定量評価

研究的にも事業的にも大気中のCO2を地中に固定するというお話が沢山出てきている。メタンハイドレートを掘りだして、燃料として活用しようという、ちょっと前まで我が国のエネルギー資源として注目されていたお話などどっかに行ってしまいましたな。それはそれとして、地中に固定化させるCO2を何万トンとかは書かれるのだけれど、現状、世界からどれだけ排出されていて、その何万トンがどれだけの価値、即ち、温暖化抑止に役立つのかという記事にお目にかかったことが無い。

政治資金の脱税なんかも相対論的に「こいつは悪くてこいつは大丈夫」みたいな検察の扱いなんだけど、あれなんかは一般民間人だったら1円だって追徴だ!となるのでしょうけれど、ところがどうして、政治家諸氏になるとおっかないのかどうか知らないけれど、無罪放免となるわけだ。次の選挙でも勝ち残ってくるのでしょう。このあたり、マスコミのデータ活用能力の欠如を感じるわけです。定量的な評価が出来ない連中が記者をしているんでしょう。

定量的と言えば、円安の故に海外から買われている株なんだけど、4万円を超えるなんて噂もありますが、借金還流の結果故の出来事だから、そんなにうまいこと行くはずはない。CO2の固定では無いけれど、新規技術への投資は停まっているわけでは無いので、そんなお会社が牽引してくれるのかもしれない。日本を支える中小企業殿達が創り出す知財をきちんと活用して、それなりの対価を支払って、技術全体をTier0企業が守るような仕組みが出来てくると、ちゃんとした株式ということになるんでしょうけどね。ここにも定量的な評価が必要である。

ヨーロッパの戦火が消える気配が全く無い。ガスコンビナートが火を噴いたとかで、そこで発生するCO2はいったいどの程度になるのだろう。人工衛星で発生する熱量を監視しているのだろうから、そこから発生量を定量的に算出して公表して頂きたいものだ。乾いたぞうきんを絞る如きの省エネ技術がどれだけ頑張ると、戦火によるCO2を帳消しに出来るのか。暫くは地球は温暖化の方向を向いていくのだなと思うばかりだ。定量的な評価。成さねばならぬ。

月面にて

とてつもない資金と犠牲をつぎ込んで、アームストロング船長が月面に降り立ってから50年以上の歳月が経過している。その間、夢に全く投資をしないこの国が、漸く月面に痕跡を残した。正確に言えばもっと前に本当の傷跡は付けたけど、軟着陸という、取り敢えず、信号を送ってこられる人工構造物を月面に送り込んだことは楽しい出来事である。マスコミは太陽電池が働いていないとか言っているけれど、やっとこさっとこ、降り立ったのだから、それはこれからどんどこ「想定外」を繰り返していけば、何とかなるだろう。そんなもんだ。

今、自動車分野ではそれなりの性能の車両を海外に買って頂ける状態になっているが、そうなるまでに一体どれだけの研究を積み重ねたのだ。とてつもないお金と時間を掛けて、最近はさぼるようになってきた衝突試験だって、一体、何度繰り返したのだ。暴走事故があれば車両が悪かったのではと疑われ、悲惨な状況になりながらも、一歩一歩進めてきたのだ。それで漸く、曲がって停まる自動車が出来上がったのだ。月面で宙返りするのは日本のお家芸だろう。次は頑張れと応援するのがよろしい。

現状、どのようになっているのかがわからないのが頂けない。月面に作業者が居るわけではないからそう簡単に状況が確認できないのは残念だが、二号機、三号機と飛ばして、自走するローバーも飛ばせるようになれば、逆立ちなのかどうなのか分かるのだろう。大切なのは徹底的に定量的なデータを獲得することだ。諦めたりはしないのだろうけれど、これでいいやと決して思わないことだ。想定通りになったとしても、もっと良い状況と言うのはあるはずだ。半導体分野の深化など、それに尽きる。

どんどんと半導体デバイスの素子が小さくなっていって、原子核が捕まえている電子の軌道の半径よりも小さいスイッチなんて聞かされると、量子力学的に正しいことが生じているのか疑問になってしまうのだが、それでも動いていると論文などで拝見すると、時代の進化の面白さを感じさせて頂ける。分からないから楽しいわけで、兎に角、暗いことしか起こらないこの国が、漸く、ウサギと会話できそうになったのは楽しいではないか。次にもその次にも期待しよう。月なんておもしろいじゃないか。そう思う。

