるためにあるのであって、延長するためのものではない。

エネルギーが高騰しているから、温室栽培の野菜の利益が下がっていく。政治家諸氏は価格転嫁すれば良かろうと簡単に言うが、円安で肥料もべらぼうに高騰して、それらを含めて、人参一本300円ですと言われて、誰がそれを買えるのか?政治家諸氏以外は無理であろう。工業産品にしても、金型素材は勿論の事、刃物もそれを作る砥石にしろ、更に輸送コストだって人件費に転嫁するべきなのだが、目の前の「もの」が一体、いくらになっていくのだろうと恐ろしくなる。

某所で省エネの委員会などに参加をさせて頂いていると、乾ききった雑巾を、よくもまぁ絞って水をしたたらせるなと感動するわけだが、単品・単事業だけでは省エネ、即ち、低価格化は困難であろう。以前より思っているのだが、巨大な工場が農地にどかんと腰を据えることが我が国ではとても多い。食糧自給率を下げる要因ではあるが、そこで出てくる排熱を農業産品の育成に活用するべきなのである。鋳物企業殿に置かれては既に実践されているようだが、水も空気も、エネルギーを付加したものはとことん使っていくという形にするべきである。

工場排水だとか、排気だとか「排」の字を使うと、直ぐに反対運動が起こりそうだが、農薬で汚れた水を河川に流す農業従事者の方がよっぽど生態系に悪影響を及ぼしていることを、我が身を振り返って反省するべきだ。エントロピーの増大過程を制御して、ものづくりを見直していく。エンタルピーだけが注目されがちだが、エントロピー産業学というか、そんな考え方を農業高校とかでやって欲しいなと思うのである。折角ある学理である。人の生きる場面で活用したいでは無いか。そう思う。

脱老害

東大寺の門前で乗用車が人を死に至らしめるという、極めて残念な事故が発生した。他にもご高齢の方の運転の自動車が歩行者を殺傷する事件が無い日は無いという感じがする。何歳だから運転免許証を返納するべきだということは、個人の力量に依るところが大きいので、簡単では無い。しかしながら、生命であるから老化するのだ。これは如何ともしがたい事実であって、どこかで退席しないといけない。一区切りを逃してしまうとずるずるといってしまう。

人の怠惰な精神構造は清新の理想を求めることは無い。どんなに地球環境に素晴らしくとも、自らの生活環境に苦役が見えると、その行動を選択することは有り得ない。他所の国の事だからとやかく言わないが、こんな暴力的な発言をする人を大統領に選んでしまうのだなと、これも同様の審理であろう。苦役を与えないリーダーこそ素晴らしいということなのだろう。ひょっとすると事故を起こしてしまうかもしれないが、自動車が無いと不便なところに住んでいるからという言い訳で、結局は人を殺めてしまう。

戦後のこの国を振り返ると、労働させて頂く有り難さから物資所有の喜びへ意識がシフトした。即ち。人間力向上から金銭力向上へのシフトである。それは見せかけの西洋化による日本的文化喪失へと繋がり、心の繋がりから目に見える愛情表現へ価値観がシフトした。更に創造する努力から平準化による量産へと仕事の有り様が変容し、仕事の創出から待ち受けの姿勢へのシフトに陥った。人間力を向上させない金銭・物質的豊かさが、生みの苦しみから生きる苦しみを創造した。

苦役は嫌だという声は明かに正しい。言われた仕事を請け負って金銭を得ることは間違いではない。高度経済成長は日本人から創造の誇りと達成の幸福即ち「歯のくいしばりと血の滲み」から得られる明日への期待を奪い去った。自動車なんか無くったって、明日への希望はある筈だ。そう、ある筈と言い切れるこの国であって欲しい。残りの命をその為に燃やし尽くしてみよう。そう思う。

