ダイヤモンドにて

学生時代にGeやSiとか、HgCdTeという、公害認定病半導体とか言って怒られていたりしたのだが、その当時にその内にこれになるよと言われていたのがダイヤモンドである。今では数センチメートル角の板状素材が手に入るようになり、電力制御半導体素子を作り込むことが可能になって来た。性能は図抜けていて、確かにダイヤモンドデバイスの時代は来るなと感じるのだが、まだまだ商用デバイスに至るには乗り越えるべきハードルが沢山ある。

結晶成長は勿論大変で、そう簡単に大きく出来ない。某社によれば、大きくすることは出来るが「磨くのが大変」ということで、それがコストの決定因であるらしい。SiCやGaNも磨きにくいが、炭素の塊であるダイヤモンドは、その硬さ故に磨くのが大変である。そもそも論、研磨の研究を行うには高価な基板を入手せねばならず、最初にビジネスモデルを考えてから取り掛かからねばならぬ。おいそれと始められない。

身近なダイヤモンドと言えば刃具である。なんだそれはとなるのだが、5~60万円もするミクロトームとかね、顕微鏡観察前の資料を薄く削ぐ刃物につかわれていたりするのだが、そんなものも含めて、価格は研磨代金みたいなものと思って良い。とあるご依頼で磨いてみたのだが、表面の状態が見たことが無い状態になり、傷だらけだと文句を言われた。じろじろと眺めてみるとステップバンチングである。ダイヤモンドをCMP加工してステップバンチングが生じるなんてことを始めてみたし、その正体を知らない人からすれば加工痕だと騒いでも無理は無かろう。

化学的に材料を成長させると、熱力学的に安定な状態が表出するのだが、ダイヤモンドにおいて不可思議な階段構造が出来る事は2000年頃の論文に紹介されていた。結晶の向きにも依存するのだが、間違いなく形成される。結晶成長と研磨とは逆方向プロセスだから、成長で出来るものは研磨においても出来るのだ。当たり前なのだが、見たことが無いと信じない。小生も始めてみた。自分でやって驚かされる。世界初に挑戦しているとこんな愉しさに出合う。これこそ冥利、幸せである。

学びの拒否は

経産省や文科省は社会人リスキリングの為に大学はなんとかしろ!と叫ぶのだが、企業側が、社員が教育にうつつを抜かして勉強することを良しとしない現状で、場を創っても人が集まらないのは間違いない。企業へのアンケートをどれだけの数を撒いて回収できたのかは分からないが、自社社員をリスキリング・リカレントの為に大学に送り込む仕組みを社内に作っているかと言う問いかけに対して、10%程度の企業のみが学ぶことを良しとしているということが解った。

となると、必死になってプログラムを構築しても、余程、社会に刺さるプログラムで無いと参画しては頂けないということ。特にAI活用関係など、本来は現場にこそ活用の場があるAIなのだが、それを活用する学びをさせる余裕が無いと中小企業諸氏にバッサリとやられたわけだ。AIでどんな価値を抽出するのかという事なのだが、大略、加工用の刃物が駄目になる前に教えて欲しいとか、人の置き換えを目指すと「学ばせる暇が合ったらその人を現場に立たせる」ということになる。

不具合発生防止ということを人にやらせるということほど無駄な行為は無い。これこそ給与の無駄払いで、AIやロボットにやらせるべき案件である。労働人口が減っていくので海外の方々にお越し頂こうということなのだが、お越しを頂いて、そんなしょぼいお仕事を任せてはいけない。日本に行ったら有り得ない程の高度な学びが出来たと、帰国の際に知恵のお土産を持って帰って頂かないと、国家間が仲良くなれない。

ノウハウなどもどんどん吐き出して、自分達は新たなモノづくりに挑戦すれば良い。その為には人のカンコツ、ノウハウをどんどこ機械に受け持ってもらって、それを活用すれば良い。ベテランはカンコツを奪われたら解雇されると技を出したがらないが、モノづくりの様式ががらりと変わればポジションなどあっと言う間に要らなくなる。浪花節で国が動いているのは何時までか?大学で学んだことの「旬」はどんどん短くなっている。人に学ばせぬ企業には明日は無い。そう思う。

