貧乏性

中小企業殿でも社員のリスキリングの一環で、博士取得を勧めていると言うお話を頂き、実に我が意を得たりである。社内にチーム博士を構成する程で、様々な分野の博士号取得者を研究チームに配して、積極的に世界展開をされている。AI等々、エレクトロニクスの進化はあるわけだが、人間活動の中心が「今のところ」人間であるから、考えるべき問題を作り出し、それを新たな手法を創造しながら解決していく博士という人種は、今の時代こそ最大の力であろう。

産学連携のお話になると、大学はお安い道具みたいに多くの企業さんが言うわけだけど、それは大間違い。その道のエキスパートの知恵と労力を自社で獲得しようと思ったら、どれだけのお金が必要なのだ?実働数が少ないから、少額でと言うことは通じない。その知恵を高めるためにどれだけの時間と汗が流れたのか?そもそも自社で出来ないから必要と思われれたのでしょ?あるいは、時間短縮になると思ったわけでしょ?その価値を貨幣で購入できるわけだから、そんなに安いことはない。

間接経費が気に入らないと言う不思議な意見がある。パソコンだけで仕事が出来るから、ものづくりの価値が解らないと仰るのだが、それではパソコンは誰が作ったのだ?ネットワークは誰が作っているのだ?そしてその運用は誰がやっているのだ?まさか本当にPCだけで全てが回っていると思っていないのだろうな?見かけ上、必要な経費は当然ある。しかし、それを維持、運営、更新していくには当然のことながらバックヤードがあって、そこに費用は発生するのだ。海外では67%が標準である。

日本は安すぎる。安過ぎるのは国にお金が無いからなのだが、地産地消している限りはその呪縛は破れない。地産他消が望ましい。農産品も加工という一手間があればこそ、付加価値を生むのだ。教育における加工とは、まさに教員側のスキルによるところなのだが、大学だけでは限界がある。高校、中学、小学校、いや、三つ子の魂レベルから日本という国の教育のありようを変えねばならぬ。ならないのだが、一人で騒いでもどうにもならない。目の前のことを一つ一つなのだが、はて、何から手をつけよう。そんな状態だ。

学会考

学会という学びの交流は、その質が高ければ高いほど有益である。有益な情報交換があるから参加するのであって、そうでなければならない活動だ。遠方に来てしまうと「何かやりたくても出来ない」環境に身を置くことになるから、それも非日常を味わえて良い効果となる。ずっと同じ環境に居ると気が滅入るというか、息苦しくなって、発想が固定化されてしまうのが恐ろしい。そうならないように努力はしているものの、いっそ、環境を切り替えるのが良い。ワーケーションとかも有効だと思う。

今は、電子的端末を持ち歩くことになるし、どこでもFree WIFIに接続できるから、結局、仕事はしてしまうわけだが、iPad程度で十分だし、そうすると、パワポのプレゼン資料をガシガシと作り込むのが困難になるから、必然、文字書きに集中することになる。紙の手帳に書きなくったりしてね。これがかなり発想を生む。ペンのマジックだと思う。そして、講演を聞いていて日頃、引っ掛かっていた発想が輪郭を持ち始めたりするのが愉快である。他人の脳をお借りするのも一興である。

ワーケーションだが、思考を仕事としている人は積極的に活用するのが宜しい。そして組織はそれを認めるのが宜しい。在宅勤務が認められている組織なのに、何だかんだと縛りを付けて認めない風潮があるのは嫌らしい。どんどんと活用させれば宜しい。勿論、効果を上げられない方もいらっしゃるから、誰でもそれが良いとは思わない。ビシッと職場という枠に入らないとエンジンが掛からないという人もいらっしゃるだろう。研究のアイデアなどは、装置を目の前に置いておくと、何かが降ってくるということもあるしね。

なんだかんだであっという間に旅は終わってしまうのである。高知などは飛行機に搭乗している時間は1時間足らずだ。飛んだなと思ったら、もう着陸している。それでも空の旅というのは非日常的な景色を見せてくれて好きである。この先、どれだけ旅ができるのか分からない。機会があれば何て言っていると、あっと言う間に違う世界に旅立ってしまう年齢となってきた。機を逃さず旅を獲得していきたいと思う。次は何処になるのだろう?それを想っている間が華だなと感じる。そんなもんだ。

