三毒

とあるお坊様のお話。幸せの定義が「自分が得たモノ/自分が欲しいモノ」になってしまっている。手に入れるモノを増やすのか、欲するモノを減らすのか、バランスが重要であると。近年、欲するモノは使っていたものが壊れたり、衣服であれば「もう限界」という状態だったりと、置き換え需要ばかりだなと気付く。書籍の購入は知恵の欲求には逆らえないのでどうしようもないのだが、目の前に置いておきたいモノというのは激減してきていると思う。

物欲を去らせることは可能だが、心の三毒は中々にして退治できない。「むさぼる」は物欲の一つだろうが、満足しないという事も含まれる。もうこれで良いではないかということを放棄してしまう。むさぼり食うというのは極めて汚らしい状況だ。飽きることなくひたすらに食べ続ける、ほおばり続けるという事だが、競技的早食いなどはそれに見えてしまうのだが、まぁ、それが目的だから止むを得まい。満足の閾値を下げ、普通で良いという心情が必要だ。

瞋という漢字はなかなか読めないのだが「じん」と読む。怒り、憎しみ、妬みの心だ。妬みなどは正に醜い状態で、嫉妬などはおぞましい。これも「あぁ、そうなのだな」と他の人の行いを達観できればそれで良いのだが、なかなかその境地に至らない。これも自らの有り様の閾値を下げていくと持たずに済む感情なのかなと思ったりもする。

痴も同様だ。おろかである様というだけではなく、無駄な愚痴が口からでてしまったり、更にまずいのは無知である。学びを止めた者が獲得す知恵が無知である。貪・瞋・痴の心の三毒は、百八の煩悩の代表格だそうで、とあるお寺の隅っこにあった説明書きを見て、なるほどと思った次第。他人と自分を比較したり、背伸びをしようとしたり。無駄なことはしない方が良い。それも物欲を無くすということであろう。生きやすい世の中は、そんな人々の世界であろう。そんな民になりたいものだ。

何だこれ?

研究様態の象限表現というのがありまして、エジソン象限とかパスツール象限とかの「あれ」ですよ。純粋な応用研究、実用思考の基礎研究とか、純粋な基礎研究とか、そして雲をつかむような研究とか。それらを4象限に纏めると、軸が意味付けされてきて、実に愉快なのですな。研究テーマ設定ってどの象限でも良くて、企業との共同研究にしても、純粋な開発の為の応用研究も、実は取り組んでいると「なんだこれ?」を見出したりするし、基礎研究だと思っていたら、企業が欲しかった具体事例なんてこともありますからね。

文科省も経産省も共同研究を通じて大学が生んだ知恵を社会に活用する努力をしろと言うのだけれど、逆に「社会は本当に何かを求めているのか?」と問うてみたい。勿論、省エネ対応とかそんなことであれば取り組む方向性が明確だから何とかなるのでしょうけれど、「新奇な事業で世界に売れる商材を作れ!」なんて大学に求められても困ってしまうわけですよ。学生ベンチャーにしても、いきなりユニコーンなんて生まれ無いしね。

いろんな象限をちりばめた研究スタイルが工業大学としては良いと思っているわけです。勿論、学理の探求で純粋な基礎研究に取り組んで頂かないといけないのですが、それが何を求めているのかのゴールを、経営側としてはしっかりと認識しておかないといけないわけです。そうで無いと、未来志向のお問い合わせを逃してしまう事になる。「何だこれ?」研究も実は企業にとっては立派な投資対象になるわけですよ。長いお付き合いになって、研究者もじっくり取り組めて有難い。

「何だこれ?」研究は実に面白くて、小生もネタは有るのだけれど、今はそれに手を付けることが出来ないわけで、余計に他の研究者の皆様には「何だこれ?」に挑んで頂きたいのです。勿論、何時までも何だこれでは困ってしまうのですが、いずれ芽が出る花も咲くかもしれないわけですからね。決められた未来をターゲットにするのではなく、「これってどうなのだろう?」を図書館(死語?)に籠って散々調べ尽くして、当該分野のファーストペーパーに行きついて「やる価値ありそうだ」と思った青春時代。懐かしい。

古きを訪ねるには?

