遥かなる教育者

教育者と言うわけでは無いが、職業関係を問うアンケート欄には教育関係にチェックをしている。頭の片隅に教育者であると何処かで思い込んでいるに違いない。思い込みは必要だと思っていて、自己暗示と言うか、そう思い続けていると、いつかはそうなると、何処かのお坊さんが言っていたのを鵜呑みにしている。そのうちそうなるだろうという事で、今、そうなっているというわけでは無い。

教育者って何だと聞かれれば、それは生徒の目を通して、自らが発信している内容に納得できていること。そして生徒はこちらの目を通して、伝えていることに納得を得ていると体感することが出来る者と答える。相互の立場において納得できる話術を駆使出来る機能が必要なのは言うまでもない。そんな名人芸には遠く及ばないのだが、目指しているのは間違いない。

上述の定義を用いているのは、教育と指導はまるで違うからだ。指導は自らが有する機能を、それより劣る機能を有した者に上意下達することにより、受け取った者が指導の通りに実践できるレベルに到達することだ。受講者が、到達目標に達することで指導の効果が測られるわけで、指導者側から計測可能な達成状況を想定出来る。

教育はそれは出来ない。何故ならば、教育者側と受け手の側の、双方の知恵が「教え」に重畳するわけで、世代を超えた教師と生徒の関係においては時代背景までもが知恵としてお互いが受け取ることになる。教える側も受ける側も、それぞれが自らの内省を伸ばしながら教育は成される。教育は一生であり、指導は一瞬である。教育者は授業が出来るが、指導者には広義しか出来ない。これが解らない者は教壇に上ってはならない。そう思っている。

研究って?

言い尽くしたことなんだけど、バックキャスティング。これは未来に発生するペインをどう解くかということであって、未来を想定して、今を見ることでは無い。未来から見えるのは未来であって、今では無いのだ。今を想定するのであれば単なるフォアキャスティング思考である。未来の出来事を予測しているようなのだけれど、改良改善で価格競争に陥るだけ。

研究の経営力は、正にそのバックキャスティング思考力なんだけど、これが案外出来ていないというか、出来ない人が沢山。特にスタートアップとか、今のペイン慣れしてしまっている人が陥っている。こんな悩みを解消しますって、それって単なる技術でしょ。決して研究対象ではない。特に大学の中堅若手がそうなってはいけない。要素研究に打ち込むからこそ「謎」が見えてくるわけだが、それを見る工学すらなないものを見いだせたら、それは素晴らしい。打ち込むのが良い。

教育改革なんて正にこの謎を見出す手法を、異分野の人達と意見を交わしながら見出していくことが出来る人材を育成することなのだろうけれど、育成する側にもそんな力は無いのだから、共に育っていくしかないわけだ。SNSの世界で生きている若者諸君は、既に仮想空間において知っていること、知らないことの共有が成されて、更に、謎があれば知恵の輪を重ね合って解決していっている。AIもあるしね。

始まりは終わりの出発点であるし、終わりは始まりの出発点でもある。新しくするのが先か、古きを駆逐するのが先か。どちらかでも良いから、兎に角、挑戦することである。見たことが無い新しい試み。やってみるのが良い。立ち止まったら始まりの無い終わりに行きつく。終着点である。

度々のQOL論

食糧問題を栄養不測の観点から見ると、トマトとか特定の栄養素を獲得できる作物を、機械的に増産させている取り組みは、単に農業を自律的産業化させるだけではなく、生命維持の観点で正しいのだろう。人口の適正化とか、その為にエネルギーを使うとか、負の視点での指摘は簡単だが、今の環境を作り出してしまった後の祭り的な対処であっても、次への経過点として、そうあることは必然なのかもしれない。単なるビジネスの観点だけで見るべきではない。

QOLという単語は産業戦略工学専攻教員時代にお目にかかったのだが、その単語の記憶は上長教授同士が「QOLは変化しないのだ!」「いや、向上したり低下したりする指標だ」と本気で怒鳴り合ったことで記憶に刻まれている。社会的に当たり前に使われて、なんだか未来の光明の様にふんわりとした幸せな世界をイメージさせる単語なんだけど、決してそんなことは無い。生活の質と直訳してしまうと『質』なんだから微分値があっても良さそうに思うのだが、そう思うか思わないかは学者の持論に任せたい。

