世代

技術経営の講義って、聴講者の世代に併せてしゃべらないと刺さらない。それは極めて顕著で面白くもある。その資料を見ていたら、隣席の若大将から「あんたの資料ではゆとり世代が広く取られ過ぎていて気分が悪い」とご指摘を頂いた。聞いてみると、さとり世代やしらけ世代があるらしい。それを聞いて成る程なとも思った。研究室を数年前まで持たして頂いていたのだが、ここ数年、明確に人種の変化を感じていたからだ。

切り替わりの年に明確なギャップがあるわけでは無かろうが、文献をいくつか調べてみるとゆとり世代は生まれが1987年4月~1888年3月までという学年歴で区切られた資料を拝見した。面白いので採用させて頂く。2023年現在で年齢が36歳になる方々だ。その次の悟り世代は第二ゆとり世代とも言われているらしく生まれが1995年4月~1996年6月からスタートで、2023年現在で年齢が27歳になる方々だ。この世代は人と対立しない環境で育ち、ガラスのようなメンタルで旅行に興味が無く、休日は家で過ごすという。成る程。

その後はご存知Z世代という事だが、1995年~2010年頃に生まれた世代ということで、このあたりは幅が広い。ご老人達が勝手に定めたカテゴリーだから、勝手に言ってろということだろうけれど、インターネットやデジタルツールの発達は、明かに、その前世代の方々とは違うと感じる。身の回りに存在する情報の量が圧倒的に異なっていることは間違いない。三つ子の魂百までだから、その時代に氾濫する情報に身を置いていたかどうかは極めて大きい。かるたで社会を学んだ世代とは隔世の感である。

今更のことなのだが、さとり世代やゆとり世代の方々が、Z世代の方々を教え、導く状況になっているわけで、価値観をZ世代に併せていかなと指導など出来る筈が無い。「そういうものだ」と押し付けられて納得させられた人生になど、何の価値も受け取って頂けない。団塊の世代が政治では幅を利かせ旧態依然で迫る一方で、Z世代が知らんぷりしている。世代間の対話が必要なのだが、核家族化した我が国ではそれは望みようが無い。結局のところ、自らは何を成し遂げたいのか。それはどの世代でも持っていて良い心の中身だ。変わらないのはそんなところだ。

若返りは?

1993年の事だから、既に30年も前の事だ。光陰矢の如し。自ら実感している。当時、HP100LXという電脳を持ち歩き、お仕事に、趣味にPCをどの様に活用していくのか、面白おかしく研究し合うというか喋り合うというか、そんな目的で名古屋携帯PC研究会を立ち上げた。Newtonデバイスという、今でいうタブレット端末もあり、不具合が多い故に面白さは格別であった。何かを成し遂げたいという気持ちが、周囲を巻き込んで動かしていく実感があった。

文科省が大学を3種分類して、それぞれに個性を出せと、いわば本社命令を下してきている。没個性はそのまま没ですよということだ。安定しているとついつい没個性になりがちである。それを今、一番恐れている。お隣には東山連合大学が聳え、常に捕食しようと虎視眈々と狙ってきているわけだが、同じ色に染まってしまえばそれで終焉である。次の一手が極めて難しい。難しさを加速させるのが受験生年齢者の減少であることは言うまでもない。

減少しても大学として自堕落せずに、教育も研究も有為な人材を育成するために全力を尽くしますと言い切って、地域社会の知恵のハブとなっていれば良いわけだが、ChatGPTをどうしようなどと言っているようではおぼつかない。AIを使いこなしてその発展に寄与して、どんどんと電脳を賢くしながら、自らの個性を発揮できるような世の中に変革していこうとする若者をリードする、教育と研究の有り様を作り込んでいくフェーズである。そうなのだが、なかなかにして難しい。

難しくしているのは自分達であるのだが、何というか、リーダーにしても我が国は何故かそれなりの年齢の方が収まってしまう。ほぉっと思ったことがあって、昨日の衆参補欠選挙で、30歳代が3人、40・50歳代がそれぞれ1人と若い方が立ち上がってくれて来たなと感じたことだ。大学なども思い切って40歳代中ごろくらいの方に立ち上がって頂きたいのだが、一方で、研究者として油の乗り切った方に政治をやってくれとはなかなか言いにくい。人は心を人の為に尽くして人だろう。年齢は関係ないのかもしれないが、思い切った若返りがどこかでやってくるだろう。そう感じる。

ゴールは見えているか?

