原点

先の東京オリンピックの記憶は無い。アベベという選手がマラソンで1位になり、その選手が府中の近くの甲州街道で折り返した地点を、サイクリングで確認した程度のことだ。オリンピックがいよいよ延期が現実味を帯びてきた。

いろんなことが突然変わる。オリンピックと言う国際的なものの日程が変更になったり、中止になったりすることに立ち会えるとは思わなかった。思わなかったことが発生したことを驚くのではなく、そうなのだなと受け入れることが重要だ。

何がおこるかわからない。コロナウイルスによる肺炎死の世界的拡大が原因であることは間違いなかろう。見えない細菌が既存生命を廃絶していく。火星人がウイルスで死滅して、結局、地球を乗っ取れなかったという小説があるわけだが、それが人類にお呼び出したと言う事だ。

何が起こるかわからない。本当にそうだ。しかし、毎日は確実に訪れ、そして過ぎ去る。一瞬とて同じ時は発生しない。そうなのだが、怠惰な人間は同じことの繰り返しを、日々、求めてしまう。そうではない。新しくて良いのだ。前例など無くて良いのだ。日々、ゼロという原点があって良いのだ。ゼロから数字が始まる。偉大な思想である。

さくら

宴席の無いソメイヨシノは、国民の元気の無さを嘆くだろう。どんなに咲き誇っても浮かれて大騒ぎをする民を呆れて眺めるのが、花見というものだと思っているソメイヨシノにとって、今年の早い開花は、溜息みたいなものだろうか。

ご近所を回ってみたら、土曜日の時点できらっと咲いていた。薄紅色のつぼみたちを尻目に、胸を張って輝いていた。やぁっと声が出るのだ。一年ぶりですねと。ほんの数輪ではあるが、紛れもない心のスイッチである。

ソメイヨシノが咲いている間は仕事はしないというのが小生の生き様であって、長い魂の春休みの言い訳なのだが、今年はそれがやたらと速く始まってしまって、新人達との桜の宴席も無く、窓越しの桜で欲求不満の日々になるであろう。

世界ではとんでもなく罹患者が増えていて、日本は真っ当に検査をしていないからの数値だろうなと海外から疑われている程である。どちらが真実を語っているのか分からないが、自らの身は自ら守らないといけない。桜と共に元気になって一年を頑張る。日本人らしさで切り抜けたい。そう思う。

挑戦の好機

マスクを転売して大儲けをした県議は胸を張って議員を務める。発症者を出したくないから検査をしない国も、やはりのうのうとしている。諸外国から日本の発症者数は、検査をしていないだけだからと突っ込まれて、漸く検査キットが出来たからとうそぶく。それをマスコミも偉い偉いと持ち上げる。それが日本だ。愉快な国では無いか。

昨日、たまたま浅間山の麓の駅に停車し、そして乗車したまま更に先に進んだのだが、華やかかりしスキー場も街も閑散として、往時の面影もない。いや、それでもゲレンデでウィンタースポーツを満喫していらっしゃる、ゴージャスな方々もいらっしゃる。車窓から眺めただけなのだが、まぁ、そういう事なのだろう。富めるものはより富むという理屈だな。

出先に到着してみると、中国からの部品は入って来ず、多くの機械は停止しした状態の工場。だから今こそ、新規の技術を導入して挑戦する方向に向かった皆様とお話させて頂き元気を頂いた。大学の超先端を前倒しして、今だからこそ受け入れられる、その最前線の先に身を投じる勇気があるか不安になった。何としてでも頑張るのか、期待をされたら困るからやらないのか。

どうも後者が多いのだ。それが日本の共同研究単価が上がっていかない理由なのだと実感する。挑戦に対しては、今の社会情勢においては、貪欲に受け止めて頂ける状況にあると感じる。お友達感覚のお付き合いを突き破って、挑戦をする時である。絶好の機会を逃してはなるまい。そう感じる。

鎖国

どうしようもない事がある。どうにもならない事を持っていないのであれば、それは恐らく、心の底から、一人きりで生きている方であって、小生は憧れ、そして尊敬する。一方で、小生はそうはなりたくない。孤立無援であっても、その最中において、誰かの為にありたいと願ってしまう。それを完全に失うことはなかなか出来そうにない。

 米国債券市場においてダウ工業株30種平均が約3年ぶりに2万ドルを割り込んだ。我が国の日経平均においても1万7千円台まで来た。つい先日、2万円を超えていたのだ。その昔のバブルと呼ばれる状況を現役で見ていた世界に似ている。社会が静かである。ただ、その時と異なるのは、誰もが言っていることではあるが、鎖国であるということである。金銭で解決できない面白さがある。
 
 面白いなどと言ってしまうと、罵詈雑言が来るだろうが、そんなもの放っておけば宜しい。相場だけが価値だと思い込んでいる人類ヒエラルキーは崩壊すれば宜しい。価値を生み出す人間が尊くなければならない。社会で「為替」だけを持っている人種が黄色い声で迎えられることに呆れるし、未だにそうなのだなと、マスコミの宣伝に呆れるところだ。国力は一部の大金持ちが指標なのか?まぁ、そんなものかもしれない。
 