旅に想う

コロナ禍が明けたなと思う事に、同僚が世界を股にかけ始めたり、こうやって高知に出てきてみたり。様々な交流が再開し始めたなと実感するのである。現在、重要文化財と言われている高知城だが、このまま頑張っていけば国宝にシフトするのだろうし、今でも国宝だなと思うのだが、いじっぱりの文化庁が、お前んとこは文化財だねって、そんな感じの認定なのだろう。何度拝見しても国宝だろうなと思う次第だ。

台風が接近してきて、梅雨全然が真上にあって、積極的に雨を提供してくれるわけだが、雨が嫌いなわけではない。幸いなことに、極端な揺れを被らなかった「往路」であったが、明日の「復路」の安全が約束されたわけではない。空路は恐ろしい。恐ろしいが、人間が獲得出来ている特別な状況であるのは間違いない。なにしろ、地に足が着いていないのだ。愉快なことだが恐ろしいことでもある。自転車で言うならブレーキで車輪が止まっても、車輪が浮いていると言うことだ。

そんなに真剣に悩むことではなかろう。どんなに嵐になろうとも、いや、嵐であるが故に、どうやって生きていこうか、その土地の人々は考えるのだ。暴君がダムを破壊しようとも、民は真のリーダーを想い正しい道は何かを考え、そして生きていく。どんどん、年を重ねていくわけだが、残りが短くなるというよりも、もっとこんなことがあると愉快だと思う自分を面白がっている。飛行機は特にそれを感じさせてくれる。特別感がある。

文科省のお話をお伺いするたびに思う。こんなに国民が減ったのだから、2県に一校、いや、3県に一校にしてよという税金的な叫び声がわからないでもない。一方で、何度も言うが、減ったからこそ、教育が大切だよと。この「教育が大切だよ」ということに応えられているのか?何万年も繰り返しの授業をやっていないか?初等教育から大学まで、変化しなさ過ぎだ。圧倒的に進化するべきなのだが、それに教育者と呼ばれる立場の民が追いつかない。変わらねばならぬ。それを学ぶためにここに来た。そう思う。

新二元論

地方政治の担い手が居ないと言うが、足元の組織も同様ではないか?現状の規則を守る事が目的化されてしまったら、政治など必要ない。未来のビジョンを描き、具体的将来像と工程を描き、それを意見を伺いながら進めていくことが政治だよね。となると、聞かせて頂く意見がドメスティックで意見と言うより我儘だったりすることの内容に、公務員だろうがなんだろうが、常にリスキリングしていく必要がある。特に閉じ籠る民には高速な社会変革を体験して頂く仕組みが必要だ。

人材の流動性と言うより先に「人の流動性」から考えるべきだと思っている。じっと一ヵ所に留まって、同業ではあるけれと、他の事業所がどんな仕組か知りませんよでは済まされまい。勿論、同業他社でライバル同士で交流しろとは言えないけれど、ねじれの位置にあるような企業と国内リスキリング制度とかね、公務員が週一でも良いから、企業体験してくるとかね。そうなると、電子決裁が進んでいないなんてことが、如何に自組織のエゴであったかが分かる筈だ。

自分一人の行動が、組織の可能性を高めることに気付いて欲しいし、逆に、作業の私物化が組織をガラパゴス化させていることを認識して頂きたいのだ。更に、旧態依然の思考回路では、仮想現実ゴーグル活用が当たり前の人達とどのように対峙するのか?そんな社会の流れを獲得する気にもなっていないのでは、支援など出来ようが無い。これは当方も同じであるから、リスキリングせねばならぬ。でも一体それはどうやるのかもチンプンカンプンである。

トランスフォーメーションですよと口では簡単に言えるのだが、それは今行われていることを受け止め、そしてそれを前提に、組織として変容し続ける必要があるということだ。学び続けなければならぬ。従来の学んで働いて老後を迎えるという三段論法はもう通じない。学び続け働き続ける、そして死ぬという二元論の世界だ。学びの質を高めなければならない。それは自らが決めねばならない。そんな時代になっているのだ。

AIネタが増えてきた

美国において、仕事上におけるAIの活用によって、直接的にこの1カ月で四千人弱の人員削減が成されたとの事。株主への配慮ということもあるそうで、いよいよ来たなと感じるところである。有名企業のHALさんなどは採用に関しても減速させて、今後、二万六千人に影響が及ぶとの事。それはそうだろうなと思う次第。チャットボットの導入が成されれば電話相談窓口などは要らなくなるし。まだまだ不完全だから、全ていきなり変更と言う事は無いのだろうけれど、いずれ大学の経営者などもAIがやるようになってしまうのだろうか?

