逃げ得の国

目が曇ると怖い。それを一刻のリーダーが示してくれたということだ。冷徹に成り切ってもいけないのだろうし、人情に振り切ってもいけない。中庸ということなのだろう。自分達だけが正義であると、700年代から倭人は先住民を殺戮し続け、完全にその純血を断ってしまった。それを正義と貫き、教育してきたのが現状である。更に遡れば、西方からの文化を伝えた民を追放し、自らが決められた血族と伝承してきた一族も居るわけで、時の大きな声に流されやすい民族ということなのかも知れない。

マイナンバーカードの普及の少なさを見てもそうだ。マスコミが「個人情報が漏れるから危ない!」と、何処かの学者の一声を、全ての学者の声と置き換えて報道すると、8割以上の人が「危ないカードは持たない」となった。そもそも論として、社会保険庁が国民が払った年金の記録をきちんとしておかなかったから、個人と将来支払われる年金とを明確にしましょうとして考えられたものであって、国民一人ひとりの社会における権利を保証するものであったわけだ。それが行き渡っていたら、とっくに困るであろう人が、困った後でも、未だに支援されない国の状況は無かったかも知れない。

住民基本台帳とマイナンバーカードが紐づけされていないということにも驚いた。この国は一体、どうなっているのだ。何でもかんでも監視して、出張帰りの新幹線で焼酎を呑んだみたいなところまで記録されてはつまらないが(別に何とも思わないのだ、つまらないというだけだ)、自分が持っている社会的権利を使えないこの国の状況は国民が作り出したものだが、結局、自分達で自分の首を締めているだけの話だ。

何となく思うのだが、巨悪に声を上げても殴られ抹殺され損な国だなぁということ。電車を待っていて、さぁ、乗り込もうとしたら、4、5名の人生の大先輩達が、小生を跳ね飛ばして割り込んで、どかどかと席を確保する。まだ来ていない人の分も含めて占拠する。これが日本の有様だ。良い行いは褒められなくても良い。しかし、悪しき行いは天網恢恢疎にして漏らさずの世であって欲しい。それだけの事である。逃げ得を許さない。それだけで良いのだ。

何が新しいのか?

鶴舞大学は6月1日から様子を見ながら研究活動の再開ということになっている。研究室活動は基本的に「実験現場」では中止して、学外からのコロナ禍流入の確率を下げる努力をしている。にも関わらず、県の緊急事態宣言が解除された日から、どどっと人が増えている。学外からのアポ無しの来客もあり、お断りをさせて頂いているにも関わらず、突如として訪ねていらっしゃる。ルール違反である。ルール違反者にはそれなりにご対応させて頂くので悪しからず。もっとも、ご同輩が多数いらっしゃるので何ともはやである。

新聞紙上等でアフターコロナという記事を多数目にする。多くが、在宅勤務にシフトした部署が、元に戻ってはならないと警鐘を鳴らしている。賛同するところである。現状技術を維持して、次を迎えるなど有り得ないのは常在戦場の企業のお話と考えては大間違いで、これだけ発達した仮想空間を最大限に使わずしてなんとするかである。また、組織を主役にせず、自らの自由を求める者の存在理由も確実に失われてきている。いや、そのような方は組織に拘わる必要は全く無く、今、飛び出して挑戦することをお薦めする。日本の何処にもしがみつく所は無い。

連休中に話題になっていたが、粗大ごみの持ち込み役場に長蛇の列が出来、この機会にこそ身辺整理を成さる方が大勢いらっしゃった。小生もその一人であるが、未練たらしく、だらだらと延々と続けている。趣味の領域に入ってきているとも言える。新しい事を興そうとしているわけだから、古いルールに消えていただくことが必要だ。自分自身が一番消えるべきなのだろうと解って入るが、だらしがないからのうのうと残っている。悲しいことだ。

何が新しいのか?常に問われることだし、歌にもなった。データという金融よりも高付加価値を生み出す可能性に背を向けて、ハンコにしがみつき、紙を愛し、出勤することに喜びを得る生活って何を生むのでしょう?旧態依然の状況にあるのは間違い。ト書きに進行役を縛りつけ(好んで脱線するけど)、決まったゴールに落とすだけの会議であればやらなくて良いのだ。多くの組織がその状況から脱するのだろう。その時、溜め息をつくような状況にはしたくない。そう願っているところである。