一人が沈黙したとて状瀬は変わらない。コロナウイルス恐怖症候群に襲われている。その中で、誰かの為に生きたいと願えるのか。そう願える瞬間はどこにあるのか?一言有難うと言える人は、何処かにいらっしゃいますか?それはとても幸せなことだ。そう思う。

未来否定者

耳を澄ましてみると聞こえてくる。嘘と真実が。コロナウイルスという人類を死に追いやる可能性を持ったウイルスが居るのは恐らく真実。マスクやトイレットペーパーが地上から消えるというのは嘘。ただ、嘘の方が人の心を引き付けるものだから、理性のかけらもなく、詐欺にまで発展し、そしてそれを疑わず受け入れる民の何と多い事か。

コロナウイルスの電子顕微鏡像は、大々的に公開されている。しかしながら、その太陽コロナに似た突起の電荷がどうだとか、中性なのだとか、ほんの少しの科学的説明がなされていないのは何故なのだろう。世界中で研究をしている筈なのだから、それくらいは分かっていそうなものだ。どんなマスクが有効で、空気清浄機が有効なのか、その辺りで大略検討が付くのに、誰も言わない。地球人類を殲滅する気か?

その昔のスペイン風邪の恐怖は知らない。人類の3/4が死滅するという現象はどのような世界を生むのだろうか。全ての民が他人事ではない、死への恐怖と隣り合わせになるのだ。まぁ、どんな恐怖ですかと言われると、まぁ、そんなもんぢゃないのと、あっちに行っちゃった経験を持っていると、まぁ、そんなもんかなと、落ち着かない人達の背中をさする役回りになったりしてね。それ故に詐欺師は許せない。

詐欺師と同様なのが未来を圧倒的に否定する者だ。自らの経験のみを道標に歩くのは気が楽だ。きっとそうだ。経験を土台に常に未知なる世界を創っていく奴の後ろにはイノベーションがある。それは極めて愉快だ。愉快なのだが、多くの民にとっては苦痛なのだそうだ。絶対的に新しい事。それだけが価値なのだ。人の為の価値。それを創り出すこと。それ以外に興味は無い。

オンライン会議募集

ねちっこい討論の末、次の思考の根っこに到達した時、これをネット上、所謂、オンラインでの打ち合わせで可能であったのだろうか、可能とさせるならばどんなツールが必要なのかを考えた。ほぼほぼ出来る筈なのだ。高解像度のディスプレー、そこそこリッチなトラフィック、それらしいツールなどがあるわけだから、それに慣れていけばきっと実現できるのだろうと。卒業式のような儀式的高揚感を持ち込むのは難しいのかもしれないけれど、大会場のスクリーンにどっかの偉いさんが喋って感激するような国民性だから、それもネットで良いのではと思う。

対面式会議が、年度計画の説明と意見聴取というものがこの2週間で幾つかあった。往復1時間程度の場所で開催され、会議時間は2時間が予定されていた。内容説明が45分、残りは意見聴取と言うのが例年の流れで、分厚い紙を捲りながら要点の説明を受け、疑問点、改善要求を20名足らずの委員が発言していく。発言に対する発言も当然ある。2時間でお開きになって、議事録が送られてきて、それに目を通して、納得して終わる。

その紙の束がPDFで送られてきて、それに目を通し、意見を数日中に書いて出せとある。意見が無いなら無いと書いて出せと言う。これは会議があったほうが楽だったなと思いながら、渋々書類に目を通したのだが、説明だけだと見過ごしていたことが気になってくる。会議の進行は自分の時間軸で行うわけだから、書類の他のページも見ながら意見を書いていく。書類の審査慣れ状態にあるわけだから、面倒だなとの思いさえ吹き飛ばせば、それは何とでもなる。

議事録が事前にあって、そこに集まる人の顔、即ち性格がイメージ出来て、画面に集う人達は音速でキーアクションが出来て、人の話し中にいきなりしゃべりだすような無法者が居なければ、ネットミーティングに移せる会議はかなりあると考える。ただ、宿舎からということになると日本のネットワークインフラの脆弱性が気になるところだ。いずれにせよ、昨日までオフライン会議に慣れきっている人達の思考改革が一番難しい。オンライン会議は全てが記録に残る。顔の表情まで残せる。何か一つ、やってみたい気がするのだ。会ったほうが早いということではない。オンラインの方が良いという会い方があるはずだ。挑戦したい。

鎖国にて

いよいよ日経平均の終値が1万9千円を割りましたな。遅きに失したWHOのパンデミック宣言で世界的な恐慌状態。米国が欧州からの渡航者を30日間制限するなど、景気対策そっちのけとなっています。円相場も1$=103円台ということで、ここ数年、為替相場だけで生きてきた日本大企業群の壊滅的ダメージがどれ程のものか恐ろしくなります。

