お盆休み一週間前にて

土曜日から激しい晴天となり、明け方の太陽の日差しが懐かしく、ぼぉっと眺めてしまった。こんな空だったなぁと、青空に驚かされた。そして太陽のエネルギーが雲の宇宙よりには降り注いでいたのだなと、改めて太陽の平等さに頭が下がる。人間目線で言えば大地に降り注いで欲しいわけだが、宇宙目線から言えば、地球上の蠢く連中のことなどどうでも良く、ひたすら核融合を継続させて、エネルギーを提供する活動を、水蒸気のカーテンだろうがなんだろうが、問答無用で続けるのだ。格好良いではないか。

降り注ぐ日差しの強さと水蒸気を多量に含んだ熱波に驚くわけで、これが遠く太平洋上では連日こうだったのだなと思うと、8月に入った途端に2つの台風が洋上で生まれても、まぁ、そうだろうなと納得するわけです。少し前に、気象予報士の方が、今年の台風は猛烈に発達する可能性がありますとTVで語っていたのだが、その大きさは何とも言えないが、数だけは多くなりそうだ。となると、暑いけれども、台風が年中やってきて、やっぱり曇り空が多くなるのかもしれない。

7月の日射の少なさに、地元の農協では野菜の出荷が少なく、他地域の所謂「ハウス」ものの野菜が並ぶマーケットに行かねばならぬ有様である。巨大なニガウリだけが山のように積まれている様を見ると、どうやらこの野菜だけは曇天にも強いのかなと、南方野菜のパワーを見るようで頼もしい。季節の野菜の変化を、悪気象だからこそ顕著に感じるわけで、これはこれで納得する。店頭から消えた野菜こそ、地のものであると。

お盆休み前の一週間に入った。お盆休み前に片付けておこうという気合を感じる日程表になっていて、気合を入れ直すわけだが、体力勝負の一週間、体調維持に気を付けねばならないが、コロナ禍は容赦なく広がっていて、重体にならなければ問題ないという政府の一言に無責任を感じつつ、自衛のみが身を守る国に居る以上、水分補給にも気を付けながら、当たり前の日常を繰り返すのだろうと、見えないからと焦ること無く淡々と過ごそうと思う私であります。

工学が生むものは?

街中を何気なく歩いていて、突然、爆発が起こってガラスが降ってきたら・・というような事件が郡山で発生した。天変地異は恐ろしい。大雨で地すべり、川の氾濫で多くの命が失われたことは悲しい出来事である。自然には勝てない。突然発生する。しかし、天変地異に文句を言っても、これは仕方のないことだ。一方で、ガス爆発という工学が根本にある技術に拠って大惨事が発生するとなると、これは人為的なミスであって、これは怒りの矛先はある。

山中を自転車でツーリングをしていて、下りのとても気持ちの良い田舎道。田んぼが青々と広がり、風が耳を通り抜け語りかける。カーブが迫り、緩くブレーキを掛けたら、前輪のブレーキゴムが台座から突然外れ、一か八かで田んぼに突っ込み、まぁ、今も生きているというわけだが、これなども不良品だったからというわけで、工学が原因の人為的殺人未遂である。

学生の時、窓の外をぼぉ〜っと眺めていたら、屋上で作業していた方がペンチを落とし、それが目の前に落ちた。30cmの距離である。これも幸い?にして激突しなかった事例であって、作業中に手が滑ったということだろうが、高所で作業する人のペン一本だって体に結びつけているのが普通であって、これも技術者の怠慢であって人為的殺人未遂である。

工学は人を救うこともすれば殺めることもある。正しく使い、それでも不幸を呼ぶこともある。それはそこまで思い至らなかったからだと、原子力発電関係者は仰るかもしれない。しかし、もう、撤退もやむを得ないと思っていたら、燃料サイクルを実現する施設が認可を得た。日本の工学は一体何処に向かうのだろう。天を仰ぐばかりである。

