現象と原因

昨日の続きで恐縮だが、現象と原因とはまるでちがう。上手な論説はあたかも原因を語っていると迫ってくるが、実は現象を断片的に語っているだけだ。シャーロックホームズは犯人を見出すことは出来るが、同様の犯罪を無くすことは出来ない。戦争はダメだと言いながら、世界中から戦争が無くなった世の中などありはしない。

研究も同様で、現象は見いだせる。原因の完全究明はそう簡単には至らないのだ。地震などが好例で、スロースリップが発生したから、ロックしている紀伊半島の真下で巨大地震が発生しますよと言いながら、それはちっとも発生しない。小生こそ代表格の横綱級だが、「解った」と言うのは目に見える現象を、とある仮説を立てると説明できるという実験データを見出しました程度のことで、それを外野の皆様に勘違いをして頂いているだけが学者の行動だ。物理現象など、観測手法の発展により、新たな解釈が生まれるものだ。だから面白いのだ。

ニュートンは万有引力が存在していることを数式に示した。これは凄まじい洞察力と感服するしかないのだが、お弟子さんの言葉によれば(もうここに真実以外が入っているではないか)、リンゴは落ちるのに月は何故落ちないのかというところから始まった学説だそうだ。引き合いながら釣り合いが取れる状態と、そうでは無い状態がある。凡人にはなかなか見いだせる代物ではない。

原因が究明されることというのは、本当に稀有なことだと思う。ピコ秒でびっくりしていた35年前だが、今では「アト」秒の時間分解能で物理現象が語られる世界だ。しかしここでも見えるのは「現象」であって原因を見出しているのではない。理想からそれを生み出す原因は何かをAIが成すとするならば、判断の世界に人間は要らないのかもしれない。暢気になれるかもしれない。

見せかけの正論

社会の声を聴いてみましたと、マスコミをはじめ、様々な方々が仰る。数名からお話を聞きましたとか、誰誰に聞きましたという、狭いけれど定量的な情報は傾聴に値する。日頃、深いお付き合いがある方からの情報であれば、その発言のバックに何があるのか、断片でも分かりますからね。「誰、それ?」となるともう不特定多数からの情報と同様で、「情報操作されている」感満載になる。

情報の質というものなのだが、ネットに書いてあるというのと、広辞苑に示されているということでは質が全く異なる。広辞苑と言っても「何版?」というところまで明確にならないと、今は意味が違うぞとなってはしまうが、それでもその情報の信頼性は高くなる。と、言うか、客観性が出てくる。

AIネタが最近、自分でも増えているなとは感じているが、自らの存在意義が消されようとしている最中であるから、増えてくるのは必然と諦めてほしい。とっとと楽になりたいという気持ちの裏返しというか素直な表現かもしれない。AIさん、どんどん賢くなってくれというのが本音である。なんでそんなことで質問にくるのだと、思考を断絶される苦痛には耐えられない。

声が大きい人、一見、弱者側に居る人の意見は、正論となりがちだ。「私はそうは思わなかった」と言われて窮地に立ったこともあったが、「私はそう思った」のご意見に救われたこともある。知識をバックに迫ってくる人の話は半分も聞けない。知識を持っている人は迫ってこない。何故なら「その知識には欠けているところが沢山ある」と知っているから。目で見ても虚構だったとなることも多い。気を付けなければ。

試験監督考

共通テストの監督者となったのは、かれこれ30年前だ。ということで教職30年ということなのだが、受験生がまだまだ形もない頃のお話で、随分と無駄に年齢を重ねたものだと苦笑いである。同じことを科目毎に繰り返し言うのだが、言っておかないと「言わなかったぢゃないか!」と阿鼻叫喚となりかねない昨今であるから、ひたすら機械となって話し続けるのだ。

素晴らしい働き方改革のおかげで、代休日は指定できて登録できるのだが、それを実行できるかどうかは別問題。延々と休みなく繰り返される日常に、どうやってメリハリをつけるかが個人裁量になっているというのが改革の本質かもしれない。AIにやらせることが出来ることは、全てAIに任せましょうというのがストーリーだ。AIが出来ることの範疇には給与を払いませんというのが雇い主の考え方だ。

