常識の学理

無意識に行っていることを全て列記して下さいと言われて、達成出来る人は居ないと思う。とある時に、「ローテクのハイテク」を学理として研究している人は居なくなっているし、受け止める学会もないということは問題ではないかという提起をさせて頂いたことがあるのだが、聞き入れられることは無かった。恐らく今でもそうでしょう。新しくなければ学問ではないという風潮は、まぁ、必然なのかもしれない。そうこうしているうちに、「○○の専門家は居ませんか?」とお尋ねを頂くようになった。当たり前品質が壊れたという。

まぁ、そうでしょうね。これも当たり前の話なのですが、化学反応は基本、アレニウスの式に則って生じていく。生じていくの意味は、化学反応の瞬間を見たら、その速さは温度に依存しますよということなのだ。平均気温が数度上がって、効率を求めて機械の運動速度を上げれば、そりゃぁ、今まで大丈夫であったものが駄目になるでしょうね。でも、その駄目になったものが、戦前に当たり前になっていた素材だったとすると、それを研究している者はもう居ない。そのメカニズムも然りだ。

それを加工している人は市井にいらっしゃるが、「そんなのはなぁ、あたりめぇよ!」と感コツ経験のオンパレードで、「何故?」にはお答えいただけない。そんなこんなで無意識は伝達されないし、無意識が何処に散らばっているかも分からないのだ。そこには職人殿に対する尊敬の無さも一つの原因ではなかったのかと思うのだ。ちょっと前に経験したのだが、無歪で磨けますと言ったら、オーバースペックで意味はないと罵られたが、まぁ、LSIも新幹線も動いている。

自転車で通勤していて、未だにこんな方がいらっしゃるのだなと体感するのが、タバコのポイ捨てをなさる方。バックミラーに自転車が写っているのだろうが、まぁ、解っていて投げつけてくるのでしょう。火が着いているのだ。そんな無意識の、その方々にとっては常識の行動なのでしょうね。そんな行動に対する対処方法を学理として研究していらっしゃる方は何処かにいらっしゃらないかしら?工学人の教育に必須の学問と思いますが、何処かにいらっしゃいませんか?あっ、頭でっかちで経験で威張る貴方は不要です。

歩留まり?

量産品はプレスでねって、何かのコピーみたいだけど、事実、自動車部品がどれだけの数、プレスで作られているか。逆に、プレス製品が多くなれば、その分、ユーザーの購入価格は下がっていきますな。まぁ、無限に下がるわけではないので、親方企業の取り分が増えるというところか。極力個性を無くしていくことが重要で、個性があると使っているうちに想定外の挙動によって人身事故などをお越しかねない。製品の安心を生むプレス製品の物凄さは、工場の現場で拝見しないとわからないかも知れない。工業製品が到達した一つの頂点と言えると思う。

個性を無くすという点において、素材があって加工があって利用があるとすると、その間には最終製品に求められる保証を満たすための管理があるわけだけれど、誤差○%で歩留まり99.9999%みたいなものが工程表に示されるわけだ。ただ、歩留まりという単語で商品づくりの過程が語られている内は、我が国の工業製品の未来は無いなと本気で思っているわけです。不良品が出るわけでしょ?材料は工程に必要なエネルギーが全部捨てられるわけだ。ちっともエコではない。エコであって安心であることの意味は、不良率という単語が無くなることを目指すところからだ。

こう言うと、鼻で笑われるか、目くじらを立てた人に追いかけ回されるかどちらかになるわけで、そんなこと出来るわけ無いだろうと罵られるわけですな。でも、小生から申し上げれば、それでは何故、不良が生まれるのですかと問いたい。40年選手のベテランが、独自の腕前で高い技術を発揮されていらっしゃるのであれば、何故、不良が生まれるのですか?出してはいけない不良が何故生まれるのか。人だから当たり前、その通り。それではその当たり前を排除するにはどうすれば良いのか?