マーケットに行けば手が出ない高価なトマトジュースから、貰っても飲みたく無い様なものまで様々なんだけど、「こんな効能がトマトジュースにはあります」というテレビショッピングやSNSで呪文を掛けられると、財布の中身に応じた商材戦術にまんまとはまって買っていく。いや、効能は虚偽では無いのだろうけれど、トマトを食べたら劇的に健康になりますなんてことがある筈は無いのだが、誰でもクモの糸に縋りたい気持ちを使ったビジネスにまんまとはまっていく。

数万年を経て構築されてきた肉体活動を維持させる食べ物だから、何世代前からか繋がる食生活が作り上げた今のDNAにとって、より良い状態の食材を得ることが重要であって、そのより良い成分が今のトマトにあれば良しということなのでしょう。勿論、トマトだけで解決する問題では無いのだけれど、DNAでQOLが決定づけられるのであれば、主観的なQOLは変わっても良いのでは無いかと今は思っている。その時の上長教授の年齢を超えてしまったが、そんな気がしている。

有りたい姿は?

先日、某金融機関での会合で、例によっての乾杯の挨拶をさせて頂いた。研究でもなんでもないところに引っ張り出されて、晒し者にされるのは本当に煙たい。心底、嫌なのだが、やらなければならない雰囲気だから引き受けてきたが、金輪際お断りと心に誓っている。と言う意味では記念すべき最後の挨拶であったわけだ。翌日に別の重たいお仕事があったので、それを纏めなければならず、ノンアルコール飲料を呑んで笑われていたが、それでしのいだ。

そこでお話したことなのだが、要するに学者は未来に「こう有りたい」姿を描き研究に取り組む生命体で、企業は展示会などを見て回ってあたかも未来と勘違いをしている過去に浸っている無残な遺体であるということ。未来に生きるのか過去の想い出に浸るのか。次元が違う生命体であるのだが、過去から脱却するために最も有効な手法が、未来を描く者との社会の新たな共創である。

研究者において気を付けなければならないのは、企業対象の研究発表会ということで、自らを売ろうとしてしまうこと。それは小生のようなエージェントに任せておいて、遠い未来をビジュアル化させれば良いわけで、当日は研究発表者のチームリーダー氏は、見事に未来を描いて頂いたから、優良顧客がテーブルに集まってきた。今に寄り添って良いことなど何もないのは、円安の日本の現状が物語っているわけだ。

そんな場に居ると、ふつふつと良からぬ気持ちが湧き上がってきて、こんな研究テーマを立ち上げてやろうかななんて悪だくみを考えてしまうのだが、既に研究室はクローズであるのだから、それこそ有りたい想いだけで「誰かに押し付けよう!」なんて考えてしまう。秋田には素晴らしい加工企業もいらっしゃるしね。今のままか有りたい姿か。内省してみると良い。人生は短い。あっという間である。挑戦せよ!

言うだけ無駄か・・

お世話になった先生がご存命中に、何やら集まって、何か会でもやってみようかなと思ったのだが、「死期が迫った人の行動」というお話の中に「世話になった人のお礼の会を催したがる」というのを見て、なんだか背筋が冷たくなった。いや、それほどのことでもないのだが、人前で「両足を棺桶に突っ込んでいる」とか言っているので、言霊となって襲ってきたかなと、まぁ、どうでも良いのだが、それでも直接お会いして感謝の言葉を述べたいのだから仕方が無い。やってみたいとは思う。

気を付けて辺りを見渡してみると、同様の現象が発生しているように感じる。突然、誰かがやってこようとして、時間をよこせとかね。小生は嫌だから「会う暇はない」と「会いたくない」という言葉に偽りの色を付けて返答するのだが、問うた側の理解が足りずにそれでも時間をよこせと言ってくる。勿論、更に偽りを重ねて追い払うだけなのだが、勝手なもので、こちらからお会いしたい方もいらっしゃって、これは心からだから良くて、小生に対する時間泥棒は、その輩が銭金に変換しようとする悪行だから断って良いのだと決めつけている。真実だから迷わない。

