暴力に想う

先の首相襲撃の時にあからさまになった政治と宗教との関係だが、マスコミは沈黙し、選挙においても何の話題も出てくることは無く、与党が勝ち進み、国民はそれら全てを認めてしまう。この国の在り方だ。再び、暴力が国のトップに襲い掛かったが、どんな理由があったにせよ、暴力は許されない。誤った国政のかじ取り役であったとしても、それは国民の選択であり、国民の平等な思考に対する暴力である。思考停止は人間であることの放棄である。

自分に照らし合わせてみると、気が付くと通信簿というランキング表に振り回され、運動部では自己記録では無く他者に勝つことを求められ、高校、大学と入試と言う「落とす」為のゲートを潜り抜け、思考の在り方を教わることなく知識の詰め込み競争に追い込まれた。得た知識を知恵にする思考の手法こそ学ぶことの本質なのだがその本質は自ら気付き、自ら磨く必要があるのがこの国の教育体系だ。答えが決まっているなぞなぞを与えられ、答えがゴールであると教え込まれた。自ら受け入れられない者は暴力で排除する生き方となる。

無我の時代はどうすれば生きられるかを本能でかぎ分けて、段々と自我に目覚めながら競争と言うレールに乗せられる。人が人の為に生き続けることで、お互いを活かし続けられることも学ぶことなく、自我に反する方便に向かって暴力を持って相対する。鉄砲だったり爆弾だったり。知恵によって討論し、お互いが納得するという人間が有する技を用いることなく、知能無き暴力で決着を図ろうとする。

何時から人は思考の手法を学ぶことを放棄してしまうのか。無我で生まれ、命を繋いでいる間に、生きる方法を取捨選択から経験として身に着け、他の者を尊敬することでお互いが生き合うことが出来る思考を獲得する。信じあうことから知恵の融合が生まれるわけだが、思考無き安易な借金で民を路頭に打ち捨てていこうとする為政者に向かっているとせよ、やはり暴力はいかん。知恵の融合こそ人の進む道を決めるはずである。疑う前に信じること。そんな当たり前の日を生きてみたいものだと。そう思う。

12年連続人口減

東京を除いて、全ての県で人口が減りだした。東京一極集中のお陰で、東京だけは増えているようだが、それもいずれ近い将来マイナスに転じるのであろう。それは解り切っていたことで今更どうのこうの思う事すらない。超少子高齢化社会と騒ぐのか、海外から労働者を入れないとと、永遠に言い続けるのか?もっと機械化していって、人がやっていたことを機械にお任せしようという国になれば良いのではと思ったりしている。

いずれ世界もそっち方向にいくのでしょうし、地球にはキャパがあるから無限に人が増え続けられるわけではなかろう。そう思っている学者も大勢いらっしゃるが、人工肉なんて食べたくないぞ。昆虫食もまっぴらごめんだ。イナゴの佃煮や蜂の子などはお酒があれば美味だが、それを主食にしようとは全く思えない。食料自給率100%と機械の超高度化を目指すのが、少子高齢化立国の有り様だ。

人によるおもてなしは極めて高価にすれば良い。徹底的にだ。中途半端では差別化できない。一方で、3K職場でございなどと威張っている企業から人はご退場頂き、全てロボット、専用機に置き換えるのが宜しい。電気代と機器整備代は掛かるが、人出が居なくてもお客さんが喜べる雰囲気を売る時代になるのだ。インバウンド対応の人が足りないと言うが、ベッドメーキングレベルまで自動でやるのがよろしい。それを前提にした寝具開発は、一つのビジネスチャンスだと思っている。誰かやらないかな?

日本人は今を起点に考えすぎる。今を変えたくないと、石頭、旧態依然を誇りにしているとしか思えない。勿論、おもいやりのある人対応は大切だが、人が居ないのにそれを求めるのは如何なものか。その頑なさが働き手を失っていると思えないか。若者から夢を奪っていると気付かないか?新奇を潰し、旧態を守ろうとする姿勢こそ、国民の減少を加速させているのだ。もっともっとみんな新奇に挑戦しよう。そう有るべきだ。

