電力を欲しがる限り

終わる気配のない戦争で、オイルショック以上のエネルギー危機がやってきた。化石燃料云々を1960年度消費量まで下げないと、環境保全が出来ないということだったから、一気にそれを目指したら如何かと思ってしまう。それを定常状態として、どのような経済活動が出来るのか、世界中で挑戦するのが宜しい。不自由を獲得するための人の移動においても多大なエネルギーを活用するわけで、GoToキャンペーンなどはとんでもない。情報ネットワークでのデータセンターもとんでもなくエネルギーを使っているわけだが、はやりエネルギーレスなどは実現不可能だなと不本意ながら思うのだ。

自然エネルギー発生に関しては、日本は極めて遅れていて、それは原子力発電を維持するためということなのだが、国際安全性という観点で、原発は極めて危ない代物であることが明らかとなったわけで、これまた廃止、撤去するのが良かろうと思う方々も多かろうが、これを完全に止めてしまうと、エネルギーバランスが極端に悪くなって、CO2を目いっぱい排出する国となるのは、東日本震災の際を思い出せば明白だ。

しかしだ、その燃やすものが入ってこない状態になると、原子力に頼るしか無くなってくる。原子力も駄目となれば、これはもうエネルギーを使わずにどうやって物を作るのだということとなる。やたらとダムを作りまくって水力発電でいこうと思ってしまうが、それをやると川は汚れ海の生物も居なくなる。ダムは便利なツールではあるが、ヘドロ溜まりにもなるし、自然を破壊する事この上ない。結局、電気という便利なエネルギーを創り出すには、何らかの不便を人間は獲得しないといけないのだ。

エネルギー危機と言っているのは電力発生危機であって、電力を使わない状況になれば、何の危機も発生しないのでは無いか。しかし、便利というものを人類が手放さないのであれば、地球環境を破壊する方向に進むのだ。どれだけダメージを減らそうとしたとしても、人類の便利を獲得する意識が変わらない限り、電力発生危機は続き、温暖化も留まることはない。パイプラインを伝ってやって来る筈であった天然ガスが停まってしまうと、8%のガスエネルギーが停止となる。それから生み出される電力が失われるわけで、その影響がどんなところに現れるのか。じっくりと俯瞰してみたい。

新駅誕生にて

小生は鉄ちゃんという程のことではないのですが、新幹線が開通されるたびに、並行する路線をJRが運用しなくなって地域の足が消失していく。GoToで首都圏の大きな人数を地方観光都市に大量輸送すれば、企業としての利益は上がるので、企業としては問題無いのでしょうけれど、地元に根付いた鉄道が無くなるというのは住民の皆様にとってはとんでもないことですよね。小生の場合は、駅が無かったところに駅が出来たので、その便益向上の凄まじさを実感するし、突然、無くなった時の悲惨さも解る。

富山駅周辺も同様のことで、新幹線の開業に伴って経営が分離されて並行在来線となって、今は、あいの風とやま鉄道として株式会社化している。新線ということではなく、経営を担当している会社ということなんだけど、採算が合っている筈も無く、応援するしか出来ないもどかしさだけがある。この鉄道事業なんだけど、恐ろしいまでの車検制度が営業を圧迫しているって知られていることかしら?と思って書いてみた。

最初に気にしたというか知ったのは大学生の時に、新幹線のパンタグラフの、架線との接触部の部品の摩耗が凄まじく、それは「それこそ毎週取り換えるくらいの勢いだ」と聞いた時からだ。実際にはもう少し寿命は長いらしいが、確かに時速300km/hで金属同士をこすり合わせるのだから、その摩擦エネルギーは想像を絶する。パンタグラフが導通線に接したり離れたりする瞬間にミクロな隙間で大気がプラズマ化して、パンタグラフとその接触部の部品との間に特有の、電気的スパークで削られて失われる現象がおこるとも聞いた。同時に技術の面白さも実感した。

車両全体となると何十万km走行ごとに部品点検となり、一車両の車検代金は車両台数にも依存するけど、億近い金額になってしまったりする。一体、どれだけの乗客が乗ったら採算が合うのかって、新駅を作ったあいの風とやま鉄道に思ったのです。新駅は一日当たり乗降客を2500人と見積もっていらっしゃるとか。鉄道収益だけでは絶対に無理で、並行して行われるイベント収入などが重要になりそう。でも鉄道と人との関係は無くなって欲しく無くて、とっても応援したいのですよ。新しい駅が出来る。そこで人の想い出が出来る。そんな社会構造が続いて欲しいなと願う、新駅のお話で御座います。

