とあるお坊様のお話。幸せの定義が「自分が得たモノ/自分が欲しいモノ」になってしまっている。手に入れるモノを増やすのか、欲するモノを減らすのか、バランスが重要であると。近年、欲するモノは使っていたものが壊れたり、衣服であれば「もう限界」という状態だったりと、置き換え需要ばかりだなと気付く。書籍の購入は知恵の欲求には逆らえないのでどうしようもないのだが、目の前に置いておきたいモノというのは激減してきていると思う。
物欲を去らせることは可能だが、心の三毒は中々にして退治できない。「むさぼる」は物欲の一つだろうが、満足しないという事も含まれる。もうこれで良いではないかということを放棄してしまう。むさぼり食うというのは極めて汚らしい状況だ。飽きることなくひたすらに食べ続ける、ほおばり続けるという事だが、競技的早食いなどはそれに見えてしまうのだが、まぁ、それが目的だから止むを得まい。満足の閾値を下げ、普通で良いという心情が必要だ。
瞋という漢字はなかなか読めないのだが「じん」と読む。怒り、憎しみ、妬みの心だ。妬みなどは正に醜い状態で、嫉妬などはおぞましい。これも「あぁ、そうなのだな」と他の人の行いを達観できればそれで良いのだが、なかなかその境地に至らない。これも自らの有り様の閾値を下げていくと持たずに済む感情なのかなと思ったりもする。
痴も同様だ。おろかである様というだけではなく、無駄な愚痴が口からでてしまったり、更にまずいのは無知である。学びを止めた者が獲得す知恵が無知である。貪・瞋・痴の心の三毒は、百八の煩悩の代表格だそうで、とあるお寺の隅っこにあった説明書きを見て、なるほどと思った次第。他人と自分を比較したり、背伸びをしようとしたり。無駄なことはしない方が良い。それも物欲を無くすということであろう。生きやすい世の中は、そんな人々の世界であろう。そんな民になりたいものだ。