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日本企業が最も苦手なのは新規事業創造だろう。当然のことながら、例えば自動車を一般民間人に販売している企業であれば、タイヤが4個付いているから価値だと思う。ハンドルが付いていればなお良しと言ったところだ。安全基準を満たしてみたいな当たり前のことは何処かに飛んでしまって、より安くという観点のみでモノづくりを進めていく。工程のそこかしこにロボットが介入し、動きを記録することでフィードバック可能としている。フィードバック可能が目的化されて、何をやっているかは二の次だ。

何をやっていると論じることができるのは設計者、即ちTier0企業のみだ。基本、やってくる図面の通りに物を作る。中小企業殿の勉強会において、御社は何を作っていらっしゃいますかと問うと、99%の企業殿からは、図面の通りに作るから俺は偉いと返ってくる。ふぅんと思う。既に、日本製の最高級の工作機械は中国にあり、我が国には無いのだ。一つの屋根の下に数百台のそれらの機械が並び、整然とモノづくりをしていく。それが世界だ。

機械が優れているだけではない。それを動かす人が受けた教育水準は、間違いなく世界の頂点にある。戦後、欧米から下卑た国と呼ばれた日本が、1970年台に先人の努力によって、モノづくり日本と世界に呼ばせたその状況は、今、お隣の国にある。と、なると、100年後を見据えて成すべきことは教育の大改革以外にない。国家の法を宇宙から俯瞰した日本に定められる人間を軸に、世界に向けて何を成すことで評価されるかを語ることが出来る政治家が出現せねばならぬ。

企業も学びに「銭」を投入するべきだ。大学をフリーペーパーの如くに小馬鹿にするのは、国家に唾するのに等しい。モノを作って売っているから偉いと勘違いも甚だしい。その中で名工大は有料の講座を設ける。無料以外興味が無い方は一切不要だ。それなりのものは身に着けて頂く。それは誰にも奪われない。小学校から教育は無償と思っている。大間違いだ。皆、税金を払っている。それは最低限の国家の水準だ。それを越えようと思う者は、自らを刮目し、身銭を切るが宜しい。正しい時代だ。

眉月

眉月を見てふとモーゼの若かりし頃の逸話を思い出した。後のエジプト王と共に学び合ったわけだが、その設問に「次にハレー彗星がやってくるのは何時か」という現代人でも相当に困難な問題があったという。それをモーゼは容易に解いたという。月の満ち欠けと地球と太陽との関係を頭の中で描いてみて、自転がこうで、地球と太陽と月の位置関係の難しさを思った時、次の彗星がいつやってくるなんてことは途方もない問題だなと、モーゼ凄いというか、その回答を見て正解と判断した教官がとんでもなく凄いと思った次第。

御器所から大学に向かう途上に様々な庭木を見ることが出来る。これは季節に応じていろいろな姿を見せてくれて愉快である。庭木であるからその家主の想いが籠っているわけだが、塀を越える背丈になれば一般民間人もそれを見て季節を感じさせて頂ける。今朝は桃の開花を見た。おぉ、昨日の暖かさが正に春を呼んできたかと。満開のまんさくに出会えば間もなく春だなと感じるが、桃に出会えばいよいよもって春である。

東京などは20℃を越えるらしいから桜開花も間もなくというところだろう。その桃の花を見て、モーゼはなんと答えるのだろうかとなんだか旧知の仲のように思ったのだが、とてもでは無いが、あれほど辛い人生を歩むことなどできるはずはない。週末に雨が降るらしいが、何時どんな気象がやってくるかなどは分からぬ時代に、数万人の命を背負ってまだ見ぬ土地目掛けて歩むなどとてつもない意志である。

しかしながらだ、世界の情勢がリアルタイムでやってくる今においては、分からぬ時代よりも厳しいとも感じる。まだ見ぬ時代であればそれに呼応するだけだ。狭い世界しか知らない人は、自らの知恵を世界そのものだと思って後追いの人を叱りつけ威張りまくる。見える世が広ければ広い程、必然、謙虚になり首を垂れる。毎朝、昇る月と季節に応じて咲く花の有難さ。身に染みる。

