時代は換わっていますよ

現在が第4期中期目標・計画期間なんだけど、第5期は本気で本社は首を切りに来るのだろうなと感じている。本来やるべきことを腰を据えてやるのが良いのだけれど、大切なのは腰を据えた結果、どんなアウトカムズが生まれたのかと言うことだ。そして腰を据えてどんなアウトカムズを産もうとしているのかだ。単に必要と思うからなんてことでは許してはくれない。我が国の教育に必要なのだ!なんてこぶしを振り上げても、大きな足で踏みつぶされて試合終了である。

若者が動かないから、動く教育を見せろという。それはそうなのだけれど、雨後の筍よりも増え続けるAI・IoT人材なのだけれど、それは間違ってはいないと思う。ただ、猛烈に、強烈に発展が続く分野において、よーいドンで自国で出来る基礎教育をスタートしたとして、4年後の卒業時に、その基礎で応用に対応できるのか?半導体分野と同様に、太刀打ちできないなんてことになりはしないか?今、大学で初等教育で成そうとしている情報分野教育を中学・高校にシフトして、大学ではもっとウルトラに挑まないといけないのではないか?

国が主導でやらないといけない。教育に掛かる相当の予算をつぎ込んでやっていかないといけないことであろう。ただ、妙なばらまきと言うか平準化と言おうか、尖がったお金の使い方をしないこの国の事だから、結局、手は打ったが世界に負けてしまったという、いつもの繰り返しなのでしょうね。全ての産業界でAI・IoT人材が足りないなんて言っているけど、それって10年以上前から解っていたことで、AIやロボットを導入すると失業者が増えるからなんて言っていてこうなっちゃったわけだよね。

ロボットにしろ専用機にしろ、人が近くにいてはいけないのだ。人体から排出されるナトリウムをはじめとして、様々な原子・分子はエレクトロニクスを破壊する。特に繊細なセンサに悪影響を及ぼす。すると工場は無人化に向かうわけで、世界はとっくにそっちに舵を切っている。勿論、人が介入する部分はあるが、従前のように人が群れているものづくりの場は限られた領域となっていくのはやむを得ない。自分を現場に置かない在り方を工学の学びの場では獲得しなければならない。それは歯のくいしばりと血のにじみ無くしては得られないのだ。当たり前だ。

アルディーノ

T市のイノベーションセンターは、しっかりとした地元中小企業様へのサポートをされていて、その活動状況をお伺いして意見交換をさせて頂いてきたのですが、この春から漸く卒業させて頂いて、次にバトンタッチをさせて頂いた。コロナ禍発生からオンライン会議になったのだが、そうなる前のことだ。アルディーノという、まぁ、ラズベリーパイより低能力なんだけど、目的によってはこれで大活躍というワンボードマイコンを活用して、現場のDXの指導をしているという事例をお伺いした。

その半年くらい前に、M市のお弟子さんが機械の稼働量を可視化するツールをアルディーノで作って、工場が活気づいたというお話を聞いたばかりで、小生もなんかやってみようかなと思って、そのままほったらかしていた。なんかやってみようというレベル感で、なんかやった奴は居ないわけで、最近、これをやってみようというターゲットが出来たもんだから、久しぶりの機械制御にわくわくしている。

枯れた商材で、コンパイラなどもとても使いやすくて、ネットでの情報も溢れかえっていて、すぐにでも取り掛かれるリカレントで頭の体操になっている。学生時代には初期のC言語であれやこれやと機械制御をしていたものだが、40年ぶり(もうちょっと少ないかな?)でもやっていると思い出されてくる。リカレントとしては丁度良いタイミング・・ということでもないが、やることがある内であれば実益ということで、やる気はかなり高くなる。

考えてみればモーター制御ドライバなどが簡単に手に入り、電子リレーだの何だの、モノタロウで一日でやってくる。その道の方には何をいまさらということなのだろうが、面白がった者勝ちだからね。エレクトロニクスに対する妙な知識はあるしね。何かピピっときたものがあったら、それを温めておいて、何かトリガが掛かったら、一気に取り組んでみるのがよろしい。会議でごちゃごちゃと後ろ向きな話をするよりずっと精神の健康を獲得できる。活動の場を換えてみる。大切なことだ。

集中力

久しぶりの連休ではありましたが、やっているのはいつもの通り、書類との戦いと言うか、本社から頂戴した有難いお仕事と言うか。まぁ、それなりのお仕事を頂戴するということは「それなり」の者ということなのかもしれませんしね。嬉しくは無いけれど、過去、先人にお願いさせて頂いていたバトンを受け取ったということで、そのお役を必死に勤めさせて頂くということですな。