そこそこ長く生きていると、なんとなくだがゴールが見える。何時縊死するとか、そんな終末を意味するのではなくて、お仕事において、こんなところが75点かなということが感覚として感じられるということだ。どこかに出掛けようという時に、今日、戻って部屋に入る時にはこんなイメージを持っているだろうとかね。こんな旅のルートにすると面白いとかね、そんなことをふと思いついて、行動できるようになってくる。

お仕事の場合においての75点と言うのは重要で、残りの25点分は75点を獲得する上で獲得した知恵を使って、更に継続していくうえで必要である。75点で満足するということではない。そもそも今の時代に終わる仕事など無いのだ。勘違いをしてはいけないのだが、多くの人は本来、AI等が自動でやってくれる筈の作業に時間を掛けているだけで、小生から見たらお仕事に時間を費やしているとは見えないのだ。どうやって自動化するかを考えるのはお仕事であり、100%のゴール結果が見えているものはお仕事では無いのだ。

常に終わりが無く、完成しないから疲れるのだ。永遠に終わらない、賽の河原の石積のように目的もなく続けることに疲労は無かろう。目的が延々と高まっていくからこそ疲れるのだ。自らの能力の無さに疲れるのだ。どうすれば良いか?簡単なことである。努力をすることだ。その努力をどのように成すかを考えることだ。独りで考えられないのであれば助けを呼べばよい。二人で駄目なら三人でというように、文殊の知恵に縋るのが良い。

ただし、ゴールを持たずに問いかけるのは許されない。それは単なる時間泥棒である。人に依頼をしておいて、それは受けられませんと言われると、だったら誰に聞けばよいのか教えろとか、代役を見つけろとかね、そうなってくるともう暴力である。そんな方々に責め立てられて辟易している。虎の威と呼べるほどの組織力で襲ってくるのだが、駄目なものは駄目である。そんなこともそこそこ長く生きてくると言えるようになるものだ。何時かは立ち止まるのであろうが、それは少し先のようだ。もう少しでGWである。気合が入る。

博士になろうよ

我が国の研究力が低下したから産業界が冷や飯を食っているのか、産業界が国内での大市場ばかりを狙ってこけ続けて、新規の研究成果を活用できなくなったから研究力が低下したと言われているのか。世界の論文数という指標を当てはめられると、我が国から発出される研究論文の凋落は確かにその通り。研究論文発出の担い手は、国際学会などでしのぎを削る博士課程学生なのだが、産業界が博士など要らんと言うし、自分で稼がないと人件費が無い状況の大学では教員ポストを作れないし。結局、日本人の博士学生がどんどんと減っていく現状に歯止めを掛けられていない。研究力の凋落の要因はそこにあろう。

ドクターコースと呼んでいる領域に入り込む前にはマスターコースというものがある。大学に依っては5年一貫で博士課程としているところもあるが、多くは前期2年、後期3年として、後期の期間をドクターコースとしている。マスターコースの時代に指導教員が、自らの評価書作りに時間をとられ、学内所作業に時間をとられ、予算獲得に走り回り、どんどんと国際会議から足が遠のき、国内の学会でも発表しないなんて状況に陥っているのを見てしまうと、後期課程に進もうとは思わないよね。

大学の人事枠は極めて少なく、ポスドクで5年や10年で職場を換わって、研究に没頭できないとかマスコミが言いまくっているから、それでも進学しようと決意する学生は少なくなってしまう。企業に就職させて頂けたとしても、4年生で卒業した同級生が、入社したら上司になって給料がそっちのほうが高いという現実の話を聞かされると、やってられるかとなるのは当然だ。チャレンジャーは海外に行く。これも当然のことだ。

研究は世界トップでなければならない。唯一無二の学理を探求せねばならない。学会を同窓会の如くの夜会の前座のように考えている者は若者の夢を奪っていることを自覚せねばならない。お前のやったことは信用できないから、全部、俺がやり直して再現したら認めてやるなんて状況で、自分も研究者になろうなんて思うはずが無かろう。信頼出来る人を育てることをせずに、学生を私物化しているような輩もご退場する時代である。研究以外の業務が多すぎる。それは感じている。思い切って削らねばならぬ。先ずはDXなのだが、大学というところはDXとはほど遠い。なんとかせねば。