我が国の鎖国状態によって、中堅・中小企業殿達が、ご自分で加工して部品を作っていたのだと思っていたら、かなりのアジア再受託があからさまになり、ここまで「もの」を作らない我が国になっていたのだなと悲しくなってまいりました。

人の移動も少なくなり、それに伴ってネガティブな要素が報道されるわけですが、ちっとも報道されない我が国の電力消費の情報ですが、相当に消費量が減っているのではと推測するのです。新幹線だって空身で動いているわけで消費電力は激減しているはずなのです。工場も止まっている、ホテル業もエアコンが使われないなんて状況なのだから、このエネルギー消費をキープするような考えがあっても良さそうではないかしら。

大企業のサプライチェーンを支える、本当に「もの」が作れる皆様が連合を組んで、最終製品を生み出すチャンスでもある。自らのフラッグを明確に掲げ、「もの」が作れる人達の価値のサプライチェーンを作るために、鶴舞大学は率先して一肌脱ぐべきと考えます。前向きでいきましょう。目は顔の前にしか着いていないのだから。

リーダーは?

適材適所をAIが判断する。海外で先行しているやり方がいよいよ日本に入ってくる。これが進むと、生まれてから高校生くらいの嗜好で仕事が決められ、学ぶべき内容が支持され、行くべき大学が決められる。入試もなくなり便利な世の中の気もするが、突発的発想などは排除される。いや、その突発的発想能力までもがAIによって判定されるのかもしれない。

生産現場で求められるのは正に生産性であって、時間当たりにどれだけの「お金」を企業にもたらすのかが評価指標である。それが1日当たりの評価になるのか、一分なのか、一か月なのかは企業次第だ。某企業で伺ったことがあるのだが、一週間に1日でも爆発的に業務に打ち込む姿を見て、それが面白くて雇用しているとのことなのだが、1日当たりの生産量がゼロという日が続いて、5日間で見ると10日分働いているのだそうだ。

こんな人を雇用したいという場合と、そいつのお陰で他に妙な影響を与えるということを気にする企業と、それは分かれるであろう。AIならどんな判定をするのだろうか?上司の立場を代弁してくれることをAIに求めてしまうのだろうか。

組織は人によって育まれてきた。それがAIによって支配・指導されるようになるのか?AI指標で人の価値が決められる未来を手塚治虫先生は漫画を通して予言していた。大略、ろくな結果は生まないよという落ちであったが、その未来に向かって動き始めている気がする。世界規模の「難」の中にあっては国のリーダーが強いリーダーシップを発揮しなければならない。難しいからこそAIではなく、人なのではなかろうか?そう考える。

しなやかに生きること

日本の教育現場はどちらかと言うと知識や技能の習得と、それを再生する人間を育ててきたような気がする。出来るだけ早く、効率的にゴールに到達するかの競争を強いる。結果、プロセスよりも結果を評価するようになる。一本道で脇道無し。ひたすらに盲進する。

不安定で不確実な現実を思うと、今ある情報を処理する能力よりも、思考や判断を伴う情報編集能力が求められる。自らの意思を盛り込んでいく。即ち、知識や技能の活用をしなければならず、複雑で曖昧な情報から進む方向を決める勇気が必要だ。

リアルタイムというよりも、予測と賭けも必要だ。「今までこうだから、次もこうする」となりがちなのだが、次があるとは限らない世の中だ。コロナ騒動を見ても明らかで、恐らくは地球上に蔓延しているウイルスと共存共栄していくことになるのだろうが、来週、現状がどうなっているかなど誰にも分らない。

科学技術の進歩が著しくとも、突然、パソコンが無くなったりはしないし、自動車が空を飛び回るということはない。しかし、電話交換手の仕事はほぼ壊滅した。長い目で見ると消える職業がある一方、新しく生まれるものもある。頑なよりもしなやかに生きる。スマートである。

Web会議化の促進

Web会議の当たり前化が進んできた。そもそも論で、懇親会を実施しないのであれば、多くの会議はWeb会議で良い。懇意の間柄であればあるほど、それで良い。初対面だと画面に映っているのは誰かしらと、相互に考えている雰囲気が漂ってきて微妙であるが、ネットとPCの速度が十分なものになっていると感じる。

年間の移動時間を考えると、それはとてつもなく大きなものであり、それが無くなると、処理出来るワークは極めて増える。すると、時間外勤務時間が激減するような気がするのだ。週に2,3回も東京往復をしているような状況において、地域貢献の仕事が増え、本来成すべき事業への参加の可能性が増える。

一方で、移動して出会うからこそ納得しあえることも多いのは事実だ。画面での会議に慣れていないことが最大の問題なのだが、そんな気もする。これはWeb会議のシロートということなのだと反省するしか無いのだが、これも数をこなしていけば何とかなるものだと感じる。

コロナウィルス問題から発生したことなのだが、これを好機と捉えて、在宅会議や移動レスワークという部分を増やしていくべきと思う。会議は会わないといけない、書類にはハンコが無ければならないという因習は、そろそろ卒業しても良いと思う。