古木

時々出会いたくなる、それが古木。樹齢千年の迫力は半端ない。地域神社の伝承に過ぎないから本当にそうなのかどうかは分からないけれど、土地の伝承と言うのはそれなりの正しさを持っていて、地域の誇りとなって守られた古木は、その土地そのものを見守って、そして見守られて千年の命を繋いできた。それを目の前にすると、ただただ首が垂れる。そして触れて、千年の間にそこに集った方々の祈りを感じることが出来る。精一杯生きること。時代時代にそれを思った人々の願いが、土地の古木に宿っていて、それを感じることが出来る。 

愛知県には沢山の古木・巨木があって、それを巡るのが、何というか、愚痴を聴いて頂けるというか、そう、たった一人、頼りになるというか。動かないんだけどね。そんな気がするのですよ。千年の歴史にはかなわないなって。そりゃぁそうだって。そこにじっと千年も居るんだよ。どんなに頑張っても十数分の集中力で途切れる人間に対して、じっとそこに、千年以上の忍耐をもって、旱魃で喉を乾かせ続け、豪雪で心も凍るような重荷にも耐え、そして今も凛としている。かないませんよ。

街全体がその巨木に見守られ、そして守っている。守り守られ。20年前に一度行ったきり、日曜の午後に突然、会いに行きたくなってステアリングを握って1時間。20℃を越える気温の中、窓を開ければ黄砂とスギ花粉が吹き込んで、曇った空気感の中、愛知県の中をうろつきまわる。海際の巨木と何か違う雰囲気なんですよ。寒さに耐えて、何というか、地味な雰囲気があって、古木、かくあるべしというか。街並みも旧街道が一本通っているだけで、開発と言う雰囲気は微塵も無い。しかし、暗い雰囲気はない。

今年は2月が特に寒く、今、梅がどこもかしこも綺麗ですね。移植されて増えている河津桜も満開に近く、梅と河津桜の共演で、山道の楽しい事。都会の作られた公園では無く、必然的に出来た里山の整然とした生活感が美しい。野草のすみれもいよいよ咲きだして、足元に気を付けながら歩むのはとても楽しい。時には命の洗濯も良かろう。これくらいは許されるのではないか。そんな休日を過ごさせて頂いた。感謝である。

54.4%

少し遅れて統計が出てくる日本の大学の進学率。出どころは言わずと知れた本社様ですな。2020年度の報告なんだけど、我が国の大学進学率が54.4%で過去最高なのだそうだ。過去最高!と素晴らしい事の様に語られているのだが、「それだけ?」と余りの少なさに驚いた。短大まで含めると64.1%なのだそうですよ。米国では88.3%、韓国では95%ですよ。大学って国の未来のための人材育成機関だったよなと思うと、なんだか恐ろしくなる。「ダイヤモンドオンライン」記事に依れば「大学進学が経済的不合理だから」とのこと。

要は生涯賃金を高卒で就職した者と大卒とを比較すると若干大卒が平均すると高いのだけれど、大学進学に要した費用を取り戻すまでの時間が極めて長いということだ。平均して50歳半ばまで取り戻せないという。予備校の費用だったり私学の中学高校だったり、それを加えて、積算していくととんでもなく費用が掛かる。俗に1000万越えと言わるんですけどね。高卒者と大卒者の平均生涯所得差は2000万円程度と言われているのだけれど、結局のところ早く手に職付けて活躍して、単位だ何だとどやしつけられることなく頑張れる方が良かろうということだ。

これは教育界と企業との関係性にも大いに問題を感じるわけだ。大学が入学者に対して地頭を強くして、かつ、専門知識を与えていないのでは無いかと思われているからで、大学院出の平均初任給は米国の5分の1である。博士に至っては修士卒で務めている同級生が、3年後に博士取得者となった者が入社すると、上司となって見下してくる始末である。これ程、専門知識に対して価値を置かない企業の価値観が改まらない限り、日本人の地頭はどんどんとレベル低下していくんだろうなと思っている。

日銀が必死になって進めてきていた「物価高日本」はコロナ禍と戦争であっという間に達成できてしまった。ただし、企業利益は下がり(多くの企業は)個人の給与所得は上がらないままなんだけどね。従業員が長い年月を掛けてスキルを高めることが出来て、学び直しが自在にできて、兼業も認められて自己実現に向けて頑張れる社会を目指したいのだけれど、それは遥か彼方。バブルの時代を覚えていますよ。企業さんが「大学生に色を付けるな、教育は企業がするから」と仰ったこと。そのツケが今、日本の負債となって出てきていることを政治家は意識するべきだし、本社も何でも支社に丸投げして疲弊させるようなことをしなさんな。そう思う。

