10月も最終週へ

気が付くと来週で10月が終わりである。余りにも早すぎないか?ときめきが少ないと年月が早く過ぎると言われているが、ときめく間もなく過ぎていくぞと文句を言いたい。鶏と卵で、ときめきが先か月日が経つのが先か悩むと眠れなくなりそうだが(死語)、兎に角、新学期から一カ月が経ってしまった。気が付けば桜の葉は既に落葉を始めているが、こちらも赤くなる間もなく落ちている気がする。

10月の半ばを過ぎると、予定表には縦一列のものが多く存在するようになる。出張や学内イベントがその正体で、最近はそれが二列並んでも一泊仕事とは限らないところが恐ろしく、日帰りで何処へでも出掛ける。東京なんかは当たり前だが、朝晩に飛行機があるとそれだけでも日帰り要因だ。というか、日帰り出来ないところには出掛けなくなっている気がする。それも新たな働き方改革か?などと捻くれた見方をしてしまう。

土日に山などを気軽に歩いてみたいのだが、土日のどちらかにも公務が入りそれもままならない。いつの頃からかこんな状況が続いている。なかなか普通の男の子に戻れそうにない。お仕事が純増で増え続けるとこのようになる見本みたいなものだ。反面教師にしなければと思う。組織のお仕事をどう減らしていくか。これもまた、純増の思考だったりする。

最近、いよいよお仕事を受けなくなった。なんでも受けていると、迷惑発散装置になり、社会悪の根源になってしまう。仕事の私物化、組織の私物化は最も避けねばならない。一つ一つ丁寧に、これをもう一度思い起こし、座右の銘として進んでいきたい。丁寧なこと。多くのプレッシャーを頂くが、頑張っていきたい。そう思う。

人災と災害

鶴舞大に面接で呼ばれた時に仕切っていたのが「大門」先生でしたな。すげぇでかい声で「箱根を超えてきて恥ずかしく無いのか?」と聞かれたのをはっきりと覚えています。関東に居ると箱根は確かに一つの壁で、関西との境界線みたいに思えるのです。あれを超えると別の国みたいな。元々、名古屋以北が関東であって、天皇が住む都より遥か東の地が関東なのだから、箱根を超えたってどうってことは無い。今ではトンネルで気が付いたら抜けているしね。

その昔は、箱根は温泉地で、ちょっと物価の高いぼったくりエリアくらいのものと思ってはいましたが、富士山を間近に見える景勝地だなとは感じていました。その山に登るには登山鉄道がお気楽で、気が付くとケーブルカーに接続し、ぐんぐん高度を稼いでくれる。走って登ってしまう人達は凄いが、観光用と言っても良い車窓は心底楽しめる。雰囲気も良い。

それが台風19号で線路が流され、現在、運休中。冬は凍ってしまう山中だから、急ぎの復旧を応援したいが、お正月の駅伝までに間に合うのか?箱根に限らず、日本各地で毎年寸断される鉄路のニュースに出会う度に、首をかしげたくなっている自分に気が付く。日本の国土ってこんなにも災害に弱かったのかって?

コストを考えると頑丈すぎるものはできませんよということはあっても仕方が無いのかもしれない。昨日の「しなの号停車事件」もそうだが、安全サイドに振って待機するということもありだろう。人が作ったものはいつかは必ず壊れるということも事実だろう。ただ、なんだか弱すぎないかなぁと思うのです。自然には勝てない。その通りだ。でも信玄堤は未だに健在。構造物が老朽化してねぇなんて政治家の一言はそれこそ「たわごと」である。箱根は地震も大雨もある。復旧は十分に考えて行って頂きたい。付け焼刃で直ぐに崩壊と言う記事は見たくない。

即位礼に思う

知恵と慈悲深さと武力の象徴である剣璽等承継の儀から始まる即位礼の日に、天の汚れを祓う大風がやってくるところが神がかっていているなと、勝手に思ったのであります。日本の国の仕組みがいつできたとかなんだとか、そんなことはほったらかして、存在する頂点ではあるものの、決して統治はしないというのが今の在り方。これはこれで良いと思っています。憲法にもありますしね。

意見を求めて決めるのか、独善で決めるのかは大違い。共通認識のベースを作る努力は惜しんではいけない。その上で世論が形成されて、耳を傾け、方向性を定めたら、現場に近い人達の議決を待って、それを固めて前に進める、あるいは戻る。為政者ってそんなものでしょう。古代国家においては大王の地位が生まれて、必然、為政者となっていったわけだが、卑弥呼のお話にしろ、ダビデ王にしろ、皆にせっつかれて誕生したというところは同じで、集団としての国家の出来方ってそんなものなのかなと感じるわけです。

