自分がやりたいことは何なのか?と問われて「これだ」と答えられる人は幸せ者だ。それに気が付かず、人生を終える人が殆どであろう。そんな気がするのだ。研究者であってさえ「こちらが出来そうだからこれをやってみる」と自分が出来ることとやりたいことを取り違えてしまう。政府の片棒を担ぐわけでは無いが、研究者の任期を10年縛りにして、干上がらせるという現状は、「自分が出来ること」に注力してしまう研究者が蒔いた種から芽が出たということなのかもしれない。
「こんなことが出来たら良いな」と思ってやってきたが、その内の殆どが達成できぬまま、どうやらあちらの世界に呼ばれそうだが、達成できたものもある。だから幸せと想わねばなるまい。なんでもかんでも出来たのなら、それは望みが低かったということだろう。出来ないことがあることは幸せだ。低過ぎなかった望みであったということだろう。いや、さぼっただけかな?まぁ、それはおいおい考えることにしよう。最近、理化学研究所の600名が、雇用縛りで居場所がなくなるというニュースを拝見して思った次第だ。
博士を取得する経験を積んだ人間は「視野が狭いから採用できない」というのがお企業様からお聴きする「アンチ博士人間」の弁なのだが、博士って「博(ひろい)識」なんだけどね、本来は。それを狭くしてしまうのは、挑戦させて失敗を認めない風土にあるのではないかと感じている。失敗して委縮しないといけないような雰囲気がある。ベンチャーにしても、潰したら罪悪感を感じる日本だが、海外では当たり前のお話だ。研究テーマを構築して、それを進めていくプロセス全てが新たな挑戦であるから、思った通りになると考えることがおかしいのだ。思った通りにならないのは、視野が狭いだけ。
狭いから更に視野を広く持つ。経験者に頭を下げて教えを乞う。このあたりの当たり前さが無くなっているような気がする。解らないなら聞いてみる。聞くことは全く恥ずかしくない。聞かずに解らないままほったらかすことの愚かさを恥じ入るべきだ。研究者ならね。その道の先人は痛みを知っている。先人だからね。後人に何時かは道を譲るから、それまでは露払いで突き進むというのが先人の喜びでもある。後人はどんどん先人を活用すればよろしい。知恵のバトンが尽きようとしている。それが今の日本の学の世界の有り様に感じてうすら寒い。