AIスピーカーなるものを導入してみると、確かにこれは手強い。かなりのことを伝えてくれる。現状ではプライバシー云々が叫ばれるので、妙な垣根を感じるのだが、そんなものは近い将来に撤廃されて、更に時間短縮に繋がっていくことは間違いない。講義ノートをひたすら板書する先生、パワーポイントを映して話すだけの先生は現時点でも無用だが、確実にポスト削減に繋がっていくのだろう。

知財など、人間が凄まじい労力を掛けて検索などをしているが、そんなものは正にAIに任せればよろしい。人間側は、必要なキーワードの抽出を成せば良く、知財の価値を明確に差別化させるところを人間がやり、その他は機械任せになるのが良い。間違いなく賢くなれる。そんなことを思いながら、二日間、それこそ「AIスピーカーとロボットにやらせれば良いのに」と苦笑いさせられた。そんな土日であった。

共通テスト考

日本の謎の慣習である共通テストなる、天下り人材保護活動が開始される。決まり切ったパターンを唱え、見張り役を務めるわけだ。何もしないで時間を過ごせという強迫に耐え二日間を過ごす。代休など獲得できるはずもなく、見せかけの働き方改革に呆れながら、これまたやはり時間泥棒との戦いになるのだ。

遠い彼方の記憶なのではっきりとはしないのだが、大学それぞれで入試をするのではなく、共通指標で大学をランク付けしようみたいなところがあって、そうはさせるかという大学側の反撃で作られたシステムであると聞いたことがある。だったら各大学で入学ポリシーを決めているのだから、それを見て一発勝負の入試で合格者を決めたら良かろう。

すると、一発勝負はかわいそうだの、選択の機会を奪うだの偽善的とも思える外野の意見が直ちに飛んでくるわけで、受け身の学習しか望まない学生を作りだす社会のおぞましさを追求することなどマスコミはしない。ベルトコンベアの上を移動して、ロボットにピックされて装置に組付けられることを待つ部品の如くの学生達は何処から生まれてくるのか。全てでは無いがかなりの数だ。

最低限理解しているべきことを問う入試であれば、全員が満点を獲得できるべきだし、更に言えばやる必要は無い。クリア基準以上を求めるのであれば、もうそれは一発勝負の入試で良いのだ。教育システム全体で考えるべきことだから、一校でどうのこうの出来ることでは無いが、そんな流れにしていかないと世界の孤児の養成校になってしまいそうな恐怖を感じる。大学のあり様を考える。監督などせず、そんな時間の使い方をしてみたいと願う私であります。

アナログ時代人の悲哀

折角の職場のお休みがあっても、それを誰かが奪いに来る。奪い合って何かが生まれるのは事実で、それを実感できるのも事実なのだが、それでもやっぱりお休みに個人的にやりたかったことをやれる生活の方が有難いと感じてしまう今日この頃である。贅沢な思考かもしれないが、やらなければならないことに押しつぶされる毎日を送っていると、時間の獲得の妨害者は排除したいと感じるのだ。

モモに出てくる時間泥棒が何処にいるのかということに尽きるのだが、それは自分の中に居るのだろうなと理解してはいるものの、それを他者のせいにしたいという狡さも自分の中にある。結局のところ自分がどう考えるかであって、自分への忖度を消し去れば、妨害者が自分の中にあることが見いだせる。

妨害を最大限に排除するために、どうしても道具に頼らざるを得ない。それがAIでありロボットであるならば、正しい選択のような気もする。AIとロボットが人の隙間を埋めてくれるものにしていくことは人間の行うことなのだろうが、一方でアナログの有難さもあるなと最近は感じている。

IoTの時間的拘束力の凄まじさである。メール一本で締め切りは一か月後ですよと、3万文字の原稿を要求してくる。デジタル化文書だから、余程気を付けていないと忘れ去る。いきなりARゴーグルの向こうから督促者が襲い掛かってくる時代に入っている今、そこから逃げるのはアナログしかない。アナログ時代人の限界を感じつつ、時間泥棒との戦いを続ける日々である。

