散歩に思う

春めいた空に誘われて一駅手前で降りてみた。少し早歩きになるとコートの内側がぽっぽとしてくる。正に春来たれりである。今でいう桜山から大学のエリアは御器所村と明治初期の地図では示されている。小生がガマの油売り大学に入学当初は「桜村」であって、一瞬ではあったが「村民」を体験した。御器所村は昭和区のキャラクターで有名な御器所大根の産地で、水田や畑がいっぱいの、目いっぱいの農地であった。今それを彷彿とさせてくれる場所は皆無であるが、街路の石仏などは恐らくはその頃のものであろうなどと考えながらの早朝散歩は心地よい。

妙に遠方から歩いているように思われるかもしれないが、通常、乗降する駅からの時間は10分に満たない差である。コンビニに立ち寄ってなんてしていると同等の時間的ロスですむ。嫌、血の巡りは明らかに良くなって思考もはっきりしてくるし、考え事に集中するなら職場に居るよりずっと良かったりして・・明るい早朝の景色には流石に桜の蕾は見えず、ウキウキ気分はお預けだなと、まぁ、これは仕方が無い。

今の桜山から大学への対角線上に路地跡などが殆ど無いなと感じていたので、調べてみると殆ど民家などが無く、畑の真ん中の小高い丘であったろう場所にお社が立っているのだが、それとて昭和3年の創建で、どうも獣道しかなかったようだ。中心地であった村雲のあたりにむけた杣道はあったようだが、それは今はそこそこの立派な道路に変身してしまっているらしい。思えばその道路のわきにお地蔵さんがある。それが唯一の痕跡なのかもしれない。

早朝の散歩が苦にならないというか、普通に歩ける季節になってきた。足は第2の心臓であって、血液循環を活発化させるには足を鍛えねばならぬ。気が付くと少しの距離でも自転車だったり自動車だったり。こぶしなどは可愛い猫毛の若芽を見せてくれている。是非とも春を探して欲しい。雪の無い名古屋の贅沢である。そう思う。

雪国より友

遠方より友が来た。今年の雪はこの5年間であり得ないほどであると、秋田の友が語る。大雪で屋根からの落雪で大怪我を負う方がいらっしゃり、大変な事態であるとのこと。お見舞い申し上げます。行ったことが無いと決して分からないのが雪の凄さ。そりゃぁ、アルプス山中というのであれば納得はされると思うが、民家が並ぶその領域で、民家を隠す雪が一晩で振るのだ。振るという安直な表現では物足りない。

内陸では大風は吹かぬが、その分、ドカ雪となると友は語る。「のつのつ」と降るという表現がある。気が付くとにっちもさっちもいかないほどに、しかも静かに積もる雪の事だが、その体験は恐ろしい。ついさっきまで乾いていたアスファルトの路面がに1講義を終えたら1mも積もっているのだ。駅ではラッセル車が大活躍。今年はそんなもんでは無いらしい。

新潟の同級生が、北関東大学に居た時に「冬に雪が降らない空が憎らしい」と叫んでいたのを思い出す。憎いというその表現が適切かもしれないと、雪国の冬を体験させて頂いて実感した。それにしても名古屋の穏やかなこと。雪も地震も無い。天災から見放されたかと、それはそれで大変に有難いことだが、毎年、5mも雪が積もり毎朝の除雪が日課となることを体験される方々からすれば、それこそ憎らしいと思われてしまおう。

雪はなかなかとけないのだが、そのお陰でミネラルが徐々に海に放出される。名古屋エリアでは山から急激に土砂が伊勢湾に流れ込む状態が100万年も続いているから、極めて浅い港湾となる。大陸から離れて出来た日本海にゆっくりとミネラルが流れ込み、様々な海の幸をもたらす。凄まじく大変な冬だが、恵みも大きい。平準化された名古屋か極端な雪国か。まぁ、暮らすなら平準が良いかなぁと、随分と保守的になったもんだとちょっと苦笑いの私であります。

本物

ぎりぎりの状況で自分が出せる。これは本物である。実に見事な本物を拝見した。彼らと出会っているのは6年前で、かなり接近したのは5年前。更に接近して昼夜を問わず会うようになったのは3年前だ。それがもう卒業かと思うとその早さに驚かされる。余りにも見事なプレゼンに思わず書き出してしまった。そしてなんでこんな遅い時刻に更新かと言えば、つい、さっきまで床で寝ていたからだ(^^;)