とあることがきっかけで、現在の指導テーマの立ち上がりを思い起こし記録することが出来た。これはこれで懐かしく、あまりやらないことなので、有難いと思うことにした。タングステンカーバイドを結晶方位に依存することなく成形していく手法の学理思考から市場化までを一気通貫でやってきて、それをDコース学生殿に纏めて頂いているわけだが、世界初の取り組みがどのようなプロセスで生まれ出たのかを振り返ることは意義深い。

学会で聞いたからとか、予算が欲しいとかそんなことでは無く「社会にはそんなニーズがあるのだが、それを叶えることは今のサイエンスでは出来ていないわなぁ」という未来のあるべき姿からバックキャスティングでテーマ設定に取り組んで、どうやったら共同研究に参画する企業が自発的に儲けることが出来て、且つ、学問的にもちゃんと論文になるのかを見据え、ガントチャートを組んでいく。エスケープゾーンも見定めておく。

実際に動き出してみると、思った通りに行き過ぎる部分と、ちっとも上手くいかない部分と両方が出てくるのは当然のこと。工学として取り組むわけだから、産業界が量産に取り組んで利益を上げることが出来ることをイメージすることは当然で、且つ、企業にとって差別化出来なければ何にもならない。知財での差別化は、水素燃料電池の様に複雑怪奇で排他的であれば有効だが、少ない知財で目に見える形を作ることは逆効果だ。知恵を共創できる共同研究を通じて、量産をイメージして頂くのが良い。

可能であればファンド提案がよろしい。ファンド提案のお陰で、共同研究参画各社の役割を定量的に思い出せ、今、量産に繋がっている技術の初期の初期の開発状況が浮かんでくる。20年近くの月日が流れると、記憶と事実にずれが出てくるが、偶然にも残っていた電子ファイルによって、誰と何をやっていたかが思い出される。お役所の皆様の若かりし頃も思い出されて、今、ご一緒させて頂いているきっかけも懐かしく有難い。そこそこ以上のファンドに若い頃から挑戦するべきだ。改めてそう思った。今が解る。

電力発生とCO2削減

CO2排出による地球温暖化によって、今のところ数センチメートルの海面上昇で済んでいるのだが、そう遠くない近未来で、このままいくと一気に30cm上昇なんてことになりかねまい。それを防止しようと様々な研究者が地球温暖化をどうやって抑止しようかと必死になっているわけだ。産業的に影響力が大きい処ではセメント製造過程における炭酸ガス排出が、世界の8%を占めるとか、普通に目にしている産業からの排出をどうやって減らすのだと、なぞなぞである。

石炭火力発電で必要なのは燃焼カロリーであって、クリーンな廃棄とリサイクル可能な廃棄物が獲得できて、炭酸ガス排出を削減すれば良いのだが、機器の寿命が短くなるようではいけない。NEDOが主導して、JERA殿とIHI殿が碧南火力にアンモニア共燃焼によるCO2排出量削減に取り組んでいることは、当該地域では知らぬ人は居ないわけだが、アンモニアの燃焼熱って案外低くって、必要な燃焼エネルギーを得るには燃焼混合に相当の工夫が必要になる。

不完全燃焼の状態でアンモニアが出てくるとか、燃焼によるNOxが大気汚染になっては本末転倒、高度な技術が必要なわけだが、特に停止が続いている浜岡原発をベース電力として設計されてきた電力系統がフル活用できない状態でのCO2削減は、厳しい技術的状況に追い込まれているからこそ、チャレンジし続けて頂きたい。

海洋近傍住民の了解を得にくい巨大洋上風力発電器なども、どんどんと研究が進められているわけだが、日本においては環境影響評価法による基準が1万kWから5万kWに引き上げられようとしているが、世界の潮流は10万kWだし、もっと大きくなるかもしれない。その一方で、10万kWの電力を海中を通って陸に上げるケーブルなどは未だに存在しないとか。そんな見えないとこの研究もまだまだこれからである。素材を極め世界に貢献する日本の底力に期待したい。