値上げ

じわじわといろんなものが値上がり続けているので、またかと思うだけなのだが、10月に入って、届け出が出されている品目だけで2911品の希望小売価格が上昇するとの事。今年の4月期では2897品目だったということで、それよりも多くの品目が値上がりした勘定になる。夏前から叫ばれていたカカオ豆の収穫量が激減したことで、それを出発原料とする商材は軒並み単科が上がる。そんなにバクバクと食するものでは無いのだが、チョコレートの類が幻に成る日も遠く無いのかもしれない。

東南海地震が来る来る騒動のお陰で、市場から消えたお米なのだが、11月以降に成ると、パックご飯も落ち着いてくるというお話だ。こればっかりはその時になってみないと分からない。災害は忘れない内にやってくるというのが世界の相場になってきたので、台風の本格シーズンが明けたと言っても、まだまだ強烈にやってきそうな大嵐である。油断は禁物で、キャンプ用品などのチェックを怠らないようにしなければと思っている。

猛暑の夏の影響で、マーケットにおける野菜の価格が落ちてこないなと実感している。勿論、人件費、輸送費の高騰も関係しているのだが、世界中で猛暑と災害で、食糧の確保が相当に困難になっているのではと危惧している。肥料や飼料を含めると、食糧自給率が10%くらいしか無いこの国において、地球規模での俯瞰力が無ければ生きていけないのは当然の事。インバウンドだなどと、比較貨幣価値が高い人達に、自国民が食せない価格でサービスをして儲けていらっしゃる業界の皆様は、コロナ禍での赤字を取り戻そうということなのだろうけれど、飢えた国民の目は恐ろしいことを忘れてはならない。

先日、マーケットで「曲がりもの」としてパッケージされている胡瓜を購入した。3割程低価格に設定されているのだが、農家諸氏にしてみれば、重さが変わるわけでは無く、輸送労力や箱詰めの大変さを考えると、安売りする必要など何も無いと感じるのだ。成長までにどれだけの水分を確保されたのか、この夏の雨不足を思うと申し訳なくなってくる。値上げの分、サラリーが上がるわけでは無いから、何かを削らねばならぬ。この国では命を削らないといけないのかもしれない。そんな気がする。

差別化せよ

大学で学び、卒業し、企業を通じて社会貢献を行う。その社会貢献の程度が、社会の求める要求に達していないと判断したら、当然のことながらその時点で最良の機能を与えてくれるであろう大学を認識し、再度入学して学び直すことになる筈だ。忙しいからとか、人手が足りないという言い訳の下、学びを放棄した状態で企業経営を続けていれば、当然のこととして、売り上げ激減、倒産まっしぐらである。美味しいエサに、猫まっしぐらなどと喜んでいる場合ではない。

この手のお話を身内としていると「そもそも、現状の経営者の殆どが、大学で『自らは何を社会に対して機能を発揮できるようになったのか』が意識できないから、大学は遊び場だと思ってしまって、大学の学びに不信感を抱いているから」というところに帰結する。小生はガマの油売り大学で徹底的に鍛えられたからそんな意識は微塵も無いのだが、そんなお話が出てくるということは、そんな経験をしていらっしゃるのですねと、少々寂しい気持ちになるのだ。

失われた30年とか40年とか、なんだか被害者みたいな表現をするのだが、それって、自らが学びを放棄しただけでしょと言いたいのだ。何故なら世界は、決して失われていないからだ。相対的に国力が下がったということは、下がっていない国が沢山あるということだ。そのような学びを自らに課し、歯を食いしばり血を滲ませなかった者が何を言うか!と怒鳴りつけたくなるが、無駄だからやらない。