思い出はしょぼいものだが、小生にも記憶の糸のシミ程度に大学生時代というものがある。あるかもしれない。いや、もの凄く濃く残っている。だからこそ、学生君達には濃い時代を過ごして欲しいと願っているし、それが日頃の付き合いに出てくるのだろう。基本、18歳でスタートする学生時代でありとあらゆるとまでは言わないが、今はそんな奴見たこと無いみたいな時代を作った。

3年生までの講義の風景もいくつかは思い出せる。それは極めて特徴のある教官の講義か、ほんの一言の強烈なメッセージだ。その瞬間も思い出せる。如何に、情報量が少なかったかということなのだろう。旅をするにもサイクリング、電車の旅程は時刻表。パソコンなんてありゃしない。ネットだって無いぞ。だから読んだ本、受けた講義が頭に刻まれるのであろう。

刃の食いしばりと血の滲みというのは炎の転校生の一シーンだ。男の生きざまを表現しているのだが、そんな一こますら人生の教師になってしまう。情報大洪水の状況で、小生は創られなかったかもしれない。情報が飛んでいく速度が遅かったからこそ、じっくりと思考できたのだろう。昨日は、この情報洪水時代においても刃の食いしばりと血の滲みを実践した者と時を同じくできた。感激である。

組織論

今日は研究室が所属する大学院専攻の修士論文審査会。学生諸君の中には自己本位のコミュニケーションの世界で生きているので、他者の意見を聞き入れようとせず、また、疑いの目を持って他者と接するので、こちらの意図を伝えることが極めて難しくなっている。それを単に年齢差だというのは簡単で、駄目だというなら、駄目だと言った側の正当性を明確に相手に伝えなければならない。それが出来ないのであれば駄目という人間側が退出する時代になっていると実感する。根性主義は通用しない。

当たり前だが社会はローカルな集団の集合体で、それらが何らかの客観的指標を持って繋ぎ合って維持されている。客観的と思えない指標が振りかざされると、すわ一大事、戦争にまで発展する。やや大袈裟だが、突然病になったり自殺したりと、そんな話を間近で聞いたりなんかするわけだが、一方的価値観で相手にプレッシャーを与えてりるのではと、常に感じなければならないと思っている。こうするほうが良いのにと思ったことが、実は単なる自己の己惚れであって、真の第三者から見たら欺瞞の王様になってしまっているのかもしれない。

国立大学は中立組織だから、常に第三者の立ち位置が求められるから、例えそれが研究の場においてですら、なかなか前進しようとしない者であってもそれを一方的に責めるのは間違っている。常に聞き入れられるにはどうしたら良いのか悩み続けなければならないし、批判を来る返すなど言語道断。誠にもって難しい。19世紀から21世紀まで、それこそほんの一瞬の間の筈なのだが、徒歩でのやり取りが光速での伝聞になった時、人間同士の繋がりは、むしろほんの周囲の人間同士ですら希薄になってきているのだと認識しなければならない。

一所懸命にやっているのだと認識して、それがその人物にとってのものであったとしても、その積み重ねを自己の組織内の機能の一部として取り組むことが出来ないと、纏めるものの無い独裁者という、ロバ耳大魔王に陥ってしまう。それが仮想現実で生きてきた者と、リアルなものづくりで生きてきた者の関係性であり、そこに踏み込めない者は消えるべきであって、指導者の位置に居るべきでないと肝に銘じるここ数年である。旧態依然の社会と仮想こそ是とされる社会。恐らく、様々な時代に繰り返されてきたことだと思うのだが、妙に定年などが延長されてしまって高齢者自殺者が増えるんじゃないのと、終活なんか真面目に考えたりする私であります。

技術は人に寄り添わない

無くならない自動車事故。東北で16台が絡む事故が吹雪の中で発生した。ホワイトアウト状態だったというが、環境がどんな状態であっても、ぶつかってはいかんだろう・・と思うのだ。それが技術というものだ。路地で人同士がぶつかって大怪我を負うこともあるが、それは人間同士の行動であって、ミスをする人間だからこそごめんなさいで許し合うしかない。人間の能力を超えたもの同士がぶつかり合ってはシャレにならない。そんなもの使ってはいけないということだろう。