歳を重ねるごとに「休暇」という状態から遠ざかっていると感じますな。喜ぶべきなのかもしれませんが、もうちょっと突っ走り続けることに疲れを感じるというか、もういいでしょうというかね。先人からのバトンということを考えてしまうと、まぁ、受け取るしかないのでしょうけれど。いずれ代役は必ず現れて、お前なんぞいらん!と言ってくれるのをひたすら待つということなんだけどね。

本社のお仕事に限らず、大抵のおかみのお仕事には締め切りがあるもので、信じられないストレスになるわけですよ。それでも電子化されてきていて、送り返せとか処分しろとか言われなくなっただけ、ほっとするところがありますな。10年前は確実に紙の世界だった記憶があるのですよ。なんか、アマゾンの配送と見紛うばかりの巨大な、重い箱がどかっとやってきて、10日間で評価しろとかね。今では流石に電子化されて重量からは逃れられてはいるものの、「何処でも出来るよね」という圧力はすさまじい。

兼業扱いになって職場のお仕事とは切り離されるわけだから、基本、深夜か休日に戦うことになる。中身にはふれられないけれど、見事なものだなというところから、時間泥棒のレベルまでスペクトルが広い。その経験は間違いなくお仕事に、自然と活きるものだから、組織にとっては決して無駄にはならない。若手支援とかになっていくわけなんだけどね。先の三日間は天気が宜しくなくて、諦めがついたからよろしい。職場に行って嫌味を言われるよりずっと良い。連休と言う名の労働細密充填状態であった。

安心と安全

丁寧な研究が良い。丁寧であればあるほど、新しいことが見えてくる。先日大先輩の彫塑家の方のお話を頂戴したのだが、漱石の夢十夜では無いのだが、入っているものを削り出すのが彫刻で、それはマイナスである。彫塑は足して作るからプラスである。それを美しく作り上げるのが彫塑家である。結論が決まっているのが彫刻家、結論を創造するのが彫塑家。妙に腑に落ちた。

ビジョンからバックキャスティングで素晴らしい社会を描き、そこに到達するためにはどんな要素技術が必要なのか?それを見出し、そしてそれを解決していく。未来を想像し、新しきを創造する。ビジョンを達成するという大きなお話であるから、一つの要素技術でなんとかなるものではない。積分していくわけなのだが、今、全てが揃うわけではない。次世代の研究者にバトンタッチということになるが、それを受け取る者が出てくるかどうかも分からない。彫塑家と研究者の違いはそんなところか?

開発はゴール設定が「売れ続ける」というところにあるわけで、研究とは全く違う。これも先人がずっと前の学長が「気軽に言うな!」と怒号を上げられたのではっきりと覚えている。先人の教えに無駄は無い。「研究・開発」という連語を当たり前の如くに使った者に対して、「研究と開発は全く別物だ。そんなことがわからんのか!」という、これも腑に落ちた。

もう一つ、「安心・安全を御社は作ってますよね」ということに対して「安全は当たり前、安心は到達し得ない」と世界トップの商材を世に出し続けられた方の重い一言は忘れられない。安心に到達する為に、プラスし続けながら、時にはがらっと入れ替える必要がある。売り上げでは無い、人の安心は時代によって世にある道具が変わるのだから、安心への因果関係が変わる。だからそこ研究が必要なのだと。宿題の締め切りをとっくに過ぎて、取り繕うかのごとくに発表の前日に提出してくるような輩が作る商材に安心は皆無だ。それは間違いない。

学べ!

インバウンドでお金が入って政府は正しい政治の力だなんて、一方の側面だけを報道させる。マスコミは国家犬であるのは明々白々で、政府に都合の良い切り口で国民を惑わす役として活躍している。ゲーム脳化によって自ら思考することを好まない若者気質はSNSで制御可能であるから、無限に続く円安傾向にWhyを突き付けられないでいる。例えばインバウンドだって、検索サイトのツールは米国製だったりするわけで、使えば使う程サブスクで実は赤字になってしまったりする。

どこからお金が入っているかという目に見える実体は氷山の一角以下で、それよりも見えない出費が凄まじいことを正しくマスコミは論じるべきだ。と言っても、お堅いお話を好まない国民となってしまっているのだから始末が悪い。活字が並んだだけで眩暈に襲われる国民性である。どうしようもない。その中においてリカレント・リスキリングだと叫ぶのだから狂気の沙汰である。

どこまで円が安くなるのか、ここまでくると面白半分で眺めてしまう。自らの国家の凋落ぶりに溜息どころか失笑している段階に入ってしまっている。しかしだ。どんなに頑張って地面を掘っても石油がじゃぶじゃぶと出てくる国では無い。資源は人とその知恵しか無いのだ。その知恵を磨くことに力を尽くしていこうという気持ちは失せてはいない。むしろ、必死である。