四六のがま

那珂市のトカマク炉で「プラズマ」状態に漸く到達できたとの事。世界規模のイーターの補完装置だから臨界迄はもっていかないのだろうけれど、折角、とてつもなくお金を掛けているのだから、徹底的にデータ取りをして頂きたい。決して文殊のようなことにはなって欲しく無いし、国際熱核融合実験炉任せではなく、一気に臨界迄とかね、やって欲しいなというのが本音です。トリチウム、無限にあるしね。

核融合炉を強く意識したのはガマの油売り大学時代なんだけど、学内にガンマーテンというタンデムミラー型の核融合実験炉がつくられていて、それは今でも続いていらっしゃるわけですけど、妙に興味を持ったのはその命名。講義で立ち上げに関わられた先生から伺ったので、冗談かもしれないけれど「筑波さんの四六のガマ、4+6で10、だからガマ10、ガンマ―10」。一撃で覚えましたし、装置の見学もさせて頂き、大学の研究って凄いものだなと思った次第。

フライホイールを使った発電機も素晴らしく、実験する時は冷却用の液体窒素が一気に蒸発して、真冬だと建物の外にそれが放出されて真っ白になり、気温が上がるのを感じることが出来た。一体、どれだけのエネルギーを投入して、そして、それを超えるエネルギーが取り出せるのは何時の事なのだろう、ひょっとすると在校中に実現するのかな、などと暢気に夢を見ていた。それから40年以上も経過しているのだが、我が国で臨界に達成したという報告は未だに聴かれない。

エネルギーと食糧を時給出来て国家だと思う。世界とリンクしている状況でそこまで深刻になるなと言われそうだが、小生はそう考えている。水素をじゃぶじゃぶという事でも良いのだ。エネルギー源として無限の可能性があるのであれば、核融合は素晴らしいとも考えている。勿論、安全ということを考えれば地上に太陽を実現するなんて、余程の慎重さが必要なのは間違いない。極めて難しい学理と工学が技術となって日本を照らして欲しい。新奇に挑戦する人々に感謝である。夢を見せて頂き有難うございますと申し上げたい。

遥かなる水素社会

2050年にカーボンニュートラル!って叫ばれてから、いったい、どうやって実現するんだとなっているわけだが、省エネ基本法を変えないととか、いろんな取り組みが法律的なところから取り組まれようとしているわけだ。カーボンニュートラルの正しい姿は海藻や陸上植物が、動物活動によって生み出されたCO2を固定化してくれる状態だと思ってはいるけれど、アマゾンのジャングルすらどんどん切り開いて牧草地にしてしまう人類であるから、植物による固定化が追いつくはずはない。

我が国の有り様からすると、水資源が豊富な強みを活かして水素発生させ、鉄鋼から調理までの幅広い分野で水素を活用していこうという取り組みに向かっているわけだが、これはある意味、石油や天然ガス、石炭を燃料と見なさないということと直結するわけだ。水素燃料電池は単に某社のミライだけが関係するわけではない。エネルギーのパラダイムシフト、破壊的イノベーションに踏み切れるかどうかである。

石油メジャーをはじめ、燃料分野の輸入企業を一気に敵に回す壮大なプロジェクトである。その関連企業が持っている票田はどれだけでかいのだろう。想像もつかない程だろう。洋上風力で巨大な電力を発生させて、それを活用すれば良いではないかという人達も敵に回さないといけないわけで、日本がいつまで水素燃料電池においてイニシアティブを持ち続けられるかというのは、国主導で「日本は水素資源大国になる」くらいのぶちかましを言ってくれないと無理かもしれない。

某社の「ミライ」は余りにも完成されているように見えてしまって、水素活用社会に他の企業が排他された感じを受けた。しかしながら、CO2を走行時に出さないという点において、EVも同様であって、電気発生源が巨大風力発電となれば、太陽電池製造よりもはるかにCO2を排出せず、それをエネルギー源としたEV走行との戦いとなれば、未だに1万台を超えない市場は理解できる。水素を広い意味の我が国のエネルギーという施策が無ければ水素燃料電池を活用する社会は、独国あたりに持っていかれてしまうのでしょうね。GDPも負けちゃうし、しょうがないか。