一人の人が気が付かないことがあるから不良が生まれるとするならば、愚直にベテランの技術を数値化して、それを後世に伝えませんか?それがベースであって、これからの技術をそこに乗せていかないと、もう日本の工業製品を買ってくれる国は無くなってしまいますよ。本気で思っているわけです。もっと人の育成に国がお金を投入しないと、ベースの知恵が下がっていくようではお先は無いですな。目の前の雇用云々どころでは無いのです。とっくの昔に起こっているはずの世界が今目の前に広がっているだけなのです。そう思います。

文明開化はいつ?

いかにコロナウイルスと言えども、デジタル世界に入り込んで、データをくちゃくちゃにすることは難しい。不可能だとは言わない。ひょっとすると出来るかも知れない、いや、間接的には既にやっているとも言えよう。この数日間にはZoomでの通信傍受等の噂は聞いていないが、オンライン生活が始まった頃には個人情報満載のファイルが市場に出回るなど、恐ろしいお話で賑わっていた。パッチがいくつかあたったらしいのだが、気持ちが悪いことこの上ない。コロナウイルスによってPC利用者が増え、セキュリティの無い状況で間接的にデータをあらぬ方向に持っていった事例だなと感じた。

どんなツールでも同様なので、少なくとも信頼できるシステムに管理されたツールを使うというのが、組織人として正しい選択だ。何処かが使っているから、私も使うとうのでは、もう組織の体をなさない。ましてや、在宅勤務に嫌気が差したから出勤して感染確率を上げる行為は、某国のトップではないが、ドメスティックなテロと言えよう。

大学という旧態依然とした組織の帝王みたいなところでも、ようやく、書類の電子決済という声が聞こえ始めた。絶対にアナログでないと駄目だという声は、天変地異にはかなわない。出張時間が如何に無駄か、組織内の移動が必要ないことに気がついた人達は、会議のために何処かに集うなどということを排除していくことだろう。絶対に集合して議論しなければならないという理屈を作り出す自信はない。議事録からファイフの共有まで、自在に行える環境が既にあるのだ。

我が国においては、マイナンバーカードの事例は言うに及ばず、デジタルツールにおける貧富の差が余りにも激しい。小生などはテレビ電波が届かない谷間に住んでいるから、仕方無しに光回線を引いているわけだが、ネットワーク環境の無い状況は考えられない。それこそ国がインフラとして、マスクではなく光回線を片っ端から供給していっていたら良かったのにと思うくらいだ。安全なネットワークでなければならないのは当然だが、先ずは正しい情報のやり取りが出来る環境のある国と言えるくらいになって欲しい。いつの間にか何億というお金が消えていく国会のやり取りを聞いていてそう思う。

当たり前のようにその人は言う、私達の世代のことはわからないから、過去の遺物はほったらかせと。それは正しい。きっと正しい。もしも過去が未来に繋がっていかなったら絶対に正しい。心地良かろう。自らの思考だけで未来が決まるのだ。まぁ、何も言うまい。ジェネレーションギャップとはまさにその通りなのだ。過去は存在すら否定され、今、存在することすら忌み嫌われる。見事なもんだ。君達のジェネレーションを見せて頂きたい。

輝き溢れて、眩しくて、直視できないだろう。過去の否定に満ちて、新しいと思っていることが繋がった時空にあることなど思ったこともない。見事なものだ。羨ましい限りだ。打倒現在、そして先人。なるほど、みな、削除意識に溢れている。それに贖うことなど思ったことはない。消し去るが良い。そんなもんだ。見事なまでに美しい。

今の最新が5年後には恐竜の世代よりも古くなる、そんな時代。過去を振り切って否定して、お互いの存在理由を消し去る努力にどれだけの意味があるのか。自分はこんなに頑張った。だからこうするべきだという先人を、貴方は古いと消し去るが、その君も、次の世代で消えていくのだ。何故だと思う。

ごまかすからだ。今を生き抜こうと自分を肯定するからだ。威張る必要は無いのだ。必要とされるから伝承者なのだ。自らが正しいとか認められるグループに居るから正しいとか、何の意味があるのか。石舞台は存在するが、その中身は想像だけだ。大切なのは思い出されることではない、今を共に生きることだ。仮想も現実も無い。しかし今はあるのだ。時間だけは平等だ。だから努力せねばならぬ。それだけのことだ。