大雨になると河川の堤防が決壊し、竜巻によって送電線が切れて停電になる。どちらも社会インフラと言う人々の安心を約束してくれるはずの工業商材なのだが、想定外と言って破壊され、人々の安心を奪い去っても不可抗力としてしらんぷり。マスコミもそれに呼応してつっこもうとはしない。まぁ、自民党の票田だしね。政治家のお犬殿が何を言うはずもなし。選挙のたびに「国民の皆様の・・」なぁんて、死期が迫った人の発言を鵜吞みにして、次世代に付けを残す老害。

まぁ、小生も間違いなく老害組なのだが、選挙においてはちょこっと行動は違う。死期が迫ってそれこそ後何回、選挙に参加できるかなど分からないが、脱税しても公認される日本の選挙制度と、それを許容する国民に辟易する。それを打ち破る人に育って頂く教育はどうあるべきか。組織はどうあるべきか。一人で何かが出来るわけでは無いのだが、何か、活動せねばならぬ。そうとは思う。

あぁ、デザイン思考

既に語られなくなったデザイン思考だが、丁度、おもちゃ的な3Dプリンタが安価で購入できるようになったり、レーザーカッターが隣国から数万円で購入できるようになって、プラ板や薄いベニヤ板を、それこそ好きなようにカッティングして組み立てたりね、そんなことが出来るようになって、ドライ&エラーを許しながら商材として完成させていくということが現実に出来る様になったタイミングで出てきた単語故に、取り敢えずやってみようという思考をデザイン思考と勘違いされたところに悲劇があったのか、それに踊った教員を含む社会が喜劇だったのか。

デザインって、ビジョンの基にミッションを定め、それを実現するシナリオを思考し、そのミッション達成に含まれる構造とその流れを設計するプロセスだったんだけどね。当然のことながら、ミッションを達成させるための、個別の要素の構造化ということも含まれる。まぁ、大型の科研費の申請の構造みたいなものなんだけど、なんだか知らないけど、ユニバーサルデザインとかね、その手の単語がごちゃまんと降り注いできて、ディシプリンがどうのこうのとか、どのような思考を成す事かと、きっちり腑に落としてくれる説明をしてくれた人は日本人にはいなかった。

結局のところ、それを語り出した者の著作を拝読して「成程ね」となったわけだが、横文字にすれば新しいと勘違いして喜んでしまう国民性はどうかと思う。先人がやってきたことを学問っぽく構造化して、フローチャートみたいに並べてみて、ほら、新しいでしょなんて言われると、とっても弱い国民性故に、あぁ、なんだか尊いものに出逢ったぞみたいになっちゃうわけだ。

大切なのはデザイン思考のマネージャーが、しっかりと思考から生まれたシナリオを理解して、それを実行して、想定した価値を実現することなんだけど、その能力を養うというのがこれまた大変である。マイクロ組織の壁は厚く、そして高く、既得権益に少しでも抵触しようものなら大反撃をくらって、理想論など消し飛ばされる。プログラムマネージメントの最大のリスクが、既得権益のヒエラルキーの破壊困難さにある以上、組織改革なんて成し得ないだろうなと、まぁ、苦笑いの毎日である。デザイン思考が出来たとしても、その思考の生産物に到達することは無いのでしょうね。特に組織改革においては。

遥かなるゼロベース思考

研究テーマにもペルソナを設定するべきだと考えている。小柴先生がノーベル賞を受賞された時、マスコミが「この研究は何の役に立つのですか?」と、それこそ無知蒙昧をさらけ出した質問を受け、先生は「何の役に立つということは考えていない。ただ、人類が存在している宇宙の起源を知る手掛かりになると信じている」と仰った。地球人類全体がペルソナであり、ノーベル賞にふさわしいビジョン設定と言うか、研究テーマ設定の大方針と言うか、見事である。