明日への希望を

スモールビジネスの連立によって、新規商品がユーザーにダイレクトに届き始める時が来たら、それは日本のものづくりのあり方が変わった結果と、後世、語られることでしょうと、小生はとある原稿に書かせて頂いた。試作ネットや糀谷周辺のことではない。あれは現行のチェーンで注文をこなしているだけだ。親元が居て、そのために残った皆を束ねて、胴元でございと言いたい人が多くいらっしゃるわけだが、明日の商品が昨日までの技術の積分でですとと言われて、明日を夢見る若者はいない。それを期待する商社も居ない。

タイムマシンに乗って、過去の栄光を語る方の何と多いことか。一方で「この人は凄いな」と感じさせて頂ける方は、過去の想い出であっても図抜けていて今も誰もその領域に到達していないし、あるいは、今この瞬間をどんどん過去にしていっているお話を聞かせて頂ける方である。日本社会で叩かれる方々はそんな人達だ。加えて、そんな方々は、自分の成したことに謙虚だ。それは既に過去であることを知っているからだ。

本で知識を得ることは、我々にとって多くの著者の考え方を学ばせて頂く上で、大いなる修行である。何も新しいことはないなと感じるのであれば、それはその著者と同様の人生を歩んできたということだ。そこで安心しているのであれば、貴方の代わりはその著者がしてくれるのだから、貴方は不要ということになる。そう成らないためには、もっと瞬間を強烈に生きなければならない。精一杯ということだ。目玉がでんぐり返るくらいに頑張ってみることだ。

タイムマシンのお話をしたが、ターミネーターは何故強いかと言えば、未来から来たからだ。今、この瞬間は、昨日の同じ時刻からすれば未来なのだ。想像も出来ない自分になっていたか?そうではあるまい。しかし、人にそんな気持ちになって頂ける衝撃を、どかんと発信出来るような、そんなイメージを抱くことが出来るとすれば、是非、人に分かち合って頂きたい。そんな瞬間を作り出してみたいものだ。それが希望である。

因果関係

押し通すと勢いづいていた検察庁法改正案でしたが、土壇場になってひっこめましたな。国民が何を言ってもへっちゃらで押し通してしまうのかと思っていたのですが、ここに来て急に国民の理解などという単語を使っている。何が何でもやり通すことが国民の利益になるのだという表現を一切していませんでしたからね。法律の受益者側のお話しか無かったわけで、落ちるところに落ちたのかなという気にもなる。そもそも議案として持ち上がることがおかしいのだけれどね。

並行して語るのはどうかなとは思うのですが、ソフトバンクグループの営業損益が約1兆3千6百億円だそうで、投資の失敗と言うものは、黒字も赤字も富裕層がやらかすと大きなものだなと感心する。コロナ禍も影響はしているのでしょうけれど、レナウンなどもそうだけれど、社会の猛烈な変化を様子見するとこうなってしまうという見本ですな。他山之石とせず、常に気を配らねばなりません。学びは大きいですな。

勢いって大切だと思うのです。この時代、石橋を叩いて落としていたら、結局、何処にも行けなくなってしまう。じっとしていると「何もしない」認定を頂いて、あちらの軍門に下りなさいと、行き先を支持されてしまう。自律的判断なんて決して許されない状況にある。それでも貫くものをもっていないといけない。それが差別化要因と言うことなんでしょうけれど、世界をリードし続ける何かでないといけないという厳しい状況である。

今、一番大切にしていると思っているものを放り投げてしまったとき、果たしてあなたはどんな状況になりますか?本当にあなたの幸せと因果関係があったのですか?相関関係と因果関係。その道のエキスパートでも間違える。為政者は上手にそれを操って、因果関係に見せるのだが、今回はそれがうまくいかなかったということだ。コロナ禍で国民には時間があった。そういうことかもしれない。

気の緩み

「我慢して欲しい」という依頼から始まって、「宣言だ」という弱い命令に代わり、「解除する」と気を抜かせておいて、「油断するな」と脅しをかける。様々な仕事をすることが許されて、それに対して税金を収めている。その許可に対して「締め付け」をしておきながら、税金の変換には極めて困難な道を用意して「道を開いたから言うことを聞け」という。難行苦行に耐えきれなかった企業から雇用解除、倒産と流れが出来ている。「気を緩めるな」という号令が余りにも虚しい。解除したんだから。