残るもの

古来の芸能というものの根本は変化してはならないのだと思う。変化しない骨格の上に時代をリードする新しい技が載ることで、見る者を勇気づける。芸能のもたらす効果の源泉とはそんなものではなかろうか。技術をあたかも芸能の如くに捉え、ベンチャー企業さえ出来れば経済が活況となるというトップの安直な思考は、文化を無視した人間離れした思考としか思えない。

地球人が想像する宇宙人の容姿が人間に似てしまうのは、人間の思考の限界があるからと言う者もいるのだが、それはそうかもしれないが、学術的に、地球環境と類似した状況では人間型になっていくという学説もある。学者の言うことだから何処か怪しいのかもしれないが、小生はそんなものでは無いかしらと思ったりもしている。

数十億年を掛けて到達した中において、革命と呼ばれる事件とも言える発明、開発が成されたわけだが、確かにそれは一か所から発生し、地球全体のあり様を変化させる可能性が無いとは言えない。特にネットワークが高度に発達した現代において、アイデアだけを発信するYouTuberの存在を見ていると、一人一人が発信し、全ての人がベンチャー企業化していると判断した方が良いのではなかろうか。その中から自らに都合の良い組み合わせを選んで、形にしてみると、既に自分にとっては革命的生活変化をもたらせると感じる。

イノベーションを求めるよりも、生きるという本質を見つめ直すことが第一ではなかろうか。バブルを求める強欲こそが人間の本質であるということでは生きる希望が無くなってくる。大型書店が閉店し、特色ある書店が生まれる今、画一化されたバブルの時代がとっくに終わっていることを意識するべきだ。他者と共に活動する中における本質を軸に、新しい思考をする。全てそぎ落とした時に何が残るのか。それを大切にしていきたい。

Intelligence of Things

Intelligence of Thingsが最近のIoTが示すものである。単に繋がっているわけでは無い。繋がっているデバイスが知性を持つ時代であるという事。すると、何らかのデバイスにアクセスしている人間も、それなりの知性を持っていないと不良接続と考えられてしまい、遮断される憂き目にあうやもしれない。

2年ほど前に輸送用ドローンのモーター開発ということで、軽量モーターコアのお話を頂いたのだが、離島と本土とを繋ぐ輸送機として本格的に自立型ドローン輸送機が動き出したとのこと。余りにも遅い日本の動きだが、少なくともやりだしたことは良かったと思う。AIバスに次いでAIドローンの登場は素晴らしい。

3次元に揺れる機体を安定化させながらミカン箱程度の大きさではあるが荷物を運んで目的地に到達するというのは凄い事だと思う。ラジコンでは無く、GPSを頼りに自立して飛んでいく。これも正にIntelligence of Thingsの具現化の一つであろう。繰り返し実験をし続ける資金はあるのかと心配してしまうが、国外企業に利権を全て持っていかれる愚を繰り返さないで欲しいと願うばかりだ。

いよいよもってAI、IoTに掛かるエンジニアの排出が当たり前のように求められるのだが、文科省に言われて漸くカリキュラムをいじるというのはどうだったのか。個々の大学で独自の体制で考えていって良いものか?もっとも、エンジニア育成の前に、目の前の電子化すら億劫で関係無いとする組織を何とかせねば。書類の山を見るたびにため息が出る。

前に進むということ

今に始まったことでは無いのだが、日々開催される会議の何と多い事か。今週は例によって土曜日まで拘束されるわけだが、今年は極力ものごとをお断りしていこうかと思っている。思っているだけで実行できるかどうかは分からないのだが、「やりません」元年としたいと思っている。勿論、それは研究者としての依頼に限ったことで、公務に関してはそんなことは有り得ない。

断りにくいことを「良いですよ」と引き受けていると、一つ一つの案件に対する集中力が下がってくる。品質の低下は最も避けるべき事態である。それを実践していきたいと思っている。去年からの流れで、今週、既に2件の講演案件があったわけだが、これを最後にフェードアウトというのがストーリーだ。何度も言うが、イオンだの平坦だのと学者の前では話しませんよということだ。

勿論、学問活動を停止するということでは全くない。寧ろ、丁寧に活発化していく予定である。より深く潜航し、真理を追究することに時間を割こうという、まぁ、当たり前の方向に進もうと思っているだけだ。真理という大げさなものではなく、自分は何が分かったのかと、自ら納得したくなっただけだ。遠慮と忖度はもうしませんということだ。

パンドラの箱のお話がある。飛び出すものが不幸だけだとしても、幸福が残っているかもしれない。何も無いかもしれない。そこに閉ざされた扉があるのだとしたら、絶望などせず、開けてみることだ。それしかない。

毎日運ぶものは?