退化は嫌い

某先生から「偽善者!」と怒鳴られて、既に20年以上が経過した。正論のつもりだったんですけどね。教育に対して「俺は出来ないんだから巻き込むな!」ってことだったんですけどね。今の在宅勤務やテレワーク、そしてウエブ教材による教育の議論と似ているなと思った次第。

「教育は平等でなければならない」という教育の機会均等の大原則なんだけど、出来ない人が一人でも居たら「全員に対してやってはいけない」と言うのが「偽善者!」と怒鳴った人の理念だったわけなんです。こちらからの想いは「8割出来ているから、後2割はどうやったら出来るかを考えましょう」と説明申し上げたら大上段から怒りが降ってきた。

ネットワーク講義をスタートする時、出来ない人がどれだけ居るのか、その人達にどのような対処をすれば良いのかという考え方が出来たのは良かったのですが、もしもこれがコロナ禍騒動が無ければ無理だったでしょうね。そもそも論として遠隔授業などは議論に上らない。仮にコロナ禍騒動下であったにせよ、絶対に対面と言う選択肢もあったわけですが、機会均等が前向きに捉えられたのは良かったと思う。教材の提供は絶対にしないみたいな強硬な対応だってあり得たわけですが、それは無かった。高いレベルに向かっていこうという意思が見えた。

研究も「解らない」からやるのであって、高いレベルに行くために四苦八苦して挫折してもまた這い上がっていく前向きさが必要で、それを好んでやる人種が研究者と言うことになるわけだ。個人の信念は重要だ。一方で組織として達成するべき必然さはもっと大切だと思うのだ。今より高いレベルに皆で行きましょうというお願いに、出来ない人が居るから駄目だという議論はおかしかろう。世界は猛烈に進んでいく。現状維持はあっという間の退化に繋がる。恐ろしい。

変態の時か?

恐竜の絶滅と惑星の地球衝突との関係が、まぁ、学説として述べられるわけで、6600万年前の恐竜絶滅の時期と重なって発生した事象であるから、「違う」と言っても「そうだ」と言っても、そうかもしれないねくらいの落ち着きがある。生命進化の改革のトリガとして、大量絶滅や放射線被ばくによる突然変異や、それらの交雑による多様性の誕生とかね、いろいろあるわけだ。

今回のコロナ禍で対面講義や実験実習という、それらを体験し提供させて頂いてきた身としては、それをいきなり取り上げられて、ネット授業で全てを簡潔させなければならない現状は、惑星衝突みたいなものかと、漠然と思っていたりする。チョーク片手に全身全霊で学理の美しさを訴え聞き手の記憶に刻み、それを活用できるゴールを目指す。それが目に見えない細菌によって打ち砕かれた。

細菌にやっつけられたという点において、ジュールベルヌの宇宙戦争も思い出される。小学生の時に何度も読み返し、星空を眺めて、円筒が降ってこないかしらと、火星人に会ってみたいものだと本気で思っていた。ワクチンを創るとか何とか言っているわけですが、細菌が死ぬものを体に入れて良い事あるのかしら?こちらも進化してウイルスと共存できるくらいの進化が無ければいけないのではと思ったりするのです。

何処かに居たウイルスを引っ張り出してしまった。引っ張り出した以上は人間が何とかしないといけない。パンドラの箱の事例が引っ張り出されますが、希望なんて残らないのです。希望は抱くものであって解決に持ち込まないといけないのです。教育もまた然り。新しい人類にどのようにバトンを繋ぐのか。旧人類の使命ですな。

今でもハウリング?

ウエブ会議が当たり前になっているのに、ハウリングが怖いとか、実際に会議中に「グォングォン」とハウリングが発生する。そしてそれをほったらかして会議が進んでいく。なんと寂しいことでは無いか。足元の会議に限って生じる。複数の外部の皆様との会議において、初期の頃は発生したこともあったが、現時点は今は昔である。あり得ない。

これを人の不注意とするのか、それなりの機器があるのだからそれを使えば良いでは無いかということにするのか。機械の進化は不具合からのフィードバックだから、直ぐに機械ががらっと変わることは無いので、注意をしながら議論を進めるということしかないわけで、ハウリング防止と言う極めて基本的なお作法がいきわたらないことは「情けない」というレベルである。