ChatGPT考

いろんな「なんだかなぁ」がある中で、世界中の大学がChatGPTの出現であたふたする姿は、正になんだかなぁである。だって、とっくの昔にその出現は解っていたわけで、ワトソンの次に来るのはそんなもんだろうと誰もが思っていたのでは無いのか?使用禁止とか、ChatGPTの出力を手直ししたら良しとかね。既にAIに脳を乗っ取られている人種の、何とも柔軟性の無い事か。ビジョンがあって、それを叶えようとするのが研究テーマであろう。そのビジョンがしょぼいからAIに全て上書きされることになる。そんな研究者はそもそも無用と言う事だ。

近未来に、今、小学生の低学年くらいがChatGPT世代と言う事で、Next Z世代ということになるのでしょう。生まれながらにネットワーク環境が整い、データの中から取捨選択をして、価値観を同じくする人達で繋がっていく世代。それが問い掛け方によって返答が変わってくるAIの出現によって、単に検索上手ではなく、問い掛け上手、即ち、会話上手が先行する時代。大学や企業で問いかけられて、ChatGPT以のを回答をしない者は仲間外れとなる時代だ。

授業にノートPCやタブレットを持ち込み、生徒はどんどんと疑問を喚起され、ChatGPTなりで自分への問い掛け力、質問力を鍛えていく。答えられた解を適切に判断し、AIサイドを育てていく、そんな関係性では無かろうか。大切なのは自らが「何故、今、『自分は何故が喚起されたのか?』」を解きほぐす能力を持つことだ。自らを客観していく、そして他者の価値観を推測し、その上で、対話を成立させていく。多くの者の議論の有り様も変化して当然だ。人間だけで陳腐な「解答」と思われるものを創り出して、傷をなめ合う時代は終焉を迎えたということだ。

よりによって文科省迄がChatGPTに振り回されている。国会答弁など、日本の政治家レベルであればChatGPTに置き換えれば宜しかろう。かなりの部分が補えるのではないか。大袈裟ではあるが、いずれそうなるのであろう。数年前にAIがシンギュラリティに達したら要らない職業というのが公開されているが、既にそれに到達しているのだと感じている。どんどん使い、満足のいかない解答はどんな質問であったのかを共有し合い、満足する方向に育てていくことが涵養だ。機械に使役・駆除される時代が来た。それだけのことだ。

土台から

地方をドライブしていると、眼に入ってくる「お金が掛かっているな」と感じるビニールハウス群。群と申し上げたのは、それが遥か彼方まで続いているという状況から。AI活用で自然相手の場合でも自動制御の範囲は広がったが、露地栽培では突然の嵐の襲来などは予測は出来ても植物へのダメージまで対応しきれない。それで巨大なビニールハウスということになるのだろう。とある専門家に伺ったのだが、ナゴヤドームくらいあると黒字経営を続けられるらしい。勿論、作るだけでは駄目で、その生産物をどの様に顧客の胃袋に落とし込むかまでのマーケティングが必要だ。

一方で、荒廃した農地も目に付く。先日、恐ろしい程の山道を抜けた向こうに広がる棚田は、半分は開墾されていたが、半分はどうみてもヤギのご飯だ。いや、本当にそうだったのかもしれない。それならそれで賢いやり方だとは思う。ヤギのお乳でチーズを作るとかね、そんなことの為には新鮮な草が必要だ。ヤギの糞尿も肥しとなるよう、動物による土作りを隣でやって、翌年にはそちらで作物を育てるということはありだろう。いずれにせよ、食料自給率をあげていくこと、農業従事者の収入向上は国家の必須事項だ。

若者の地方分散を模索するのであれば、空き家と未開墾の耕作地を、手を挙げるスタートアップ、ベンチャーの方々に安価で提供するのが宜しい。いや、無償でも宜しい。どうせそのままではゴミなのだから、そこから一円でも税金と食料を生み出す算段をするのが政治家であろう。当選した途端に次の当選を目的にしてしまう団体の諾否に、税金を使い続ける状況はいい加減に止めるべきだ。今回の40%そこそこしかない投票率で選ばれし民は本当に代議員と言えるのか?