何度も書かせて頂いたのだけれど、そもそもバブルという絵に描いた餅で、食べきれないご馳走を体験した方々が大勢いらっしゃって、今もそれを求めて経済復興などと言う。国民が税金を納付して、国民の安全が守られて、それ故に頑張れるというのが国の基本ではないのか?最低限で良いのだ。その最低限すら無い状況になっている。恐らくなのだけれど、今回の在宅勤務という形態で「回る」社会を体験してしまったので、むしろ、これを基軸に歩みを進めたいと願う大衆があって良い。パソコンの画面など、自宅も職場も同じである。組織にネットワークを整える能力があるかが重要ポイントだが、多くの体験もディスプレイを通じて実現出来ることに納得しないといけない。

航空機パイロット養成など、地上でのシミュレーションで散々墜落しているから、実機訓練で落ちないだけのことだ。むしろ、実際の実験は複数回こなすことは困難だし、何故それがそうなるのかという原理と共に、何故、その装置の材質、仕上げ、組み合わせがベストなのかなどはシミュレーショで宜しい。そこにこそ時間を掛けて学ぶことで、現場での機転が効く人を育てるのだと、このコロナ禍時代で骨身にしみた。この状況を安易に戻してはならない。単に職場に居るから仕事をしているとの思いは、幻影であると認識しなければならない。

某D社が数千億円のリコールを出した。1個2000円の燃料ポンプに対して6万円の賠償金を支払うこととなった。世界中で340万台(もっと超えるとも言われているが?)正確な情報は伝わっていないが、燃料と材料との反応が云々という不確実な噂なのだが、それこそ、座学でみっちり身につけられる範囲である。燃料ポンプに関しては散々自慢話を聞いた。その結果がこれである。ものが持つべき本来の能力を形にする、技術の価値化が現場意識に無かったということだ。形を丁寧に作るだけでは駄目なのだ。素性を知り、価値を生む場を探し、そして技術を価値に転換する。気を緩めているのはコロナ禍の前からだろう。そんなところだ。

熱い瞬間

多くの方が人生で初めて体験した、首相からの非常事態宣言が終わったらしい。一つの出来事が終わったということなのだろう。だって、一刻の首相が始まって終わったと言ったのだから、それなりのことが発生して、収束したのでしょ?重く受け止めなければならなぬ。自分は投票しなかったとか、そんな奴は知らないと無責任なマスコミは芸能人等、著名人と呼ばれる人を引っ張って、賛成反対、両方の人を登壇させ、結局は忖度で決まったゴールに国民を落とし込む。導くと言う動詞を使いたいが、忖度以外に思いつかないからほったらかそう。

戯言のくせにしばらくコロナ話になっていて、コロナに乗っ取られた感があり、不愉快極まりない。弟子のH君などは、ナノ構造をドールハウスサイズに拡大して威張っている。クッションがあるとかないとか・・まぁ、良かろう。面白いから。大切なことは今、即ち、過去から今に限りなく漸近してきた刹那の前と今との間の差において、微分値が「出来た」と評価出来ることであろう。自らではなく、第三者の評価が美しい。H君にはそれがあったので、まぁ、実務で何を成したかは差し置いて許すとしようか。

今週、Web会議に慣れてきた事業所の方々とご議論を頂いたのだが、800Km以上離れている現場であるのに、地球汚染の根源移動体を作って威張る会社のコピーのように、ビックバン以前の力説に辟易した。もう沢山である。何故、我が国には、他国にある、これ程に「先進」が無いのか?積極的に失ってきたのかもしれない。失われた平成?積極的に放棄しただけであろう。過去に責任を押し付けるのはもう止めませんか。

自ら得た何らかの表札を掲げ、錦の御旗のごとく怒鳴る。耳を閉ざして、怒鳴り声が過ぎ去るのを待っている人に対して、自らの軍門に下ったのだ、自らこそネクストジェネレーションであると国旗掲げる人に告げたい、誰も見ていませんよと。貴方は知っているか?イタイイタイ病を起こしたのが大企業であることを。学者様、助けてくれと握られた手の冷たさに、暖かさよりも熱さを感じたことはあるまい。自らが正しいと自惚れた人が巻き起こすのだ。驚天動地の悪行を。宣言終焉の時の赤ちょうちんの隆盛を、学者先生と叫ばれた日と重ね合わせると、何ともバカバカしいのだ。人の呼吸が全く無い。それを選んだのだ、国民は。それだけだ。

真実は何処に?