出雲国風土記にあるように、能登の方面との交流で翡翠の加工技術が生まれ、勾玉が出来(剣璽の「璽」ですな)、朝鮮半島から伝わったとされる製鉄の技術で、地元の砂鉄を打って作った剣、四国、岡山と伝承され出雲に伝わった青銅によって鏡を造り三種の神器が出来たわけだが、本物かどうかは置いておいて、それを伝承することが大王の条件としているところが、何やら面白くて良いなと思うのです。御璽・国璽の前にそれらが伝承されるというところに価値があるかな。

上皇陛下の時は博士課程の学生であって、元年度卒業だったので、小生にとっては就職年代が平成そのものでした。それがいよいよ次の年号になったわけで、気持ちを新たに頑張らないといけないなと思いつつ、流れる時と共に進化し続けないといけないとも思っています。日本にとって節目であることは間違いなかろう。そう思っています。

線路上にて

今年は台風に追いかけられていますということを先日お話した通り。超精密工学との架け橋化を目指し、昨年から諏訪圏メッセにお伺いして、交流を始めさせて頂いているわけだが、講義が詰まって動けないので、最終日の土曜日だけお邪魔させて頂いた。ロシア軍が開発した表情読み取りシステムなどで盛り上がったのだが、問題は帰り道である。金曜日は大雨であったそうなのですが、土曜日は、まぁ、しとしと降っている、そんな状況。

無事に塩尻まで戻り、若干遅れている「しなの号」に乗り込み、快調な滑り出し・・だと思ったら恐れていた通り、減速、そして停止。それを繰り返しながら奈良井の駅まで到達したら、もう動かない。7月下旬、甲府の科学館で小中学校の先生向けの理科教室に参加させて頂き、その帰り道、別の場所でしなの号は90分停まった。どうも名古屋に戻るしなの号は、小生が乗ると動かなくなるらしい。

いや、その列車にたまたま居合わせただけということだが、今回は、小一時間停車の後「ドアを開けます」のアナウンス。これはまずいと思いましたね。ドアを開けるって余程ですよ。もう列車を動かさない決意表明ですな。その昔、新幹線で1度経験しているのですが、その時は3時間以上、停まってましたよ。新幹線ホームですからね、売店はあるし、トイレもある。シートも良い。ところが真っ暗闇の奈良井駅にはなぁんにも無い。

結局、2時間以上遅れて戻ってきた次第。20時に到着予定が、宿舎に戻ったのが23時過ぎという状況で、もう、へろへろですよ。先週の台風19号騒動に続き、2週連続、週末出張で風神雷神様にお越しを頂いた次第。また、台風が太平洋上でこちらを伺っていらっしゃる。気になるのですが、実は今日も東京に出張だ。夜、最終に近い列車を予約はしているのですが、動けばラッキーくらいの気持ちで行ってきます。なんちゅうシンクロだこと・・

明日は諏訪

長い長い一週間も、既に金曜日である。余りにも大きな出来事が連続し、何が何だか分からなくなっている。台風に追いかけられた先週に続いて、諏訪に日帰りでお出かけをする明日においても、どうやら雨の予報は覆らない。今年の小生の遠距離の旅には、風神様と雷神様が付き添って頂けているらしい。

小学校6年生の頃であったと記憶しているのだが、お昼休みに校長室で給食を食べながら「千曲川旅情の歌」を暗唱するのが流行っていた。千曲川いざよふ波の云々かんぬんだが、今でも時々思い出す。その千曲川が氾濫して一週間だが、人間が作った堤防が自然災害に破壊されるという、やはり天災にはかなわないということだ。

それを如何にかわし、人命を守るか、それが担保されるのが国ということなのだと思うのだが、どうもそれもままならない国になってしまっているという気がしている。だとするならば、教育の場としての大学は何をどのようにして人財を世に送り出させて頂くのか。学問の基礎の土台に、人間としての土台構築をしっかりと成すべきだし、そこには高大接続もカギになると思っている。大学だけで全て完結できるはずはない。

明日は諏訪工業圏メッセでご挨拶廻りをさせて頂きます。一年ぶりのメッセ出席となります。風景の如くに認知して頂けるように頑張ってまいります。どうぞよろしくお願いいたします。

6G

10年以内に6Gがやってくる。NTTでは既に実験済で100Gbps超えということで、もう、何がなんだかというところである。5Gもままならない日本だが、それがわかっていればちょっかいの出しようがある。その速度でどのようなサービスが実現でき、その実現をアシストできる機械要素をはじき出し、未来に備える必要がある。

ちょっと宜しくないのが、4Gから5Gに対してでさえ「そんな高速は要らない」という声。エレクトロニクスにおいて高速は正義だし、HDD等大容量な記憶メディアを持ち歩く必要が無くなるだけでも、様々なメリットがあるではないか。医療、工場、様々なシーンで想像もつかないサービスが生まれると思うとワクワクするではないか。