秋田に通うようになって実感したのがホワイトアウトの凄まじさ。雪の遮蔽版があろうがなんのその、ミクロな切片が空気を遮断し、呼吸困難に陥る程だ。その中を車で出掛ける神経もどうかしていると思うのだが、便利を人は捨てないから、結局のところ不要不急の用事であってなんだか出掛けてしまうのだろう。人間の目では分からないのだから、車に頼るしかない。しかし車はそこまで進化はしていない。だからぶつかり合う。

危険なことは分かり切っている。道路を遮断するという手法もあるが、愚かな人類はそんなことはお構いなしで出掛けてしまう。そして何千台が数珠つなぎという頓珍漢事件が先日起きたわけだが、やっぱり人間そのものの危険回避能力というか、DNAというか、自分の身は自分で守るという基本的能力が欠落し始めているのではと感じる。これはまずいだろうという状況でも行動してしまう。そしてそのいい加減な人間が作った道具を信じてしまう。ネットの向こうの活字を信じてしまうのも人間の愚かさということだろう。信頼し合う前に信じてしまう。

これこそが油断であり、己惚れである。自分だけは大丈夫だろうという不可思議な思考こそ、怪我の出発点だ。怪我で済むなら良いが、命を失うようなことに繋がるから恐ろしい。人間同士が頑張り合って信じあうというのが無限に増殖する生命としては基本なのだろうが、自滅しあって数を減らすというもの実は自然の平衡性にはあると言われている。同一生命体が鶏に次いで2位という状況は、これはやはり異常なのだと思ったりもする。人が人として機能しあい、平穏無事が保たれる。そんな日が本当に来るのかしらと、元気よく咲き出した梅の花を愛でながら、ちょっとだけほっとする私であります。

比喩

君はバラより美しいと照れずに言えたら大したものだと、布施明さんの熱唱に照れ笑いをしたのはもうかれこれうん十年前だ。流れた歳月は大したもんだ。いや、何も恋だの愛だのを語る気持ちはさらさらない。鬼のような形相はまだしも鬼の首を取ったようと言われても「取ったこと無いなぁ」と苦笑いだ。ようは比喩である。この比喩というのは実に頼もしい言語能力だと、昨日、帰りの新幹線でふと思った次第。

定量的に表現してくださいと、審査長としてお勤めさせて頂くわけだが、トップレベルのお話を定量的に聞かせて頂くと「ほほぉ」とは思うのだけれども今の生活がどんだけ素晴らしくなるのか想像が難しい。そんなとき、「風になれます」くらいのことを言ってもらえると、「おぉ、なるほど!」と技術のステップアップを実感出来るのだ。だから『バラより美しい』というのは実に名言だなと流れる街の夜景に赤みが差したような、例によって「それから」を楽しみながら実感したのだ。

日本人のわびさびとか大和心とか、「紫立ちたる雲のほそくたなびきたる」など、比喩の権化であり、日本人は自然の中からいきいきとものの喩を磨いてきた民族であると思う。情景が浮かべばそこで生まれる価値を実感でき、それ故に幸せの物語が見えてくる。物語が見えるという表現そのものも喩になっているところが何が何だかという感じもしないでもないが、そんなストーリー性こそ企画力によって見出されるものでなければならないと、自らを奮い立たせる。

幸せの物語こそ、科学を技術として具現化させる拠り所である。何か論文ネタがあったらそれは人の役に立つだろうなどと短絡思考も甚だしい。スタジャンに曲がる有機ELディスプレーをくっつけてデモしている姿を見て、いよいよカメレオンになるのだなと愉快に思った。プレデターになるのかはどうかは分からないが、既にあるもの、あったら良いもの、それをイメージ出来る表現力。それがものが溢れた社会に求められるコーディネータ力である。取り敢えず今日はここまでとしておこう。

ボトムアップ

ボトムアップとトップダウン。細胞分裂からすれば、単細胞から無限元素結合体の人間などに変異する様は、ボトムアップである。極微の要素を繋ぎ合わせ目に見える形にする。目に見えなくても良いのだが、いずれにせよ、極微の世界を繋ぎ合わせ、目的のサイズに組み上げる様がボトムアップだ。触媒を使って創薬するなどはまさにこの仕掛けと言えよう。原子の性質を活用して、言ってみれば勝手に何とかなる仕組みを、さも、自分が考えたの如くに振る舞う人類に失笑してしまうが、純粋培養という言葉が示すように、目的の元素以外のものの混入を無視できる程に少なくしているのは工学であり、人の工夫であることは間違いない。神のいたずらでは無い。