残念ながら、なかなかそこまで大きなテーマで一歩踏み出せないのだが、「これは面白い」と感じる背景には、なんらかの要因があって良いのだと思う。最近、振り回された申請書の中に「ゼロイチ」という単語があった。要は「何もない真っ白な環境から新たな何かを生み出す」という広大無辺な思考アプローチを実現可能にする能力を伝授するということなんだけど、この時代において、そんなもんが何処に落ちているのかと、大風呂敷愛好家の小生であっても、おこがましくて使えない。

当該分野の文献を探ってみると、今ある状況から本当にこう有りたい状況を考えることをゼロベース思考と言っていることが解り、はぁ、こんなことだったのねと力んだ自分が馬鹿々々しくなった。決してゼロベースではなく、純粋なフォアキャスティング思考である。未来をイメージすることからでは無く、現状認識、即ち、似非コンサルティング業者が使う「ペイン」という言葉からの出発で、何がゼロベースだと、本気で悩んだ自分の愚に失笑である。

まぁ、それであったとしても、こう有りたい姿を描くことはとても大切なことである。我が国の政治家の有り様を見れば「先ずこれを正せ」とか、「これは大きな罰である」とかね、何をこうしたらそうなるでしょうという、何のエビデンスもないところで声を張り上げるよりは、冷静に「これが有りたい姿である。その姿と今とはこれだけ違う」ということを示すのだから。勿論、それが何故成されなければならないのかと言う、ビジョンと目的が付随しなければならないのだけどね。申請書の基本の「キ」なんだけど、出来ていない人、出来ないアシスト人材ばかりでうんざりだ。

無茶と無理

何にどのように全身全霊を注ぎ込めるかで一秒の長さが変わるなと、この年齢になってようやくわかってきた。必死になるとか頑張るとか、当たり前なんだけど、どうも自ら努力したと、自らに説得し、そして納得できるのかというのは、内省から湧き出てくるものにマッチしないと、どれだけ時間を掛けても、その意識に到達しないと、今更なのだが得心出来た。理解から納得に至り得心する。そういうことなのだなと、馬鹿々々しいくらいに腑に落ちた。

小生が在する場所は、徳川の時代になって新田開発による納税記録が明確に残っているから、明確に歴史を紐解くことが出来て面白い。三つの池があって、その内の、最も標高が高い位置の池は環状道路の建設によって埋め立てられてしまっているのだが、雨の翌日にその脇を通ると、水が思いっきり染み出てきているので、その名残が明確に分かる。江戸時代の地図にもしっかりと描かれており、明治初期の陸軍測量地図とも合致して「ここは大地震で液状化するのだろうな」と判りやすい。

その新田開発と同時に行われたのが神社の創建で、毎年、初詣でをさせて頂く場所となっている。氏神さんだから、まぁ、最もふさわしかろうということなんだけどね。電子だ原子だなどと普段は騒いでいるくせに、神殿を前にすると手を合わせるのだから人とは面白い。人だったのか?という疑いはこの際置いておくとして、とある年齢を超えた頃から自然と湧き上がってくる気持ちがあるなと感じていた。それが内省から湧き出てきたものということなのだろう。

無茶は良いが無理はいかん。無茶と無理って何と言うか、同じベクトル上にあって、しかし、その絶対値が違っていて、無茶を通り越すと無理がやってくるのかと漠然と思っていた。無茶はその人間の本質であって、他の人間には理解されない領域の出来事で、無理は他の人間に理解されてしまうレベルで自らを暴発させていただけのことと、漸く理解できるようになってきた。無茶を続けていく。これこそが正しい生き方と得心した。ダイヤモンド表面にステップバンチングをCMPで表出させることが出来たのも無茶故だろう。自然は面白い。人も面白い。