看板に書かれていることが、実は真っ赤な嘘だったということがある。大切なことは、鶴舞大学でそんなことは決して無いと言い切り続けられることなのだが、それはもう、関係各位、全員が一眼となるしか無いのは当たり前。当たり前のことは深入りしないほうが宜しい。政府やNHKの報道では、我が国のコロナ禍による倒産が200件未満と報道されている。一方で、某駅前だけで40件以上の店舗が売りに出されているという(某駅商店街組合長より)。ひょっとすると、その某駅は特殊で、あとは全国に分散しているのかもしれないので、小生の思い込みなら良いのだが。

まぁ、報道を真に受けるほど、純真では無くなってきているので、それこそどうでも良いのだが、事実と報道の乖離こそ、我が国の在り様なのだなと、国内における多様性と捉えることとした。報道に一喜一憂する程、バカバカしいことはない。眼の前に生じたことを真実とすることとして、それが生じた原因については、発生源の言い分を真に受けて良いのかと、何でも信じる単純バカであったはずなのに、ひと呼吸置いて考える自分に嫌気が差す。

突如として非常事態宣言が解除されるという。明日、解除される見込みが大きいわけだが、木曜に解除で金曜日の夜を迎えるのは如何なものか?隣国の惨事を踏襲するのかと、まぁ、札束命の国民性に付ける薬は無いということなんでしょうね。愉快極まりないわけだ。浮かれず騒がず、粛々と、身の安全の守りに入る、そんなところである。

産業技術経営という学問に身を置いてきたわけで、経済なんてちゃんちゃらおかしいやとは言えないのだが、ものづくり分野に限って言えば、工学と商品とが『全く関係の無い』状況に『我が国』はあるという状況に愕然とするのである。超一流のお仕事をされる方々と信じてお話をさせて頂くと、溜め息しか出ない現状がある。「大学人は単なるリサーチャー」だと小馬鹿にされたことを思い出す。巧言令色鮮矣仁と孔子は仰ったわけだが、上手いことも言わず、中身もない人がマスコミでは受けが良い。面白い国である。

飽きっぽい

既に街の活気は戻り、平時の状況になってきましたな。と、言うのは18時過ぎの街中ですが、大丈夫かなと心配になってくる。世界を見渡してみると(ネットニュースでだが)第二波の発生が流行っていますな。世界に向かってお手本にしろ!って声高らかに隣国を見下していた国でも、おっかなびっくりの一夜だけでクラスター発生である。今、連休前半の我慢が日本の新規感染者の数値を押し下げているとすると、来週末辺りが恐ろしい。

コロナ禍で自転車通勤に戻ったわけだが、一ヶ月が経ち、結構、調子良くなってきた。八事の坂も普通に登れるようになってきたしね。体を動かして血の巡りを良くすると、間違いなくアイデアの湧きっぷりが良いですな。おしりの痛いのも無くなってきたし、新規の通勤経路を探す余裕も出てきた。その昔は当たり前のように自転車で通っていたのだが、久しぶりにペダルを漕ぐと新鮮ですな。マスクをしているのが厳しいですが、来年くらいにはそれも取れてくるでしょう。

自転車だから解るのですが、連休明けからの街の賑わい、そして、週明けの状況。自動車通勤の方は確実に増えていて、その分、地下鉄は空いているのだろうなとは思うのですが、お一人さま席の自転車にはかなうまいと、4つの山を乗り越えて悟りの境地ですよ。ペダルを漕いでいるといつの間にか頂上に着く。これが良いのです。てっぺんを意識してしまうと絶望感満載ですが、いっぽいっぽの先しか見ていなければ、いつかはそこに到達する。人生勉強ですな。

ネットワーク授業もいよいよ開始が迫ってまいりました。準備側も受講側も恐る恐るの講義ですが、準備だけよりは受講して頂けるほうがやっぱり嬉しいなと思うのですよ。作りがいと言うか、作ったものを見返すことが出来るということを活用して、講義を展開できるのはなかなか有り難いですよ。黒板に書いたものを、もう一度繰り返しなんてのは大変ですからね。飽きっぽい日本人がお互いに何処まで頑張りきれるのか。試されるようなweb授業が、案外楽しみな私であります。