起業のキー

毎年大略10万社に満たない企業が生まれ、そして廃業していく。近年は起業よりも廃業が多いと言われているが、大略どっこいどっこいで推移している。100年企業の廃業は、老舗旅館とか、サービス継続が困難になった等々、様々な理由があるわけだが、継続の困難さは、3年未満の廃業が相当数あることから、国がベンチャーの起業を促したいということに対して、無責任さを禁じ得ない。ただ、新陳代謝が必要なのは間違いないし、新しい時代に必要なビジネスは、その年代の者がリードするのが良いという観点からは、学生起業者の増加を望むのは小生も同様。

取り敢えず起業だけしようなんていう冒険家は少ないとは思うのだが、お作法があるのは間違いなくて、そのお作法を無視して「何とかしろ」という声が上がってくるのは、ご高齢の偉い皆さんからだが、お作法をお伝えしても無視されてしまうのが辛い処だ。アシストする組織に居るわけだが、MOTの流儀で議論して「こうして下さい」というベクトル合わせをして挑んでいこうということになるのだが、作れば売れると思っている者の耳にはなかなか届かない。

新聞等では「市場を創れ」なんて簡単に言ってくれるわけだが、GDPが低下しているということは市場がそもそも疲弊・縮退してきているからで、且つ、新規参入を拒む閉鎖性も相まって、我が国では「市場を創らせて大企業が盗む」ということが繰り返され、若者は海外に脱出して起業し、利益の獲得に繋げている。こんな状況を見ていると、イノベーションは益々我が国からは生じにくくなるのだなと、高齢者の投票率だけが高い我が国の未来を憂うるばかりである。

アウトカムズという単語を聞いたのはJABEEの審査員講習会でであったが、自らは何が出来るというアウトプットでは無く、アウトプットが他者にどのように働き掛けが出来、その他者が自らが元来持つ機能をアウトプットが高めることによって、更に他の者に幸福を伝播していく機能がアウトカムズであるのだが、アウトプット表現だけで「起業したい」と言い切ってしまう。市場も機能も評価できない状況だ。自らをアウトプット、即ち他律機能で表現する。そのトレーニングをする場は子供の頃からの教育にあるだろう。大学では遅すぎるのだ。

水たまり

隣の芝生は常に青いのだが、それに気を取られて足元の可憐な花に気が付かなければ愚か者だ。近しい方から近江の国のこの景色に出会いたいと言われたのだが、そんなもんあったかな?という状況にあった。1980年代にプロジェクトがスタートして、今は立派な観光地になっているらしい。地図で調べたが「そんなとこ行かないよ」という、まぁ、水たまりの反対側であって、意識もしてこなかった。

近江八幡の和菓子屋さんが、派手なアニメに出てくるようなお菓子の丘を作ったりして、そこそこ話題が出てくる水たまりの国なのだが、そこに居ると水たまりの反対側など気にもしない。個人で船を持っているわけでは無いし、夏は蒸し暑いし、冬は寒いし、ろくなもんではない。最近、別の近しい方が出掛けますよということで、見どころを教えて欲しいと言われたのだが、記憶の範疇でお伝えはしたものの、足元の芝生は見えていないので、ご案内が出来るものでは無い。

もっと良いところは沢山あるだろうにとは思うのだが、藤原仲麻呂の終焉の地に興味を持つ人などはおらず、随分と古くからの遺構だったりお寺だったりがあるのだが、どうもあの巨大な湖の存在感に勝てるものなど無く、水たまりの縁は目に付くから行ったりするのだけれど、ちょっと奥に入ってしまうと、その存在すら意識に入らない。その近しい方も「えっ、そこに行っていないのですか?」と驚いたりもしたのだが、それはこちらとて同罪で「そんなところは知りませんでした」と知らないの応酬である。

折角の連休がもうすぐやってくるわけで、今年はちょっと水たまりの周辺を探ってみようかななどと思っている。思ってはいるものの、本当に行くかどうかは解らない。高速道路は混雑するし、水辺の道路は逃げ道が無く、行く前から気分が滅入るのが水たまりの国の有り様だ。どんどん寿命が尽きてくるから出歩かないといけない。いけないのだが面倒が先に立つ。地元とはそんなところだろう。話をしていてそう思った。