友との討論にて

年に一度しかやってきて頂けないと書いてしまうと、足蹴く通って頂けるかなと思ったりするわけだが、遠方よりお越しになられるのだから、それは我儘というものだろう。貴重な意見交換であり、感謝するところである。昨日の大失敗のお話なのだが、失敗というと叱られること、上司に不平不満を言われることと思いがちだが、そうではない。失敗と思うのは自らの心の中にあるのであって、こうなるだろうと仮定した結果にならないだけのことである。それはそうなるべくしてなるのだから失敗では無い。見込み違いなだけである。

大失敗は被害甚大、心が折れるくらいの見込み違いで誰かに迷惑を掛けてしまうとかね。そのレベルになるとしょっちゅうやるわけにはいかないのだけれど、議論に出たのが、挑戦しなくなってしまうということ。失敗するなと言われることと、挑戦するなということが同意になってしまうことがあるのではないか。いきなり、大きな挑戦的課題を立ち上げて、成功見込みが無いかもしれないけれど、挑戦的課題を細分化していってバリューブリッジで構造解析してみると、律速過程も見えてくるし、動き出すことも出来るかもしれない。

構造解析をしてみると、振り返りもし易くなる。これはとても大切な事。PDCAということなんだけど、簡単な事なのだが取り組んでいらっしゃる人がどれだけいらっしゃるか。繰り返し経過を遡って観察していくと、なんでこんな行動に出たのだろうと思う事もしばしばだ。結果論なんだけど、あの時こうやっていればと思ったりもするのだが、その時にはそれが最善の行動だったし、能力の限界であったと思う事もある。その時の最善を尽くすということに尽きるのだが、時間と経験は残酷で、振り返ると愚かだった自分に出合えるのだ。

若年層にどうやって夢を見させるのかということも難しい。全てが与えられ、そして手を差し伸べられて、蝶よ花よ乳母日傘で育てられ、満たされ続けて育っているわけだから、将来の夢は?と問われて、オリジナルの発想で夢を描くことなど出来ないだろう。そもそも大人が夢を語れないのがいけない。内省することもなく、自らの価値観を深堀することも無い。そんな状態でスタートアップ支援など遥か彼方だ。自らの価値観を知るのがよろしかろう。そこが第一歩だ。

大失敗考

しみじみと思うのだが、若い内というか、大学生の内というか、社会人未満の内というか、大失敗は大切である。国のお金を使おうとすると、チャレンジをしろと言っておきながら審査委員会では「実現できそうにないから不採択」とかね、結局赤門大学出身の審査員が前部を決めちゃうみたいな流れがあるし、大成功しかしてこなかった方々だから、失敗しそうなことを後押しして、奇跡の発生なんてことには予算は組まないのだな。

失敗にもいろいろあるんだろうけれど、七転び八起きが許されにくい社会では、みんな窮屈な思いをして、我慢している内に挑戦という単語を忘れてしまうのであろう。少々の「嫌」は我慢してしまって、心を飼いならしてしまう。あるいはその逆に、切れてしまうとかね。殺伐としたニュースが闊歩するわけだが、そんな人間ばかりでは無い筈なので、心が穏やかでさわやかな方々ばかりだと信じている。性善説人間としてはそう思ってしまうわけだ。

近しい方とお話をして、どうして人の足を引っ張ろうとするんでしょうかね?となったのだが、それは思い出すのもはばかられる大失敗をした経験があるかどうかだろうという事に決着した。失敗を重ねて威張るなとおしかりを頂きそうだが、まぁ、大失敗の連続でしたな。ウルトラC級のいじめも頂きましたしね。そんなこと日常茶飯事です。可愛そうな人達だなと思うだけなんだけどね。そう思うと同時に、成功者なんだなぁって思ってしまいますよ。優しく無い人達は。

思い出したくもない大失敗をするためにお金を使いなさいと言われても困ってしまうだろうけれど、夢を描ける人って、案外、そんな経験をしてきているのでは無いかなと感じるのだ。懐が深いというか、暖かいというか。最後の最後で頑張れる人。もうひと踏ん張りをお願いできる人って、結局、自らの価値観に基づいて行動して、どでかい失敗をした人でしょう。挑戦って、結局、失敗する確率が高いから挑戦であって、成功するようなことって大した事無いんですよね。それを解った人がリーダーにならないから社会が妙なことになるんでしょう。