小学校や中学校の時の朝礼などで、キンキンと耳をつんざくハウリングが懐かしいわけだが、それが今も普通に発生することの悲しさである。困ったら他の人から指導を受けるか、リーダーが「こうしましょうよ」とお作法の再確認をすれば良いのだ。弱さがあっても良いではないですか。それを受け付けることが出来る組織を作っていないといけないわけだが、みんな弱いということを前提にしている組織であるかと言うことなのだが、いつも胸に手を当てないといけないと思っている。

既に海の外の国々ではにっちもさっちもならない程に新型コロナ感染者が無限に増え続け、それを前提に様々な手段を講じることが出来た社会と、油断しきって対応が後手に回る社会との差は、極めて大きいと考える。自分の事と何処まで捉えることが出来るのか。他人事では無いのだ。ハウリングから話が大きくなったが、何か変だぞと思ったら、他人のせいとは考えず、まず、身の回りのチェックをしようよ。結局のところ、まわりの人達を尊敬していますかということなのだと思う。ささやかなお願いだが、ハウリングは無くしましょう。よろしくお願い致します。

巨木

そこにどっしりと存在し、これからもずっとそこに居て欲しいと願う巨木。巨木信仰者では無いが、巨木があると聞くと、いや、それを知ると、強烈に出会いたくなる。雨ばっかりの休日ではあったが、金曜日の曇りの間をついて、近場のまだ見ぬ巨木に出会ってきた。愛知県下では3番めに大きいというそれは、樹齢千年を数え、それを中心として集落が形成され、今も、大切に祀られて何とも清々しい気分にさせて頂ける空間であった。

清少納言が枕草子を起こし、藤原道長の政治の時代であり、荘園に平等院が計画された頃である。今と同様に貧富の差激しく、政治家が足を引っ張り合っていた頃が、日本における凡そ千年前である。その頃に芽吹いた若芽が、今、山のごとく成長して出会ってくれるのだ。なんと素晴らしいことではないか。若造など何処かに行ってしまえなどとは言わない。門前払いも無い。根を傷つけぬ様、そっと触れる。暖かい。

山の本によれば、樹木の根を踏みにじるのは人間だけだそうで、鹿もイノシシも、根は避けて歩くのだそうだ。有名な縄文杉だって、昭和の旅行ブームで人が根っこを踏み歩き、樹勢がかなり落ち、回廊が作られたわけで、自然界の数千年も人為的行為の数年に負けるのだなと、自然をそのままにしながらの共生というのは不可能なのだなと、学生時代の新聞記事に想ったことを思い出す。

つい先日も、嵐で大湫神社の千年の大杉が倒れたばかりだ。目の前の巨樹と再開できるかどうかは解らない。近寄らないほうが良かったのかも知れない。たった一人の行動なのだが、人為的作用が自然にもたらす影響を考えると恐ろしくなる。ウイルスにワクチンをもって戦おうとしているが、そもそも未知のウイルスを自然界から引っ張り出したのは人為的行為であって、巨木はどう見ているのだろうと仰ぎ見てもじっとこちらを見つめているだけだ。千年の命の重さ。頭が垂れる。

賢治には成れず

愛知県内の感染者が、突然、53人になりましたな。重症にならないとか、致死率が低いとか、だから安心せよ、騒ぐのは愚か者だと、不可思議な学者さんが叫んでいるが、後遺症も不可解で、突然変異の怪物相手に、恐怖して警戒することが正しいと小生は思う。ただ、恐怖だからとて、やけっぱちになるような愚か者でもない。情報を精査して、取るべき対応を取る。それだけのことだ。前後左右を岩に塞がれて、迷子になったと勘違いする山中を歩くようだ。答えはそこにある。冷静になることだ。