やっぱり3.11

西尾君が「津波が来ています」とPCの画面の向こうでの実況中継に見入り、忘れた頃にきちんとやってくる自然に恐怖し、また、これが土地紙様ということなのかもしれないと感じた。大地に感謝することなく傷つけ威張る輩を一掃しにやってくる。ノアの洪水もそうだが、人という人種が感謝の気持ちを忘れると、何処かで神の怒りが大爆発する。この「何処か」というところが問題なのだが、今はたまたま地球の上で、日本近傍で4つのプレートが衝突しあうという地域になっていて地震が必然となっている。

なっているのだからと言って、人工物で津波を避けられるだろうという天狗の鼻折れもいいところ、先人が「これより高いところに住め」という碑を日本中で見出すことが出来るのに現世日本人は己惚れの極致、地震雷火事台風に見舞われる。亡くなられ、ご遺体も見つかっていない関係者各位には心より哀悼の意を表します。残された我々は自然とは何か、生きるとは何かを真正面から見つめなおさないといけません。

地震のお陰でとんでもない無理をしているのだなと実感したのが原発。超新星爆発で生まれた超重元素。そのエネルギーを蓄えた元素を集めて、人間が利用しようというのだから、そもそも宇宙の神への冒涜であろう。人間がなんとかなる代物ではない。身体が取り込みやすいストロンチウムが放射化すれば、それはどうなるか自明の理。なのだが、高度経済成長という、人が作った金が心を蝕む状況は、自明の理すら破壊する。

汚染物質を押し付け合うが、元来、そうなったのは国民の政治への無関心が原因であり、天に吐いた唾が自分に戻っただけのことだ。マスコミなどは偉そうに浪花節を騙るが、政治の圧力に屈している単なる太鼓持ちではないか。無理を通せば道理が引っ込む。偽善者ぶるわけではない。学者として出来ることを粛々と行うだけだ。3.11はこれからも重要な一日だ。何故、それを真摯に想い、人が活き合うことに感謝する国民の日に制定されないのか。不思議でならない。

大雨の後

暗渠から伝わってくる振動で昨夜の大雨を感じる。この振動が好きだ。何とも街が綺麗になった気になる。実際のところ砂ぼこりなどは綺麗さっぱり押し流されて清々しい。一雨ごとの暖かさで、寒さも和らぎ、適度な湿気を含んだ空気を深呼吸する。今週も金曜日がやってきたが、明日、明後日もお仕事だからちっとも週末感覚は無い。まぁ、そんなもんだ。

地方創成という言葉が躍っている。愛知県も地方だと思っているのだが、いかんせん、工業出荷額日本一の県であって、企業立県であるから県が何を言おうがお構いなしだ。数億円の補助金など埃にもならない。ならないのだけれど、中堅・中小にしてみれば一つの研究開発に充てられる額ではある。しかしそれらのすり合わせで巨大産業を作り出している大企業にとってはやっぱりゴミみたいなものだ。

ここに愛知県の難しさがある。普通の地方であればカンフル剤が効果を発揮するのだが、この愛知県という巨象にはそんじょそこらの注射は効かない。となると、倒れるまで何もできないような状況で、デトロイトみたいになってしまうのではないかと思ってみたりする。他山の石と思っているのだろうが、いつでんぐりかえるか、案外、近いような気もしないでもない。

組織が強くなりすぎるのも考え物だ。足元が見えなくなって、力でごり押しするようになる。抜け道を創ってちゃっちゃとやってしまうようになっては、その組織にとってアリの一穴。それを創らないように地道に努力を積み重ねる必要がある。挑戦すらしなくなって、談合でこそこそし始める。なんだかそんな気配を感じるが、まぁ、私は私で地味にじわじわと参ります。やっぱり単純と堂々が一番。そんな私であります。