梅雨入り間近

梅雨空と言っても良さそうな6月のスタートですな。5月の終わり頃にはカラッとした良い天気の日も有りましたが、ここのところ雲が多く、時折の太陽光が眩しいという状況でしたが、いよいよ梅雨に突入ですな。太平洋上には立派な梅雨前線が横たわっていて日本列島に土砂降りをもたらそうと虎視眈々の様子。太平洋の海水温は例年になく高めで、湿った空気がどんどん入ってきているとのこと。数カ月間の産業活動の鈍化レベルでは温暖化抑止には全くなりませんな。

マスクと熱中症は全く関係が無いということは安心なのですが、酸欠の問題があるそうで、その点は要注意ですね。酸素不足は疲労物質の蓄積を加速させますから、気温の上昇で体の水分が抜けていくところに疲労物質蓄積加速のダブルパンチで、体力消耗に気を付けなければなりません。山歩きのシャリバテ状態に街中でなってしまうかもしれません。水分は気を付けて取らないと、本当に危険です。積極的に補給するべきです。

そのちょっと蒸し暑かった先週末に、マイナンバーカードの住民サービスの一つである、コンビニで住民票を獲得するということに挑戦しにいったのですが、何と、名古屋市、対象外なんですね。名古屋市の方とウエブ会議をやろうとすると、言い訳を百万件位重ねて断ってくる理由が解ったような気がします。要するに電子化を全くしていないのが名古屋市だったのだなと呆れ返ったですよ。一体、何をやっているんだと、市民サービスを何だと思っているのだと。区役所では身分証明書にもならないマイナンバーカード。いつまでたっても紙に人を縛り付けるんですね。

海の向こうでは私企業がロケットで国際宇宙ステーションに人を送り届ける時代。日本は何処に向かっていくのでしょう。なんでもかんでも悪平等の雇用形態で、力を着けた人は海外に脱出していく。5年縛りとかわけのわからない雇用は、技術の承継に繋がらないし知恵の蓄積・発展を起こさない。知恵の貧困が日本社会の闇の根源である。正しい「和」とは何か、考えねばならない。そう思う。

第二波?

ちょっと前に、連休明けの7日の時点で、夕暮れの街は賑わいを取り戻していたというお話をさせて頂いたわけですが、福岡や東京でも第二波の気配が出てきましたな。第二第三の発症拡大は過去の感染症でも同様であって、今回はあり得ないと考える方がおかしいので、まぁ、そうだろうなと思う次第。いよいよもって、気を付けなければと気を引き締めるだけです。気は引き締めても、マスクの細孔がウイルスよりも狭くなると呼吸が出来ないわけで、結局のところ、現状でどのように気を付けるかにある。

日本は集団免疫を獲得している国という考え方も取り沙汰されているわけですが、仮にそうであったとしても、変身を続けるウイルスですから、先に生じた免疫が効かないなんてこともある。集団免疫を獲得したと暢気なことは言ってはいけない。結局のところ「新生活様式」なるものにしていかないといけない。

実践していることと言えば自転車通勤くらいなもんで、それとても、信号待ちの時には人は群れている。今週に入ってからマスクレスの方がどんどん増えているのはやむを得ない事だろう。先述のようにマスクがウイルスを防いでくれるわけではないから。飛沫に乗ったものはマスクの外に瞬間的に留めることが出来たとしても、飛沫の乾燥と共に、外気と一緒に体内に取り込まれるわけだ。相手に感染させないという点においては効果はあるようだが、それも限定的であることがわかってくると、アベノマスクって何だったのだろうとなる。自分も隠れ感染源かもしれないという意識が必要だ。

確率的な発生数だから、人口が多い領域や、クラスタ発症の可能性があるところは全て第二波発生エリアということになるわけで、言ってみればどこにでもある。雨天で乗車する地下鉄の満員さを考えると、吊革に掴まる人が少ない分、人と人との接触は確実に増える。お疲れのご同輩は座席に目一杯詰まって、最早諦めの境地に達していらっしゃる。児童・生徒もいよいよ動き出す。何がどうなるのか。恐れてばかりではいけないが、油断に溢れた元の生活には戻ることは無かろう。そう思う。