HALさんのやったことは、単に人をAIに置き換えたのでは無くて、AIを活用することで人間が成す労働のパフォーマンスを上げることなのですな。一々書類のエビデンスを集めたり、誤字脱字を校閲したりと、膨大な時間を掛けていた作業を、AI仕事に置き換えていくことだ。それは我が国でも進み始めていて、従来、弁護士などの資格をお持ちの皆様で無いと作ってはいけないとされていた法的文書に関して、AIがお手伝いして作成しても違法では無いという裁判所の判断にも見られてきた。日本でも漸くかなと感じている。

全部が全部、AIに置き換わることは当分は無かろうが、リスキリングと言うのであれば、ChatGPTを使いこなすというスキルは必要なものであろう。触って遊んでいる程度のスキルしか無いが、ちょこっとの調べものという点においてはえっらく助けてくれる。まだまだ賢く無いとか、間違った教示データのお陰でおかしな回答をしてくるとか、いろいろ言われているが、そんなものは、世界の天才達がなんとかしてくれるのだろうと、従来の電子計算機技術の圧倒的進化力の延長にあるのだろうと、愉しみに待っている。恐らく、長くは待たされまい。

文書作成や文書チェック等で多くの人が雇用されているわけだが、決して安穏としていられない時代であることは間違いない。現場を持って居ない方、即ち、在宅勤務が可能なワークは、思考を伴わない場合にはAIに置き換わる可能性が極めて高い。政府は新しい資本主義で労働市場の改革とか言うのなら、先ず、公務員に兼業を勧め、優秀な頭脳によるGDPの底上げに挑むべきだ。今時、兼業禁止の領域など必要無い。全ての人が二つ三つとお仕事を持っていれば、自ずと「これがライフワークだ!」というものに出会う。業務が無くなることを恐れるよりも、前向きになれるルールがあれば良い。それだけのことだ。

分解しない?

生分解性プラスチックは海中では分解しないという記事がPLOS GLOBAL PUBLIC HEALTHという報文に掲載された。トウモロコシ由来の生分解性プラスチックは、土の中で分解されるから、エコだから許されるという事だったはずなのだけれど、海中ではどうも都合よくいかないらしい。これも一報文からだけの知識だから真実かどうかわからないですけどね。脱プラスチックの発端は、海洋に漂うマイクロプラスチックだったと思うのですよ。その切り札が生分解性プラスチックだった筈なんだけどね。

プラスチックは加工性という観点からは図抜けて便利で、身の周りからプラスチックを取り除いてしまったら、一体何が出来るのだろうかと思う程だ。ゴミとして廃棄して、それが自然環境に出て行ってしまう事は悪であることは間違いない。自然環境はあくまでも自然に生まれたものだけが存在するべきところだからね。そんな意味では人間の活動そのものが地球環境にとって悪であるのは間違いない。生き物を、ホモサピエンスが生きる為だけに創って殺して食べるを繰り返す。QOLの名の下に好き勝手やらかす。

Appleが満を持して出してきたVision Proなんだけど、値段は凄いけど、ソフトウエアがついてきたら、生活空間そのものを変えそうだなと思う。ビジュアルで全てが解決して、プラスチックで必要なのはVision Proの筐体だけとかね。三つ子の魂じゃないけれど、その頃からARで習い事とかしちゃうのでしょうね。学校もAR空間で殆どが成され、運動会も仮想空間だったりして。生徒が教師を選ぶ時代になって、人気者は世界中で教育を提供出来ちゃう。良いねボタンで給与が決まるとかね。

10年も経たずに世界では行われるのでしょうね。旧態依然の後ろ向き国家では遥か彼方か。AR空間で発展途上国となったら、もう逆転不可能な状態になってしまいそう。自動運転が主流になると、乗用車もシェアされる対象で、自家用車と言う概念が無くなって、製造業の業態転換が進まざるを得なくなる。こうなってくると、プラスチック云々というよりも、全ての素材産業が人体に優しいとか、創り易さよりも求められる市場価値が変わってくるのでしょうね。そうなったら廃プラスチック問題など無くなってしまうのかもしれない。でもそれは遥か彼方かな?暫くは海洋で分解するプラスチックの研究を、その道の人達にはやって欲しいな。