神のいたずらでは無いから恐ろしさもある。人間が神の如くに元素を創り出し、その合成までやってのける時代にきた。イオン注入と言う言葉を創られた偉大なる先人の恩恵を、核爆弾と言う無間地獄まで大きくすることはボトムアップという概念からは外れるだろう。平和活用だからと言って、イエローケーキの破砕物を砂漠にばらまき、地球気圏にその汚染物質を遍く広げ、遺伝子レベルで生命を破壊する様は、これはトップダウンと言える。それを率先するのが日本であって人々が助け合う当たり前の縄文文化を捨て去った成れの果てが日本人だ。

共に助け合う村の文化と、村の存続によって税金の使われ方に歪が出るから過疎地を潰そうなどという議論は言語道断だが、一部の為政者の所有地があるから、その土地の価格をあげるような政策はボトムアップでは決してなく、単なる国賊の象徴的行動であるのは言うまでもない。突如として大きな橋が架かり、誰も住まない土地が出来、ほったらかしておくとゴルフ場になって、そしていつの間にか荒廃し消えていく。地方を回っているとそんな世界に出会う。しかしそれはそのエリアの住民が望んだボトムアップの姿であって、その瞬間の快楽のためだけに税金が投入された結果でもある。

人が人と出会う。そして議論しお互いを活かしあう方策を考える。これなどはボトムアップであり、将来のありたい姿から今を思うバックキャスティングであればなおさらだ。瞬間の為政者の都合に合わせるトップダウンは安直で思考停止で良いから楽だが、必ず不利益が発生してくる。日本人の安直なトップダウン待ちの姿勢を、挑戦の二文字に換えていくにはかなり大きな意識改革が必要だ。気に入らないからどなりちらす。何も生まないトップダウンには消えて頂き、未来をこうしたいという願いの集合がボトムアップから産まれてくるべき時代である。チャンスである!

眩暈

三岳で震度4の地震。火山性の揺れだそうだ。御嶽山という80万年にもわたって噴火を続けてきた火山の周辺だから、地震が起こっても不思議はなかろう。不謹慎な表現だが、自然の営みに文句は言えない。太平洋プレートが伊豆沖で沈み込み、南アルプスを押し上げながら更に沈んで、中央アルプス付近で急降下。その際の、大陸のプレートとの摩擦で発生するエネルギーが起源とか言われても、あぁそうですかとしか言いようが無い。地下鉄の駅からの路地を作り出す家々を見ながら、平穏だなぁと感じる次第。

揺れで思い出したのだが、はねられた後に少し頭を動かすと猛烈に世界が回った。あの時の眩暈を思い出すと、それだけで目が回る程の凄まじさだった。体験して欲しいとは思わないが、あれこそ眩暈というものだろう。横になっているのだが、おへそのあたりを中心にして身体が立てに横にぐるんぐるんと回り続ける。それが収まりそうになるとぐぐぐぅんと地下に落ち込んで、それが終わりそうになると今度は空に向かって飛んでいく。それが繰り返される。思い出したくもない。

揺れとは人間に不安な気持ちを起こすものだと、つくづく実感した。実感してみると、人の気持ちになれるものだ。様々な苦しさや厳しさがあるが、自分自身でなんとかするしかないというのが答えだ。誰もあなたの代わりにはなれないのだし、自分の代役を誰かに頼むこともできないのだ。そんな当たり前のことを「揺れ」という単語を聞いたり見たりすると思う。何度でも思うのだから、心の底では誰かに変わって欲しいくらいのことを思っているのだろう。しょぼい話だ。

今朝も道すがらの駐車場の自動車は霜で真っ白だ。なんだか随分と寒さが続いている気がする。日本海側では大雪で近代的な生活が困難になっている。その昔はどうだったのだろう。自動車など無い江戸時代の生活などは分からないのだが、その知恵は何処に行ってしまったのか。山に雪が降り、それが地下に沁み込んで何年もかけて地上に出る。そのミネラルを含んだ水の恵みで生きているとするとそれを活かした生産活動で暮らせる社会を創り上げるべきだろう。恵みをアスファルトで塞いで現代人とふんぞり返る。ふんぞり返るから少しの揺れでひっくり返る。じっと踏ん張る。そんな日にしてみようではないか。