その地の特産と呼ばれるものには、長い歴史の中で育成続けられてきた人々の想いが籠っている。それが収益になることはとても素晴らしい。貧すれば鈍するのだ。食料が貧して飢えているようでは国は成り立たない。経済活動などおぼつかないのだ。耕作地の荒廃は国民の心の荒んだ状態の鏡である。お金が掛かった農業施設、大いに結構。見合う収入を得て頂きたい。国力増強はそんなところからだろう。そう想う。

地方選挙考

地方選挙においてすら、投票率が40%を切るようになってしまった。マスコミに依れば、与野党対立の選挙が少なく、争点が見えなかったからだともっともらしいことを並べるが、単に国民が政治と乖離しているだけのことではないか。国政は勿論のこと、身の回りの変化がどのように地方政治と関わっているのかはなかなかにして見え難い。小学校の給食費を税金で賄って、地域住民が子育てに参加しているというようなことは見えやすいのだが、それとて、子育てが終わった世代にとっては税金が高くなるだけだから、ネガティブにしか感じないが、何を言ってもどうにもならないという考えを払しょくするのは無理だ。

与党諸氏は税金を無尽蔵に徴収する思考回路に陥っていて、異次元の少子化対策が、少子化増税に変わり、予算純増という何の思考もしないで良い方向に進んでいく。ウクライナ支援や少子化対策に反対する声を上げにくい雰囲気に弱い国民性故に、増税も仕方がないなと思っているのかもしれないが、本当に無駄を削ぎ落した政策をやっているのか?無尽蔵に発行した国債の利率をあげられない政治をして、いよいよ、赤字国債発行という常套手段すら使えなくなってきたので、将来の国の為だから増税しますと言う。その後の地方選挙で与党が大勝したのだから、国民は増税にイエスと宣言したということになる。

広報なごやとか、毎月、各戸に届けられるので隅々まで見渡すわけだが、市議会はきちんと動いているなと感じる。税収がそこそこあるので、活動出来ているなと感じるが、愛知県との行政の擦り合わせで無駄を排除していく方向も明確に打ち出して頂きたいとは思う。そんな意味では、大阪府・市はうまいこと行政を回しているなと感じる。他人の芝生状態なのだろうけれど、地方自治体同士がけんかしているようでは、税金がどんどんと無駄に使われることになって厭らしい。それでは何処かに引っ越すかと言えば、そんな余力など何処にも無い。

名古屋港からの輸送用機器の工業製品出荷高が平成28年をピークにして下げが止まらない。金額ベースでは盛り返してはいるが、一般機械の割合が増えていっている。我が国全体の貿易収支と言えば、2018年以降、赤字が継続している。リーマンショックまで遡れば平均して赤字基調である。工業製品製造で立ち行かない状況を注視していかないと、それこそ海外旅行客のインバウンドのみに頼る国家となり果てる。工科系大学としても今の有り様では廃校となるだろう。必要なのは間違いなかろう。その有り様を真正面から受け止めねばならぬ。崖っぷちだ。

賢者

賢者の足跡を辿らせて頂くと、自らの思考がみすぼらしく、悩みなど馬鹿々々しく、更に努力を積み重ねなければと勇気を頂けるからもの凄い。だからこその賢者、偉人ということなのでしょう。その生誕の地に立ち、お名前の由来を体験し、そして正しく伝わる伝承を隅から隅まで拝見し、また、生きた伝承者からのお話も頂戴しすることで、漸く、その足跡の偉大さを体感し実感する。そして顧みることで、明日からの勇気を頂ける。

名古屋市って凄いなと思うのは、ちょっとステアリングを握ると、そんな素晴らしい地に、それこそあっという間に着いてしまう便利な環境にあるのだ。護らずに打って出る。素晴らしいところだからと言ってそこから外に出ないと、結局は取り囲まれ滅ぼされる。三英傑の偉大さだが、甲斐の信玄公も同様に外で戦い続け、内に籠ることが無かったからこそ、その時代においては発展がったのだろう。

何をもって賢者なのかは、その方の行為をどのように捉えるかなのだが、後の世に顧みて、どんな立場の人から見ても、それは素晴らしい行為えあったと認定される時、その方は賢者と呼ばれるにふさわしいということになろう。その方は殆どその地では暮らしては居なかったということなのだが、生存中、何度かは肉親を訪ねてこられたということだし、自らのお名前の由来を瞼に焼き付け、人の為に生きるのだと思われたことだろう。

こんな狭隘な街が活気にあふれ、ハイカラを感じたのだが、土地のアンバサダーの方のご説明をお聴きして、成程なと思った次第。何かの序に立ち寄るという場所ではないし、賢者の名前は遥か昔から存じ上げていたにも関わらず、その足跡を辿ることに思い至らなかったのは、実に不便な地であるからだ。明治の世では相当に栄えた土地であったとのことで、見事なだんじり祭りを偶然に拝見し実感できた。まだまだ歩くべき場所がある。生きている内に歩き回ろう。そうあるべきだ。