Wi-Fiの最新規格でさえ5Gより遅い。となってくると、Wi-Fiも当然のことながら高速化してくるのか、それとも6Gに統一されてしまうのか分からないが、延々と止まったままのネットワークの呪縛から解き放たれるのかなという期待は大きくなる。思考を停止させることの無いネットワーク環境は有難い。

とまぁ、えらく贅沢なお話なのだが、いつ頃、日本において主流になるのか分からない。リニアモーターカーが先か、6Gが先かと言うことなのだと思うのだけれども、情報のやり取りの高速化は、AIがバックヤードで当たり前のようにお仕事をアシストして頂ける時代において必須の事であろう。ネットワークの発展は事業所の肝であることは間違いない。多くのスタートアップが生まれそうで、これはこれで楽しみである。

ガバナンスイノベーションは来るのか?

昔話は年寄りの特権なのでさせて頂くことにする。洪水という被害は日常茶飯事でしたよ。台風も、そりゃぁ、大きなものも来ましたけれど、ちょっとした台風で、小学校では「目」の話とかね、先生が熱心にお話をして頂けました。雨風が止んでも遊びに出てはいけないとかね。出ていきたくても洪水でどうしようもない状況になっているというのが昭和40年代前半までの出来事であったわけです。堤防が高くなり、橋の位置が高くなり、気が付いたら洪水がなくなっていましたな。

昨今の台風は、そうやって築いてきた土木構造物をも破壊する程の力を持っているということだ。それなりに防ぐことが出来ていたものが防げなくなっているのである。破れないように頑丈に作った風船が破裂するみたいなものだ。その結果は先日の台風で見た通りだ。この状況を危機とみるのか、場当たり的に絆創膏を張れば良いやと思うのかである。構成員の意見を聞いて集約してリーダーが道を決めるという旧来型ガバナンスで追いつかない部分が出てきている。小生はそう考える。

暴力的大声の人、扇動的な人、要するに強そうな人、あるいは本当に集約的に強い人が、有無を言わさずその人の意思を押し付ける。徒党を組んで従来秩序を破壊しようとするグループが様々な対立を起こす。社会を見てみれば、AIや5Gという新しいインフラが技術価値を提供しようとしているのに、旧来技術を護るためにその参画を認めないとかね。日本においては人口減少問題はずっと分かっていたのにほったらかされたとかね。

コンパクトな大学だからこそ、当意即妙に世界と共有できる普遍的な知的財産、公共財産の生産に向けた教育体制を組んでいけるはず。産業界との対話で教育の新しいベクトルも作れた。危機感のベクトルのすり合わせが出来ていないことは大問題なのだから、そこに取り組んでいけば良い。大企業に育成された中小企業ではなく、技術を持って尖がっていく企業がどのように大企業の資本力を活かしていくか。これからの10年、そこに注力しては如何か。明日の戯言はあるのか?無かったらごめんなさい。理由は簡単だ。神妙な私であります。

思考と疲労

何も考えず一息つく。ほんの数秒でも良い、そんな時間を持つようになった。24時間、夢も含めて考え続ける毎日であるが、最近は、土曜日の朝など、数秒ではあるが思考を停止させる技を身に着けてきた。昨日が遠い過去に思えるような、逆に言えば、やってくる未来に向かっていけるというか、そんな状態に自らを追い込める技を身に着けたのかもしれない。一日の内で結果が類似しない大きなお話がごちゃまんとあるわけだが、その瞬間瞬間を切り替えていかないと、異なるお客様に絶縁壁を置けず、失礼なことをやらかしかねない。その為に、空白を瞬間的に作り上げること。これがお仕事のコツかもしれない。

大層なことでは無い。単に、思考する概念そのものを瞬間的に消し去るだけだ。ぐずぐずと会議を展開される方がいらっしゃるが、言い分は「即断せずに多くの意見をくみ取って・・」云々かんぬんである。言わせて頂ければ、決断する方向性を練ってこなかったことでしょ?大きなジャッジの変更があるならば、一旦会議を閉じて、持ち帰りというのが本当のところだと思う。事前想定をはるかに超えた「良質なゴールをイメージさせる意見」が出たのであれば、それを採用した時のプラスマイナスを広く考えねばならぬ。それには数分では無理である。そのジャッジは議長に任せられている。

話の間とはまるで違う。間を使うのは極めて難しい。下手をすると思考速度が遅いだけと勘違いをされる。尤も、その場合がかなりあるわけだが。バナナのたたき売りを浅草寺で見たのは今から50年も前だが、目くばせ、指の動き、声の大小等々、真似はできないが脳裏に焼き付いている。その後で、はしご乗りの妙技を拝見したが、あれも見事な間であったと、今、思い出すときっとそうだ。