ネットプロモータスコア

あっという間に二月の最終週に突入である。年度が入れ替わるまでに約一か月しかなく、その間には様々な通達がお上からやってくることになる。財務大臣が税金の支払は個人の意思だなんて言おうが言うまいが、まぁ、様々な朝令暮改的なお話が密度高く襲ってくるだろう。株価はGDPと非連動に動き回り、実質賃金の低下は加速していくのだろう。大学入試が佳境に入ってきているわけだが、GDP競争力向上を実現できるのは若者のパワーしか無いわけで、期待させて頂くことにする。

名古屋市教育委員会と教員団体とのお話も、何が真実なのだか知りたいところではあるのだが、第三者調査検証チームを立ち上げるというお話までしか真実が分からないので突っ込みようがない。小生が存じ上げている校長諸氏にはなるほどという人物に溢れているのだが、その方々においては迷惑なお話であろう。ことの事実は全くの闇の中で、明るみに出てくる必要があろう。自殺があっても「いじめの事実は無かった」と言い放つ方を拝見していると、どうだったのかと勘ぐってしまう。

三月に向けて恐ろしいのはインフルエンザが型を変えて流行を始めていることだ。コロナ禍前は、共通テストの頃にピークを迎えていた筈だったのだが、どうも昨今は様子が違うらしい。夕方の満員時には分からないのだが、早朝の地下鉄ではマスクレスの方が「ごほごほ、ゲホゲホ」と咳を繰り返していらっしゃる。マスクは放せず、店舗などでも継続してマスク着用状態である。受験生諸氏も同様になさるが宜しい。油断ならない。

口コミ力ということかもしれないが、ネットプロモータスコアという、真の他律機能の伝播力が商材や企業力のゲージとして正式に認められ始めてきた。小生的には10年以上も前から唱えていたが、飽き始めた頃に社会が気付き始めるという事で、まぁ、主張は正しかったというか、例によって早すぎたというか。MOTも猛烈に進化して愉快である。大学も同様である。教育の質におけるNPSの高揚が存在意義となるだろう。時代の進化は急激だ。必死に先取りするのみである。

シーズ?

相も変わらずシーズ型連携の模索なのだなと、強烈に猛烈にがっかりしたわけだ。何を期待していたわけでは無いのだが、シーズからは何も生まれない。これは極端な言い方なのだが、水も栄養も無い砂漠に撒いても芽吹き、そして生き物を集める果実を付けるシーズを寄越せと言われる気分は、もう辟易である。これを書いている時に、ふと、18年前に、とっても偉いお方から叱責というか侮辱というか小馬鹿というか、頂いた言葉を思い出した。

所詮、SiCなんて材料は永遠にモノにならないから、お前の研究はゴミだ。鶴舞大学ではモノになる研究以外は認めない。俺の弟子達を見ろ!と、大いに怒鳴って頂いた。哀れなお話だなと、完全に忘れていたが、妙な事に思い出した。SiCが新幹線のメインパワーデバイスとして活躍するなんて未来は見えなかったのでしょうね。過去の実績にしがみつく研究者の哀れな末路であるのだが、言いたいことはこれではない。

シーズって、要するに「何処に撒いて欲しいか」も併せてシーズになり得る。もう一歩進んで「こんなニーズにマッチする、ニーズに寄り添えて、ニーズを高め、ニーズの影響範囲をこんなに広げられます」というブランディングと共にシーズを提案する必要がある。その様なシーズはマーケティングが可能である。顧客シェアも推定できるしね。特定分野にどっぷりの方にはピンとこないだろうが、気が付いたら水の無いふろおけに真っ裸で居る事に気付くのかもしれない。

俺たちが売ってやるからシーズを出せという方々を信用する程、間抜けでは無い。しかし、未だにそんな悪行が横行しているのだ。もっと恐ろしいのは、お前たちの育て方を盗ませろと、時間泥棒してくる輩である。この時期、年度駆け込みの報告書作成の為に、インタビューを受けてくれとどんどこ時間泥棒がやってくる。話を聞いて出来るなら、生成AIが世界中の民に食事を提供しているだろう。そうなっていないのだから、聞いただけでは駄目なんだよ。シーズとニーズの有り様すら分からないなら来ないで頂戴。それだけだ。