かれこれ25年ほど前に米国の大学に訪れた際に、壁に貼られたポスターに「アントレプレナーシップ!」(当然英語であるが)と書かれているのを拝見して「なんじゃこりゃ?」となったわけだが、単なる起業家精神という事では無く、自らを他者から差別化せよ!というエールだと、その大学の先生からお伺いして、それなら自分はアントレプレナーシップを有していると言ったら「お前はネオジャパネスクだ」と、その通りだと言われ、安心して帰国した。未だにアントレプレナーシップは日本人に醸成されない。大学遊園地を経験した経営者は絶滅するのは何時だろう?それまで国は保てるのか?恐ろしい。

平針にて

最初に免許証を獲得してから、何度更新したなどとは忘れてしまったが、そのたびに頂戴する教本は時代を反映していて面白い。別に優良度ラーバーになりたいというわけではないのだが、法律と言うものは「こう変わったからね」と勝手にやられても、知らなかった側が悪いということになっている。知らないよりは知っているほうがずっと便利である。

自動走行に関する文言や、電動キックボード等の交通方法などは、ちゃんと考えられているというところに感心した。当たり前なのだろうけれど、令和5年中に施行ということになっていて、街にレンタルキックボードが溢れかえってきた理由がわかって愉快だ。ちゃんと法が出来れば金儲けができるということだ。利益が上がっているから増え続けているのだろうけれど、町中に電池が溢れているというのは恐ろしい気もする。

気になるのが令和4年4月に交付されて、3年以内に施行される運転免許証とマイナンバーカードが一体化出来るらしいということ。失くしたらどうするというネガティブな意見などはほったらかすのが良く、持ち物などはどんどこ減らすのがDX的にもプラスチックを削減する方向性においても正しいに決まっているわけで、とっととやって欲しいなと願うばかり。

愛知県民だとかなりの方が利用される平針運転免許関連施設は、新しくなったのは近所だから当然知っていたわけだが、活用したのは今回が初めて。予約制になっていて、日曜日の枠を確保するのはとっても大変だったのだが、幸いにして朝一の枠を確保できた。どれだけ時間がかかるのか、8時半受付開始の合図で席を立って並び始めて、研修室に入るまでに16分で済んでしまった。驚くべきDXであり、どこの職場でも出来るだろうとサービス向上に感激した。見習うべきである。

学び直すためには

企業人材のリスキリング・リカレントということに大学が関わっていくことは当然のことである。大学は教員が研究者として研究に猛烈に打ち込み、その意味と成果を社会に還元するわけだが、その手法の一つとしてリスキリング・リカレントがあるわけだ。あるわけなのだけれど、社会の進化速度に制度が追い付いていけていないと感じている。産学連携と言うと、共同研究で企業の利益向上のために研究を部品として使うイメージだが、これからはリスキリング・リカレントということに関しても大学を活用するべきだ。

特別なこととは考えない。企業内で基礎的研究を行う体力が無くなったのであれば、その分は、大学に対価を支払って教育を受けていけばよろしい。大学教員などは、博士を取得した後においても延々と学び続けているわけで、妙に物知りになる。学び伝えることを商売にしているわけだから当然の事なのだが、企業に入ってものづくりに携わっている方々が、学ばずに経験とそこから出てくるカンコツだけで世界と勝負しようというのはなんだろう。

妙にカンコツがもてはやされる分野だったりすると、コンサル業なんてものになったりしてね。技術が深化していっている時にはカンコツコンサルは働く場があるかもしれないが、転換が生じたときには明日どころか、今日がなくなるわけだ。今をじっくりと見直して、改善・改良という得意技に走るわけだが、これとて、見直すやり方を学んでいないといけない。そのやり方とてAIの登場で見直されなければならないだろう。

企業人が学び直しのためにはアルムナイサブスクリプション制度などがよろしかろうと思っている。AIを活用する製造現場のDXなどは、それこそ四半期に一度、学びを更新しなければ世界に置いてきぼりどころか、化石化工場となり果てる。半導体の学びなども基礎は確かに必要なのだが、ナノ領域で生じる量子効果も踏まえた教えが出来なければ、その組織そのものの廃止か入替が必要だ。学びの提供側にこの国の未来は掛かっている。間違いない。