朋あり

朋有り遠方より来るまた楽しからずや。人知らずして慍みずまた君子ならずや。10年の時を越えて朋がご子息を連れてやってきて下さった。当時、小学生でいらっしゃって、小生の研究室の発表をご覧になり、進学させるなら小生の研究室にとお世辞を仰って頂いたのだが、なんとそれが実現してしまった。なんと楽しい事でしょう。他人には解らないでしょうけれど、魂の糸電話がつながった間柄だからこその時空を超えた再会に感動した。

異なる業界同士の間柄ではあるのだが、人に喜んでいただきたいという価値観が重なり合い、半導体を通じて世界を変えていきましょうと言う気持ちは今も変わらない。価値観が等しいベクトルを持っているということがいかに大切かということだ。価値観は人生観であり、全部が全部同じ要素であるわけは無いのだが、共鳴できる最も重要な要素が重なり合うと、それが方向性を持ち、ベクトルと認識でき、その合成ベクトルが最大となるように重なり合える。それが価値観が等しいということだ。

昨日の入学式の朝にお電話を賜り、実はとなって、もう、喜びは最高潮である。背筋が伸び、あの小さなまなざしがこちらを見つめているかと思うと心地良い緊張感に包まれた。会場の二千個の瞳の二個がこちらを凝視しているかと思うと、いつもより背筋が伸び、ぐっと握り拳を強めに握り、緞帳が降りた時には体中の筋肉がこわばっているという、妙な力の入れようであった。朋も見て頂けていたことだろう。また旧知の話に没頭したい。未来を語り合いたい。

学校という観点で言えば、小中高大の入学式は一つの節目で、いろいろと思い出せる。その時、自分だけでは無く、未来を託せる方の式に参加をさせて頂いているのだと、改めて気を引き締めた。勿論、常日頃、意識をしているわけだが、皆さんを御守り申し上げると強く意識させて頂けたことは、この上ない喜びであった。春である。後、何度、これを経験させて頂けるのだろう。大切にせねばと実感したひと時であった。

入学式に想う

国のリーダーのお話はTVニュースで断片を聴かせて頂くだけなのだが、マスコミ操作なのかは判別できないが、その内容の空虚な事には呆れかえる。主語も述語も目的語も無い。「モメンタムを」なんて言われてしまうと、解って使っているのかな?と不安に感じてしまう。上がり下がりのある中での勢いを語っていらっしゃるのだろうけれど、お話の中に基準は無く、基準以下でのお話なのか何なのかさっぱり解らない。国民に資産があるのだから、国が1200兆円の国債という借金をしても大丈夫だと言われてもピンと来ない。

ピンと来るためには、外貨を稼げる道筋を見せて頂かないといけない。無尽蔵に軍事費を増やし、教育費は減らしていく。しかし、半導体だの水素エネルギーは国内で賄うとか。お隣の大国では磁石に活用する元素を禁輸としようとしているが、代替材料はどうするのかなどは俎上に上らない。政治家諸氏が所謂文系だから、国民に耳当たりの良い「増税は最小限、福祉は最大」という魔法の言葉を連呼する。そんなことが出来ようがない。

モメンタムというなら、原点は何処にあって、何を何処に、その力を借りて進ませるのかを示さねばならぬ。全方位に力を分散しては、結局、何も出来ない事になる。全電力の50%以上をモーターが消費している現状において、ネオジウムなど、中国が主産国の元素を止められたら、電力消費が激減して、豊かな自然が戻るのかもしれないが、産業という点においては死滅一直線だ。出来ていないことを出来るようにするには、インフォマティクスの力を借りて、何を成すべきかを熟考し、集中投資を成すべきだ。何度も言うが、ゾンビ企業は助ける必要は無い。

景気が良くなって、金融欲が復活してくると、金利上昇を望むモメンタムが強まるのだろうが、そうなると日銀はあたふたし、返す当てのないのに金を無限に借りたゾンビたちは消えていく。それで良いのではないか。本当にどん底に堕ちないと立ち上がれない国なのだから。その時、愚直に真面目に、学ぶ事の大切さを教え続ける教育機関が残るだろう。そこまで堪えるしかない。そう想う。