終りが始まり

普通に切削で、2ナノメートルの切削痕しか残しませんと言われると、何言ってんだ?となってしまうのだが、海外ではそれが当たり前になってきていて、そんなものが我々が無意識に活用しているスマホなどに活用されている。逸品ものでは無くて、ボリュームプロダクトにその精度が投入されていることに驚かされる。我が国がそこに到達するのは一体、何時になるのだろうかと残念に思ったりする。上には上が居る。当たり前なのだが、薄利多売にのみ価値を置く日本には行きつけない世界なのかもしれない。

ベンチャーなどは高利少売になるのだが、その国では高利多売らしい。これでは国力の差はどんどんと開くばかり。昨日、とある方と親密な時間を頂戴したのだが、「その昔は違ったよね!」ということで熱くなった。若者はもっと歯を食いしばったぞということ。これを言い出すとアカハラ一直線なのだが、多くの方から同じ声を聞くということは、やっぱりそうなのではないかなと思う限りだ。気が付いたら夜が明けていたなんて当たり前だったけどね。

「二番手ではいけないのですか?」とその昔、政治家殿が仰いましたけど、「はい、ダメです」とTV画面に向かって怒鳴ったもんだ。一番だから良いのだ。誰も見たことが無いから良いのだ。それでは一番になるにはと言えば、努力するしか無いのですよ。何人よりも努力するから一番になるのであって、二番で良いと思う人は、その程度の努力しかしなかった人なのでしょう。それはとても寂しい事だ。

いよいよ居室の御片付けが本格ムードに入って来た。棚から出てくる若者の血と汗と涙の結晶に胸が熱くなる。いや、過去形では無い。自らももっともっとと、自らを焚きつけねばならぬ。始まりが終りで、終りが始まりである。良く終わらねばならぬ。厭らしく引っ張ってはならぬ。スパッと過去を切り、そして明日を始めるのだ。その為に、先ずは丁寧に一つ一つ、未来から今を見て、捨てるものは捨てていく。先ずは高利少売を目指して頭の中を切り替える。暫く続く。

受験考

入試に拘るわけではないのだが、共通テストの後には志望校における本試験を受験することになる。広い思考能力というか、思考のダイバーシティというか、その様子を調査させて頂くのが共通テストとするならば、本試験はその大学において講義についていけるかどうかを自ら納得して欲しいというレベル感である。志望校を通じてどのような機能を身に着け、その機能によってどんな社会貢献をしているかをイメージで来ていれば、自ずと準備は出来ているだろう。それが前提である。

マスコミの言い様を拝見すると、来年から共通テストの在り様が大きく変化するから、浪人生活を避けたい者は、志望校をワンランク下げてトライするだろうということ。こんな話を見るにつけ、自らの社会で活躍している姿をイメージして、そこからバックキャスティングでどんな能力を身に着ける必要があるか、それを実現可能な大学は何処かが決定要因であるはずが、予備校での模擬試験の結果を判定基準に自らを図ってしまう。

大学受験の際になって、偏差値という受験産業の価格設定に振り回される。遅いのである。少なくとも小学生時代に自らの夢を描き、中学生時代において、その夢を高め、その実現の為に何を身に着けるべきかを思考し、それを実現するために高校を選択し、自らを研ぎ澄まし、無駄をそぎ落とし未来に獲得するべき機能を選択し、その獲得に向けて大学を選ぶ。その選択が成っているのであれば、全受験生に同様の条件であるのに、ワンランク下げるという、自らの夢を捨てる行為を選択する理由はさっぱり分からない。

世界の在り様の急激な変化を考えれば、身に着けるべき機能が得られない大学を選択することにどんな意味があるのか。先日、隣国の入試の状況をTVで拝見した。がむしゃらに学び続け、その結果が人生を決定するという。それも大いに愚かなシステムだが、それでも未来に夢を見られない仕組みの中で大学受験を迎えるよりはましであろう。他の者よりも努力したのだという納得は得られるだろう。しかし、大切なのは命と引き換えにどんな夢を見、そしてそれに挑んだかである。諦めは悪い方が良い。挑戦して欲しい。