そもそも論

ビジョンオリエンテッドのビジネス創成は難しい。例えば「2030年に上市するとして」という条件を付けたとして、明確なのは例えば日本の人口動態からくる人口分布程度のことだ。我が国はAIやICTの社会実装が世界で最も遅れているアナログ国家だから、DXの海外との格差は著しく、ビジネスにおいて、そもそも海外は我が国商材を買ってくれているのかという恐れを抱いている。飲料水を含めた食糧の確保もおぼつかない状況に陥っているのではないかと考える。

その中で、何をどうしていくのかという、極めて冷めた分析と、そうでありながら、突っ走っていくアジア諸国の皆様に縋りついていく発想の先取りが必要で、本社が言って来ている「大学は産学連携を進化させなければならない」というお題に対して、何をどうしようかなど、それこそ、今の国立大学のお作法をぶち壊すしか無いのだが、アクセルとブレーキを思いっきり踏ませる本社と、ブレーキだけを踏んでいたい大学との方向性の擦り合わせを考えているだけで、2030年など過ぎてしまう。

個社の課題持ち込み解決型ということを、その昔に産業戦略という場で実践させて頂いたが、秘密保持に関する点において、クリアに出来ていたかと言えば決してそうではない。チャレンジしようとする事業のベクトルを開示することは、ある意味、自社優位性の低下に繋がるわけだから、国内企業同士で足の引っ張り合いをしている国においては、リアルなオープンイノベーションなど遥か彼方だ。学外組織との連携と言うことになってこようが、その辺りの現場規則作りに関して、お上が尽力してくれる筈も無く、マンパワー依存ということになる。

そもそも論というか、根本的なところとして、この国のお会社殿は、本気で生き延びようとしているのか、はてなマークが頭をよぎることが多くなってきた。総論を語っていても直ぐに各論に陥って、視野を極端に狭めようとする。日頃のお仕事の癖でそうなってしまうのでしょうけれど、社員の皆様のキャリアパスとかね。働き手が夢を持てなくなっていると肌で感じる。何時、バトンを放そうか、そんなところだ。

次の改革は

先日、AIが研究マネージメントを行い、そのマネージメントに則ってAIが仮想実験を行い、その仮想実験データで論文をAIが書いて、その論文をAIが査読したら「こんな実験と考察を追加したらOK」ということが報告されたとお話をさせて頂いた。未だにAIが仕事を奪うとか暢気なことを言っているわけだが、自動運転もドローンの飛行実験も、職業を奪われる等の理由で待ったが掛けられるこの国なんだけど、基本的に、AIをどう実践的に活用して一人の人が関与できるアウトカムズを大きくするには、それなりの教育が必要であることは論を待たない。

最近、この教育の仕組みの導入に関して有志の方のご協力を頂いて「どんなもんですかね?」とに対して率直なご意見を頂けた。ベンチャー企業は勉強する暇など無い。中小企業には高度過ぎるし、人材を学ばせる余裕はない。自らは挑戦してみたいがという、真実の叫びに似たお声を頂けたことはとても有難かった。感謝するのみである。生成AIのアルゴリズムを新たに構築する研究も成されているのだろうが、現状、ものづくりの現場等でどうやってそれを使うのかという、お金儲けの枠組みの中での生成AIがどんな役割を果たすことが出来るのかと言う実践的な学びが求められるものだろう。

修士課程となると2年間なんだけど、この手の分野って2年も掛けて学ぶものなのだろうかと、ちょこっとそれはどうなのと思ってしまう。修士号が必要なのか、コース教育の修了証が必要なのか、それが企業においてサラリーに影響するもので無ければどうでも良かったりするのではないか?そもそも、この国では、博士を取っても同じ年齢の高校卒業後に就職した方と給料は変わらないというか低い現状だから、修士号に拘るコースにする必要は無いのではとも思ってしまうのだが、本社がそれを求めるから仕方が無い。

現場の職人が自らのカンコツを人質に、企業から給料を簒奪し続ける状態を崩壊させるには、事業承継のAI+ロボット化は必須なわけで、そのあたりのDXは徹底するべきだ。その為にはAIの高度活用を可能とする者、そして、その者が学び続けることが出来る仕組みが必要だ。卒業したらおしまいという学びのスタイルではこの国は崩壊する。どんな分野においても学び続け自らを更新し続けることが必要で、その組織の有り様を組み込んだ教育組織への改革が第一歩である。それを成す。