この冷静というのが難しくて、そもそも冷製な状態ってどんな状態なんでしょうね。呼吸も脈も清浄で落ち着いていることが冷静なのか?そうは思わない。危機的状態でパニックに陥りそうになりながらも、生き残って、その時に取った行動を考えると、それはきっと冷静だったに違いないのだ。後になって、あの時が生死を分けた行動だったなと思い起こしてみて、その時の決断をした状況が冷静だったのだと、気がついたら崖の下に居たりして、何故か、そこから脱出出来ていたりして。まぁ、人生はそんなもんだ。

GoToキャンペーンがいよいよ開始されるわけで、不要不急の外出を避けろと言われても、まぁ、一旦、タガが外れた人達が冷静になって正しい判断を成せるかどうか疑問である。自分以外の人間が居ると、意識が発散するからね。役員室と呼ばれるところがひとりぼっちになるように出来ているのは、恐らくだけれど、冷静な、いや、冷徹なジャッジを引き出すためなのではと考えている。

雨ニモマケズと偉大なる賢治は書き残したが、そういう人になりたいと小生も思うが、とてもではないが、偉人には成れないし、成るつもりもない。いつもヘラヘラ笑うことは出来るが、ニコニコは難しい。すれ違う人、そこにある空気の中にウイルスがごちゃまんと居て、何時、呼吸困難になるか解らない。それはそうなのだが、それでも冷静でないといけないのだ。成すべきことを淡々とこなす。それしか無いのだ。如何なる状況に追い込まれようとも、最善を尽くす。それだけのことである。そんなもんだ。

遥かなる自動化

フライスや旋盤といった、所謂、工作機械、特に、完全に手動の機械を使ってモノづくりをしている人なら、完全遠隔操作によるモノづくりに対して、不可能と思うところと可能と考えるところの両方があると思う。恐らくなのですけれど、それなりの専用機とロボットで、刃物の交換も含めて、±10μm程度のモノづくりなら、製鉄所近隣にどんどんモノづくりの場を作っていって、3km先で完成品が出てくるくらいのことが可能だと思うのです。設計者は、何処か、海外のリゾート地だったりしてね。その場に居る必要は何処にもない。

そうでないものは、これまた恐らくなのだけれど、人体に埋め込む機器とかね、個人にかなりフィッティングしていかないと今の所難しそうな気がする。これも単に気がするというだけで、3Dで臓器造形が出来る時代だから、遠隔で出来るのかもしれない。とある病院で断層撮影して、その結果が直ぐに臓器工場にデータが送られて、準備が出来たら何処かの病院のベットに横になると、気がついたら移植されているとかね。在宅勤務と現場操作って、気合を入れていったら、かなりの部分が在宅勤務に寄っていくでしょうね。

出来ないと言う人は、きっと、ハンコは絶対に無くならないと信じていらっしゃる人でしょう。責任の所在が何処にあるのかということはとても大切なことだけど、そんなもの、基本は最上位の人間に決まっているのであって、その他の人達は、一丸となって頑張るというのが基本としか言いようがない。その頑張ったという状況のKPIを、AIなりが監督していくというのが世界の趨勢なのだけれど、日本はひたすらそれを拒み続けますよね。一体、何処まで遅れていけば気が済むのだろう。電子政府なんて未来永劫にできそうにない。

コロナ云々の携帯アプリだって、ほぼほぼ広がっていないという。面白がって真っ先に入れましたけどね。極々隣人しか入れていないものだから、ほぼほぼ役に立たない状況にある。電子物性と言うか、そんな世界に生きてきたものだから、エレクトロニクス社会において、日本は頑張っていると思っていたのだけれど、世界の足元にも及ばない状況に「頭の中身」がなっていたのでは、全く約立たずの学問である、我が国にとってはね。まぁ、それでも拗ねること無く、安心、安全な世の中になっていっってくれればとひたすら願うのですが、一人ではね。どうしようもない。

施餓鬼

久しぶりに強烈な日差しに包まれた昨日、午後にちょこっと自転車の整備をしようと日向にでたのだが、夏慣れしていない体に猛烈に襲いかかる日差しにたまげた。そうか、こんな調子だったなと、今年初めての夏の体験という雰囲気に、ちょこっと嬉しかったりもする。雨ばっかりの曇りがちな空よりは、どかっと晴れ渡ってくれる方が嬉しく感じる。日中、表に出ていることはあまり無いのだが、強烈な紫外線が大気を浄化してくれるようで、やはり太陽は頼もしい。