赤字国債

結局の所、我が国はマイナンバーカードの普及が25%にも満たないし、肝心要の住民基本台帳とマイナンバーが結びついているわけでもない。じゃぁ、住民基本台帳に個人を紐づけしてしまえば良いのにと思うのだが、金融機関と結びついているわけでもなし、税金とも繋がっていない。住民とかマイナンバーとか言うけれど、役所から見れば「そこに住んでいる誰か」や「Aさんと呼ぶより53番と呼ぶね」というくらいなもので、何の価値にも繋がっていない。

そんな国がコロナ禍からの復興予算として、第2次補正予算案の追加歳出を一般会計の総額で31兆9114億円とし、財政投融資や金融機関の融資などを合わせた「事業規模」は117兆1000億円程度とした。必要な財源は全額を国債の追加発行に頼り、赤字国債を22兆6124億円、建設国債を9兆2990億円を発行するという。当初予算と第1次補正予算を含めた今年度の国債の新規発行額は過去最大の90兆2000億円に達し、歳入の56.3%を国債に頼ることになる。要するに財政支出は72兆7000億円程度だ。

これだけ数字を並べられると、マスクで10億円くらいどうってこと無いと感じてしまう恐ろしさである。普段から厳しく歳出を押さえていて、いざとなったから蓄えから出していこうということではない。リアルな借金である。お金を撒けば、その分、国民はお金を使って循環するから問題は無いのだと未だに思っているのだろう。後世に借金を無限に増やす、そんなやり方を政治と言えるのか。背に腹の話がしょっちゅうでてくるのだが、その腹は価値のある腹なのか?

粛々と進むしか無い。失業を無くすということだが、コロナ禍は様々な状況を見せつけてくれた。従来様式の労働形態は、これからは全く通用しないことを示してくれた。いや、通用させないほうが良いことを示したのだ。昭和のやり方は、もう繰り返せないのだ。ゼロから数字を生む以外の活動はこの国の外でやって下さい。厳しいが現実だし、そんな気持ちである。

反転

授業と宿題を反転させる、即ち、みっちり予習しておかないと講義についてこれないのは学生の責任というのが出発点だ。勿論、教師側はそれに応えられる予習教材を準備しなければならない。JABEEの担当者だったから、海外の流れは知っていたし、その効果もなる程なと思ったのを覚えている。今のWeb授業とは趣は異なる。しかし、今年の教材を来年は講義の深堀に間違いなく活用できる。そう考えると、しっかりとウエブ教材を作り込むことは我が国の財産となろう。

これは大学だけのお話では勿論無い。初等教育から企業向けのリカレント教材にあっても同様のことが言える。反転授業は対面での議論を重視しているところが肝であるわけだが、例えばTeamsで質疑をチャット等で行えば、その記録は全員に共有されるし、全員に対して貴重な講義材料にもなる。自らを鍛える場と捉えるか、単に面倒が増えるだけと捉えるか、えらい違いだ。

ウエブ授業においては受講生同士の繋がりを加速させるとか、その効果を得るのはそれなりの仕掛けが居るなと思う。画面上の学生を指さして、勢いで会話をして、講義室全体を巻き込んでいくというような野蛮で昔気質のやり方は通用しない。そもそも論として、リモートワークネイティブの諸君に、コテコテの現場人種のボケなど通じようが無い。教材の録音時に聞き手は居ないのだ。一人で盛り上がるしか無いが、聞き手はシラッとしていることは間違いない。

世界中のオフィスでどうやって新人教育をしようかなどと、あれこれと試されているに違いない。市場からはUSBのカメラなどが消えてしまい、カメラ付きノートPCも特需のようだ。機械は売れるのかも知れないが重要なのはコンテンツだ。コンテンツの良質化こそ考えるべきなのだが、時代と共に良質の有り様が変化していく。時間は残酷である。そう感じる。