共通テストに思う

その呼び名は何度も変わってきましたが、共通テストが終了いたしましたな。問題を拝見すると、随分と毛色が変わってきたなと感じたりするわけだが、今年、大学に入学してくる方々は、このような問いかけに答えることが出来る人達なのだなと、問題文が気になったりする。丁寧な問いかけ文を拝見していると、このような講義を受けて高校生時代を過ごして来た方々なのだなと、様々に捉えることが出来る問いかけには答えてくれそうにない。言葉の定義をしっかりしないとと思ったりするわけだ。

日本の企業は何時まで4月一斉入社を貫くのか分からないのだが、必要な能力をきっちりと定義づけして頂いて、能力入社であって、どんな機能を獲得しているか、その瞬は5年間ですよみたいな入社試験をやって頂けると、社会に求められる機能を獲得できる大学を選んでいくのだろうし、それ以上の講義を展開していかない大学が淘汰されていくということになろう。大学は企業予備校では無いから、機能を提供するのではなく、機能を解釈し、今、求められる機能が将来どんな社会を創造することに役立つのかを考慮して、カリキュラムを動的に組んでいくことになる。

10年間、講義ノートを換えずに番所だけするとかね、そんな方々にはご退場と言うことになるのだろう。勿論、事務方も同様で、社会のニーズを先取りしていかないと、迷惑な連中と言うレッテルを貼られるだろう。電子マネーが使えないとか、紙とハンコが全てですなどと言う状況では「契約できません」と言われて、あっという間にオープンイノベーションのパートナー認定が落とされるだろう。自ら変わっていかねばならない。単に、どっかの大学に吸収されれば「変わったよ」と、学問の府は思うかもしれないが、社会はそうは捉えない。

東日本大災害の時、地球が活性な時期に入ったと、あの時、大学改革の草稿を書いていたわけだが、それがさらにエスカレートしてきていると感じる。世界中での火山の噴火が顕在化してきた事、太陽フレア活動もピーク期に入ってくることから、様々な自然の猛威に晒されていくことだろう。対処療法ではなく、しっかりと思考できる機能を若者に身に着けて頂くこと。日々の切磋琢磨を自らに課すことこそ、教壇の上に立つ者の姿であろう。そう感じている。

脱ムラ社会へ

ムラ社会慣れを見せつけられると気持ちが萎える。決まっているから出来ませんという、数万年前に出来上がったルールで自らを縛って、どうやったら出来るのかを考えなくなる。点数獲得に躍起になって、自由な発想が出来なくなる。解釈だけの問題なのだが、これはこの方向性で解釈することが正しいの一点張りで、他人の意見など聞きやしない。島国日本のムラ思考ということなのかもしれないけれど、出る杭に成ろうともせず、それに挑戦する者の足を引っ張る事には熱心である。

以前居た組織ではこうだったなどと、会議の場で持ち出されると辟易する。それがリーダーだったりするとたちが悪い。ここは飛び地では無いのだから、妙なルールを持ち込まれても困る。時代の変化にも場の変化にも対応しない。まぁ、ドメスティックな組織の中のお話だから一般論では無いけどね。でも、なんか、企業の方々の頭の中も相当に硬いのではと感じることが山ほどある。掴んだ仕事は私物化出来るみたいなね。世代交代を許さないみたいな。

日本に夢を持てるかという問い掛けに、高校生までの26%が「持てる」と言ってくれたというアンケートに「そんなに沢山いらっしゃるのか!」と感激した。しかし74%は「持てない」と感じているわけで、これは決して少なくないだろう。世界に打って出ようとしていかなと、世界から見えない国になっていくわけだ。どの国でも作ることが出来る商材を、薄利多売している状態では、見えない国を加速させるばかりである。

リスキリングと政府は叫ぶが、薄利多売路線以外のビジネスモデルを描けず、労働当たりの賃金も低いままだ。鶏と卵のお話になってしまうが、よりよいものが相応の価格で取引されるためには賃金も上がらねばならず、どこかでどっちかが図抜けないと、国の有り様は変わらない。インフラ的なツールは薄利多売が良かろうが、図抜けたい人達には厚利少売で良いのだ。ベンチャーなどはそちらを目指すべきなのだが、図抜けることが苦手なムラ人種には難しい。オンリーワンでナンバーワン。それ以外は無意味だ。