学ぶことである。今まで興味を持ってこなかったことでも何でも良い。無茶と思う事でも、深く学べば面白いのだ。面白いと感じるところまでは苦行なのだが、その苦行の先が楽しいのだ。人生は極めて短い。瞬間芸である。その瞬間芸をどれだけ深く楽しむのか。それが大切だ。時間は有限で、誰にも平等である。学ばねば自らの国すら無くなってしまうかもしれない。当たり前など何も無い。学ばねばならない。

商社マン

その昔は、出入りの商社の方は靴をすり減らして、人の幸せの為に素敵な商材を求めて、世界中を飛び回り、知識を得て、何かの求めがあった時にはその知識を発揮して頂いたものだ。また、高いレベルの要求こそチャンスと捉え、親身になって商材探査を共創していた。ところが近年は、持ってくれば良いという状況で、足りないものがあろうがなかろうが、言葉不在で置き配していく。これではアマゾンに勝てるはずがない。

ちょっとやってみようかなという、まぁ、お試しと言うのだろうか、そんな実験も多々ある。気になるとやってみるのだが、これが案外、的を射たりするのだ。考えて考えてなんていうのはなかなかどうして、うまくいかない。うまくというのは思った通りと言うことなんだけど、シンプルが一番に決まっている

必要な要件は全て満たさないといけないから、そればバリューブリッジの最下層に埋め込んで、必要な要求項目は全部満たすことになる。その満たし方が問題で、複雑であればあるほど、経験なのだが、ゴールから遠ざかっていく。シンプルがよろしい。取り去るというよりも、根っこの部分から単純明快が宜しい。すると答えが浮き上がってくる。

そんなお話をしながら、その昔は商社マンと「こんなことになると思うのだが」と話をさせて頂きながら、そして育って頂きながら。企業の外回りの方だから、当然のことながら、担当が変わっていく。偉くなっていく。それは喜ばしいのだが、そんな時代を懐かしむようになってしまった。今日この頃である。

偉い人

暑いと仰るのですね。そりゃぁ38℃という、体温より気温が高かれば、暑いと感じるのは当たりまえ。その当たり前が極めて不愉快なことがある。私はとても偉いのだ!と言われて、それはそうかもしれないけれど、天下無双に偉いのだと言われると、東大出身のO先生の好き勝手な暴言を思い出すが、目の前の方の悲惨さは、某大学ご出身らしく、まぁ、そんなもんだ。

思ったのだが、某大学で通用する「こんなに凄いんだぞ!」という仕組みが日本中で通じないというのはおかしなお話だ。夏休みが迫ってくると、長良川に体を浸してみると命をもっていかれるみたいな、そんなお話がまことしやかに語られるが、鵜飼という千年の歴史の中で、人間を鵜が飲み込んで獲物認定したなどと言うことは聞いたことが無い。

東海地域って、海外からみても特異な地域で、自動車だけで生活が成り立つという、過去の遺物なんだけど、でも、未来にもその有様を獲得している。ちょっと未来を考えて、歌など歌ってみても、確実に昨日、過ぎ去ったはずの過去が、目の前にあるような、そんな日本の有り様に悪寒が走る。

最近、どんどこいろんなお役をお断りしている。いろんなことを考えて、これを見ろ!と言いたくても、まぁ、爺のお話など、聴きはしない、それは当たり前。そんな時期が目の前にきて極めて愉快である。必死に生きてきた経験は過去のものである。未来ある若者達にこそ思考を続けて頂きたい。どんな未来がくるのやら。楽しみである。

思考は続く

不可思議な出来事と言うか出会いと言うか、産学官金連携に関わらせて頂いていると、それは、まぁ、しばしば遭遇する。その多くは誰かさんが「良い人」ということが発端になっていると、身から出た錆的なことなんだけどね。不可思議を通り越して酷い事例においては、どっかのお偉い先生がコンサルティングで起業して「私はあいつを知っている、逢わせてあげよう」みたいなね、そう言っといたからあってやってくれとか意見をくれとかね。それはもう、全部、お断りをしているが、不可思議なレベルは、面白いと苦行の境目にあるから返事が難しい。

不可思議な出会いは自然発生的に生じるわけではなくて、多くの場合、断れないような流れによって生まれて、事前情報が中途半端と言うかほぼ与えられず、先方もなんだか分からないみたいな感じで生まれる。出会いだけではない。出会いには当然のことながら内容があるのだ。この内容に関しても、なんでそうなってしまうのかという、謎が謎を呼ぶような、だからこそ不可思議と言えるのだが、思考しなければならない義務が生まれて、音もなく覆いかぶさってくる暗闇となって襲ってくる。