合格発表

前期日程入試の合格発表が昨日行われた。本学においても御同様にして発表が成された。無味乾燥な数字が発表されるだけなのだが、その数字にはそれまでの頑張りが表され、合格者の笑顔を引き出す。アメフト部の胴上げが名物となっていて、男子高校生が宙を舞う姿にほほえんだ。なんと素晴らしい情景であろうか。自分にもそんな時代があったなぁと遠い記憶を遡ってみたりしたが、懐かしんでも仕方が無いので、さっさと仕事に戻る。

昨今、入試の判定ミスのニュースが踊る。マスコミにしてみれば格好の餌食であって、社会悪の権化のようにたたいてくる。確かに阪大の事例は異質に感じた。あれはまずい。判定ミスなどあってはならず、採点ミス、問題作成ミスなど様々な人為的ミスを減らす努力をしている。ただ、それは研究等に掛かる時間を大幅に削っていることに直結する。大学で勉強しようと頑張った者に対してどんなに丁寧にしてもしたりないのだが、実はそれが大学に入った者の前で教壇に立つ人間から多大な時間を搾取していることにも繋がっている。

入試は一発勝負。体調不良でもアウト。小生も思い出すのだが、上野駅で電気機関車が壊れて動かない。ご同輩っぽい方がうろうろと車内を不安げに歩き回る。運不運というものはあるものだなぁと妙に落ち着いていたのだが、結局、5分の遅刻で済み、無事に入試を受けさせて頂き今に至っている。暢気な時代であった。バスからの眺めを今も覚えている。水を張ったばかりの田んぼに白鷺が舞っていた。

大学は一つの通過点だが、思いっきり勉強すると間違いなくその後に役に立つ。頑張ったことが役に立つ。詰め込み教育は否定されがちだが、詰め込んで柔軟に膨らむことが出来る時代に詰め込むべきなのだ。合格者諸君、君達は今日現在は受験というゲートをくぐり抜けることが出来たのは間違いない。しかし人生はまだまだ長い。こつこつ一歩一歩、進んで頂きたい。努力は自分に宿る。それは誰にも奪われない。

務め

国立大学が平成16年から無くなり、今では国立大学法人というなんだかわかったようなわからないような。法人というのであればなんらかを目的とした私的な金稼ぎ集団であるはずなのだが、これが思いっきり縛られた形態をとっている。もっとも、財務会計の素人集団が法人なんて運営できるはずもないのだから、縛っておかないとあっという間に倒産ということになる。それが今の国立大学法人である。

国もこのままではお抱えの法人が多すぎて切り捨てていかないといけないとようやく気付いたらしく、特定国立大学法人という、これまた枠の外の蚊帳の中みたいな、なにがなんだか分からないグループを作って、土地を貸しても良し、投資しても良し、金で金を稼いで良いという、およそ教育組織にはなじまないことをやらせ始めた。東大などはどんどこ稼ぎはじめ、金持ちは無限に金を稼げるという時代劇みたいな状況を作り出している。見事なもんだ。

純粋な研究の府が、基礎から製品化までやってのけるという、TOYOTAも真っ青的な活動を展開し始めた。基礎を持ったものが分散せずに社会価値まで作りだしてきたら、これは国営営利企業のあるべき姿だなと感心している。本学ではなかなかこうはいかない。社会と一体となって高度人財を創造するというのが本学の務めだとは思うのだが、果たして今の状況はそれを牽引しているかと言われれば、そこまで割り切って頑張って無いというのが社会の評価であろう。

不具合解決では無く、理想からモノ作りをしていく。それこそが名工大の有り様だとするならば、便利と思われそうなスマホのアプリを作ったり、ネットありきのサービスで稼いだりというのはターゲットとしては違うと思っている。心の底から信頼できる、いや、疑うことすら想起しえない、人に寄り添う技術こそ挑むべきで、これは10年、20年と積み重ねていくものだ。そのページをゼロから作り出す。それが務めだ。