リノベーション

1970年台初頭に建てられた公共の中規模施設の未利用荒廃が進んでいるらしい。大都市圏においても見受けるが、少し離れてみると車窓から「見たくない」元リゾート物件と思しき建屋が目に付く。名古屋圏では知多半島などその代表格ではなかろうか。下手に手入れをしようとすると、当然のことながら税金が投入されるわけだし、上下水道・エネルギーインフラなど新規敷設の方が余程安上がりなのだろうなと、荒廃に任せて大地震で粉砕を待っているのではと勘繰ってしまう。

街中の小学校などが人口減少で統廃合による廃校になり、その後、第三者による改築と貸し出しというリノベーション物件はそれは幸せな部類かもしれない。一方で、学校というそれなりに大きな面積を有している施設をそのまま残すというのは、都市部のあり方として難しい面もあろう。防災施設としての活用は維持されねばならないだろうし、あくまでもついこの間まで学校だから許されていたことも、そうでなければ怒髪天を付くみたいなことだってあると思う。人が創ったものを永遠に使えると思う方がおかしい。

そこに住む人達が有効に土地を利用できるということが、まずは国家であるということだろう。元気に頑張って活動できる。マーケットが無くなるのは困るということではなく、そこに住み税金を支払っているのであれば、それはなんらかが成されなければならないだろう。とは言うものの、公共サービスにも当然のことながら限界がある。人口減少まっしぐらの我が国であれば尚更だ。良いものが安いということにも限界がある。一方で、日本社会が陥っている罠も感じる。

1980年台前半のバブル前は良いものを安く海外に出し、日本たたきまでやられる程の元気があった。太陽電池等の半導体製品の日本の優位性は素晴らしかった。過去形である。今や、単に世界で最もコストの高い代物に成り下がっている。人件費だけではない。製造機器の古さからくるコストアップによって、世界が2020年に到達するであろう火力発電コストと自然エネルギーコストの逆転を日本は2030年を見込むという。地産地消エネルギーの活用は生活スタイルも変えていく。太陽に従う生活で良いではないか。それでも原子力か。公共財とエネルギーという国家根幹の問題も先送り。先送りされるのは今の大学生以下の人達が背負う世界。日本らしい。

ポスト問題

昨日も東京に出掛けたのだが、品川で降りるホームのなんと大きな荷物を引いている海外からのお客さん達の多い事か。1970年代のハワイ日本人観光客の爆発もこんな目で見られていたのかしら。ジャルパック爆弾と呼ばれ、いたるところで弁当を広げ、日本人はマナーがなっていないと叫ばれた4~50年前。どかぁんと長い足を投げ出して頂く光景は、美しいとは映らない。今の若者から見たらどうなのか分からないが、そんだけ歳月を重ねちゃったと言うことかなぁとしみじみしてしまいました。

帰り際に東洋経済の「大学が壊れる」という見出しに引っかかって、久しぶりに一般雑誌を買ってしまった。新幹線で読み始めてみると、当たり前なんですけど一方的な見地で、文科省が財務省から金を取れないから学術技術が育たないのだという論調。また、東大を始め、帝大機構(小生が勝手に言っているだけでそんなものは現実には無いですよ)にどどぉんと金が落ちている割には論文が出ていない、だから細かく地方に金を撒けという偽善的発言のオンパレード。

撒き方よりもむしろ文科省に財務省にアピールさせるネタを出さない大学が悪いのであって、それを差し置いて金だけよこせと言ったって現実味はゼロだね。ポストが無いということで、それは事実だけど、法人化されているから大学だけにポストを作れというのもこれまた無理な相談だ。任期制は確かに厳しい。若手が元気に研究出来ない状況は実感しています。妙な会議が無尽蔵にあって、また、カリキュラムが細分化されていて、教育貢献を相当に求められる現状は、小生の20代後半とは随分と異なっている。

もう一つ感じているのは、国際的に学会活動が下火になっているわけでは無くて、それぞれ尖がって深い議論、広い議論がなされているのだけれど、それらに横ぐしを刺す活動が無いこと。現代の中国では人口とお金の両刀使いで一国で世界の問題を扱えて、しかも政府の後押しで横ぐしを刺してくる。そうすると新しい発想がどんどんと生まれてくる。結局、最後は政治に行きつくのだけれど、若い当事者たちは無関心を決めつけているからね。ポストが無いとか言っているなら、国をどうしたいのか発信もせずにぶぅたれるのはナンセンスだ。ただ、発信しはじめるとあっちからもこっちからも色々とお話を頂いて、結局、やっぱり、きつい毎日の私であります。