まだまだ省エネ

エネルギーを使わないところまでいくのかというくらいの、省エネ技術。自然の力を頂戴して、人間の都合に合わせて道具を作っている姿は美しい。いろんな評価をさせて頂くのだが、いったい、何処まで省エネって出来るのだろうかと思うくらいに、様々な省エネ技術が生み出される。その省エネ技術達成の為にどれだけのエネルギーを費やすのかと呆れかえるほどだ。勿論、ランニングということで、長期に亘って省エネを実現しつつ、便益も失わないということが重要なのは間違いない。

焼き物を作る粘土を、より粒子を細かくするために唐臼と呼ばれる川の水流を使う杵があるが、ごっとんごっとんと暢気だが、確実に仕事を進めてくれる。人間のほうも、その杵の働きに併せて焼き物を作っていくわけだから、自然との見事な共生で、お仕事の有り様を示してくれている。温暖化による気候変動で、日本の河川がどの様に変化していくのか恐ろしいが、唐臼のような自然エネルギーを活用するお仕事の有り様は変わって欲しくない。

ドイツの英断はすさまじく、原子力発電所を電力グリッドから外してしまうという、日本ではあり得そうもない行動に出られた。太陽光発電や風力発電に大きく舵を切るということなのだが、それはそれで大変な事だろう。巨大な風車や大面積を必要とする太陽光発電にしても、寿命はそんなに長く無い。巨大風力になれば成る程、軸受けに掛かる力学的作用は大きくなり、太陽光パネルとて、面積が広がれば広がるほど、断線等故障発生確率は上がってくる。リサイクルにも相当のエネルギーを必要とする。

こうやって戯言を入力するのだって、PCを駆動させて電力を消費しているわけだ。こんな駄文など無い方が宜しいわけだが、飽きもせず、エネルギーを消費し続けている。思い切りが必要である。休めない日本人が休めるように、5月連休は何が何でも10日連続でカレンダーを真っ赤にしてしまうとかね。目の前の書類が省エネという単語を想起させたのだが、まだまだ技術において省エネは達成されるべきだ。それは間違いない。何処かで限界が来るのだろうが、その時は、仕事をしないとかね、そんな思い切りが必要な時代が、もう来ているのかもしれない。そんな気がする。

暴力に想う

先の首相襲撃の時にあからさまになった政治と宗教との関係だが、マスコミは沈黙し、選挙においても何の話題も出てくることは無く、与党が勝ち進み、国民はそれら全てを認めてしまう。この国の在り方だ。再び、暴力が国のトップに襲い掛かったが、どんな理由があったにせよ、暴力は許されない。誤った国政のかじ取り役であったとしても、それは国民の選択であり、国民の平等な思考に対する暴力である。思考停止は人間であることの放棄である。

自分に照らし合わせてみると、気が付くと通信簿というランキング表に振り回され、運動部では自己記録では無く他者に勝つことを求められ、高校、大学と入試と言う「落とす」為のゲートを潜り抜け、思考の在り方を教わることなく知識の詰め込み競争に追い込まれた。得た知識を知恵にする思考の手法こそ学ぶことの本質なのだがその本質は自ら気付き、自ら磨く必要があるのがこの国の教育体系だ。答えが決まっているなぞなぞを与えられ、答えがゴールであると教え込まれた。自ら受け入れられない者は暴力で排除する生き方となる。

無我の時代はどうすれば生きられるかを本能でかぎ分けて、段々と自我に目覚めながら競争と言うレールに乗せられる。人が人の為に生き続けることで、お互いを活かし続けられることも学ぶことなく、自我に反する方便に向かって暴力を持って相対する。鉄砲だったり爆弾だったり。知恵によって討論し、お互いが納得するという人間が有する技を用いることなく、知能無き暴力で決着を図ろうとする。

何時から人は思考の手法を学ぶことを放棄してしまうのか。無我で生まれ、命を繋いでいる間に、生きる方法を取捨選択から経験として身に着け、他の者を尊敬することでお互いが生き合うことが出来る思考を獲得する。信じあうことから知恵の融合が生まれるわけだが、思考無き安易な借金で民を路頭に打ち捨てていこうとする為政者に向かっているとせよ、やはり暴力はいかん。知恵の融合こそ人の進む道を決めるはずである。疑う前に信じること。そんな当たり前の日を生きてみたいものだと。そう思う。