人工

こんなものいらないなぁと思う巨大人工物が多々ある。諫早をはじめ、誰かの都合で自然を破壊してしまう構造物がその代表だが、長良川河口堰などもその一つだ。これは小生の想いだけだから、政治的に欲しい人は沢山いるんでしょうけれど、世論一般などと大それたことは考えない。大きな土木事業を行うと、大きなお金が動く。名古屋の大深度においてもお金が飛び交う。金まみれの構造物作りは一体、いつになったらやむのだろう。

ガキの頃は大きなもの、高速道路など、なんだか夢のような世界であった。何処までも続く平たい世界に、忽然とビルが現れ道路が空中で交差して、無限の数の車が走り回る。電車はどんどん早くなって、丸い顔の新幹線が登場して、近いうちに車も空を飛ぶのだろうと本気で思っていた。人口が恐ろしい勢いで増え続け、川の流れが変わり、橋が無くなり平地に変わっていった。その頃からなんだか変だと思い始めた。

近所に呑川というのがあって、これが高度経済成長期にヘドロがわんさか。浚渫が大変だと川底をコンクリートで固めてしまった。これが決定打だった。世の中おかしいと。大地に手を加え人が住むくらいならまぁ良かろう。自然に湧き出た水が海を目指す。バクテリアなどが浄化しながら水を海に運び水蒸気となって再び雨になる。その循環を破壊する人間の浅はかで愚かな行為だと、小学生ながら思ったものだ。

水が必要になるから河口堰を作ったと言う。しかし、誰も使ってない。閉じると決めた官僚がいるから閉じる。学者を呼んできて生態系は変化しないと言わせて、閉じる。学者も金に頭を下げちゃうから、札束が必ず勝利する。日本から自然という資源を取り去ったら何も残らない。心を支える文化の源流は天と大地だ。その間に人は生かされる。生きることに謙虚でなければと、まだまだ硬い桜の芽を見てしみじみ思った朝であった。

不漁

もう3年前になろうか、鰻の完全養殖を目指して「こんなことやりませんか」と呼びかけた。名物を崩壊させるのかと見えない力が何処からともなく真正面からやってきて、あっという間に潰される。その昔、潮力発電やりませんかと言うと、やはり何処からともなく力が掛かってアイデアそのものが無かったものになる。地方大学なりのことを頑張ろうとすると、やはり核の雲の傘がやってきて寄ってたかって潰される。自分のためにと思ったことは一度も無いが、どうも世の中は暴力的な力がお好きなようだ。議論なんかない。

鰻がスーパー不漁らしい。そりゃぁそうだろう。取りたいだけ取って、ぎゅうぎゅう詰めで育てて、全部オスにして、しかも親鰻を海に戻さないんだから減るに決まっている。人為的な不漁と断言して良いだろう。マリアナ海溝近傍の海流が変わった云々はあるかもしれない。そりゃぁ自然のやることだから突然の絶滅だってあるかもしれない。しかし鰻に限っては人為的だろうね。これはもう仕方が無い、今年の夏は鰻レスだ。

満月の潮力と光、恐ろしい程の水圧によって粉砕され、そして不要なものが海に溶け出した残りを鰻の仔魚は食する。その部分を実現しないと完全養殖は成り立たない。完全養殖とは、今、瑞浪地域で流行り始めている人工海水による養殖の事で、海水を使ったら完全養殖とは言わない。だから鮭は完全養殖では無い。勿論、瑞浪においてもその昔の浜辺のミネラルを含んだ淡水に塩分を混ぜるから海老が陸で育つ。100%の人工というわけではないが、自然の力をお借りして、知恵で命を育む。

権力と言う恐ろしいものにどんどん流されていく。仕組みを都合よく変えて延命する。そりゃぁついさっきトップに立った人が「これやりたい」と言っても無視されちゃうのかもしれないが、世界は常に新しいのだ。その新しさを受け入れてアシストしながら交代していく。それが知恵のある者のすることではないのか。お金がないから潰しちゃう。教育なんかいらないと叫ぶ。そんな馬鹿どもに食われてたまるかと、鰻も何処かに行ってしまったのだろう。そう思う。

労働とは?