票の重み

長崎4区でも野党連合が勝つのかなと思っていたら、投票率が激減なのが理由かどうかは解らないが、自公の与党推薦候補が当選となった。おじいさん、お父さんの地盤を受け継いで勝利に繋げていくという構図は、なんか日本ってずっとこうなのかなと、当人の実力が如何ほどが存じ上げないが、そう思われてしまって可哀そうとも思う。ただ、選挙投票日直前に、岸田首相が打ち出したお金バラマキを地元に持って還るという、万歳の後のスピーチは頂けない。結局、そこなのだね。一過性の政策に国民が流される。

もっと嘆かわしいのが最高裁の判決で、一票の重さは3倍超えても問題無いよという判決だ。今回も見事にそれを表していて、高知の選挙においては落選者が142036という得票であったのに対して、長崎では当選者が53915票だ。3倍とまではいかないが、これって公平な選挙と言えるのか?そもそも論、国会議員って国の行く末を考え、今の世界と渡り合う人達では無いのか?地方の声を国に届けますと国会議員が言ってしまったら、地方議員は何をするのだ?

投票率も42.19%で、これもどうなのかと思う。総選挙においても30%台の選挙区が目白押しで、民意を出さない国民性というか、それはとても宜しくない。思い切ることが必要な時に来ているのだと感じる。過去の延長では成立しない時代に突入しているのに、未だに、過去の延長の取り組みが続いている。ドメスティックな利益追求型というか、そんな思考で政治家をやって欲しくない。まぁ、やって欲しい人が大勢だから、現状維持なんだけどね。

国民の体力としての税金がどんどん目減りしていく。世界に打って出ないということなんだけど、内部循環でお金が生み出される、国民が増大するフェーズは遠く去っている。一人一人がより強くならねばならぬ。その為にはこんな未来にしていくのだと、強い牽引者が必要だし、それを信じる意識も必要だ。結局は相互作用で組織は強くなる。国に見本を示して欲しいが、無理そうなので、自ら歩むしかない。そんなところだ。

お祭り

中京地域にやってくる前は名古屋まつりなどと言うイベントは知らず、英傑行列などはガマの油地域では何の報道もされなかったし、興味もなかった。昨日の信長落馬も、まぁ、そんなこともあろうと、信長公の命に別状がなかったということであるから、次年度は縮小などとつまらないことは言わず、街の活気向上の為のイベントとして、今後も継続して頂きたい。例によって小生的には何の興味もなかったので、やっていたことすら知らず、お仕事中にネットニュースで落馬を知った程度である。

がきんちょの頃は100円玉を握って氏神様のお祭りに出掛けたものだ。100円という普段、使わない硬貨の威力はすさまじく、夢の大騒動だったという記憶がある。氏神様には妙な思い出があって、まぁ、こっぱずかしいので控えるが、当時の風景、音、におい、空気感が未だに身体に残っているから、余ほど、強烈な思い出であったのだろう。山車、お神輿が出て、太鼓が大地の鳴動を引き起こし、猛烈に憧れていた。あの「どん」に憧れていた。

日本中をぶらぶらと歩いていると、太鼓製造とか木魚製造とか、そんな何と言うか、怒られるけどニッチな商売が未だに成立していて驚かされる。考えてみればどんどん、ぽこぽこと叩くわけで、木だったり皮だったりは天然のものだから必ず朽ち果てるのだから、どうようの行為が続けられているのであれば、それは必要とされるであろうことは思いつく。すると、それを作ることが商売に成り得そうなのだが、どれだけの利益率ならやっていけるのだろうと、日本の伝統文化を支える皆様には頭が下がるのだ。

能や歌舞伎や日本舞踊においても、その愛好家がどのようにサステナブルな状態で有り得て、継続していくのか、これは心配したりするのだ。国立演芸場があり、舞台上の人間を育て続ける仕組みはあるのだが、その上に上りたいと願う者の育成とは難しいものだなと、どっかの学長選考とはえらい違いだなと苦笑いする。名古屋まつりは今年で69回目とのこと、伝統文化の領域に入っていると、名古屋の街の皆さんの元気獲得に繋がり続けることを祈るばかりである。お祭りは良い。そう思う。