今を

京浜工業地帯沿いの高速道路を走ってみれば、正に臨海であり、雑多で逃げ場のない、そして隙間もない領域であることが解る。平日に大地震が発生したならば、その混乱ぶりは想像も出来ない。10年とは経過していないのだが、久し振りに用事を作って訪れてみた。大きく景色が変わったわけではないが、密度はより高くなったと感じる。災害など無いに越したことは無いのだが、それなりに巨大な災害は、この国に住んでいれば必ず遭遇するはずである。

その後に、ちょっと寄り道をして名古屋に戻ったわけだが、相模湾沿岸に立ち並ぶ家々も、巨大な津波にひとたまりも無かろうと思うわけだ。眼前に聳える富士の宝永火口が、今にも黒煙を上げるのではないかと恐怖したが、幸いにそんなこともなく、津波にも襲われず。これまた久しぶりに伊豆半島を横断してみたが、1930年に生じた大地震での断層を記録した公園などもあり、遥か南方からやってきた伊豆半島は未だに活発に本州に押し付けられているのだなと、その活力に圧倒される。

都市伝説に引っ張られるわけでは無いのだが、大地震はこの国に住んでいる限りは必ずどこかで起こりえる。そして人々は巻き込まれる宿命にある。そのような遺構を拝見するたびに、今を謙虚に迎え、そして自らを律していくことに全力を掛けようと思うのだ。自分を変える事だけは可能だからね。この瞬間の外界を変えることは出来ないけれどね。

能登地域の水害に唖然とする。今年の元日の大震災から、国を挙げて支援をさせて頂いて、今に至った。それが天の成せる技によって無為に帰す。世界を見渡しても天災は至る所で猛威を振るっている。人の所作が人に還ったのであれば仕方のないところだと諦めるしかない。ジタバタできない。だからこそ、今、この瞬間瞬間を猛烈に強烈に生きるしかない。その為に学ぶ。その為に思考する。他の為に思考する。生きるとはそういうことだ。

自らは育っているか?

自己を見つめて「今、これをやっていたい」とそれをお仕事に出来ている人は本当に幸せな人だ。お仕事とは、自らの機能を他の方に最大限に発揮したことによって、生きていける状態に自らを置くことが出来る手段と捉えてみたい。趣味ではいけない。自らの機能が高まって行かないから。その機能を高める手段が、他の方に育って頂くことに向けられたら更に幸せである。

この他の方に育って頂くということに関して、育って頂く定義が必要だ。育つことが偉くなるとかね、そんなことではない。育った者は、どんどんと他の方に幸せを振りまいて、その連鎖が留まることを知らず、無限に広がっていく時、それが育った状態と言える。研究者が自らの喜びの為に掘り下げた思考を学会や論文で発表して、他の研究者が新たな気付きを得て、気付いた者の持つ機能を重ね合わせてどんどんと新たな研究が生まれていく様は「育てた」定義に当てはまる。

それでは、その、育てる者を育てるにはどのような手法が考えられるか。育てる者は若い程宜しい。何故なら、育った老木はいかんともしがたいからである。中には極めて柔軟な方がいらっしゃって、70歳を超える経営者の方でも、初々しく「それは素晴らしい!」と大変身を遂げられる超人もいらっしゃるのだが、それは余りにも稀過ぎて事例にならない。将来こうありたいというビジョンを抱き、そこに向かって苦悩している者が宜しい。

どこぞの知事さんの言い訳や、それを応援する弁護士の方のお話をネット上で聞けるわけだが、どこまで真実かさっぱりわからないのだが、その言い訳を聞いていれば反面教師としては最強と感じる。ただ、それは教育手法として採用出来ない。過去の出来事は遡れないと胸を張る首相殿とかね、めまいがしてくる。不幸の連鎖と幸せの連鎖。小生は後者に関わっていたいし、これからもそこに体当たりし続ける。当然のお話だ。