地味が一番

プロセスインフォマティクスに対する憧れがあって、散々、古典的ものづくりを続けてきたので、折角、ここまでAIが深化して、その原理原則をイメージされたかたがノーベル賞を獲得されたりしたのだから、そろそろ計算機が「こうやったほうが良いよ」くらいのことを言って欲しいのだ。サボりたいという訳では無いのだが、ゴールに速やかに到達できるのであれば、報告のない研究分野においてだからこそ、AIに頑張って頂いて、人の代わりに天の声の如く導いて欲しいなぁと、そろそろ両足を棺桶に入れるので、楽をしてみたいものだとおもうわけだ。

AIを活用するマテリアルインフォマティクスの研究発表を聞いていて、実に面白いなと感じたのが、現場でものづくりを続けてきた方が、AIが提案した「もの凄く良いモノ」に関して「色眼鏡で見てしまって、信じられないから試さない」と、学習初期に痛い目にあったからちょっと推薦データをはじいてしまったとの現場ならではの声を聞いた。これは実にユニークである。確かに信じられないほどの予測をされたら時間の掛かるものづくりを避けたいという気持ちはわからないでは無い。

足下のお仕事なんだけど、地味に材料を粉末化させてみようみたいなことにおいて、経験値的にこうやったら良いのではと思ったことが、調査してみると「おや、こんな報告があるのね」みたいな出てきて、それも経験で導かれたことだったりするのだけれど、AIがどこまで学習しているのかということは極めて大切だなと感じた次第。まぁ、AIに聞かなくてもAIが教えてくれそうなことを一撃で見つけていたということで、生きていて良いのだなということなんだけど、地味に真面目に、そして丁寧にお仕事をしてきて良かったなと思った次第。

研究は極めて地味ですよ。地味だからこそ、思い込んでしまうと気づきが無くなってしまう。この道40年という方と話をさせて頂いて「なるほど、あなたの指摘で腑に落ちました。なんとなくそうではないかと思っていたのですが確証を得ました」と言われ、妙に嬉しくなった。図々しいお話だが、AIが10通りの手法を提案するよりも、自らが生み出した1つの方法がゴールに導いてくれている。その程度のことしかやってないということでもあるんだけどね。パラメータが無いからレフリーに文句を言われるけれど、小生的には解っちゃうんだから仕方ないじゃんと言うしか無い。政治と違って、研究は愉快である。素晴らしい。

聴き力

対話において、特に話し手の時には「Why?」には「Because」がなければならないと感じる。特に上から目線の諸氏に申し上げたい。単に「これをしゃべろ」と命令されても、こちらは聴き手に思った以上の答えをしようとするわけなので、何故それを聞きたいのかを加えて頂かないと、返答に窮する。そんなの自分で調べたらと付き離すだけである。答える義務は無いしね。お偉い立場だから「聞いてやってんだよ!」くらいの気持ちなんでしょうけどね、こちらもいろいろと仕事がある身なので、その時間を奪われるのは極めて嫌だ。

自らの他律機能を発揮させるためには「聴き力」は猛烈に重要である。それは話してと共鳴させて頂いて、お互いが高いレベルにおいて対話を行う力、機能である。何故、それを聞いたのかを問わねば、聴き力など発揮しようがない。相手の効き力を高める伝達力があって、初めて聴き力は効力を発揮する。いや、言ってしまえば、こちらの聴き力を喚起させない話し手は相手にしないのが良い。

学会などでは最初の30秒で結論を語らない者の話は聞かないほうが良いと言われるが、一対一の対話においても、何故なのかを口から出さない者には耳を閉ざすのが正式な対応である。自分達が欲しい情報だけを、知っていそうなやからから奪い取って、さも、自分達の活動の成果だと言いふらしたいのだろうが、自ら汗を流さず、知恵も使わず、そして人脈も無いみたいな輩に限って「教えろ」とだけ上意下達。おぞましい限りである。

巧言令色鮮し仁。いや、巧みでも無いから、この言葉は当てはまらないかもしれないが、もう相当にこちらに疲労が蓄積してきているから、言われる前にご退陣ということとなろう。ナーバスブレークダウンはお好みでは無い。よってまぁ、もうちょっとのお付き合いかもしれませんが、お次はよろしくお願いいたします。