御用は聞かない

首都圏での緊急事態宣言がいよいよ終結するのだなと、ネットニュースを見ていて実感する。緊急事態宣言が終結するだけであって、地上の新型コロナウイルスが直ちに無くなるわけではない。実際に、東京では新規の感染者が出続けているわけだし、いつ、どんな集団感染が発生しないとも限らない。クラスター発生という言葉で片付けられがちだが、所謂繋がったひとかたまりということでその名前を使っているのでしょうけれど、要するに、油断をすると痛い目を見ますよという状況には代わりはないのだ。

油断はしていませんというギリギリの線はどの辺りなのだろう?三密などという定性的な表現は止めて、明らかになってきた科学的根拠を元に線引きをしたいのだ。密集する部屋のあり方を避ける必要は継続しないといかんだろう。6月1日から一斉に元に戻すなんてことはあっちゃあられんこっちゃ。折角身につけた活動様式なのだから、キープしていっても良い部分はあると感じている。

とは言うものの、経済活動において、海外との取引を停止し続けて良い訳はない。国の外で評価されてこその先端技術なわけで、その点においては全力でご協力申し上げねばならない。教員の研究に打ち込める時間の増大こそ最優先事項であるわけだが、従来には無かったウエブ講義の準備に追われていらっしゃるわけで、無闇に共同研究のお話などを持ち込める状態ではないのも事実。このあたりは大学として難しいところである。各人が取り組めることに最善を尽くすということに尽きる。

霞ヶ関の枠の中と外との乖離が恐ろしい。言われているような第二第三のコロナ禍が発生した時、緊急事態宣言の神通力は効かないであろう。お願いベースの仕事不許可命令に従う国民はどれだけ居るのか。それを思うと、兎に角、第二第三波を発生させないように努力していくことだ。そのためには経済的に極めて厳しいことにもなろう。こんな時だからこそ、本当に良いものを作る努力が必要である。御用聞きなどいらないのだ。自ら発想すれば良い。それだけのことだ。

フィルター

緊急地震速報全国版を、バックグラウンドで立ち上げながら、それなりのお仕事をしていると、突如アラームが鳴り「何処かが震度1」と伝えてくれる。震度1をどう捉えるのだ?太平洋プレートは7cm/年、グイグイと東日本の下に潜り込み、海水を含んだプレートを摩擦熱も含んで長野県直下に運び込む。2011年の震災から、その影響が人間の観察下になるように現れ始めたのだなと納得している。東北の大地の歪が、中部で開放され始めた証であろう。どうなることやらである。

子孫を探して面白おかしく社会をたぶらかす番組が流行っているようだ。たまたま、画面を見たらそんな番組をやっていただけなので、真実かどうか解らないが、解らないからこそ、歴史を語っているように思える。誰も知らないから、一番手に語れば真実となる、という理屈なんでしょうね。古文書に残っているからと、それとて何処まで信じてよいのやらである。見せ方と、見る方の気の持ちようで情報はあらぬ方向に伝達されていく。人間の意識のフィルタは極めて大きい。何を言っても聞かないフィルタなんてのは最悪だ。

いよいよ関東エリアも緊急事態宣言が解除されるそうで。ただ、そうなったとしても、当分は東京に行く気はしないし、来客して頂きたくないという気持ちは本音である。様々な場所で生き続けるコロナウイルスであるから、どんな経路でやってくるか解ったものではない。自分が安住している以外の場所での行動は、おっかなびっくりに成らざるを得ない。これも意識のフィルタの一つではあるが、君子危うきに近寄らずということもあるのだから、臆病は正義であろう。

いろいろ身の回りを見渡してみると、なんでこうなっているのかなという現象に満ち溢れている。その「なんで」を思わずに活動しているわけで、人間の愉快さがそこにあるのだろうと考えるわけだが、全ての因果関係が解る生活って、妙に味気ないのだろうとも思う。推測、空想があるからこその人間であって、その能力を封印する必要は無いだろう。SNSという妄想の発散ツールで、誹謗中傷で人を死に追いやる時代である。無くなって欲しいものだが、どうなることやら。