何も考えない、思考を消した瞬間を作ること。単なる思考停止ではない。それは連続の思考の間であって、思考概念の消失とはことなる。ここ数日、面白がっている。人間は凄いものだと愉快に感じる。披露する恐怖からの離脱。単にシナプスが切れているだけじゃないのということが正解かもしれないが、考えないことが次の一歩なのかもしれない。なんだか最近、そう思った。

有意義な努力を

金継ぎという技術が日本に伝承されています。割れた茶碗を漆で繋いで、金粉で飾る。割れたからこそ生まれる侘びさびですな。博物館のガラスの向こうで出会う訳ですが、ある時、それをやってみようと思ったわけです。とあるところで入手したお茶碗を、ある事件で使えなくなっていたわけですが、どうしてもそれを復活させたいと、セラミクス接着剤みたいなもので逃げようかなと思いつつ、ふと、自分で出来ないかなと無謀にも勉強を始めたのです。漆工芸の本を買い込み、勉強を始めるわけですな。

結果として元の様に利用できなければ無駄な努力です。だから挑戦する前に、99%の確率ではゴールに到達できるという確信に到達した時点で、素材を買い求めましたな。漆等々、目の前の伝統工芸を支える素材を眺めつつ、後には引けないという追い詰められ感に胸を押しつぶされそうになりながら、漆と言う自然の恵みに祈るように作業に挑戦してみました。結果、数年間も壊れずにお茶碗を使い続けております。

何が言いたかったかと言えば、無駄な努力では無かったですよということだ。何しないより『まし』という事を事も無げに仰る方が多いように感じます。小生は無駄な努力は無駄だと思っています。大切なのは極限まで成功確率を高めることを伴う努力をするべきだということを心掛けることだと思うのです。己を知り尽くし、相手を調べ尽くし、自らの挑戦が「運」でひっくり返えされることならしょうがない、くらいに考え抜いて行動に出ること。これは無駄ではありません。何等か、獲得できると思います。

そんな無駄を省いていかないと、日本経済はますますもって泥沼化します。レシートを見て10%になっているなと嘆いても遅いわけです。財務省は社会保障・税一体改革により、消費税率引上げによる増収分を含む消費税収(国・地方、消費税率1%分の地方消費税収を除く)は、全て社会保障財源に充てることとされています。しかしながら、社会保障4経費の合計額には足りていませんと暢気に言っている。まだまだ上げますよということだ。どこかに無駄な努力があるとすれば削らねばなりません。日本の国で働いて税金を払おうと願う若者が増えない限り、国は亡びるわけです。無駄ではない努力に集中する。それは何かを常に考えなければならないと、2%の大きさに喘ぐ私であります。

スクラムの美学

ラグビーの世界選手権を見ていて感激することは、チーム構成がどんな状況であれ、日本チームとして世界が受け入れてくれていること。そして世界各国の選手が日本のチームとして競技に取り組み、全力を出し尽くして頂いていること。新しいナショナリズムだなと思うのです。留学生が云々とか、外国人労働者がどうとかとか、親方が散々叫んでいるが、目指すべき方向ってこれなんじゃないのとサモア戦をTV観戦させて頂きながら実感した次第。余りにも力が入って、ノーサイドの瞬間に腹筋が痛いことに気が付いたくらい力が入りましたな。

その昔はラグビーは何処かに集まって試合をするということは無く、基本がホームアンドアウエーだったわけで、世界のトップチームの試合を、TVとは言え観戦できるのはとても幸せな環境になったと感じます。と言うか、日本チームが外国チームに勝つこと自体、失礼ではありますが、滅多にあたことではない。小生的には釜石の松尾さんのドロップゴールみたいな、そんな時代が蘇る程度で、前回のワールドカップからの日本チームの取り組みに本当に感激ているわけです。一丸を感じます。

国際協力って口では簡単に出てくるのですが、具体的に行動しようと思っても、自国の利益だとか、企業同士であれば自社がどうのこうのとかで決して丸くは進まないのが社会状況だと感じるわけですよ。いろいろと想い、感じるところがあるのでしょうけれど、同じユニホームに袖を通して、肩を組んで一丸となって相手にぶつかっていく。信頼の絆無くして出来ないですよね。自分の領域だけが救われれば良いという気持ちではスクラムは組めないわけです。

大切なのは公益であって、塀の内側では決してない。塀の内側に入り込んで安心されては困るわけです。常に世界を見つめ続ける。その方向性が大切なわけです。守られていると思った瞬間、そこは一穴となる。守りはあってはならないこと。攻め続けて、境界線は保たれる。そんな時代です。苦しいけれど、頑張るしかない。そう思う。