新盆、旧盆と、お寺が儲ける時期がいくつかあるわけだが、施餓鬼という、餓鬼に施すと書く凄まじい表現だなと、その昔に思った。それなりの人に聞いてみると、基本、ほぼ地獄に堕ちているわけで、そこで人間の本性である食べ物への執着だけが残った状態、即ち、餓鬼となっているご先祖に、生前、好きであった食べ物を施すことが施餓鬼という、なんだかなぁと納得してよいのか悪いのか解らないが、先祖に手を合わせることは間違ってはいまい。繋がりに感謝するわけだ。

この執着とは厄介なものだなと常々思う。何も無ければそれはそれで良いのだが、今より便利な生活にならないものかとか、地下鉄の混雑は無くならないかとか、実に低次元のことにも思い悩んでしまう。まぁ、そこまで激しく思い続けるということは無いわけだが、そんな執着対象を積み重ねていくと、無限に深くて広い地獄でないと容量オーバーになってしまうのだろうなと、地獄の有様を考えた人の思考に感激するわけだ。よくもまぁ、そこまで考えられましたねと、定量的に地獄を決められた方に直接お会いしてみたかったものだ。

墓参りに執着しようとも、他県に動くのが憚られる昨今である。直ぐそこにあるということでもない限り、なかなか行くことが出来ない。この様に思っていることが供養なのだと勝手に解釈して、要するに言い訳をするわけだが、まぁ、いずれ収まる筈の自然災害であるから、じっと待つのが良い。焦って感染拡大の元凶になってはそれこそ申し訳が立たない。執着するなと言う教えの元で、執着しないといけない仕組みがあることに、まぁ、恐れ入るわけだ。暫くはおとなしくしている。まぁ、それが正解だろう。

朝令暮改

都心部の方と都心部への移動がGoToキャンペーンから外れるとすると、地方の旅行業者がどれだけ潤うのだろうか?絶対にやるんだと、絶叫にも近い雰囲気で息巻いていた方々なのだが、ころっとひっくり返ってしまうのですな。てっきり、移動は国民の好き勝手だと、国民の責任にして知らんぷりを決め込むのかと思った。まぁ、昨日の東京都で発表された新規感染者数を見ると、そんな風に考えるんだなと、何処まで我を張り通すのかと思っていただけに拍子抜けの感がある。

もう一つ、東京都の発表は、ちょっと前まで、16時〜16時の24時間で発表しますということだったのだが、そこまで引っ張ったら400近くなってしまうと思ったのか、昼前に発表になった。工学的実験計画の立場からすると、これを称して取得データの故意の改ざんと呼ぶべきだろう。それまでのデータと比較出来ない情報を並べて、こんな値が出ましたと言っている。データ取得にフィルタを掛けて、言ってみればインチキな数字ということだ。こんなことが許されるのだなと、これまた拍子抜けである。

愛知県下においてもぐぐっと増えてきているのであって、手洗い、うがいの励行は欠かさないわけだが、増大している地下鉄の混雑の中では逃げようもない。何処で何が起こるか解らないわけで、最低限の守るべきことは守り、独自の手法も考えつつ、通勤するしか無い状況にある。昨日は晴れたので、久しぶりに自転車通勤であったが、快適であることこの上ない。

第二波とか言っているわけだが、恐らくなのだけれど、第一波の減少が中途半端だったということで、第一波が再度上昇してきたというだけなのではなかろうか。毒性も変わっていないようだし、感染力も極端に変化したとは思えない。人が動くと菌も動く。それはそうなのだろうと思っていても具体的な数値で体験できたことは、行動規範になってくるはずだ。インフルエンザにおいても同様なのであろう。そう思うとインフルエンザの流行期に入試などをやるのは馬鹿げているし、秋入学も検討を続けたらと思う。まぁ、もう既に忘れ去られた議論なのでしょうね。日本らしいです。