長くは無いけれど、連休明けで数日間通勤していると、やっぱり嫌になるのがカバンの重さ。その昔、祖母が倒れた時、やってきたお医者様が下げてきたカバンから繰り出される様々なツールを見て、カバンとはこのようなものなのだなと思ったことを覚えている。瞼に焼き付くというのは本当で、これは忘れようにも忘れられない。

電脳を携帯するようになってカバンの中身がじわじわと変わってきた。変化の歴史は電子機器の進化の歴史に繋がるのかもしれない。重くなったり軽くなったり、大きくなったり小さくなったりである。背広でリュックを背負うことがポピュラーで無かったころ、学会にリュック姿で出かけたら思い切り冷やかされた。両手を空けて安全を確保するという当たり前の行為だが、常識のシールドをまとった大人達には小馬鹿にされた。されても意志を貫いてリュック生活は続いた。

当初はブリタニカ国際大百科事典一冊分の大きさのブックシェルフ型PCも、今や、熱さ1cm、重さは1kg以下が当然の状況になってきた。そうなってくるとリュックからショルダーバッグへと変貌出来る。このショルダーバッグへの変貌の途中には、とある事故でリュックを背負えなくなったことがきっかけだったのだが、トートバッグ生活の便利さに驚いて、ショルダーバックとは便利なものだなと、今現在はその状況に落ち着いている。

最小限の大きさの中に、必要不可欠で、毎日使うもののみを入れて持ち運ぶ。それが理想なのだが、万が一のためと、何かが付加されてしまうのが情けない。保険と言う奴なのだが、生命保険と同様で、万が一起こる筈もないものに、患い悩む愚かな毎日を過ごすことになる。自分の将来にまで忖度している。情けない毎日だ。

縋るものは・・

やって良いか悪いかは別として、3Dプリンタによる生命体の創造ということが成し遂げられるんでしょうね。というか、何処かで既に成されているのでしょう。ナノインプリントによる分子合成が当たり前のようにやられているわけだから、そんなものとっくにやっているよと笑われるかもしれない。3DCADデータが遺伝子レベルで構築されて生命と呼ばれるものが生み出される時、人新世紀は終焉を迎えるのでしょう。

恐竜が種の淘汰で滅んだように、人間もいずれは同様の末路を遂げるのだと思う。1億年以上も続いた恐竜の時代であるが、それは多様性が地球環境によって制御されてきたからだと考える。一方、人類は圧倒的に増殖し、地球環境に変動を与える程の、人為的影響力を発揮している。そんなことは人には出来ないと言う学者諸氏もいらっしゃる。それはそれで恐らく正しい。一方で、PM2.5で太陽光を遮ることが出来たのは、人為的なのではと小生は思う。

それが地球規模で云々となると、火山が一度大噴火した時の影響に比べれば大したことは無いとなってしまうが、それでは化石燃料をじゃんじゃか燃やして、ばい煙を大気中にまき散らす行為を、世界中で同時に行ったら、火山レベルのことが出来るのではないか?恐竜ですらできなかった環境操作を人類にとっては可能ではないのか?

日本国企業における工作機械の売り上げが昨年度、一千億円を割り込んだ。工作機械が売れないと言う事は将来への設備投資が成されていないからだと、その筋の方々が叫ばれるが、小生はちょこっと疑問に思っている。近い将来に訪れるサービスを実現するツールは、最早工作機械では無いのではないか?そう考えることが自然では無いのか。新しい「紀」が生まれてくる。そんな気がしてならない。