受動と能動

行動や思考に対して、能動的か受動的かを考えている。自らは何かが出来ると言った時、能動的っぽく聞こえるのだが、その出来る事を受け止める人が居なければ、単にコマーシャルを打っているだけで、受動的なアドバルーンを上げているに過ぎないとも思えるのだ。そうすると「想う」という思考の在り方は受動的で、「想われたい」という思考こそ、自らに何かを引き寄せようとする能動なのか。なんだか言葉遊びになってしまうのだが、これはビジネスを考える上で重要な要素だ。

眼に見えるものは間違いなく真似をされる。真似をされた密度が高ければ、真似されたものは優れていると言えるだろう。それだけ受け入れられているという事なのだから。真似をする側を能動的と取るか、真似をさせたことを能動的と取るか。受動と能動にどれだけ拘るのだと思われるだろうが、守りと攻めという言葉と、受動と能動という有り様を重ね合わせて考えすぎているのかもしれない。自分はこれが出来るという自己表現を自律的な表現とするのは良いが、それが他への働きかけであるならば、これが出来るから誰か使ってくれという事まで伝えるべきだろう。

それであっても受け身であることには違いなかろう。だから営業に回るのだから。大学の研究の社会実装を目指すにしても、要素技術を社会が理解して頂けるとは思わないので、こんな価値に繋がりますよという提案をさせて頂く時、能動的な活動と勘違いをしていたが、正しく受動的活動であり、守りの姿勢だなと感じたのだ。買い手が存在していて、そこに向けてチューニングして営業を掛けるのであっても、能動的活動と言えるかどうか?

攻めの行動に出たいのだが、攻めという活動を能動的と考えたいというところから、冥府魔道に落ち込んでいる。積極性が認めらたとしても、受け身の積極性ではビジネスとして敗北である。能動的に攻めているという行動は、どのような状態を示すのであろう。技術の価値化という表現も、何やら能動的な雰囲気を感じるのだが、価値と認めるのは社会なのだから、これも受動的だったのではなかろうかと、数十年、技術経営を考えてきて、言葉の定義が曖昧であったことに気が付いた。気が付くのは何時でも良いのだが、はて、日本語とはなかなか難しい。そう感じる。

年度更新につき

年度という概念は官位任命が出来た時からあったわけだから、それこそ中国四千年の積み重ねの歴史があろう。日本はその半分くらいだろう。個人が生まれ持って得ている才能に加え、努力の結果身に着けた機能、そして磨いた才能をもってして、その人にしか出来ないことをやって下さいねというのが官位である。それが権力だのなんだのになっていって、それらに宗教団体が取り付いて、国政まで動かすようになっている。ちょっと話がずれたが、年度が変わるといろんなことが変わる。

移動官職組織においては、事務組織のトップが変わってしまったりする。小生的には思い切った「その人にしか思いつかない」変革に取り組んで頂きたいと思うのだが、古い組織に新規リーダーがやってきた時に生じることは、旧態依然勢力の徹底抗戦である。「これが我々のスタイルなのだ」という化石が風化する程の古い意識で、新進気鋭を踏み倒そうとする。そこは支えるべき人が支えるわけだが、旧態依然勢力はかなり強い。それによって組織として取り残され、手の施しようが無い状態になってしまう。それは避けたい。

声の大きい旧態依然殿達に申し上げたいのは「気が付いたらその年齢になってしまっていたのでしょ?」ということだ。つい昨日、おふくろに手を引かれて桜の樹の下を通ったと思っていたら、棺桶に両足を突っ込んでいる始末。自らを成長させる自らの学びを継続しないと、あっという間に旧態依然の罠に陥っていく。他人の成長をひがむ前に、自ら成長を続けないといけない。その機会は様々、用意されている。学べないと嘆く前に、学ぼうとしない自らを叱責するべきである。

摩擦を恐れる気風がある。「ほうれんそう」の欠如など、正にそんなところからであろう。小生は、甘やかし育てるやり方は嫌いである。真の甘やかしは、倫理観を成長させることが出来る人間に育つことを心底助けることである。それさえ骨格として獲得させたら、後は環境が知恵を授けるであろう。その中において、何を成すべきかを自らに問い、自らが仕事を創造していけば良い。あっという間に時間は過ぎるが、時間は全ての人に平等である。誰も時の長さに文句を言えない。そう思って今日も過ごすことにする。