希望企画

お役所がホームページなどを通じて未来はこうなるよという「希望企画」みたいなものが沢山出ている。2040年や2050年というものが散見するのだが、それらは比較的明るい未来として描かれている。言いたいことは、少子化対策に予算原資の無い3兆円は無責任なんて事ばかりがやり玉に挙げられるのだが、未来はこんなに面白いんだから、そこに向かっていくための若いエネルギーが必要だという議論を聞いたことが無い。

人のライフに近い処で言えば、医療・介護の有り様や未病対策ということもあろう。医療費も介護費もゼロであるのが理想としてしまうと病院が潰れるからそうはさせないという団体が気炎を上げるとか、そんな状況を見ていると、折角の未来予測も何の役にも立たないなと虚しくなってくるわけだ。極めて長期に亘る縦割り行政が、いきなり横串が刺されるとは思えないのだが、未来予測を見ていると、その殆ど全てが学術・技術の横串によって横断的技術が生まれて実現するものとなっていることを思うと、人間の俯瞰的能力の発展が無いと、人類は滅亡するのかなと思ったりもする。

乱暴な言い方だが、それはいつもの事なのでどうでも良いのだが、「幸福」という求めるべき姿でさえどのような事象の関数になっているのか、無限に広がってしまうわけだが、それを思うだけで、とてつもなく広い範囲の知識が必要になっている。だからこそのAI活用という事になるのだが、教示データの質と量が必要になってくるわけだし、関数関係をと考えた時に、一つの行動が一つの要因から生まれているなどと言うことがほぼ無い事を考えると、教育も研究も、その有り様はどんどん変わっていかないといけない。

希望企画である未来予測であるが、希望すら失っている社会では余りにも寂しいわけだ。世界的危機が突発的に発生し、自国の努力だけではどうしようもない事象が発生し、物価は上昇、CO2は出してはダメとかで技術の進歩は必須であるが、それを研究する若者がこの国では減り続け、自国を当事者として見る者の減少は国家の危機であることは間違いない。光熱費を含めた物価が上がったのだから学費も上げるべきだと思うのだが、それを公費で賄おうとする流れもあるが、乾いた雑巾を絞ることになる。希望企画が目指す企画成ると良いなと、少しは明るい気持ちになれたら良いなと、日々思う私であります。

行動から

気がついたら6月も第二週である。災害をもたらした前線と台風だが、人間にとっては災害ではあるが、地球にとっては普通のことである。そのレベル感で自然とは付き合わないと、自分達が生きていられなくなる。コンクリートで地面の全てを覆ってしまおうなんて馬鹿なことをやりかねない人類だから、気をつけて見ていないといけない。自然破壊と観光が裏腹のように、折り合いをつけていかないと、実につまらない国で生きていないといけなくなる。馬鹿馬鹿しいではないか。

自然との付き合いということであれば、里山を手入れして、自然と共に暮らしていた過去があり、今がある。小生の親族などは今だにそんな環境で生活をしているわけだが、段々と子供がいなくなり、子供神輿などは出なくなり、時が経って大人の神輿も出なくなった。担がれる神は居るのかもしれないが、担ぎ手がいなくなってしまった。こうなると神様も困ったものだろう。土地の精霊と人との繋がりが途絶えてしまったら、精霊達はどこに行ってしまうのか。悩むことでは無いかもしれないが、ちょっと気になる。

大雨の後では必ずと言って良いほどに、土砂災害の報道がなされる。梅雨前線が台風に刺激されて大雨になりますよと、一週間前からかなり正確に予報されていたにも関わらず、自分は大丈夫だろうという、精霊と対話をしない状態で準備を怠っていると、なるようなことになってしまう。大鹿村の三六災害の時の崖崩れ痕を拝見したが、人の力など、何にもならないと学びがある。恐れるしか無いのだ。 人智が及ばない事だらけである。

人のできる事などほんの僅かだ。僅かだけれど、人同士だと、それが僅かでは無くなってくるから面白いのだ。誰かの為を想って行動する。組織の為を想って行動する。それが積もり積もって一つの事を成し遂げていく。できる事があったらやってみる。不完全になるのは当たり前なのだが、相手があることであれば、やらざるを得ない。書類仕事でも野良仕事でも同じこと。災害が過ぎた晴れ間を振り仰ぎ、今日もコツコツとやっていく。そんなもんだ。