少年に告ぐ

世界を見渡すと明るいニュースは全くない。だからまだ来ていない未来に明るさを見出したい。結局のところ、人が人の為に尽くして、それがまた他の方々に良い伝播が発生するような、そんな教育を受けた者に溢れる社会になったら嬉しいなと思っている。自分だけの価値観を大切にし過ぎることなく、他の方の幸せを大切にしつつ、それを更に大きくして、お互いが尊敬し合う事が出来るような社会が実現していたら嬉しい。

理想を言うなと言われそうですが、理想でも言っていないと暗くなるし、そもそも戯言だから何を言っても良かろう。ストレスフルにならず、例えそうなったとしても「大丈夫だよ」と言ってくれる人が近くに居る。心が折れる人が居ない、そんな社会が宜しい。メタ空間ではなく、リセットが利かないリアルな社会である。その中において、結局のところ、思いやりに溢れた社会と言う事であろう。その為にはリスキリング、リカレントが常に許される勤務体系が必要だ。兼業もどんどんと認められるべきだ。自分の価値を社会に知って頂く機会が多くあるのが良い。

小学校に導入した廉価な電子パッドが故障しまくるなどは最低のお話だ。旧態依然の作業を手放さず、電子化によって消えているべき作業が延々と残り、新しい事に挑戦できないでいる。それで賃金を上げるべきなどと言ってはいけない。新しい喜びを社会と共に創造し、それに挑むことはとても労力を必要とする。労力を今まで以上に掛けないといけない仕事に挑戦するから賃金が上がるのだ。今と同じ作業で上がる筈は無かろう。何か頓珍漢な議論がTVの向こうで展開されているのを見るにつけ、やっぱり暗くなる。旧態依然はもう宜しい。

小学校のお話を出したついでだが、Z世代と言う事で電子ツールを活用することを否定はしないし、もっと最先端のものに触れれば良いのにとは思うが。ただ、世の中の全ての事が画面の中で完結するとして育ってほしく無いのだ。そもそも電子機器を目に見えない回路も含めて、人が作った機械で作られているのだ。今のところはね。かなりの自動化が進んだが、全てがロボットで作られているわけではない。人が人の為に考え、それを活用した人が喜んでいる。そんな世界は無くなって欲しく無いし、続いていって欲しいと願っている。

月夜も曇る

再来年の今月今夜の月を曇らせる程に、ダイヤモンドは男子にとってろくなもんじゃないことは周知の事実である。永遠の輝きとか言っちゃうのは女性陣なわけで、男性陣にとっては、まぁ、ご活用できるような御仁に任せておきまして、小生の如くのモノづくり屋にとっては、単なる道具だなというところ。この道具にしてもろくなもんじゃないことが多い。それは言わずと知れた潜傷問題。これが極めていやらしい。

どれだけいやらしいかと言えば、殆どの方がご存じ無いというところが何というか困ったことで、とあるスーパーニッチな分野の方々にとってはにっくき潜傷なのだが、それよりも脛の傷を気にする輩の方が多いかもしれない。半導体の基板加工に関わっている人で知らない人は居ない?のだが、同じ、ダイヤモンドを使って作るものに「工具刃物」があるんだけど、こっちの方は、ほぼ誰も知らないというか故意に無視されている。理由は簡単、それが無くなってしまうと刃物の売り上げが落ちるから。

タングステンカーバイドという地球上でもっとも硬質の金属をコバルトをバインダとして固めた塊を、マイクロメータ―オーダーのダイヤモンドを混ぜて作った砥石でがりがりと削っていく。硬いタングステンカーバイドの粒を断続的に尖ったダイヤで研削していくのだけれど、これが時々欠けたりするのですな。するとダイヤモンドの結合エネルギーが爆発的に放出されて、将来、刃物となろうとするタングステンカーバイドに傷を作っていく。100μm程の深さにまで達するのだけれど、表面からはそれは解らない割れ目となって内部に存在するので、潜む傷と呼ばれている。

いろいろな工具刃物の表面金属層を丁寧に剥がしていくと、最も凄まじく潜傷を持っているのがK社さんの刃物。これはもう「こんな物を売っているのは犯罪だろう」というレベルなのだが、まぁ、営業妨害となるので、何処とは言わない。高価な刃具なんだけど、10個の内で2個使えたら大したものだろう。ダイヤモンドは実は化学反応性もとても高くて、だから自然に出来るんだけど、鉄やタンタルなどとこすり合わせると、ものの見事にすり減っていく。脱炭と呼ばれる現象が起っていく。化学反応の目線で加工は考えるべきだ。特にこれからのものづくりに関してはね。そう思う。