裁量労働制云々を経団連が旗を振ったというのが嫌らしい。国立大学法人教員はとっくの昔に裁量労働であるが、これは誠にもって的を得ていると思う。お役目として週40時間の仕事範囲に収まっているかと言えばそれは明らかに違うと叫びたくなるが、大略、束縛は会議と講義ということだから、週の労働時間が設定されて、それ以上に働けばという流れになる。この「それ以上に」というのが、一般民間人の方々にとっては間違いなくブラックになるだろうと想像する。

大学生時代のアルバイトを思い出すと、例えばビル一棟の蛍光灯を土曜日の午後に全部取り換えるとなれば、それがノルマであって、早かろうが遅かろうが賃金は一緒だ。家庭教師などは自給いくらになるから、時間に縛られてそれで賃金を頂ける。裁量労働はどちらでもない。後者で前者の条件になるのだろう。40時間分の給料はこれね、だけど労働は1000時間やれよなというのが、まぁ、経営者側の考えなんでしょうね。労働時間が少なくなるという物凄いデータを信じて話す人の頭の中を疑いたくなる。

体調不良の時もあれば絶好調の時もあろう。ノルマに縛られればゴールは遠かったり近かったりだが、仕事に長けている人に裁量労働を適用したら、みんな辞めちゃうんじゃないかな。同じ時間に人の3倍仕事をこなそうとも給与は同じねって、それはどうなんでしょう。法律提案が流れてしまっても無理はないかな。

みんな、何か良いことしたいに決まっているのだと思う。人が何故生まれたのかってなところに帰着するのだろうけれど、労働って何かということを天下国家を論じるには、きっちりと定義していかねばならない。きれいごとではない。どろどろとした人間社会だ。心底頑張って成果を挙げている人を妬む社会だ。人間は弱い。弱い者同士助け合えばいいのにと思うのだが、質の高い教育組織を築こうとしても日の丸が抑え込む。情けなくなる。

到春

ドアを開けたら春が来ていた。夜中十の嵐が雨戸を叩き、春を告げていたのは感じていたが、もわっとする暖気は正に春のものであった。とは言え、しばらくはぶり返す寒さもあるだろう。気を付けねばならない。ここ数日来満開になった梅が気になったが、思っていたほどの被害は無く、メジロを呼んでくれる満開は維持されていてほっとした。楽しみが一気に無くなってしまったかとひやひやした。昨年は正月頃から暖かく、春一番で梅が無くなったが、今年の寒さは花を守った感がある。

名古屋地域は久しぶりのお湿りで、乾燥が続いて風邪やインフルエンザが流行っていたが、これで少しは終息するかもしれないと、これまたほっとしている。驚いたのは御器所の駅を地上に出た時だ。どうも徳重の方面と御器所方面では空気の流れが明確に異なっているらしく、空気感が全く違う。明らかに御器所がヒヤッとする。それ模様もなんだか寒気に満ちているっぽくて、緑区ってそんなに南か?と南国ムード満点の故郷から秋田に出張したみたいな感じがする。

日本海を低気圧が進んでいただけでは無く、閉塞全線を伴った低気圧がアベックになって本州をサンドイッチしたらしく、寒冷部と暖部が入れ混じって今朝の嵐になったのであろう。緑区ではとっくに上がった雨で、桜山あたりからびしょ濡れの男子高校生(っぽい)達が乗り込んできて驚かされたが、御器所の空は厚い雲ではあったが雨はやんでいた。西の空は明みて、ほっとして歩き始める。

叩きつける雨と風で妙に綺麗な町並み。これが大変に好きである。気分爽快とはこのことで、吸い殻、空き缶、紙くずなどまで吹っ飛んでいる。いや、これらは何処かに吹き溜まっているだけだろうから、積分的には綺麗なったわけでは無いが、目の前からそれが消え去っただけで良しとしよう。関東や東北はこれから嵐の本番らしい。春が来た。そう宣言しても良さそうな朝に心地よさを感じる私であります。