国力

東京都でのコロナウイルス感染者数が、報道によればこのところ減少しているとなっている。何処まで信じて良いのかさっぱり謎なのだが、今年の4月終盤からの連休での「家に居ろ」というのが効いているのかと思うと、人間もなかなかやるなぁと思うのだ。しかし、世界を見渡すと、都市間移動を厳しく取り締まって、家から用事もなく出歩くと数百万円の罰金を取るようなことをしている国では、どんどこ増えている事実との対比が、どうも納得できないのだ。

検査数が少ないから罹患者登録者数が少ないのだという理屈は、そうかもしれないなと思うところもある。マスコミを通した情報しか無いから真実が処にあるのか分からないけれど、医療機関が爆発しますよということで検査を抑えるという、なんとも国として悲しくなってくる言い訳だなと感じるわけです。検査にしても自動化が殆ど出来ていないとかね。

思い出してしまうのが、スタップ細胞事件。もう、あれは事件と言っても良いのだと思うけれど、見やすく画像のコントラストを変えてみたら、新規現象が見えましたというところなのだが、人為的な結論に頼った診断で、検査件数も少なく、重労働による疲労・過労、精神的苦痛を考えれば、検査の在り方そのものに対して、惨劇が続いている間ではあるが、PDCAを回しては如何かと思うのだ。PDCAはCから回せば良いので、既にその情報は揃っているだろう。

疑ってはキリが無いわけだが、1日の検査数が200件台とかね、日本の実力ってマスク2枚と1日200件なのだなってしみじみしてしまうのです。過剰設備を入れないのが日本の工業会の在り方であって、今、過剰に設備を入れてしまうと、コロナ禍が去った後に、その固定資産をどうするのだということで悩んでいるのかもしれないが、国民が死んだら国は無くなってしまうのだ。その意識が無いのが怖い。そんな気がする。

エコノミークラス症候群に気をつけて

職場に居ると長時間座っていることはない。会議で2時間以上座りっぱなしということはあるが、これなどはブラック企業だから仕方がないとして、あっちの会議、こっちの会議とうろうろしまくるので、エコノミークラス症候群に陥ることはない。因みに、国の会議においては、大略90分に一度は休憩が入る。余りにも集中力を要求されるので、全員に限界がやってくるということもあるのだが、10分の休憩でもほっとする一時である。トイレに行ったりお茶をいれたりと、これまた血栓発生予防にはなるのだろう。

宿舎での土日を考えると、こちらのほうがよっぽどPCの前に座っていて、講義や会議の資料を作っていると、気がつくと3〜4時間が経過していて、椅子から立ち上がりもせず、水分も摂取せずなんてことがしょっちゅうある。在宅勤務の皆さんにはくれぐれも気を付けて頂きたい。過度な集中よりも、リラックスして頭を明朗快活にして、職場では思いつかないアイデアを出して頂きたいと思う。気がついたら額のシワが増えていたなんてことにならないようにしなければいけない。

研究室で実験をしているような時は、これはこれで立ちっぱなしで何日間なんてことは良くあるのだが、食事やトイレの時間があり、立派な気分転換にはなる。PCの前で弁当を広げて、箸の背中でキーを叩くなんてのは、既に人間を辞めている状態であって好ましくない。時間に追いまくられるとそうなっていくのだが、そんな時は『モモ』の時間泥棒を思い出して苦笑いをすることにしている。自分で自分の時間を盗みまくっているのだから始末に悪い。

文字書きに飽きが来て、ふと、ネットニュースを見たらエコノミークラス症候群のお話が出ていた。2時間に一度は体操しましょうなどと書かれているが、30分に一度でも良いくらいだと思う。水筒を置いて水分補給にも気を配るべきだ。職場ではお茶を時々飲んでいるくせに、宿舎のPCの前では何故かしていない。鶴舞大学のネット環境は極めて強固で、大学に出て行く理由が何処にあるのだろうと思ってしまうほどだ。企業との打ち合わせもネットで良い。出張時間と費用の大いなる削減になる。それで良い。心底思う。