12年連続人口減

東京を除いて、全ての県で人口が減りだした。東京一極集中のお陰で、東京だけは増えているようだが、それもいずれ近い将来マイナスに転じるのであろう。それは解り切っていたことで今更どうのこうの思う事すらない。超少子高齢化社会と騒ぐのか、海外から労働者を入れないとと、永遠に言い続けるのか?もっと機械化していって、人がやっていたことを機械にお任せしようという国になれば良いのではと思ったりしている。

いずれ世界もそっち方向にいくのでしょうし、地球にはキャパがあるから無限に人が増え続けられるわけではなかろう。そう思っている学者も大勢いらっしゃるが、人工肉なんて食べたくないぞ。昆虫食もまっぴらごめんだ。イナゴの佃煮や蜂の子などはお酒があれば美味だが、それを主食にしようとは全く思えない。食料自給率100%と機械の超高度化を目指すのが、少子高齢化立国の有り様だ。

人によるおもてなしは極めて高価にすれば良い。徹底的にだ。中途半端では差別化できない。一方で、3K職場でございなどと威張っている企業から人はご退場頂き、全てロボット、専用機に置き換えるのが宜しい。電気代と機器整備代は掛かるが、人出が居なくてもお客さんが喜べる雰囲気を売る時代になるのだ。インバウンド対応の人が足りないと言うが、ベッドメーキングレベルまで自動でやるのがよろしい。それを前提にした寝具開発は、一つのビジネスチャンスだと思っている。誰かやらないかな?

日本人は今を起点に考えすぎる。今を変えたくないと、石頭、旧態依然を誇りにしているとしか思えない。勿論、おもいやりのある人対応は大切だが、人が居ないのにそれを求めるのは如何なものか。その頑なさが働き手を失っていると思えないか。若者から夢を奪っていると気付かないか?新奇を潰し、旧態を守ろうとする姿勢こそ、国民の減少を加速させているのだ。もっともっとみんな新奇に挑戦しよう。そう有るべきだ。

ChatGPT考

いろんな「なんだかなぁ」がある中で、世界中の大学がChatGPTの出現であたふたする姿は、正になんだかなぁである。だって、とっくの昔にその出現は解っていたわけで、ワトソンの次に来るのはそんなもんだろうと誰もが思っていたのでは無いのか?使用禁止とか、ChatGPTの出力を手直ししたら良しとかね。既にAIに脳を乗っ取られている人種の、何とも柔軟性の無い事か。ビジョンがあって、それを叶えようとするのが研究テーマであろう。そのビジョンがしょぼいからAIに全て上書きされることになる。そんな研究者はそもそも無用と言う事だ。

近未来に、今、小学生の低学年くらいがChatGPT世代と言う事で、Next Z世代ということになるのでしょう。生まれながらにネットワーク環境が整い、データの中から取捨選択をして、価値観を同じくする人達で繋がっていく世代。それが問い掛け方によって返答が変わってくるAIの出現によって、単に検索上手ではなく、問い掛け上手、即ち、会話上手が先行する時代。大学や企業で問いかけられて、ChatGPT以のを回答をしない者は仲間外れとなる時代だ。

授業にノートPCやタブレットを持ち込み、生徒はどんどんと疑問を喚起され、ChatGPTなりで自分への問い掛け力、質問力を鍛えていく。答えられた解を適切に判断し、AIサイドを育てていく、そんな関係性では無かろうか。大切なのは自らが「何故、今、『自分は何故が喚起されたのか?』」を解きほぐす能力を持つことだ。自らを客観していく、そして他者の価値観を推測し、その上で、対話を成立させていく。多くの者の議論の有り様も変化して当然だ。人間だけで陳腐な「解答」と思われるものを創り出して、傷をなめ合う時代は終焉を迎えたということだ。

よりによって文科省迄がChatGPTに振り回されている。国会答弁など、日本の政治家レベルであればChatGPTに置き換えれば宜しかろう。かなりの部分が補えるのではないか。大袈裟ではあるが、いずれそうなるのであろう。数年前にAIがシンギュラリティに達したら要らない職業というのが公開されているが、既にそれに到達しているのだと感じている。どんどん使い、満足のいかない解答はどんな質問であったのかを共有し合い、満足する方向に育てていくことが涵養だ。機械に使役・駆除される時代が来た。それだけのことだ。