寝すぎ

夢を見過ぎると代償が大きくなる。だから夢なんだけどね。こう在りたいという夢は大きいほど良い。それは大き過ぎることは無い。ただ、夢を見る時間が長くなればなるほど、良からぬことが頭に浮かんでくる。もしもこうだったらとかまでは良い。恐ろしいのは、夢が実現しないことを誰かがそれを阻んでいるのだ、足を引っ張られているのだと、被害意識が大きく育って、敵対心を膨らませてしまう。そうなると人は現実に戻れなくなる。

身の回りのそんな人達を見てきたわけだが、まぁ、末路はいつも悲惨である。ご当人はそうは感じられないのかもしれないけれど、攻撃された側からそれを見ていると、攻撃してくる側が悲惨に見える。なんでそんなことになったのかなと。世界ではミサイルの飛ばし合いで、何の罪もない、最も守られなければならない病院が誤爆されるとか、元根本は眠っている時間が長くなり、夢を見過ぎて現実との区別が付かなくなってしまうという事だろう。

がきんちょの頃に「もしも月給が上がったら」と大人達が歌っていたが、あの位が丁度良いのだ。パラソル、靴、洋服、なんと前向きで素敵な事か。頑張ったらご褒美を期待する。その頑張りが世のため他人の為、天下の為であれば良いのだ。美しい努力には美しいご褒美があって宜しい。ご褒美が無い時はそれは我欲の為の活動であったという事であろう。頑張っていると思っている時、鏡を見るのが良い。夜叉になっていないか確認するのが良い。

情報にアクセスすることが容易な時代だからこそ、自我の視点で連続した時間から必要な情報だけ切り取ってストックしていくと、都合の良いこと、悪い事が分別され集まってくる。都合の悪い事を他人の責任にし始めると、そこから夜叉が立ち上がってくる。情報は過去の反省にも使うべきだが、時間は常に進んでいくのだから、客観的に、未来の先読みにこそ使うべきだ。未来は生きている限りやってくるのだから、寝ている暇はない。それだけのことだ。

コンサバ

とある委員会でお江戸に出掛けた。新幹線での移動なわけだが、新幹線乗車に対する領収書を提出せよと言われたのは初めてである。とあるお企業が受託されて、そのお企業様が委員を集めた形になっていて、そのお企業様に領収書を求められたわけだ。コンサバなお会社であることは存じ上げていたわけだが、この時代にそれを言うか?と呆れかえった。EXカードのホームページから旅程履歴を見て、ダウンロードするわけだが、それが当人のものかどうかどうやって判別するのだろうと、まぁ、出せと言うから出してみた。

紙の文章をPDF化するわけだから、偽造しようと思うとそれを実現する人もいるのだろうと思ったりする。世に天才はいらっしゃるわけで、悪事を働こうとされる人達の凄さであるが、勿論、そんな意識も暇も無いし、携帯でアクセスして、そのままPDFをメール転送でPCに送って、中身も見ずにそのままお送りしたら、受理の返事を頂いた。インボイス制度スタートのせいかどうかは解らないが、確実に面倒が増えたなと感じるわけだ。

地下鉄に乗るかのごとくに新幹線などは利用するわけで、特別なものでも何でも無い。そんな行為にまで証明が必要とはどういう事だろうか。まぁ、勤務地までの交通費支給にはICカードのコピーを要求されたりするわけだから、同じことなのかなとも思ったりもするのだが、もしも領収書なるものが出せなかったら、旅費を頂けないということだけなのだろうから、腹を立てるだけのことで、そんなことも馬鹿馬鹿しいから、日本はそんなルールなのだなと諦めるしかない。

究極の在りたい姿としては、壁一面がスクリーンになって、等身大でお互いが見えていて、臨場感たっぷりのウエブ会議システムがあれば良いのにと思ったりする。そうすればこんな面倒な目に合わずに済むのだ。こんな処にもコンサバな日本の有り様が見えてきて、何ともやるせないのだ。時間を奪いっこするのは止めて欲しい。時間泥棒、何処にでも居る。恐ろしい世の中だ。