知恵の価値化

「アイデアは無料」という発想が、この国では当たり前となっている。「ご相談が御座います、これはどうしたら良いでしょう?」と聞かれて、「こうやったらどうでしょう?」と言おうものなら、「それはそれはご馳走様でした、一番、お安い事業者にやらせまひょ」と言ってさっさと帰っていく。まぁ、面倒が無いから良いのだけどね。とは言うものの、知恵にはお金を払わないという考え方で本当に良いのか?

良いと思っていませんよ。何度か同じことを言っている気がしますが、アイデアだったり情報収集だったり、それには相当の労力が掛かり、時間も相当に食う。情報収集にあたって、ご相談させて頂く方々は、それまでに培った人脈だったりするわけで、それだって、その方の知的財産であるのは間違いない。それに対して少しは敬意を払っても良いのでは無いか?敬意を払えとは言わないが、お金は払ってねと言いたい。

未来を一緒に考えて、そこに向かって開発案件を共有して、それぞれの得意なところを分担しあって合体させて、まぁ、お金儲けはお企業様にお任せになるのだけれどね。将来のお金儲けの片棒を担ぐわけだから、未来の稼ぎを先に頂戴と言うことだ。所謂、知恵の「価値」にプライスを付けて、その分を先取りさせて頂きますねということだ。まぁ、Tier0企業だけが親の層獲りが当たり前の社会だから理解されないかもしれないけどね。

DXだって、自社だけに留まっていては駄目で、それぞれが生み出す価値を数値化させて、最終製品が得る純利益を、その価値の数値化に見合った配分がなされなければならないのだ。それがされてこなかったから、働けど給与は増えず物価は上がるなんてことになるのだ。思考は有料です。よろしくお願い致します。

ポジション考

世界の国々がどちらを向いて日頃活動しているのかということが、大国が戦争を仕掛けた時に明らかになりますな。日頃、笑顔で握手していても、実は100%の信頼性があったわけではない。手を結ぶ相手はマルチにあって、エフォート管理の如く、こちらを減らしてあちらを増やすみたいなね。現状の戦争を、後の人達は何と呼ぶのかわからないが、あってはならなかったのは間違いなくて、誤った指導者を持つことの悲惨さを改めて認識できた戦争であったということだ。大なり小なり、指揮系統の上下というものがあり、自らがこのような理不尽を発生させていないか、気に病むところでもある。

実は強い人なんて居なくて、みんな同じなのだけれど、なんというか、背負ってしまった「何か」が人に憑依して、人がいつの間にか「何か」になってしまう。人と「何か」は全く違うのに、人と「何か」がイコールとなってしまうと、行きつくところまで行ってしまうと今回のような戦争に至るのだろう。生まれた時には真っ裸で、誰彼の区別など無いのだ。個性も価値観も無く出発する。生きていく間に関わる人間の影響を受け、徐々に自我が構築されていく。集団生活を通じて自分と同じ背格好なのに、自分とはまるで異なることに喜んだり感激したりする人間の存在を知るようになっていく。

学校と呼ばれるところまで年齢を進めていくと、好ましく感じないルールを強要されて、全てが同じ形のジグソーパズルの如くに精神を捻じ曲げられていく。人と異なることを「異常」と認定され、異端者と呼ばれはじかれていく。異端者と呼ぶ側の中核人物はリーダーと呼ばれるようになり、異端者狩りの先頭に立つ。それが高じていくととてつもないポジションが憑依して、ポジションが人となり、そのポジションに支配されてしまうと、ポジションが憑依した人間から離れることを拒み、従わない者を全て異端者認定して突き進んでいく。自らの完成された価値観を貫き、自ら創造した価値を強要していく。

上位ポジションが守るべきはポジションでは無い。組織の構成員であり、その組織そのものである。ポジションとそこに就いている人は別のものであって、ポジションが実施するべきミッションを、自らの価値観で色を付けて、組織を前向きに変化させ、社会の変革を前取りしていくことが人の役割である。ポジションが前面に出てしまうと落としどころが無くなっていく。価値観を信じて頂いている構成員を裏切ることなく、疑うこと無く、一歩一歩進んでいくべきと認識する。どう色眼鏡を掛けても日本の地位が下がり続ける世界情勢の中、巣立った若者達にこの国を背負わせて良いのかと悩んでしまう私であります。