例によってタイムマシンには乗れないので、やっぱりお断りというわけにもいかず、バリューブリッジを創り始めるわけだ。出来ないと悩むことは大嫌いだ。悩む人も大嫌いだ。小生にやってくる要求なのだから、自分だけがT社から仕事が欲しいというこずるい輩では無い。社会的意義も価値も高い内容なのだから、前向きに思考を進めることに価値があることは言うまでも無い。だから価値から技術を思考して、今、現在、身の回りのツールをどう使い、価値に迫る工夫はどうあるべきかを悩んでみるのだ。

不可思議を不快と思うか愉快と思うか。愉快と思うしかないのだ。そう言い聞かせてはみるものの、新規、いや、新奇なものを発想するのは苦行でしかない。それを自分のことと言い聞かせ、思考を続けることになる。いろんなToDoが襲い掛かってくるわけだが、襲われるきっかけを自ら作っているのだから我儘は言えない。しかし、それはあなた方のお役目でしょと、放棄されたお役目が押し付けられることもあるのだが、それには徹底的にあがなっていく。バトンタッチである。

合唱

夏きたるという空気感で、梅雨明けはしていないということなのだが、それは人間が勝手に作った基準を定規にしているだけで、天然自然の「蝉」の皆さんは、もう暑くなったよと、夏なのだよと伝えてくれる。46億年、同じようにということではないのだが、歴史は繰り返して、人間の寿命のたかが100年の間の変動など、自然の産物にはかなわないのだ。だから天から教わることを信じて、夏がきたことにしたい。

折角、気温が勝手に上がってくれているのだから、気温が高い時にしか出来ないことをするのがよろしい。エアコンで制御された部屋で、一年中キーボードをたたいているなんて言うのはAIさんがやってくれれば良いことなのだ。人間は少しは野性味を持たねばならぬ。汗をかく季節にはせっせと汗をかくべきだ。そう思っても、そんな指導をしようものなら、ハラスメントだと訴えられるのでそれもままならない。

夏に行ったほうが良いのは書類作業であるはずは無いのだが、この季節、様々な審査書類が巡ってきて、土日に取り組むことになる。そんな時に蝉の大合唱が聞こえるとしょげてしまうので、多くの方々には申し訳ないのだが、雨で出かけるのがおっくうになってしまう方がよろしい。勝手極まりない考え方である。

夏はBBQなどを河原など、自然の中でするのがよろしいが、最近は極めて管理された空間でのみ焚火が許されるから、遊びに行く気にもなれない。遊ぶことまで管理され、仕事のみしていろと押し付けられている状況で、人類の繁栄などありようがない。多様性が許されない悲惨な状況に地球はあるのだが、赤道直下に集まって、みんなでBBQなどをしゃれこんでは如何か。仲良くなって戦争など馬鹿馬鹿しくなるのがよろしい。そう思う蝉の合唱である。

登り坂にて

自転車通勤の良さは、鉄道の時刻表に縛られずお仕事に取り掛かれることにある。健康云々もあるのだが、13.5kmもの山坂を越えて往復することに対して、某肉体製造の専門家に「週二回くらいにしておいたほうが良いぞ」と言われたので、身体を酷使しすぎという可能性もある。年齢も考えねばならぬのだが、それでも地下鉄の始発時刻に縛られないのは快適この上ない。

働き方改革ということで、コアタイムを無くして週に自由になる日を三日に出来るようにT社さんが挑むそうだが、それはとても素晴らしい。大学人も得手不得手があるのだが、得手を様々な事業所で活きるような改革が望ましい。研究費獲得競争に疲れちゃったとかね。そんな方はもしも講義が得意技ということであればそれに専念していただくこともありなのだと思っている。

無理を通せば道理が引っ込むのは当然のこと。提案書の私物化などはもってのほかだが、全体を俯瞰的に見る能力だったり、微に入り細を穿つ能力にたけているとかね。いろんな能力が活かされていくことが、労働の効率向上に繋がるのは間違いない。人事評価が大変だとかね、そんなことを言う人事能力の皆無な方が人事課に居てはいけないし、アンチ他人な方が「なんとか」長になっていてはもっといけない。

古さが際立つ我が国であるが、何も学ぼうとしない、いや、学ばせようとしないことが、古化を加速させている。三日自由になる時間の獲得で、学び、そして自らの能力を他律として活用し始める社会の到来こそ望ましい。というような御大層なことを八事の坂をえっちらほっちらと自転車を漕ぎながら考えたりもする。苦行は思考を楽しめるのが良い。下り坂より登り坂が良い。そんなことを思った。