学びなさい

子供が減るから大学は無くなるべきだとの意見は根強い。GDPは謎の株高が押し上げるのだが、経済という魔物は恐ろしい。子供が減るなら、手厚い教育が出来て、一人に掛ける時間を多くしようとはならない。昭和30年代後半から40年代にかけて、プレハブ校舎が立ち並び、何処を見てもがきんちょばっかりという時代は遠い昔である。郵政民営化に倣い、国立大学民営化の流れで法人化してきたわけだが、そろそろ限界ではないかと感じるところがある。

海外の大学を見てきて、パブリックスクールは寄付をじゃんじゃか貰っているから日本も出来るでしょとか、税制を全く変えずに無理を言う。確かに法人化されたのだから、運営費交付金が平成15年度交付を基準として、毎年0.8%ずつ減らすということがずっと続いてきて、それは今後もそうらしい。日本全体とすると凄まじい額になるわけで、巨大な大学から合体して合理化しようと挑戦するわけだが、その魔法はいつまで続くやらである。

教育機関であるから、世界をリードする教育をするのは当然で、それはどのような教育なのかを考え続けなければならない。お上は若返らせることで、給与総額が減らせるでしょとか、高齢者をいつまでも雇っているからだと言うのだが、教育の質保証などどこ吹く風である。最近の半導体製造に掛かる教育に対する圧力もそうなのだが、育った後に行く当てが無い学生を育てて良いのか?半導体等高度の学びを必要とする分野は博士課程の取得は必須だが、博士取得者を雇用する企業が無いのに、何と無責任なと思うばかりだ。

博士取得は並大抵のことでは無い。どれだけ必死に打ち込み続ける事か。その果てにその高みに上るのだ。上ってみると分かるものだ。努力は人を裏切らないということを。その過程で得た知恵は誰にも盗まれないということを。未来を作れと簡単に言うが、少なくとも今、トップで無ければ未来は見えてこない。量子コンピュータが普通に動くようになったら、今流の研究など無くなってしまうと思うが、それまでは人が頑張らねばならない。その仕組みが人の減少と共に減って良いとは思わない。そこは譲らない。

Co-Being

人と社会が幸福になるというタイトルでウェルビーイングが語られる。自分の価値観の下、こんな世の中で頑張って、そして愉しみながら他の人々の幸福に関与させて頂けたらどんだけ楽しいだろうかと思える状態がウェルビーイングなんだと思うのだけれどね。でもこの単語は自分さえ幸福であればそれで良いのだって、小生は感じてしまうのですよ。だからCo-ビーイングと言いたくて、共に居るから幸せを追求できるというかね。

自身を偽らないと生きていけない環境がこの国にはあって、まず、個の価値観、生き様を認めるところからでは無いのかなと思うのだ。そんな状況にもなっていないのに、ウェルビーイングとは何事だ。絵空事に過ぎない。いろんな心身の有り様があって、それらが無意識に認められる空気感というか、社会活動の空間というか、それがあってウェルビーイングだろう。ビジョンを描けないところに、誰かを楽しませたいなんて思いは出てこない。

自身が感じる面白い事のつまみ食いでも良いのですよ。それが猛烈に個性的で、その人にしか出来ないのであれば。パーソナルヒーリングツールとしてのAIロボットの進化は、もっともっと深化していくべきで、それによって人が笑顔でいられるならばそれで良いのです。画面だけでは得られない、具体的な構造物が部屋の中を遊びまわって、話しかけてきたら、それはそれで和む気がする。職場に居て欲しいと思うくらいだ。

しかし、人の有り様と繋がらねばならぬ。一方的に与えるリハビリとかね、そんなもので心は癒され無いですよ。経験者が言うのだから間違いない。全身不随になって始めて解ることがある。そこから脱したから思えることがある。Co-ビーイングと言えることがある。大切なのは人から情報が得られ、それがAIによって解析されその人が「普通だな」って思える環境が常にあることなのだと思う。秒毎に想定外が発生する現状では遥かな世界だなとは思うのだけれど、そんな時代に早くなって欲しいと願う私であります。