プラスチック考

一時、いろんなニュースサイト等で話題になっていた海洋マイクロプラスチック問題。国連環境総会でプラスチックごみ対策として、法的拘束力のある国際協定を2024年までに作ることが採択されたそうな。採択決議には日本から提案された内容が多く盛り込まれたとの事だが、単にそんな方向性の国際条約を制定しましょうねということが決まっただけだから、これから作られる具体的な内容を見ていかないことには、例によって骨抜きになるのでは無いかなという懸念しかない。

何しろ、プラスチックをはじめとした石油由来製品は、その製造は量産性に極めて優れ、それを扱う企業も膨大な数があって、内燃機関を無くすぞって言っただけでひっくり返る世の中なのに、プラスチックの持続可能な生産と消費を実現しましょうなんてどうするんだろうね。陶器だったり、木製品などに使われている、塗料だって環境破壊族であるのは間違いなくて、何処まで人類が本気で取り組めるのだろうと、究極の便利ツールにノーを突き付けることができるのか楽しみではある。

チップにして山に戻すしか無かった間伐材を、割り箸にしたら「勿体ない」とかね。そんな頓珍漢を繰り返す我が国がどれだけ本気で取り組むのかな。プラスチック産業で収入を得て生きている人口がどれだけいらっしゃるか。玩具類やお土産物などだって、いずれはゴミになってしまうわけだけど、それらをビトリマーで作って完全リサイクルしていきますか?ということなのかもしれない。それはそれで美しいと思うのだけれど、街中に溢れるポイ捨てのゴミなどを見ていると、先ずはモラル教育からなんじゃないのと思ったりする。

オーディオオタクは石油由来の部品を「生もの」と言ったりして、金属部品に対して寿命が極めて短い事から言ったりするんだけど、ダンパーまで金属線をつかったカートリッジとかね、昔はどうやったら生ものを使わないかで頑張っていたしりたのだ。それが生ものを使うと意匠性が良くてこじゃれた物が安直に出来て、しかも自己破壊して定期的に収益が上がるビジネスモデルの中核としてプラスチックが使われ始めたわけだ。そのつけが地球を汚したということになって見える化されたわけなんだけど、時代が急転換しているわけで、大変革があっても良いのかもね。そんな風に思ったりする。

2027年

某所で2027年をイメージしろというお話が出た。企業の経営という観点で、企業様が一体、どうなっているのか解らないが、特許があるから世界は私を守ってくれるさという考えは捨てた方が良いだろうという意見に賛同である。鶴舞大学でもご多分に漏れず良質知財構築に躍起になっているわけだが、知財を使った商材の書いては日本の国の外にしか無いわけだし、地球一国みたいなZ世代の方々にとって、知らない人間の古い知恵よりも、自分達がこれからつくるアイデアに重きを置いて、知恵の連携で自分達が本当に欲しいものというのをスモールビジネス連携で創り出してしまうのだろう。

サイバーテロで自動車の生産がストップしましたなんて、とても古くから繋がりのあるお企業様がサイバーテロ攻撃にあって悲惨なことになっているのは胸が痛む。テロ以外に知恵の使い方は無いのかと言いたいが、ハッカー集団が暴力国家のサーバーをダウンさせる知恵の使い方が悪いかと言われると、これは悩んでしまう。違法なんだけど、地球国家の住民としては、なんともはや、サイバーテロには太刀打ちできないなと苦笑いするしかない。

話を2027年に戻すのだけど、その議論をしていらっしゃるのは、小生年齢±10歳位の皆様でありまして、もう、Z世代からは化石認定すらされない退廃の都塵を舐めた物体程度の認定しか受けられないわけでありまして、知財がどうのこうの言っている時点で、世界から取り残されている空気感満載である。議論にZ世代の影形は無く、旧態依然、バブル前のシナプスを後生大事に持っている人達が、そんなことを議論して、地域のルールを定めてはいかんって。

ノウハウとブラックボックス。後は共創。そんな流れをZ世代の皆さんは自然に世界中の仲間たちと自主的・自衛的に作っていくのでは無いかな?自衛の相手は勿論、化石世代企業群であるのは間違いなくて、今でも中小企業を大企業が上位の立場でいじめ抜いているわけだけど、そんないじめはZ世代には通じないから、これからの社会がどうなっていくのか楽しみでならないのだ。そう思ったら、何だか元気になって来て、久し振りの「暴言大魔王」が出現したらしい。2027年、どんな市場になっているのか。そこに参加できるように、15歳の脳みそのまま居たいものだ!