反発しても良いかも

20歳人口が半減しても、大学の定員が変わらないのであれば、そこに集う人的な何かの分布は変化すると考えるのが普通である。人口だけではなくて、その時のテクノロジーによって育った者が親になり、その親が子を育てるわけで、親が小学校を卒業するまでに影響を受けたテクノロジーが、その後の深層心理に働きかけていくとすると、目の前の学生諸君の有り様は、今から30年程度前のテクノロジーの影響を受けていると考えて良いのかもしれない。

その影響の受け方だが、デジタルネイティブだから、デジタルを完全に受け入れて、その申し子になっているだろうという考え方と、がきんちょは「親に反発する生命体」だから、その有り様に真っ向から反対して、ウルトラアナログ人間になっているかもしれない。ビジネス的にAIを使いこなす数理モデルに長けた学生を育てる学科・学部の創設を、親方は推奨するわけだが、AIの進化でその人達の職が無くなるようなレミング現象を発生させることに躍起になって良いのか?

ギフテッドをもてはやし、その才能に関係することだけを好みに応じて推奨して学ばせても、結局は苦行に耐える力は身に着かず、そして異分野の広い知識も身に着かないから、天才は育たないという記事を読ませて頂いて、なる程と思った次第。抑圧への反発は極めて自然な流れであって、それも認められるべきであろうと感じるわけだ。ちなみに今から30年前の重大ニュースなるものを調べてみると、円高で一ドル100円を突破したというニュースが目に入った。海外旅行などに行きやすくなった時代である。

今の学生君達が、金銭的には豪遊は出来なくとも、隣国に焼き肉を食べに行くなどと聴くわけだが、なる程と思ったりする。親が海外旅行をしていれば、海外旅行のハードルは下がるだろう。留学にチャレンジする学生も増えてくるわけだと納得する。海外旅行などは無理して毛嫌いする必要は無いから、親の時代の影響を受けるものだろう。米国ではAIに対する反発が出始めているとも聞く。これなどはスマホばっかり見ている親への反発なのかもしれない。反発が活字に没頭するような方向に向かってくれたら嬉しいのだが。居室の本を運び出そうと思うのだが、はてさて、貧居が崩壊しないかと恐れるばかりである。

震災考

東北震災の時もそうだったのだが、マスコミの熱しやすく冷めやすい報道に辟易する。どのチャンネルを拝見しても同じ悲劇が繰り返し映し出され、国難にどのように協力することが出来るのか等は、キー局を通じて寄付をしろという一点張り。特にお正月の災害においては、道路や電気・ガス・水道の寸断という、税金をかなりの額を投入しているものが木っ端みじんになったわけで、これで東北震災の時の様に増税しないとか、公務員の給料から天引きするとか、選挙対策なのだろうが、そんな話が出てこないことに違和感を覚える。

巨大地震にどのように備えるのかという、地球の怒りに人間ごときが贖える筈は無いのだが、道路わきの山の斜面が崩落し、隧道の上に巨石が落ちてそれを貫く。どのように改修していくのか定かでは無いが、東北、熊本の災害で、無人重機による災害復興技術が相当に進んだと思うのだが、それらが投入されている気配はなく、極めて旧式のホバークラフトを延命させながら自衛隊が活用して、重機を海路で運んだというニュースは拝見したが、それまでである。

マスコミも含めた有象無象の輩が道路の渋滞を加速させ、本来、長特急で現場に届いて欲しい物資などが全く届かない現状を引き起こしている。これも毎度の事で呆れかえる。能登半島は2度ほどぐるっと一周させて頂いているのだが、珠洲の先端あたりは道も少なく、切通しのうようなところばかりで、陸路で向かうのは不可能であろう。また、断崖絶壁が続くエリアだけに、海路での接近もままならないであろう。しかし、そのような場所は日本中、いたるところにある。人が居住するエリアを自由に定められる現状においてはなんともし難いところか。

政治家諸氏はパーティーでの金集めに必死である。当選の為に金、再選の為に金。それに群がる支援者もどきも悪質である。日本列島改造論をぶち上げて、今の日本の土台を作った角栄氏の旧居が焼けてしまった。人が平穏に暮らせる国家改造にこそ集中して税金を投入してはどうか。勿論、それを成し遂げる学術・技術にも投資して頂かねばならない。単に、大学はくっついて数を減らせと言うことではなく、強みを活かし伸ばす。その方向にいつになったら税金が投入されるのだろう。今も未来も共に大切である。